33.偽りの愛①
その日以降、セピア様との距離がグッと縮まった気がした。
それからセピア様のスキンシップが増え、今では使用人たちが見ている前でも──
「ではアイリス、行ってくる」
そう言って、私の額に口づけしてから家を後にした。
もちろん慣れることなく恥ずかしいけれど、セピア様の幸せそうな笑顔を前に何も言えない。
それに使用人の前でも笑顔を見せるようになったようで、みんな喜んでいた。
「まるで夫婦のようですね」
「えっ……⁉︎」
部屋に戻るなり、にこやかなスカーレットの口から『夫婦』の言葉が出て驚いてしまう。
まだ婚約者という関係なのだけれど……そうか、周りから見たらそう思うのか。
少し嬉しい、なんて。
「お二人を見ていると、時折婚約関係であることを忘れてしまいます」
「そうかな? あ、でも最近のセピア様は確かに距離が近いというか……人前でも、色々と……」
「ふふ、私たちのことはお気になさらないでくださいね。空気とでも思っていただけたら」
「それは少し無理が……もちろん嫌ではないんだよ? ただ慣れないだけで……」
慣れる日が来るとは到底思えないけれど、セピア様との時間は本当に幸せだった。
言葉や行動で“好き”を表してくれ、その度に心が満たされていく。
そんな幸せな毎日が続き、私は何か勘違いしていたようだ。
これからもそんな日々が続くのだと──
そろそろお昼の時間になろうとしていた時、突然部屋の外が騒がしくなり、ドアをノックされる。
スカーレットがドアを開けると、焦った様子の執事長が中に入ってきた。
「アイリス様……」
「どうされたのですか?」
執事長の表情を見るに、緊急事態であることはわかった。
「たった今、屋敷に……アイリス様の家族を名乗る者が来られました」
ドクンと心臓が大きな音を立て、全身から血の気が引いていく。
いつかこんな日が来るのではないかと、婚約した当初は考えていたはずなのに、すっかり忘れていた。
「事前に連絡もなく押しかけてくるなど無礼極まりないですね。アイリス様、追い返しましょう」
珍しくスカーレットは不快感を露わにしていた。
そうだ、私の家族は自分本位で常識が通じない、そういう人たちなのだ。
「しかし、アイリス様に会えるまで決して帰らないと仰っており……もし本当にアイリス様のご家族であれば、無礼を働くわけにはいかないと……」
執事長は自身の力では対応しきれず、申し訳なさそうにしている。
セピア様が不在の今、どうやら私が行って追い返すしか方法はないようだ。
「わかりました」
これ以上、公爵家に迷惑をかけるわけにはいかない。
私は意を決して立ち上がり、家族がいる玄関先へと向かう。
「アイリス様……」
スカーレットが心配そうに私を見つめたけれど、大丈夫だと微笑む。
単なる強がりにすぎなかったが、家族相手に弱い姿を見せないという決意の表れでもあった。
玄関までの距離が近づくにつれ、緊張感が増していく。
最後に家族に会った記憶は、神殿から迎えが来た時。
『ようやく少しは俺たちの役に立ったんだな』
『これからも親孝行するため、たくさん神殿で頑張るのよ? 私たちを楽にしてちょうだい』
最後まで私の神聖力しか見ていなかった両親の、冷たい言葉は私の心に深く突き刺さった。
その後、両親は一度も私に会いに来ようとはしなかった。手紙すらも寄越さず、少しでも期待してしまった自分を恨んだものだ。
「ちょっと、私たちを誰だと思っているの⁉︎ 公爵様の婚約者であるアイリスの親よ⁉︎」
「アイリスはまだ来ないのか? 何をしているんだあいつは……」
玄関から少し離れたところから、すでに両親の騒ぐ声が聞こえてきた。
こんな両親の見苦しい姿を屋敷の人たちに見られてしまった……ああ、本当に恥ずかしい。
「何の騒ぎですか?」
両親が家に押しかけてきたことは、すぐセピア様の耳に届くだろう。
それでもセピア様の手を煩わせたくなかった私は、せめて一人で彼らを追い返そうと思った。
「……あ、アイリス? そうなのね、アイリスなのね!」
きっと両親の中の私は幼少期で止まっている。
私が“アイリス”であることは、きっと顔だけ見てもわからないだろう。
彼らの反応を見るに、私が使用人たちを連れ、ドレス姿であることで“アイリス”だと判断したはずだ。
「おお、アイリス! こんなに大きくなって!」
まるで二人は本当に私のことを大切に想っていて、久しぶりの再会に喜んでいるような反応を見せる。
「神殿での暮らしは問題なかったか? 手紙一つ寄越さず心配だったんだぞ」
「そうよ。貴女が公爵様と婚約したと聞いた時は心臓が止まるかと思ったわ……! 何不自由なく暮らせているの?」
ずっと欲しかった心配の言葉は、私の心を揺らがした。
偽りであることは頭でわかっているのに……たとえ嘘でも、こんなにも泣きたくなるなんて。




