14. 疑問符
朝を迎えた。
ぬかるんだ泥濘が脳漿にこびりついている感覚が、清々しいはずの目覚めを吐き気を催す最悪に塗り替えた。
まるで根底から人格を侵食されたようなふわふわと地に足がついていない感覚が、腹立たしい程に自分を嘲笑っている。
ホロウ=クルヌは“龍族”の末裔である“龍人”だ。
正直なところ、知ったことかと吐き捨てたい気分だ。
事実、今までのホロウならばそうしていたことだろう。
鋭い視線で、初めて見た自分と同じ琥珀色の瞳で問いかけるオンへと、向こう二度と関わるなと絶縁状すら叩き付けていたことだろう。
けれど、今は違う。
素直に首肯するのは業腹だが、ホロウは『悪人』という人間と関わってしまった。
奴は、嫌いだ。
こればっかりはオンたちと感覚を共にできるだろう数少ない共通項だ。
だが、ホロウは奴の雰囲気や口調、姿勢に対して嫌悪感を抱いているだけだ。
度し難い『悪人』たるオドアケル──とか名乗っているが十中八九、偽名だ──の芯に据えた心根まで拒絶しようとは思えない。
もし、それを否定してしまうと、ホロウがホロウでいなくなってしまうから。
ドルで見せた奴の覚悟は、噓偽りない本心のように思えたのだ。
元“黒鉄”級冒険者なんて圧倒的格上に、武術素人である奴は必死に食い下がって誰もが理想の遥か頭上だと思うであろう勝利を勝ち取った。
偏に、アナスタシアとホロウをドルから逃がすために。
けれども、その姿勢は無様に生へとしがみついていたかつての自分と何が異なるのだろうか。
重ねて断言しよう。
ホロウは、あの『悪人』を許容することはない。
だが、ロバートと奴の死闘の最中、刹那に垣間見た彼の信念が受け入れられるならば…………やもすると、分かり合えるのかもしれない。
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照りつける太陽が恨めしい。
すまし顔で高説垂れた『悪人』が憎い。
一体どれだけの屈辱に耐えて、寄る辺のない恐怖に打ち勝って聞いたというのに、あいつは…………! 思い返してみても腹が立つ。
だが、それを差し引いても、何をしているのだ? と疑問が勝つ。
本来、暗殺者は闇に潜んで闇と共に生きるものだというのに…………なぜ、自分はこうして球技などに現を抜かしているのだろうか。
「ダアトちゃんよわ~い。せっかくみんなよりも速いのに~」
「ふっざけるなよ、小娘っ! なんでなんだっ…………! 速度では吾の方が上回っているというのに……っ!」
神経を逆撫でするような猫なで声に、嫌に言葉尻の伸びた琥珀色の瞳をした少女へと悪態を吐く。
齢にすれば自分よりも年下であるはずの少女に、蔑まれて腹を立てない人間の方が少ないだろう。
もしかすると、『悪人』は違うかもしれないが。
「テリア、こっちに回してくれぇ!」
「はぁ~い」
「くそっ、抜かったっ!」
膝に手をついて息を整えていると、頭上を軽々と超える白い玉が背後へと通過するところであった。
気配を探ると、いつのまにやら数メートル離れた地点にホロウと同じ…………“龍人”の証である琥珀色の瞳を携えた少年が胸で玉を受け止めて、足で巧みに蹴りながらホロウへと背を向けて走りだした。
無論、ホロウとてそれを許すはずもないので、走りだそうとするが。
「アント、シェラ! ダアトを止めて~!」
「チッ、厄介なっ!」
文字通り自らの肉体を壁としてホロウの進行方向を阻む二人の少年を前に、臍を嚙むしかない。
そうこうしているうちに、玉を蹴っていた少年が見事に農作業用の籠へと玉を蹴り上げたのだ。
この時点で、ホロウたちの敗北は確定的なものとなった。
意表を突いた少年に、平均的な体格よりも大きな図体を持つアント、シェラ、そして的確な指令で巧みに戦場を支配するテリア。
さて、白昼堂々、悶々と悩んでいたホロウが何に興じているのかと言うと…………サッカーだ。
いや、正確にはかつて“龍族”が戦場へ赴く前に恐怖心を紛らわせようと講じた遊戯らしい。
四対四で人間の頭部大の玉を蹴りあって、小さな籠へと入れたら点数が加算される。
ホロウは臨時に編成された三人のグループへと参入したのだが、どうやら相手が悪かった……らしい。
テリア率いる四人組、チーム・アリアオベリアはオドラの邑でも最強格のチームだという。
どの情報も伝聞であるのは、『悪人』へと生涯味わうはずのない屈辱に耐えて問いたというのに通り一辺倒の言葉で誤魔化されて不貞腐れた時だった。
唐突に腕を掴まれて広場と思しき場所へと連れ出されて、あれよあれよという間に遊戯へ参加を余儀なくされたのだ。
馬鹿らしいと一蹴しようとはした。
したが…………信じがたいことに彼ら彼女らの握力はホロウですら驚く程に強大だったのだ。
それは身体能力全般に際しても語れる所で、基本的な運動能力ではホロウなど足元にも及ばない。
唯一、秀でている点は速度だけだが、それすらも突き放すなんて夢のまた夢。
並走されかけた時など、危うく失神しかけた。
「ねえ、ダアトちゃん。どうやったら、そんなに速く走れるの~?」
走馬灯のように現実離れした経緯へと記憶を馳せていたホロウへと、猫なで声の少女が声をかけてきた。
まるで自分の存在を見て欲しいとばかりに隠す気のない気配から、接近には気が付いてはいたが。
実に歪だ。
身体能力については人間を遥かに超える“龍人”であるが、気配の隠匿や単純な速度、戦略などはお粗末としか言えない。
「ふん、吾から語れることはない」
はっきりと言い捨てる。
なおも食い下がろうとわざとらしく頬を膨らませるテリアとかいう“龍人”の少女は、視線を外したホロウの眼前へと回り込んできた。
気に入らない。
というよりかは、虫の居所が悪い。
チームの連携が必須とはいえ、同年代の少年少女に完膚なきまでに叩き潰されたのだ。
『悪人』にコケにされた時とは異なる沸々とした怒りが湧いて出てくる。
「もしかして、ダアトちゃんご機嫌ななめ~? もお~、しかたないな~」
「……!? おい、貴様っ! 離せっ!」
「そんなに悔しかったの~? 真剣なんだね~、ダアトちゃん」
「くっそ……! 馬鹿力が…………!」
すんと鼻孔をくすぐる甘い香りに、全身を包み込むような抱擁。
ホロウとしては今すぐにでも離れたかったが、相手は子どもとはいえ異様な膂力を保有する“龍人”だ。
わらわらと興味を持って集まりだした子どもたちに見られているとわかっていても、ホロウに抜け出す術はない。
屈辱だ。
だが、どうしてだろう。
『悪人』に対して抱く悪感情とは、どこかが異なる。
やもすると、これが憎愛の一端だとでも言うのであろうか。
「やっぱり~。ダアトちゃん、“龍気”使ってないんだね~」
「……? “龍気”?だと? なんだ、それは」
ふっと、まるでそよ風が頬を掠めるように動的な衝撃を感じさせない身のこなしでホロウの身体から離れたテリアは妙に合点がいったように頷いていた。
「ねえ~、ブル~。ダアトちゃん“龍気”使ってないみた~い」
「な、なに!? そんなバカな…………ッ!?」
「“龍気”を使わずにあの速度だって…………?」
「テリアの間違いじゃないか?」
テリアの言葉を皮切りに伝播した言葉が瞬く間に少年少女の間へと広がる。
口々に感想を語る彼らの表情は多様であれど、その内容は皆一様に驚愕であった。
“龍気”とやらを使っていないだけで大袈裟だ…………と思うけれども、文化の違いとやらは無視するには多大すぎると誰かが言っていた。
……いや、『悪人』じゃないか。
脳裏に浮かんだ憎たらしい微笑に、険しくなったと自覚できる額の皺。
自然と『悪人』の姿を思い浮かべる思考に、恵も知れない嫌悪感が脊髄を駆け抜ける感覚がした。
「ん~? どしたの、ダアトちゃん?」
「……、こちらの都合だ。それで、“龍気”とはなんだ」
「“龍気”を知らないのかっ!? おい、流石にそれは噓だろっ!」
「な、なんだ。そんな言葉は聞いたことがない」
まるで初めて他の生物に遭遇した原始人のような自然で、迫真の絶叫……どちらかというと猿叫混じりの声にたじろいでしまう。
聞きなれない言葉を前に素直に問い返しただけだというのに。
もしかすると、アナスタシアならば知っているかもしれない。
オンたちとの会合でも、ホロウにはさっぱりであった歴史について首肯している姿を垣間見た。
教養の差もある。
アデラでの逃避行の最中に聞いた話によると、アナスタシアはかのグラード商会代表の娘らしい。
そんな良家中の良家を継ぐことすらできうるであろう地位にいるのだから、心血を注ぎこまれて蝶よ花よと育てられたのだろう。
まあ、そんな羨むような境遇にあっても競合関係からは逃れられないなど…………驚きを通り越して呆れてしまう。
その点、アナスタシアはよくやっていると思う。
“三叉の戦い”とか、“龍族”、“魔族”の対立とか、正直に言ってしまえばホロウにとって興味がない。
その末に“龍族”は数を減らして人間種から迫害を受ける立場に追いやられてしまったとか。
けれども、アナスタシアにとっては必要なのだろう。
いつどこで使用するのか不明瞭な知識であっても、いずれ何かのタイミングで利用する機会が巡ってくるかもしれないのだから。
現に、“龍人”と人間の軋轢を紐解くには相応の知識が必要で、それこそ、アナスタシアの独壇場だ。
「悪いな、吾は市井に疎い。教えてくれると助かる」
知らないものは知らない。
だが、その考えで打破できる状況など一方的に優位な立場にある時だけだ。
少なくとも今は、“龍気”とやらの存在について無視できる立場ではなくて、それに、知らねばならない気がした。
故に、正直に問うのだ。
それはホロウのやり方ではない。
相手にモノを問うとは、無知であると弱点を晒すのと同義だ。
どのような形で付け込まれるか分かったものじゃない。
だが、うん。
きっと、『悪人』ならば恥も外聞もなく問い質すのだろう。
何故か────それが『悪人』の強さだと、ホロウは感じたから。
一時的な不利を吞み込んでも、長期的な有利を築き上げるための布石だと。
「………………“龍気”はかつて『龍皇将軍』アリアオベリアの生み出した戦闘方法だ」
「……なるほど?」
「“龍族”は“魔族”や人間と比べて基礎的な身体能力がずば抜けて高かったのよ。でも、時代が移り変わるにつれて、二種族は自分たちの弱点を克服し始めた。けど…………“龍族”に明確な弱点がなかったの」
軽く首を傾げたホロウの様子から、ブルの説明では不十分と感じたのだろう。
横合いからテリアの補足でようやくホロウにも全貌が見えてきた。
「ああ、だから特化させたのか」
“龍族”の得手としているは、その持ち前の巨体と身体能力。
ならば、それを極限まで強化すれば他の追随を許さない超生命体へと変化することだろう。
その手法こそ、“龍気”という訳だ。
「そう、そのとぉ~り。理解がはや~い」
「当然だ。欠点のない強者と、弱点のある弱者では比べるまでもなく後者の方が危険だからな。そのアリアオベリアとかいう奴は賢明な判断を下したんだな」
「そうだ。『龍皇将軍』の英断によって“龍族”は完全無欠の種族と成った。そして、我々“龍人”はその力を受け継ぐ正当な末裔だ」
ブルは胸を張ってそう断言した。
余程、“龍人”という生まれに誇りを持っているようだ。
誇り高いことは何も悪い所はないのだが…………不要な矜持に発展することも往々にしてある。
益にならないプライドのために無様に死んだ者を、己の手で殺したホロウにとっては到底受けれられぬ思考だ。
「貴様は、“龍人”でよかったと思うのか」
「……? 変な質問だな。俺には“龍人”以外は考えつかないな」
仮定の話をしよう。
もし、ホロウがエルシニア人とフフェス人のハーフではなく、“龍族”だとしよう。
ならばホロウは差別などされずに順風満帆な人生を謳歌できただろうか。
饐えた悪臭の坩堝で泥水をすら啜れずに、ただひたすら明日を生きるために自分よりも弱者である者を淘汰して、殺人なんて行為に手を染めなくてもよい人生を歩めただろうか。
答えは…………否だろう。
オンたちが、テリアが、ブルが、“龍人”が都市部ではなくアデラ・ジェーン山脈に隠里を設営して人目を忍んで生きている現状からも明らかだ。
つまるところ、ホロウが人間でも、“龍人”でも、何も変わらないのだ。
ホロウ=クルヌは最底辺を這いずって、血みどろの地獄から逃れるなんてできない。
「そうか…………やはり、受け入れ難い価値観だな」
「なに? なら、人間の方がいいというのか?」
「いや、それも違う。種族も、生まれもどうでもいいという意味だ」
“龍人”という種族を誇りにしているブルにとっては、容易に逆鱗に触れる発言であったのだろう。
みるみるうちに殺気を膨れ上げていた。
…………“龍気”とかいう上等な身体能力制御技術があっても、こうも杜撰な気配操作では宝の持ち腐れだろうに。
どこまでいっても、“龍人”とは相容れないのだろう。
「我々“龍人”は誇り高い“龍族”の末裔にして、全生命の頂点に立つべき存在なのだ。薄汚い“魔族”とも、小手先だけで小賢しい人間とも、比べるまでもない高位生命体なのだ」
「…………、ならそんな高位存在が、何をもってこんな山奥でこそこそと暮らしているんだ」
「それは、悪辣で救いようもない人間の策略だッ! “龍人”が貶められる謂れはないッ!」
何故、そこで人間への、支配者への悪態を吐くしかできないんだ。
“龍人”は、“龍族”は、高貴で誇り高いのだろう? ならば、何故、それを口にしない。
恨み言は誰でも言えるし、罵倒など塵芥に等しく無為だというのに。
一方的に恨み、蔑み、自分たちの正当性を主張するだけでは実際に迫害へと行動を移している人間よりも醜悪ではないか。
力があるのならば、存在を示せばいい。
それすらできない弱者が、この世界には溢れかえっている。
現に、かつてのホロウがそうだった。
「そうか。ならば、とっとと人里へ降りてみたらどうだ。貴様らのおめでたい性格だと一時間と待たずに舞い戻ることになるだろうが」
「貴様…………ッ! 同族だからと寛容に向かい入れたというのに、やっぱり、お前は人間だっ!」
「ち、ちょっと、ブルッ!」
怒り心頭といった感情を携えて、さも自分は憤慨してますよと全身を使って表現するブルと呼ばれた少年…………テリアとの連携で見事ホロウを翻弄した少年だ。
余程、ホロウの疑問が気に食わなかったのだろう、テリアの静止も聞かずにずかずかと歩み出た彼はグッと胸倉を掴む。
誰の? 勿論、ホロウの。
憤怒一色に染めた表情、興奮した水牛のような荒い息遣い、焦点の合っていない瞳。
何に対して憤っているのだろうか。
“龍人”を侮辱されたからか、それとも覆しようもない現実を突き付けられたからか。
さりげなく周囲を見渡しても、ブルを止めようとする者はいな……テリアぐらいだ。
つまりは、ブルの行動こそ皆の総意というわけだ。
表ではホロウのことを同族だと、“龍族”の末裔だと語っておいて、相違点が顕著に現れると容易に掌を返して疎外する。
「陰険だな」
「なに……ッ! 侮辱か……“龍人”を貶すのかッ!」
唾を飛ばしはしないが、時間の問題だろう。
ビチビチ──! と固く握りしめられたブルの拳に挟まれた装束が悲痛な悲鳴をあげる。
ディシェリ傭兵団の襲撃のおかげで所々解れて、ボロボロになっていたが、アナスタシアによって修復された一張羅が。
どこの馬の骨かも分からない餓鬼に、破られようとしている。
「煩わしい。とっとと手を放せ」
「……、!」
瞳は伏せてやや上目遣いで睨め上げるように、殺気は多量よりも少量混ぜた方がより一層際立ち、声色は数段に渡って低温を意識する。
経験値として積み重ねた暗殺者としての技量は、有り余る力に翻弄されるしかない子ども相手に威力を発揮した。
視線を合わせたブルは思わずといった感覚で、まるで零度の炎に触れたように手を離した…………いいや、離さざるを得なかった。
「ふん、僅かに怒気に触れただけで随分な体たらくだな」
もはや、返す言葉もないのか。
眼前の小娘に気迫で負けた事実が余程受け入れ難いのか、呆然と立ち竦むブルと、何が起こったのか分からず棒立ちのままの野次馬。
「貴様らは吾を“龍人”と言ったが、“龍人”に相応しくないとすれば途端に蔑む。かつての禍根については知らないが、その姿勢は人間とさして変わらないぞ。酷く、醜悪だ」
三下の捨て台詞のような言葉を送って、振り返ることなく広場を後にする。
“龍人”も、“魔族”も、人間も。
狭量な誉れ程度い拘泥する“龍人”と、姿形の何ら変わらぬ生物だというのに生まれが異なるだけで蛇蝎の如く嫌悪する人間の、一体何が変わろうというのだろうか。
何であろうとも変わらない、変わらないのだ。
陋曲で、下劣。
排他的と思えば、同族嫌悪甚だしく天敵が如く責め立てる。
もはや、ホロウにとって、他者を信ずることなど不可能に近しかった。
わかりきっていたことだ。
今までも、これからも。
ホロウの生きる世界は、悪感情が螺旋を描くような無明の闇だ。
だというのに、なんだ、この虚脱感は。
もしかするとなんて可能性に、賭けていたとでもいうのか。
ほんの一縷の展望を願っていたとでも、いいたいのか。
「……雑念だ。とりとめのない、邪念なんだ」
魂の膿とでも例えられよう独白が、聞く者のいない虚空へと溶けていく。
万に一つの枝葉に実る、決して触れられぬ果実なのだ。
気丈に振る舞う気力すら湧かず、普段からは考えられないような小さな歩幅で帰路へと着いたホロウの姿はお世辞にも孤高を受け入れているようには見えなかった。