金木犀の香り
テキトーに履いたスニーカーに人差し指を入れ、踵を突っ込む。
ドアノブに手をかけ、後ろを振り返り、「行ってきます」と言った。しかし、返事はない。
それもそのはず、家には誰もいないからだ。父親も母親も、はやくに起きて職場に向かったのだから、当然だ。でも、誰もいないと分かっていたとしても、「行ってきます」を言わなかった日はなかった。
何事もなかったかのように再び正面を向き、ドアを開ける。
すると、突如として、甘い香りが鼻をくすぐった。
(金木犀……。もうそんな時期か……)
はぁ、とため息が出る。この香りは好きではない。しかし、別に金木犀の香りそのものが苦手というわけではない。
思い出してしまうのだ。
あの日から、家族の間にヒビができてしまった。
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はじめは、ちょっとした日頃の文句の言い合いだった。でも、次第にエスカレートしていって、いつの間にか罵詈雑言のぶつけ合いへと発展してしまった。あの時の父親や母親の怒りの表情は、べっとりと瞼にこびりついて到底はがれそうにない。
逃げるようにして自室に向かい、勉強机に突っ伏した。二人の声は異常なほど大きく、扉越しでも鮮明に聞き取れた。
そんな二人の会話――言葉の殴り合いの内容には、わたしについて言及しているものもあった。当時のわたしはクラス内でいじめをされていて、「お前の育て方が間違っていたからこうなったんだ」という罪の擦り付け合いが繰り広げられたのだ。今までの家族の思い出を否定されている気がして胸が苦しくなり、息ができなくなりそうになった。
一時間後。二時間後。いや、どれほど時間が経ったのかは正直わからない。ただ、これまで経験したことないほど、果てしなく長い時間だったことだけはわかった。
外の空気を吸って心を落ち着かせようと窓を開けると、十月の心地よい空気とともに甘ったるい香りが鼻腔を埋め尽くした。
その香りは、わたしの心境なんか考えもせず、馬鹿の一つ覚えで和ませようとしているふうに思えた。
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憂鬱な気分で登校を終え、教室に入ると、何やらいつもより騒がしかった。疑問に思いつつ席に座ると、友人がソワソワとした様子でやってきた。
「何? どうしたの?」
「どうしたの、って。聞いてないの? 転校生のこと?」
「聞いてない」
荷物を整理しながら片手間に答えると、友人がずいっと顔を近づけてきた。
「ねぇ! 興味ないの? 転校生が来るなんて滅多にないイベントだよ!?」
「あんま期待しない方がいいよ。転校生の気持ちにもなってみな」
ふーん、と言う友人の表情は、不満、というよりも何か考えているようだ。
「あのさ、なんかあった」
「……」
金木犀の香りが鼻をよぎった。思い出してしまう。
胸に渦巻く黒い煙のような何かを漏らさぬよう、いつもと何ら変わらない口調で、
「別に」と答える。
「……そ。ならいいけど」
腑に落ちない表情で友人は踵を返し、「なんかあったら気にせず言いな」と言い残して自分の席へ戻っていった。
まだ数か月の付き合いだというのに、子供っぽい性格とは裏腹に案外察しがよく、距離感を掴むのがうまい子だ。いや、それともわたしが隠し事が苦手なだけなんだろうか。
そんなことを考えていると、朝のホームルームを告げるチャイムが鳴った。
平々凡々と授業を終え、電車に乗る。スマホを弄っていたら、いつの間にか最寄り駅についていた。
改札に向かおうと階段を上っていると、「あの」と後ろから声をかけられた。
振り返るとそこには、知っている顔の男の子がいた。
「あ。今日うちのクラスに転校してきた子?」
「あ、はい。そう……です」
たどたどしいその様子にクスッと笑ってしまいそうになる。
「いや、何で敬語なの? クラスメイトなんだし、タメ口でいいって」
「そ、そっか。ごめんなさ……あぁいや、ごめん」
「ん」
ここじゃ話しにくいと思い、改札を出ようと手で促すと、男の子は頷いて同意した。
聞いたところ、男の子の家はわたしの家の近くに最近建ったマンションらしい。せっかくなので、途中まで一緒に帰ることにした。
「ところで、さっきから僕のこと君って呼んでるけど……。もしかして、名前忘れちゃった?」
「えっ。ま、まっさかー……」
図星だ。いや、正確には自己紹介を聞いてすらいない。今日一日中、あの日の出来事が頻繁に脳内でちらつき、授業中もほとんど上の空だった。
「だよね。ごめんごめん。自己紹介のときも言ったけど、カオルとかカーくんって呼んでもらって大丈夫だから」
「あっうん、わかったー! よろしくね、カオル」
名前を教えてもらえてほっとした。危うく、転校生の名前すら覚えられない記憶力お粗末人間という第一印象を与えるところであった。
「ちなみに、わたしの名前は……知ってる?」
わたしの問いにカオルは口ごもる。
「ご、ごめん……。覚えていないんだ」
「あ~いいよいいよ! 転校初日なんだし、知らなくて当たり前だよ」
他人の自己紹介を聞いてすらいない人間がどんな気遣いをしてるんだ、と内心ツッコミつつ、「わたしは家永ケムリ。ま、好きに呼んでいいよ」と軽く自己紹介した。
「す、好きにかぁ」カオルは顎を触ると、うーんと唸って考え込んだ。そして、ハッと何か思いついた表情をすると「じゃあ、ケムさんで!」と満足げに言った。
予想の斜め上を行く回答をしたり顔で言われ、わたしはふきだす。
「ははっ! なにそれかわいー」
皮肉ったつもりが、カオルは「やっぱそう思う~」と照れくさそうにする。まぁ、別に嫌な訳じゃないからいいけど。それに、好きに呼んで、って言ったのはわたしなんだし。
談笑しつつしばらく歩くと、わたしの家の前にある公園が見えてきた。この公園こそ、金木犀の香りの元凶。公園の周りをぐるりと囲むようにして立錐の余地なく植えられている。
「ここの公園、すごいよね」
「まぁ、こんな大量の金木犀が植えられてるところなんて、そうそうないからね」
仏頂面に言うわたしに対し、カオルは、あー、と何か納得した反応を見せる。
「これが金木犀か~。名前しか聞いたことなかったんだよね」
「え。そうなの?」
小さいころから金木犀が身近にあったわたしにとって、見たことがない人がいるという事実がちょっとした衝撃だった。
「うん。あと、香りが特徴的ってことは知ってる」
最悪だ。その話題は全力で避けたいところだったのに。
「あー。うん。たしかにー」
ぶっきらぼうに答え、これ以上話を発展させないようにしたが、カオルはそんなことつゆ知らずと話を続ける。
「それで、どんな香りなの?」
「…………え?」
思わず声が出た。
普通の人であれば、甘くていい香り、と簡単に答えられる。でも、わたしにとってその質問はそんな単純なものじゃない。わたしにどんな過去があるかなんて知っているはずがないにしても、あからさまに話題を逸らそうとしているのに、よくその呆けた顔で質問ができたものだ。それに、「どんな香りなの?」だって? そんなもの自分で勝手に嗅いで確かめればいい話だ。
窓を開けて漂ってきたあの日の金木犀の香りとカオルの問いが頭の中を反響し、ふつふつと煮えたぎる怒りに変わる。「実は――」とカオルが何か言いかけていたが、そんなことどうでもいい。無礼にはそれ相応の無礼をぶつけて然るべきだ。
わたしは胸に渦巻く感情を吐き捨てようと、乱暴に口を開く。
「――どんな香り、って。そんなもん人に聞かなくてもわかるでしょ? こんなにも嫌になるくらいにおいが充満してるんだし! 鼻詰まってんじゃないの!?」
突然の出来事にカオルは目を丸くして黙り込んだ。張りつめた空気が二人を包む。
カオルは気まずそうな表情で俯いた後、取り繕った笑顔で「ごめん」と言い、「実は――」と、わたしが遮った言葉を紡ぐ。
「僕、生まれつき鼻が弱くてさ……。匂いがわかんないんだよね……」
「えっ……」
頭に凝縮されていた全身の血液が、一気にさー、と引いていくのがわかる。取り返しのつかないことをしてしまった。まさかそんな事情があったなんて、誰が予想できようか。真っ白になった頭で、ごめんという言葉を捻りだし、ひたすらに頭を下げる。
「ごめん! ごめん! そのっ……ごめん!」
「いやいや、そんなに謝らなくていいよ。わざとじゃないんだし」
「で、でも……」
俯き動揺するわたしの肩にぽん、と手が乗せられる。見上げると、カオルは近くにあるベンチを指さしていた。たぶん落ち着いて話がしたいんだろう。わたしは頷いて答えることにした。
二人でベンチに座ると、一呼吸置いた後カオルが口を開いた。
「僕の方こそごめん。事情を説明せずに当たり前のこと聞いちゃって……。失礼だったよね」
「違うって! わたしの察しが悪かっただけだから!」
おどおどするわたしにカオルはにかむ。
「いやいや! 察しが悪かった、って。ノーヒントじゃ誰もわからないよ」
「そうかもしれないけど……」と謝罪を続けようとすると、カオルが「はいはい!」と両手を叩く。
「今回は、おあいこってことで! いいでしょ?」
わたしが渋々うなづくと、「ありがとう!」とカオルは笑顔で言った。
そして、「じゃ、本題なんだけど」と一言前置きをして質問してくる。
「ケムさんはさ、お線香の香りを嗅ぐとおばあちゃんの家を思い出す?」
「……え? あー、まぁ、うん。思い出すね」
どうしてそんな質問をするのかよくわからなかったが、とりあえず答えた。まぁ、本題と言ってるぐらいなんだからそれなりに意図があるとは思う。
わたしの答えを聞いて、カオルは待ってましたと言わんばかりに「やっぱり!」と言った。なんだかセールスマンに嵌められた気分だ。
「要するに、香りは思い出と結びつくんだよ!」
「……思い出と……結びつく」
カオルは「そう!」と明朗に相槌を打ったが、「でも……」と表情を曇らして続ける。
「さっきも言ったけど、僕は生まれつき鼻が弱くてさ。友達が『蚊取り線香の匂いがする……夏だな~』とか言っても、その感覚がわかんなくて……。僕なりにでいいから、香りと思い出の結びつくっていうのが、どんなものかを体感したい、って思ってるんだ。それで、どんな香りか言葉で知ることができたら、僕もその感覚を味わえるんじゃないかって考えに至って。いろんなものの香りを、いろんな人に教えてもらうことにしてるんだ」
「そっか……なるほどね」
羨ましい……。
いや、何考えてんだ、バカ。わたしなんかより、カオルの方がよっぽど苦しんできたはずだろ……。
一通り話を聞き終えたわたしの心境はひたすらに複雑で、何を話していいのかわからなくなる。ただ、「香りは思い出と結びつく」という言葉についてが際立って印象に残っていることは確かだ。
「あのさ、香りは思い出と結びつく、って言ってたけど、結びついちゃった思い出は、もう解けることはないのかな」
「えっと、どうだろう……。ごめん、わかんないな。どうしてそんなこと訊くの?」
「……」
わたしはあの日の出来事を誰にも話したことはない。家庭のいざこざなんてどこの家でもあるだろうし、金木犀の香りがトラウマだなんて理解してもらえるわけがない、と思っていたからだ。けど、カオルならきっとわかってくれる気がする。今まで自分の中に押し込んでいた苦しみをここで打ち明けることができる。
でも、香りがトラウマになるなんて、カオルにとっては贅沢な悩みだ。話を聞いてもらうどころか、嫌みになってしまうかもしれない。
「カオルはさ、香りがわからなくて悲しくなることってある?」
「うーん……。悲しいって思うことはないけど、羨ましいとは思うかな」
「じゃあ、わたしみたいな香りが分かる人間には嫉妬しちゃう?」
「いやぁ、嫉妬はしないかな。憧れって感じだね」
「なるほど」
カオルの答えを聞いて、地雷原を抜けた感覚を覚えた。
「あのさ――」
その言葉に続いて、あの日の出来事が堰を切ったように溢れだす。できる限り心を落ち着かせて話そうとしても、文法や話す順序が滅茶苦茶になる。……でさ、それで……、と言うたびに、カオルが相槌を打ってくれる。
「――だから、その、さっきあんなひどいことが……ひどいことを言っちゃったの……。ごめんね」
長々と人の話を聞かされたにもかかわらず、カオルは嫌な表情を一切見せることなく、優しい顔つきで首を振る。
「いいんだよ。そんな事情があったなら仕方がない。……なるほど、そっか。それであの質問をしたわけだね」
わたしが頷くと、カオルは「うーん」唸りながら考えこみ始めた。そして、ハッと顔を上げた。
「塗り替えられるんじゃないかな!?」
「……塗り替えられる?」
「そう! ケムさんがあの日経験したことよりも、もっと心に残る経験をすればいいってことだよ!」
「はぁ。なるほど」
確かに、その通りかもしれない。けど、あの日以上に心に残ることなんて、想像もつかない。
腑に落ちない表情をしていると、「た、例えばさ……」とカオルが逡巡しながら口を開いた。
「その……、今日のことを、特別な思い出にするのは、どうかな……って。その、なんて言うか、『あぁ、金木犀の香り……。カオルとあったときを思い出すなぁ』みたいな、感じにさ、なれば、いいんじゃ、ないかなぁ……」
「……あー、まぁ、言いたいことはわかるけど――」
わたしの渋い反応にカオルは「そこでなんだけど!」と食い気味に付け足す。
「僕はさ、いろんな経験をして、いろんなものの香りを知りたい、って思ってるんだけど、それって誰か教えてくれる人がいないとできないでしょ? そこで、ケムさんがよければでいいんだけど……、是非協力してほしいんだ! そうすれば、ケムさんにもいい思い出がたくさんできて。僕と仲良くなれて。結果として、僕と出会った今日が大切な日になると思うんだ!」
わたしの胸が熱くなる。
あの日のことでもう苦しまなくて済むかもしれない、と期待しているのだろうか。あの日の出来事を上書きできるなんて想像もつかなかった。でも、着飾りをしていないカオルの真剣な眼差しを見ていると、もしかしたらできるかもしれない、と思えてくる。
カオルと――特別な思い出を作ってみたい。
呼吸を整えると、自然と口が動き出す。
「――うん。一緒に頑張ろう」
***
新しく買ったスニーカーを履き、丁寧に紐を結ぶ。
くるりと後ろを振り返り、「行ってきます」と言った。
廊下の奥から、てってって、と可愛らしい足音がやってくる。
「行ってらっしゃい! ママ!」
「はーい。お見送りありがとね、ハナ」
ハナを抱き上げ、頭をなでていると、近くの部屋の扉が開いた。
「行ってらっしゃい、ケムさん」
部屋から出てきたカオルは、わたしの腕からハナを受け取り、「忘れ物ない?」と付け足した。
「うん。大丈夫」と答え、ドアノブに手をかけると、改めて「行ってきます」と言った。二人の「行ってらっしゃい」をしっかりと聞きながら、ドアを開ける。
すると、突如として、甘い香りが鼻をくすぐった。
(金木犀……。もうそんな時期か……)
すぅ……、と鼻腔いっぱいになるまで息を吸い、目を閉じた。
瞼の裏には、ぶかぶかの学ランを着た男の子の、あどけない笑顔が映っている。
――わたしは、この香りが好きだ。