6.甘い一面
夢ではなかった。
朝起きてすぐに鏡を覗くと、そこには頭に包帯を巻かれた私の姿があった。
恐る恐る包帯を外すと、額には痛々しい傷痕が残っていた。
「でも頑張ったら傷痕を前髪で隠せる気がする……だから結婚はしなくて大丈夫だとお伝えしよう」
もしかしたら昨日は勢い余って先を急ぎすぎたと、昨日の話は取消しになるかもしれない。
希望を持っていると、朝食前に公爵様は部屋にやってきた。
「おはよう、アイリス。気分はどうだ?」
「あ、えっと……」
おかしい。
なんだか公爵様の様子がいつもと違う。
その微笑みからはどこか甘い雰囲気が漂っているし、私のことも『アイリス』と呼んでいた。
名前で呼ばれるなど滅多になかったというのに……!
「やはり痛むだろう」
「いえ! 本当に大丈夫です! このように髪で傷痕も隠せそうですし、やはり昨日の件はなかったことに……」
「今すぐにでも国王陛下に君との婚姻について報告したいのだが、構わないか?」
やっぱり結婚諸々諦めていなかったようだ。
私の提案も聞かなかったことにされている。
「無能な私が公爵様に釣り合うわけがありません」
「君を無能と言う人間は私が責任を持って対処する。むしろ私には君しかいない」
公爵様は私の手を取り、甲に軽く口付けした。
こ、こんなことって……第一、公爵様は私に怪我を負わせた罪悪感から結婚するはずなのに。
どうしてこんなにも愛おしそうに見つめてくるのだろう。
何か理由があるのではと思い、公爵様に問う。
「本当に怪我の責任を取るために私と結婚するおつもりですか?」
公爵様は何を考えているのか。
私と結婚したところで利益があるとは思えない。
一瞬、私が聖女であることを見抜いているのかと思ったけれど、もし知っていたらすでに国王に報告しているだろう。
じゃあ一体なぜ公爵様は……と思った時、ふとある答えに辿り着いた。
同じタイミングで公爵様が口を開く。
「本当は他にも理由がある」
やっぱり、と心の中で呟く。
公爵様は少し躊躇っていたけれど、意を決して私に視線を向けた。
罪悪感からの結婚、は建前にすぎず、他に目的があったことでバツが悪いのだろう。
「アイリス。私は……」
「周囲の結婚に対する圧から逃れるため、ですよね?」
公爵様が言いにくいだろうと思い、ここは私が代わりに話すことにした。
ビリジアンが言っていたけれど、公爵様の結婚については多くの貴族が注目しており、自分の娘と結婚させようとする人も出てきているらしい。
そのことが公爵様にも伝わっていて、逃れるために結婚を急いでいるのだろう。
それも見ず知らずの女性ではなく、面識があって私に結婚を持ちかけたのだ。
「……は」
「安心してください。もちろん誰にも話しませんので!」
今回の怪我が結婚の口実になったとはいえ、少しは私を信頼してくれてのことだろう。
とはいえ、相手は私で本当にいいのだろうか。
「ですが、私は力のない人間です。公爵家の名に傷がついてしまうかもしれません。それでもよろしいのですか?」
いくら打算的な結婚、つまり愛のない結婚だったとしても、もっと相応しい人がいるのではと思った。
「あっ、別に愛のない結婚が嫌とかではなく……! むしろ公爵様に信頼してくださって嬉しさもあるといいますか! ですが、体面的に大丈夫なのか心配で……」
公爵様は私が話しているのをただ黙って聞いていて、それが少し怖かった。
表情から感情を読み取れず、何を考えているのかわからない。
「……そういうことにしておこうか」
「えっ?」
ボソッと公爵様が何かを呟いたかと思うと、ようやく私の目を見てくれた。
「君は私と結婚するのは構わない、ということか?」
「もちろんです! 先程はこのぐらいの怪我で責任を負っていただくのは申し訳なかっただけであって、この結婚が公爵様のお役に立てるのなら喜んでお手伝いします!」
今まで公爵様が私を気にかけてくれ、救われたことを考えると、ようやく恩返しができると思った。
「そうか」
「あ、でも他に愛する方が現れたら仰ってくださいね! すぐに身を引きますので!」
「……残念だが、私は身を引く気がないから諦めるといい」
どういう意味かわからなかったけれど、絶大な信頼を寄せてくれている……という解釈で間違いないだろうか。
「えっと、じゃあ私たちはすぐに結婚するのですか……?」
「私は今すぐにでもと思っているが、君はどうしたい?」
私にも選択の権利を与えてくれる辺り、優しい公爵様らしい。
まあ、かなり強引にここまで進められたのだけれど……そういえば昨日、公爵様が婚約期間を経て結婚という話をしていたことを思い出した。
「でしたらお試し期間としてしばらく婚約関係でいるのはどうでしょうか! いくら愛がなくても相性は大切ですし、一緒に過ごすうちに心変わりするかもしれませんので、その時は婚約関係の方がすぐに破棄できるかと!」
これは保険だ。
特に勢いで決めたであろう公爵様にとって、都合のいい提案のつもりだ。
「ではそうしよう」
「期間も決めておいた方がいいですよね。うーん……」
時間を長めに設定してお互いのことを知っていきたいところだが、後継ぎのこともあるだろうから婚約期間は短い方がいいのかもしれない。
そこまで考え、最も重大なことを忘れていたことに気づく。
「公爵様! 一番大事なことを忘れておりました! あの、後継ぎとかって……その」
口にするのは恥ずかしくて、全てを言葉にすることはできなかった。
公爵様との子を産むとなれば……体の関係は避けられない。
「今はまだそこまで考える必要はない。時が来たらまた考えればいい」
公爵様は気が早いと言わんばかりに話し、私の頭にポンと手を置いた。
公爵様の大きな手は私を安心させる。
「ありがとうございます……あっ、そういえば期間でしたね。一年ほどでいかがでしょうか」
婚約者がいるってだけでもある程度結婚の圧から逃れられるだろうし、一年もあればお互いのことをある程度知ることができるだろう。
「一年か。わかった」
「あの、私ばかり決めている気がするのですが……何かあったら言ってくださいね」
「君を繋ぎ止められるなら全て受け入れるつもりだ」
公爵様って私以外の女性と関わりがないのかもしれない。だから繋ぎ止める必要があるのかな。
「そこまで気を遣ってくださらなくても、簡単には離れませんよ。公爵様にはたくさんご恩があるので」
「それはありがたいな。私も君を離すつもりはないから」
真剣な眼差しを向けられ、ドキッと胸が高鳴る。
まるで本当に私を好きなのでは、と錯覚してしまいそうだ。
「早速だが、神殿を出ることになっても構わないか? 君さえ良ければ一緒に住みたいと思っている」
「ほ、本当ですか⁉︎」
あまりの嬉しさに、思わず食い気味に話してしまう。
「ああ、今すぐ上と話を通してこよう」
「嬉しいです! まさか神殿を出られる日が来るなんて……」
「本当はずっと、どうやってこの神殿から君を攫おうかと考えていた」
公爵様はその後すぐに部屋を後にしてしまい、ポツンと一人残される。
いや、今の言葉はどういう意味だ。
ずっと私を攫おうと思っていた? どうして?
公爵様のことだ、きっと虐げられている私を助けようとしてくれていたのだろうけれど……誤解を招くような言い方はやめてほしい。
「私が、公爵様と結婚……」
正確には婚約だけれど、中々現実味が湧かない。
これからどうなるのか全く想像がつかないが、今はただ神殿から出れることを喜んでいた。