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ツァラトゥストラはもはや語らない  作者: 伝説のPー
第一章【自由の芽吹】──第一部【偶然の産物】
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10. 価値観の崩落

 痛い。

 全身の打撲痕が、全力で振り上げられた拳の吸い込まれた水月が悲鳴を上げている。

 おかしいだろう…………どうして頸動脈を斬って一端の人間然と動けるんだ。

 とはいえ、タネは割れている。


「厄介だね、霊力とやらは」


運命識士(リード・スペクター)】より閲覧した霊力の存在。

 空気のように世界に満ち溢れる物質で、上手く使えばロバートのように傷を塞ぎ、人間離れした身体能力を発揮させることすら可能という。

 果ては【権能】すらどうとにでもできると。

 思わず羨望の眼差しを向けてしまう。

 焼き付け刃に過ぎない己の霊力では、ロバートの拳を受けて粉砕された肋骨の回復には程遠い。


 とはいえ、彼もまた動けて数分だろう。


 霊力では失った血液までは取り戻せない……と、既に検証済みなのだから。

 問題は、完全に殺る気になったロバートを前にして生き残れるか否かだが。

 正直に自信はない。

運命識士(リード・スペクター)】を用いて演算を繰り返してはいるが、生存確率は限りなく低い。

 例えるならば、二十面ダイスで三十四回連続で一を出すのと、そう大差ないときた。

 …………一体、どれほどに隔絶しているのか文字通り痛いほどに理解させられた。

 それでも、三十五回連続で一を出さなければ五分先の命すら危ういのだ。

 アナスタシアの理想への手助けも、ホロウとの契約の履行も、滞ってしまう。


「【運命識士(リード・スペクター)】……最大開放。多少の犠牲は無視しよう」


 腕を上げるように、歩き出すように、普段から疑問を抱くことなく繰り返す動作のように。

 金色の装飾に彩られた洋書を空中に固定する。

 あまりにも軽々と【権能】を露呈させた己に対して、「こいつ正気か?」と言わんばかりの視線を向けてくるアナスタシアとホロウは今だけ無視。

 というか、もう着いたのか。

 流石だ。

 仕事が早い。

 おちおち遅滞させても良いことなどないのだから、とっととこの窮地を脱そう。


運命識士(リード・スペクター)】は”現在”、”過去”、”未来”、如何なる時間軸の情報をも開示する。

 けれども、それは術者が望む場合に限られる。

 それも、永続的ではなく望んだ時点で観測された情報だけだ。

 そう、霊力で強化された”黒鉄”級の斬撃は、一秒未満の刹那の世界なのだ。

 コンマの輪切りされた時間で結果の変わる世界では、如何に【運命識士(リード・スペクター)】が優れていようと意味がない。


 ならば、どうすればロバートの斬撃を捌けるのか。


 本能に頼って動く? 生憎と、そこまで自己評価は高くない。

 次の瞬間には限界が来てロバートが倒れることを祈る? 生憎と、信ずるのは姉だけだと決めている。


 なに、簡単なことだ。

 毎秒未満の区切られた点の時間毎に、【運命識士(リード・スペクター)】を発動させ続ければいい。

 そうすれば、膨大な情報の濁流に焼き切れる神経を霊力にてその場しのぎの補修を施す限りにおいて、疑似的な”未来視”が可能となるのだ。


 きっと途方もない作業になるだろう。

 一秒未満の極小の隙間は針の穴よりも容易に狭く、糸は驚くほどに細い。

 そんな癖のある両者を合致させて、ようやく得られるのが瞬きすらできぬ束の間の平穏。

 ロバートを相手にすると決断して、彼との正面戦闘にならざるを得ないと予期して【運命識士(リード・スペクター)】を酷使した時よりも遥かに()()許容量を超過する。


「──ッ!」


 ビッ──と風切り音を微かな息遣いと共に知覚した時には、視界はまるで羽ばたく鳥のように大地を俯瞰する位置にあった。

 左脚一本で肉薄したロバートの斬撃を、()()()()()()()()()()身体が無意識に反応したのだと打ち上げられてビリビリと痺れる右腕の存在に教わる。

 恐らくは、ロバートの我流抜刀術だろうとは予想できるが、まさか万全でない状態で成人男性に近しい己を上空へと打ち上げられる膂力と脚力を誇るとは。

 つくづく相手が悪い。


「…………次は、左逆袈裟──ッ!」


 徐々に大地が視界を埋め尽くす高度まで下がると、ロバートは一撃で勝負を終わらせるために全霊の斬撃を繰り出す。

 ガリガリと地を削るように、鉄球を頭上へと投げ渡すように。

 残像すら残さない速度で振り上げられる剣を前に、矢継ぎ早に移り変わる視界に順応することに精一杯の人間は……人間に限らずだが、ろくに反応などできない。

 事前に知り得ている離反者でない限りは。


「フン──ッ!」


 ビチャッ! と生ぬるい液体が頬と大地に染み渡る。

 中空でわずかに身を翻して一撃を紙一重で回避したついでに、振り上げられた右腕に鉈を下す。

 なまじ若輩の身でロバートに挑んでいる訳ではない。

 肋骨の痛みを軽減するための霊力を、全身の筋肉を常人離れしたロバートの剣術に適応するために馬車馬が如く張り巡らせていた霊力を、己の右腕へと注ぎ込む。


 両断とはいかずとも、骨を断つ程度の威力は期待できた。

 現に、ロバートの右腕は皮膚一枚で繋がっているようなものだ。


 だというのに、まともに受け身すら取れず無様に転がる己に向けて、左腕をしならせて斬撃を繰り出そうとするなんて。

 誰が信じられて、誰がそんな異常な行動に移せるというのか。


「(受けてはならない──ッ! 腕ごと砕かれるッ!)」


 痛みを訴える全身に鞭を打って、寸での所で右側へゴロゴロゴロゴロと転がることで斬撃から距離を取る。

 土埃に隠されて明瞭には見えないが、つい数秒前に己が寝っ転がっていた地点には重機で掘り返したのか? と思える断裂が見て取れる。

 簡単に命を刈り取る絶死の一撃から逃れたのも束の間、初太刀よりも数段階速度の上がった横凪が眼前へと迫っていた。

 ああ、()()()()()だ。

 幾度演算を繰り返しても、()()()()には対処できなかった。


 故に、如何に効率的に()()()()()を還元できるかに集中しなければならない。


「──ッ!」


「……ッ!? な、何を──」


 暗いな。

 痛みは……あらかじめ霊力で覆っていたためか殆ど感じられない。

 だが、それでも十数年ものの肉体を欠損してしまった喪失感は、お為ごかしで拭い切れるものではないな。

 本来ならば、そこにあって然るべき部位が注ぎ落とされたのだから感情的になるなと言う方が酷だろう。


 とはいえ、現状においてそんなおふざけを口にできる余裕はない。


 さあ、終幕で正念場だぞ。

 脳神経の限界まで稼働させた【運命識士(リード・スペクター)】の未来演算も、作戦開始まで反復したロバートの一方的な虐殺の経験も、全てを集約させるタイミングだ。

 ガッチリと脊椎の間に挟まった鉈を引き抜く時間はない。

 己を敵と認定して、消えゆく生命の灯火を燃え盛る大火に変えて襲いくるロバートは人間などではなく、人を殺す術に長けた獣と認識した方がいい。

 つまりは、無意識に、脊椎反射で外敵を始末するために動ける。


 全く、本当に、心の底から、もうたくさんだと叫びたい。

【権能】を封じて、右脚を砕いて、頸動脈を切って、四面楚歌に追い込んで、確死の斬撃を回避して、右眼を捧げて、首を半断して、それでも()()()()など。


 もはや生命の色を感じさせない瞳を覗き込んで、もう十分だと言い聞かせたい。


 左半身に迫る殺意の奔流に頬を引き攣らせて、己は最後の数秒へと身を投じる。









 ❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒







 違和感があった。

 泥に塗れて、お世辞にも業物なんて言えない鉈を素人丸出しの構えで立ち上がる『悪人』の姿に。

 けれども、喉元に引っかかる差異など所詮は薄れゆく意識の果ててに見出した気の迷いだと切り捨てた。

 何故って? そんな問いを投じる時点で元“黒鉄”級冒険者に対する侮辱だろう。

 …………ああ、そんなつまらないプライドなどとっとと捨てればよかった。


 あの時は、一撃で勝負などつくと嵩を括っていた。

 口八丁の、巧者だと致命傷を受けても過小評価していた自身に呆れすら浮かべられる。

 最終的な帰結として、無駄のない動きをもって的確に息の根を止めるなんて殺戮者に相応しい結論を導き出すような相手が、まさか弱いわけがなかろうに。

 そう、ここまできてロバート=クライブの強さとは腕ぷしだけの武芸者としての杓子しか持ち得なかった。

 認めればよかった。

 雄弁に饒舌な策略で意識を逸らして、暗殺者も真っ青な暴力的な手段を選択する男の強さを。


 ラ・カール・レイヴ流の抜刀術と、シネン・ジゲン流の一刀入魂。

 効率的に張り巡らせた霊力の胎動に心地よさすら感じて、愛剣を振り上げた。

 如何に屈強な獣であろうと、魔獣であろうと一刀の元に切り伏せた最善にして最強の剣術。

 次の瞬間には物言わぬ虫くれとなった『悪人』を一瞥して、いつの間にやら増えていた奴の仲間二人を生け取りにして終わりだ。

 晴れて、ディシェリ傭兵団は一級傭兵となり、ロバート=クライブは再び表舞台の最前線へと踊り出るはずだったのだ。


 瞬きをした。


 右腕がプラリと溢れていた。


 息を呑んだ。


 思わず左腕を振りかぶった。


 息が──呑めなくなった。


 衝撃と困惑に埋まる思考には、既に答えが浮上していた。

 悉く回避と反撃の応酬を碌な反応すらできずに一身に受けた者は、ロバートであっただけ。

 敗北色は濃厚どころか、一色しかない単調な色合いだ。

 負けだ、完膚なきまでの敗北だ。


 彼我の戦力差を図り損ねたのはロバートで、格下だと無意識に侮っていた『悪人』は予想なんて絵図では描ききれない策略を張り巡らせていた。

『悪人』はきっと持ちうる知略も、【権能】も、技術も、奇跡すら、ありとあらゆる要因を考慮に入れて、勘定に含めて一筋の勝利を──運命を手繰り寄せたのだ。


 勝てないし、違和感も覚えるわけだ。


 彼と自身では想像と理想がかけ離れすぎていた。

 天晴れだ、と称賛して恐ろしくも悍ましい男の門出を祝福できたらどれだけよかったものか。

 ああ、ちっぽけで忌避すべきプライドが邪魔をしてしまっている。

 秒読み寸前の命が、せめて一矢報いようと休ませてくれと叫ぶ魂に反して身体を動かしてしまう。


 もはや自我なんて欠片しか残っていないが、それでも、『悪人』の相貌に張り付いた危うげな笑みだけは記憶に刻み込んで。


 ロバート=クライブの一生は幕を閉ざした。









 ❑❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒❑❒








 透き通った夜空であれば、どれほど清々しいか。

 曇天に隠された月明かりを切望する日が来ようとは思わなかった。

 今この瞬間にも目を閉じて惰性に身を委ねられたのならば、きっとこれ以上ない快楽なのだろうよ。

 けれども、ロバートを討ち果たしたからと言って、本来の目的を果たしたわけではない。


「おい、『悪人』ッ! 貴様、戦闘にはならないと言っていたじゃないかッ!」


 ずんずんと手綱を引いて叱責を浴びせるホロウの低音は、甲高い金切り声ではないだけで心地いい。

 大の字で大地へと五体投地している己は傍目から見るとはしたないのだろう。

 馬車の中から顔を覗かせるアナスタシアもまた、ホロウ程ではないにしても眉を顰めて何か言いたげに口元をへの字に曲げている。


「どうやら、ボクは君の憂慮を勝ち取ったようだ」


「……ッ、違うッ! 貴様が万一にでも負ければ、ロバートの矛先は吾たちに向かった。それを憂慮しただけだッ!」


「万一ね……随分と高く評価されたものだね」


「貴様……ッ、ああ言えばこう言うな…………ッ」


 ギリギリと歯軋りが聞こえてきそうな唸り声だ。

 年頃の乙女が変えてはならない憎悪と憤懣の表情に睨まれ続けては、どこかの扉を開いてしまいそうになる。

 苛立ちを全身から発しているホロウだが、徐々に殺意へと変化している。

 おかげで、手綱の先にいる馬がこれでもかと身を引いているではないか。


「さて、そろそろ発つとしようか。アナスタシアとホロウのおかげで足と快適な旅路は確保されたも同然だしね」


「……おい、貴様。その身体で山脈へ入るつもりなのか」


「おや、心配してくれるのかい?」


「…………ふざけるのも大概にしろよ、『悪人』。そんな大怪我で過酷な山道に耐えられるわけがない」


「大怪我? 誰が?」


「貴様だッ! 吾も、アナスタシア殿も戦闘らしい戦闘には遭っていない。いいや、貴様が遭わさなかった」


 はて、己は大怪我なのか?

 限界値を容易に超越した【運命識士(リード・スペクター)】の反動で鼻と左眼から流血、右眼の欠損、ロバートの最期の反撃を防ぐために捧げた左腕の欠損と、【権能】の超過使用。


 憎々しげに睨め上げるホロウの言わんとしていることは理解できた。

 しかし、霊力で痛みを軽減させている上に、【権能】の行使は止めている。

 通常の生命活動を行うに支障はない。


「そりゃそうだろう。ボクの策略は十全だからね」


「その割には、正面戦闘に陥ったのですね」


 凛とした聖鐘が如き声色が血みどろの戦場に響き渡った。

 声の主は誰であろう、漆黒のドレスに身を包んだ美女、アナスタシアだ。

 ホロウとの会話に痺れを切らしたかのように馬車から降り立ったアナスタシアは、非日常にある情景の中でも優雅を忘れずに惚れ惚れするような歩調で己眼前まで進む。


「あなたは好意を素直に受け取れないようなので、わたくしが打算を交えて合理的に言い渡しましょう」


「……ッ、まてッ! 吾は好意など……ッ!」


「往生際が悪いですよ、ホロウ。戦闘が終わって、真っ先に駆け寄って彼の無茶を見咎めたのは貴女です」


「ぐ……ッ」


 まるで百面相だ。

 よくぞここまで感情を表に出して暗殺者が務まったな、と思わせる起伏には思わず頬を緩めてしまう。

 年相応の感情の移り変わりには、一時でも彼女が暗殺者であることを忘れさせる。

 そして、だからこそ、ホロウが忿懣やるかたない様相で詰め寄ってきた意味が痛いほど理解できる。

 彼女はボクを嫌悪している。

 それも、徹底的に。

 けれど、彼女は断崖絶壁に近しい練度差のある無茶を強行したボクに対して建前を用いて心配したのだ。


「あなたはわたくしの理想の片棒を担ぐと宣言しました。よって、わたくしの安全を衛る義務があります」


「ああ、その通りだね。そのためにも、ドルからの脱出が必要だったのさ。回り道にはなったけれどね」


「ええ。けれども、今のあなたでハギンズの差し向ける刺客どころか、わたくしにだって敵いません」


「認め難いけれど、ここで虚勢を張る意味もないしね」


 まるで己の現状を指折り数えていくように言葉を重ねるアナスタシア。

 スラリとした抜群のプロポーションを誇る彼女の魂を掴み取るような蠱惑の声には、異性は言うまでもなく同姓であっても聞き入ってしまう魅力があった。

 その上で、頷かざるを得ない理由まで付与されたのだから、無視など到底できようはずもない。


「そして、ホロウ。貴女もまた、ここでわたくしたちと別れる選択肢は取れません」


「………………何が言いたい」


「そんな目で睨んでも痛くも痒くもありませんよ、ホロウ。これでもわたくしは今回に限らず、幾度となく命を狙われてきました。殺気の有無を判断するなんて容易なのですよ」


「……チッ、まさか、吾に同行を強要するつもりか」


「いえ、強要はしません。わたくしたちには決定的な武力が足りていなくて、ホロウには人手が足りない。あの人を嘲笑うような作戦と、何も変わらないのですよ」


 つまりは利害の一致と。

 根底からボクという存在を認め難いホロウを、より安全策を考慮したアナスタシアの妙案が説得している。

 本来の契約ならばアデラ・ジェーン山脈へと立ち入った時点でホロウとは別れるはずであったが、ここで解散してしまうと互いの利益にはならないと再度の契約を持ちかけている。

 流石は交渉に慣れた商人というべきだろう。

 ホロウとボクでは平行線どころか致命的な仲違いに陥ってしまうであろう間を取り持って、挙げ句の果てには協力体制を継続させる帰結に導く。


「……………………いいだろう。だが、契約終了期間も決めさせてもらう」


「ええ。山脈を抜けた後、いづれかのタイミングでいいですね」


「ああ。それで構わない。吾としてはこの『悪人』と行動を共にするなど業腹だが、状況が険しいからな。仕方ない」


「仕方ない、ですね。確かに、その通りです」


「おい、その顔をやめろ。なんで、緩慢な表情に変わるんだっ!」


 素直になりきれないホロウと、まるで揶揄うように微笑むアナスタシア。

 ああ、気が緩むな。

 二人が正門前の駐屯所にたどり着いたということは、アナスタシアの【権能】が目論見通りに効力を発揮して錯乱に成功した証左だ。

 つまりは、後は正門を破って山脈へと突貫すれば済む話だ。


 実に綱渡りの勝負であったが、勝利は掴めたのだ。


 ロバートは討ち果たして、ディシェリ傭兵団は烏合の衆に成り果てて、ハギンズの思惑から抜け出して、盤石……かどうかはこれからの己の行動にかかってはいるものの、仲間にも恵まれた。

 目下の目的は果たした。

 ああ、もういいだろう。

 そろそろ気を、休めるとしよう。

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