13. さあ、歴史の授業だよ⭐︎ 居眠りなんて言語道断ッ!
快適だ。
アデラ・ジェーン山脈の山中にて馬車の硬い荷台で、いついかなる時に叩き起こされるかわかったものではない状況ですらない邑での一夜は筆舌にし難い安息だった。
念の為、逆上したオドラの民が夜襲を仕掛けるやもしれない、と提案したために交代で夜番を務めたのだが。
虫の囀り、小河のせせらぎ、夜風の合唱が支配する邑では杞憂に終わった。
「この世界にも満月が存在するのか。軟禁でなければ風流だと一句詠んだところなのだけれど」
合議の結果、仮住まいとして与えられた石造の宅、扉の前で見張りを務めつつ嘆息する。
既に時刻は夜明けに差し掛かっているのだろう、徐々に朝ぼらけの表情へと変化していく二面性を残した天を仰ぐ。
うっすらと色を消す満月と、光差す光沢を忘れさせない暁。
アデラの空気が澄んでいるためか、やけにくっきりと天の創造物が見える。
同時に、一夜をかけて吟味した情報の塊へと結論を叩き出す。
「全ては、ホロウの決断次第か。まあ、彼女の“自由”なのだから……余人が介入するなんて無粋だね」
厳しい表情を崩さなかったオンと、愕然と一連の話を聞いていたアナスタシア、そして、全てを聞き終えても心ここに在らずのホロウ。
まるで異名通り、幽玄とも思える足取りでされるがままのホロウは却って新鮮であった。
怜悧で、合理的。
それがホロウへの評価だったのだが、それはあくまでも彼女の一側面だけを見た結果なのだろう。
年齢だけを切り取れば、彼女は十五に差し掛かってすらいないのだから。
自身の経験を超越する現実に直面すれば、嚥下するまでに時間はかかるはずだ。
「信憑性は高いのだけれどね……どうにも作為を感じずにはいられないよね」
脳裏をよぎるは、昨日語られたオドラの民の抱える事情。
統合して考えると行動と目的は合致しているものの、やはり易々とは頷けないのが実情だ。
解放されて、仮住まいに案内されて監視の目がないと確信してから【運命識士】を閲覧して正誤を糾すもオンたちの言葉に嘘はなかった。
瞳を伏せると、思いだせる。
昨日の情報の濁流を。
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邑を見渡しても随一の面積を誇る石造の邸宅、その一室。
紛糾した騙し合いに一段落が付き、『悪人』優位に主導権が握られた。
アナスタシア、己、ホロウの順番に長椅子へと座り、向かい合うはオンただ一人。
長候補などだという二人組はオンの背後へぴっしりと付いて、警護を磐石としている。
重々しい沈黙を破ったのは、他の誰でもないオンであった。
というのも、全て話そうとか仰々しく宣言された手前、己が口火を切って良いものかと思案していると勝手に話が始まっていた。
「貴様はどこまで知っている?」
「…………………………?」
貴様……、と。
一体誰に問うているのかあまりにも不明瞭な問いかけに、思わず首を左右に向けて二人へと視線を巡らせる。
「貴様に聞いているに決まっているだろう! オドアケル!」
「ああ、ボク? 済まない、あまりにも問いの内容が曖昧だったからね。問いとは認識できなかったんだ」
思いの丈をあっけらかんと暴露すると、左から脇腹、右から鳩尾へと拳が見舞われた。
突然のことに目を白黒させながら垣間見ると、「とぼけるなっ!」と言いたげな表情の二人が、やや殺気まじりの視線を向けていた。
解せない……が、知らないものは知らない。
曖昧な問いに対して、既知を装えば真偽の判断をしかねる。
ならば、虚偽を騙られても判断が不可能となる。
それは、相手の思惑に踊らされるだけの愚者だ。
アナスタシアならば、真偽不確かな状況における振る舞いはある一定ならば心得ていると思っていたが、過大評価であったのか、それとも場に呑まれてしまったのか。
どちらにせよ、出来うる限りは無知を装う方がいいだろう。
「……オドラの民は“龍族”の末裔だ」
その言葉を皮切りに、オンはオドラの民と“龍族”、そしてホロウとの関係について多少の脚色があれど、話し始めた。
まあ、要約すると「“龍族”は最後まで勇猛果敢に戦い、下賎な人間種はそんな誇り高い“龍族”を嵌め殺した」とかそんな話だ。
後に【運命識士】よりあながちオンの話も間違いではないと思えたが、それでも被害者意識によって歪んでいた。
やはり、人の話を鵜呑みにしすぎるのも問題だ。
違う、逸れた。
つまらない……いや、非常に有意義であったオンの話の中で、最も重要視しなければならない要点は三つ。
一つ、オドラの民は“龍族”最後の英雄の血を引く末裔であること。
二つ、けれどもオドラの民のように集団ではなく孤独に点在する末裔もいるとのこと。
三つ、ホロウは、そんな帝国内に散らばった末裔の一人であること。
かい摘んで整理すると、かつて“龍族”の始祖と呼ばれる『龍皇将軍』アリアオベリアが、『七龍賢』とされる七人の強大な力を持つ龍を代表とされる多くの龍を従えたと。
余談ではあるが、オンの語る特徴から『龍皇将軍』とやらに合致する存在を知っているのだが……まあ、今はいいだろう。
けれども、“魔族”が戦争を引き起こした結果、『龍皇将軍』アリアオベリアは戦死して、龍族は戦場で大きく数を減らした結果、なんと十二体しか生き残らなかったらしい。
あまりにも凄惨で、目を背けたくなる大戦争は“三叉の戦い”と現在でも語り継がれる著名な戦争だと。
流し見ると、アナスタシアは合点がいったらしく頷いていた。
因みに、人間種は疫病によって戦線を離脱していたために戦争による被害は最も少なかったらしい。
そして、時代が流れていくと再び“魔族”が戦争を引き起こした。
どうにも“魔族”とは血生臭く感じてしまうが、止むに止まれぬ理由があったのだと、己は識っている。
“三命の戦い”と呼ばれる戦争は、三千年に渡って戦火を拡大し続け、最終的には“レイビーの戦い”にて“魔族”と“龍族”の共倒れで終幕した。
そして、戦争による消費が少なかく、しぶとく生き残った人間種による帝国時代が幕を開けたのだと。
しかし、“龍族”は絶滅したわけではない。
“三命の戦い”では“龍族”と人間種が番うことで龍と人間のハーフが誕生するきっかけを創出したらしい。
所謂、“龍人”にはとある特徴があって、瞳が琥珀色に輝き、卓越した戦闘技術を保有し、あらゆる生物を超越した回復能力を誇ると。
成程、オンたちがホロウを同族だと断言する理由がようやくわかった。
外見的な特徴にあってホロウは全てを網羅している。
戦闘技術、回復能力については直接戦闘を目にしていない己たちでは判断不可能だが、裏世界で名を馳せる程の武勲を立てたホロウがまさか弱いわけがない。
加えて、ドルにてディシェリ傭兵団の絶え間のない攻勢に晒されて、一時は全身に包帯を巻いていた彼女だが…………どうやらアデラの山中で全快していた。
つまりはたった数日で快調した訳だが。
これを驚異的な回復能力とせずになんとするのか。
「これが俺の知る歴史だ」
虚偽は見受けられなかった。
少なくとも、アナスタシアが頷いている箇所が随所にあったのだから、全てが全て嘘ではないだろう。
とはいえ、それを判断するのは己やアナスタシア、ましてやオンたち“オドラの民”ですらない。
室内の全員の視線がホロウを突き刺す。
同族を憐れむような長候補の二人、ホロウが“龍人”であると信じて疑わないオン。
ことの真偽を判断するように眼を細めるアナスタシア。
三者三様の視線を一身に受けて、ホロウは珍しく狼狽していた。
額には汗が滲み、強く握り締めた両の拳は白く変色してやもすると手のひらには血が滲んでいたかもしれない。
瞳の焦点は合わず、オンとアナスタシア、机、虚空と次々と目線を変えていた。
脳裏に浮かぶのは原初の記憶か、はたまた、そこまで考えは及んでいなかったのかもしれない。
部屋の空気が、この場で答えを出すように強要していた。
重苦しく、曇天がそのまま降ってきたかのように息苦しい雰囲気は、ホロウを溺死へと追い詰める荒れ狂う大海と化していた。
決してホロウを責めるような類の空気ではない。
ただ答えが欲しいだけなのだ。
けれども、当の本人にとっては致死量の毒を塗りたくった刃を喉元に突き立てられていると同等の緊張感だろう。
なにせ、自分の生まれについて──魂の根底足り得る領域について反駁をなされているのだから。
「あ、吾は…………」
震える口元から溢れる言葉は、平時の彼女からは想像できない程に弱々しく、今にも手折れる衰弱した花を彷彿とさせた。
怜悧な眼光も、ピシャリと断言する声色も、全身から溢れる自信に満ちた威圧も、今の彼女からは感じられなかった。
いいや、もしかすると、現状の彼女こそが真のホロウなのではないか。
殺しを家業にせざるを得ない環境で育ち作り上げた虚構の仮面が剥がれ落ちた彼女こそ、正真正銘のホロウ=クルヌではないか。
──いや、違う。
首をもたげた甘い思考に否を突きつける。
情報の濁流に眼を白黒とさせて、正常な判断能力を逸した彼女が本当のホロウであるわけがない。
それは、己が惰性から介入を拒む方便に過ぎない。
「本日はここまでだね」
パン──ッ! と己が打ち合わせた手のひらから、乾いた音が響く。
沈黙に支配されていた一室には、予期する以上の反響があった。
鬼の形相で睨むオンたち、何をしでかすのだと懐疑的なアナスタシア、そして、もはや理解の追いつかないホロウ。
やはり、中断して正解だった。
この場の誰をとっても、正常な判断能力など当に期待できなかったのだから。
“オドラの民”は希少な同胞に出会えた幸運と驚愕に、アナスタシアは利害と常識の狭間で身動きが取れずに、ホロウは言わずもがなだろう。
「今のダアトに判断を求めるのは酷だ。時間を置いてから、改めて問い直してみるのはどうだろう」
どうだろうなどと提案しているが、己の口調は断定だ。
必要なのは時間だ。
ホロウが自己を再認識するための、時間が。
真に自己が“龍人”であるのか、はたまた、“龍人”であっても人間として生きていくのか。
決定権は己にも、オンにもない。
ホロウが決めなければならないのだ。
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やはり、どこにでもある集落だ。
それが己の抱いた偽らざる本音であり、“オドラの民”の生活を示す端的な表現であった。
アデラの山中にあっても昇る太陽の恩恵を受けた邑は燦々と照りつける心地の良い日光と、山々へと吹く清々しい風には緑の香りが乗っていた。
真夏には避暑地になり、真冬には壮観な情景が演出されるであろう環境だ。
農村では健やかに育っている作物が。
広場と思しき空間では幼齢から十代前半の子どもたちが男女関係なく、笑顔を携えて戯れている。
闘技場に近しい正方形の広場では戦士たちが鍛錬に精を出していた。
そこには生活があって、感情があって、ヒトがいた。
“龍人”であろうが、人間種であろうが、“魔族”であろうと変わらない。
知性体なのだから当然であろうが、内包している力が異なる程度の差異で諍いは簡単に生じてしまう。
かつての“三叉の戦い”然り、“三命の戦い”然り……どうしても避けられぬ暴発はあるものだ。
「長閑ですね。空気も澄んでいて、河の質もいい。きっと農作物も高品質なのでしょう」
声の主の方へと視線を傾けると、利き手を滑らかな顎の下へと置いて分析しているアナスタシアが、緩慢な空気の流れる農村にはそぐわない漆黒のドレス姿で歩いていた。
足元へと視線を下げるとドレスに合わせたであろう、漆黒のヒールで街道ほど舗装されていない山道を踏みしめている。
惚れ惚れする体幹だ…………なにせ、アデラの鬱蒼と生い茂る山々にあって、凹凸の激しい山道をヒールで踏破してきたのだから、それは一種のプライドなのだろう。
昨日の会合を経て、己たちは数日の滞在を決めていた。
そして、現在はホロウたっての希望でオドラの邑への散策に繰り出していた。
「オーナー、オドラの邑は君のお眼鏡に叶ったようだね」
「ええ、きっと心穏やかな生活ができるでしょう。けれど…………わたくしには合いませんね。身体がムズムズします」
「はは、君は根っからの挑戦者のようだ。一所にとどまるよりは、ドルのような謀略渦巻く都市部の方が性に合っていると」
「そうですね…………わたくしはそれしか知りませんもの」
寂寞を感じさせる憂いを帯びた瞳がそっと伏せられた。
彼女の脳裏にはメアリの本家が走馬灯のように走り去ったことだろう。
人々の交易が活発で、怒声と歓声の入り混じる感情の坩堝が如き喝采の空間。
そこにはオドラの邑のような静謐はないのかもしれないが、身に合わない成長や膨張はあるのかもしれない。
無論、活気に満ち溢れた都市部にあっては負の側面とは切っては切り離せない。
一度裏路地へと足を踏み入れると、そこでは人攫いも人身売買も日常茶飯事だ。
とはいえ、悪感情が誘発されるのは都市部だけではない。
この邑のように閉鎖的な空間にあっても、生命体としてこの世界に存在するのならば避けては通れない性のようなものだ。
現に、流離うように邑を見て回る己たちへと突き刺さる視線は、悪感情を帯びた種別のそれだ。
…………いや、違う。
厳密には、己とアナスタシアの二人に対してのみだ。
「どうだい、ダアト。“龍人”の邑は」
「…………どうもこうもない。何の感慨も湧かないし、取るに足らない興味すら皆無だ」
己とアナスタシアと比べて、二歩程度先行しているホロウへと声をかけたが、言葉の通り平坦で波風の一つない様子が見て取れる。
だが、ホロウは気が付いている。
数年に渡って視線と、殺意に敏感な暗殺者として鍛え上げた天性の勘が彼女へと否応なしに突きつけるのだ。
己たち二人に向ける視線と、自身に向いている感情の差異を。
「そうか…………それにしては神妙な面持ちだね」
「貴様にだけは表情にとやかく言われたくないぞ、ペテン師」
「おや、酷評だ。心当たりがまるっきりない訳じゃないしね、黙っておくとしよう」
「そういうところですよ。だから、オンのように毛嫌いにされるのです」
心外な。
立派な人格侵害だ。
そう訴えようとしても、勝訴は得られそうにない。
角が立たないように、けれども丸め込まれないように。
かつての自分が空虚な抜け殻となるなんて壮大な犠牲と引き換えに獲得した、胡乱で曖昧な己という人格。
味方であるはずのアナスタシアとホロウですら、己との会話に辟易している節があるのだから、初対面であるオンたちにとって受け入れがたい異物であるとは容易に想像できる。
まあ、想像できたところで改めるつもりは毛頭ないのだが。
「なあ、『悪人』。吾は…………何だ」
会話の途絶えた間に投じられた言葉は、音もなく振り返ったホロウの表情と共に静かに染み渡った。
「ふむ、哲学的な質問だね。それは、君が人間なのか、“龍人”なのかを問う発問に相違ないのかい?」
「……貴様は一々癪に障る喋り方をするな」
どうやら、己の予想を遥かに超過しているようだ。
ホロウならば、自分が何者なのかなんて根源的な問いを、弱みをさらけ出すような問いをあまつさえ己になど投げかけない。
努めて平常を保つ口調も、頑として同情を誘うことのないように引き締められた口元も、無意識に緊張しているのか細められた視線も。
ホロウを構成する全てが、存在意義について疑問を呈している。
「先の問いの答えを返そう」
もったいぶらずにとっとと答えろ、と視線で脅すアナスタシアの思惑を振り切り。
一息も、二息もついて返答する。
頂点に達した太陽が、嫌みなほどに照りつける最中。
己は、何も言わないと決めた。
「君を知るのは君だけだ、ホロウ。君が人間だと思うのならば人間だ。君が“龍人”というのならば“龍人”なのだろう」
嘆息が耳朶にこびりついた。
ホロウの表情が失望に彩られる過程をありありと見せつけられても、己の考えは変わらない。
自分の存在意義は自分で見つけろなんて綺麗事を宣うつもりはない。
なぜって? どちらでも良いのだから。
人間であれ、“龍人”であれ、ホロウであることに変わりはない。
彼女がどちらを選ぼうとも、それは彼女の“自由”なのだから。
だが、どうしてだろう。
己の言葉に満足したのか、それとも見限ったのかは分からないが、背を向けて歩き始めているホロウの表情が忘れられない。
まるで、魂を他人に委ねた者の失意が伝わる。
ただ、それだけが気掛かりだ。