1.安らぎの時間
「いいかい? 何があっても本物の聖女であることは隠しておくんだよ」
母親のように慕っていた聖女の末路はあまりに呆気なかった。
奴隷のように扱われ、国に搾取され続けた彼女は、最後まで私の心配をしながら息を引き取った。
それから三年の月日が流れ、人々から今は亡き聖女──クラレット・ジョゼル様の記憶は消え、新たに誕生した偽の聖女を讃えていた。
ああ、クラレット様はこのような無情な人たちのためにあれほど辛い人生を歩んでいたのか。
やはりクラレット様の、私の選択は間違っていなかった。
神殿に訪れる人々に笑顔を振りまく新たな聖女を横目で見ながら、私は何度もそう思った。
「ちょっとアイリス! 何サボっているの⁉︎」
「げっ」
そんな中、突然背後から私の名前を呼ばれ、心底嫌な声が出た。
私──アイリス・ナディットは、数少ない神聖力の持ち主で聖女候補だった。
子供の頃に神聖力を持っていることがわかり、貧乏貴族だった両親はすぐに私を神殿に売り払った。
さらに私には素質があったようで、聖女の力を覚醒させてしまった……けれど、その事実を知っているのはたった一人、今は亡き聖女であるクラレット様のみ。
神殿に連れて来られた日から私の力を見抜いていて、何かと気にかけてくれていた。
幸いにもクラレット様の前で覚醒したことで、その後は徹底的に能力を隠すための指導を受けた。
そのおかげで私は、人前で神聖力を上手く扱えない演技ができ、無事に周囲から無能のレッテルを貼られた。
結果、聖女候補から聖女の力を覚醒した者がおらず、前代未聞の偽の聖女が立てられたのだった。
「聞いてる⁉︎ 無能な貴女のために仕事を与えてやってるのに、サボるなんて最悪ね!」
「……」
聖女候補だった者は、聖女の補佐として仕事を与えられ、今も一緒に行動することが多い。
その中で一番能力の低い私は、こうして虐げられていた。
今も自分の仕事を私に押し付けてきたから放っていただけなのに、勝手に怒り出して……まあ、もう慣れてしまったけれど。
「はあ……何よその目。貴女、自分の無能さをわかっていないの?」
私と同じ候補者だった彼女は取り巻きから水の入ったバケツをもらい、勢いよくそれをかけてきた。
あっという間にずぶ濡れになり、茶色の髪から水が滴り落ちる。
初めからこうするつもりだったのだろう、私の姿を見て満足そうにしていた。
「あら、これで少しはまともになったんじゃない? 無能な貴女にぴったりな姿よ」
クスクスと笑われ、本当は無視を貫き通すつもりだったけれど、腹が立った私は彼女の手をギュッと握る。
「ありがとう! 私の見た目を気にかけてくれるなんて、優しいのね!」
そのまま勢いよく彼女に抱きつけば、「きゃああ!」と世界の終わりのような悲鳴をあげ始めた。
最後には自分も濡れて半泣きになりながら、取り巻きと共にその場を後にした。
「ふんっ、ざまあみやがれ」
「……ふはっ」
追い払えたことでスッキリしていると、背後で誰かの笑い声が聞こえ、慌てて振り返る。
「こ、公爵様!」
「私の心配など不要だったようだな」
おかしそうに笑いながら私に近づいてきたのは、この国で最も力のある公爵家の若き当主であるセピア・ロドリアン様だ。
「お恥ずかしいところをお見せしてしまい申し訳ありません」
「果敢に敵を追い払う姿は格好良かったと思うが……まさかあのような方法でやり返すとは」
公爵様は先程のことを思い出したように笑い、さすがに恥ずかしくなる。
それにしても……黒髪翠眼の見目麗しい公爵様が笑うと、破壊力がすごい。心臓をギュッとを鷲掴みにされた気分だ。
「ああ、笑うなんて失礼だな。気を悪くさせたならすまない」
「いえ、公爵様のようなお方が謝罪する必要などありません……!」
こんな落ちこぼれで、家も貧乏な貴族の女に気を遣う必要などないだろうに。
「ではこれは詫びの印だ」
「わっ……」
公爵様は風の魔法を使い、あっという間にずぶ濡れだった私の全身を乾かしてくれた。
「貴重な魔法を……!」
「これぐらいどうってことない」
どうってことありますとも……!
公爵様はこの国で最も強い魔導士で、数多の魔法を扱える。
魔獣討伐や他国との戦において多くの功績を残し、いつしかこの国の民や王ですら恐れる存在になっていた。
あまりに美しいその見た目も、冷たく威圧感のある印象を与えているのだろう。
私は平気というか、むしろ目の保養である。
「それより、今日は案内してくれないのか?」
「もちろん私が案内させていただきます!」
周囲から恐れられている公爵様が平気な私は、神殿から彼が来訪した時のお世話係を押し付け……任されていた。
一つでもミスをしたら殺されるかもと恐れているらしいけれど、私にとったら役得だ。
公爵様のお世話をしている間は虐められることもなければ、まともな食事を取ることもでき、ふかふかなベッドでも眠れ……まさに安らぎの時間である。
そうして私は今日も、公爵様に神殿一番の部屋に案内するのであった。