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延宝六年 春  花魁道中綺憚

 霊岸島は江戸の江戸随一の豪商であり政商でもある河村十右衛門の屋敷がある場所である。

 というか、島丸ごとが河村十右衛門の屋敷と言っていい。

 材木商として財を成した事から川岸には木曽からやってきた材木が水に浮かぶ木場があり、ずらりと並ぶ蔵には諸国から運ばれた米がしまわれている。

 こんな豪商に表向きは一介の簪職人でしかない半兵衛が会える訳もなく、そのやり取りは蓬莱弥九郎が段取りをつける事になっていた。

 前の吉原遊びで忘れ物があったと『蓬莱楼』の忘八に文を持たせ、取りに来た河村十右衛門の手代に蓬莱弥九郎自らが文を渡す。

 河村十右衛門に直接という念入りを、ここでの遊びを一回ただにするという手代への接待で可能にした結果、河村十右衛門からの注文という形で半兵衛にお呼びがかかる。


「凄いじゃない!

 河村の旦那からお呼びがかかるなんて!!」


 裏事情なんて知らない冬花は『蓬莱楼』でその依頼を受け取った半兵衛に我が事のように喜ぶ。

 たしかに河村十右衛門の御声掛かりともなれば、江戸の簪職人たちの間でも一段高く見られる訳で、既にこの話は吉原の中でも広がっていて、半兵衛の所には簪職人としての依頼が急増しようとしていた。

 裏の仕事から彼への繋ぎを作る為の話が何で大きくなったのやらと半兵衛は口に出せずに曖昧に笑うしかない。


「素材が良かったんだよ。

 あんなにべっ甲が使えるのは、江戸の職人でもそう多くはない」


「それもあんたの実力ってやつよ。

 おかげで私もお呼ばれが増えて嬉しい限りよ」


 半兵衛の簪を確実につけているのがこの冬花であり、噂の半兵衛の簪を確かめるならば冬花を呼んで彼女の簪を見るのが一番手っ取り早いのだ。

 冬花も冬花で半兵衛の簪を褒めるから、旦那衆はじゃあとばかりに頼む訳で。

 裏の仕事が回らなくなると弥九郎が注文を控えさせたら、それが希少感を煽って半兵衛の簪の人気が爆発。

 今や半兵衛の簪は吉原の中どころか江戸の町にも広がろうしていたのである。


「冬花姐さん!

 まだこんな所に居るの!?

 今日は冬花姐さんの初道中じゃないの!!」


 冬花についていた禿が業を煮やして冬花の所にやってくる。

 道中。つまり花魁道中。

 吉原でも限られた高級遊女にしかできないそれをするという事は、ついに冬花もこの吉原最高位の大夫の座に登った事を意味する。


「……そうか。おめでとう。冬花」

「あんたの簪のおかげよ。

 年季明け前なのに、旦那も粋なんだから……」

「もぉ、冬花姐さんのろけないの!!

 色々準備があるんだから、早く来る!」

「はいはい。

 じゃあね。半兵衛」

「おう」


 そう言って冬花は連れて行かれてしまう。

 あの調子だともうすぐ年季もあけそうだなぁと半兵衛が思っていたら、入れ違いで弥九郎が入って来る。


「いいのか?水揚げ代嵩むぞ?」

「今や簪職人として食っていけそうだ。誰かのおかげで」

「俺じゃないな。河村の旦那に言ってやりな」


 そんな話をしながら、二人はすっと裏の仕事の顔に戻る。

 誰も居ない事を確認した上で声も自然と小声になっていた。


「で、石川新右衛門は接触してきたか?」

「いいや。そっちはどうだ?」

「さっぱりだ。公儀の隠密は正直幕閣のお歴々でも全て知っている可能性が低いからな。

 酒井様と堀田様が争っている今、その下につく公儀隠密がどう動いているか考えるだけで恐ろしい」


 弥九郎の言葉に半兵衛は渋い顔になる。

 確かに、徳川の世を動かす幕閣ですら、大老酒井忠清の息がかかった者と、若年寄堀田正俊の息がかかった者がいる訳で、下手すると両方に通じた者もいるかもしれない。

 そして、その両方の組織に通じている可能性があるのが、幕府直属の公儀隠密である。

 おまけに、弥九郎の言う通り彼らも情報を握っているとは限らない。


「とりあえず、石川新右衛門の動きを探るのが先決だろう。

 お前に忘八者をつけさせておくから、石川新右衛門が近づいてきたらその辺りも探ってくれ」


「わかった。

 で、霊岸島に行くのは大門が開いてからで構わんか?」


「ああ。それは……なるほどな」


 弥九郎がしたり顔をする。

 その頃合いに冬花の花魁道中が始まるのだ。

 半兵衛は弥九郎のしたり顔にそっぽを向く事で返事とした。



 吉原の大門が開き、花魁道中が始まる。

 この日の為に新造された着物を着て、化粧も普段より気合を入れた冬花は髪を結い上げ、綺麗な金糸の帯を締めた姿で大通りを練り歩く。

 道行く人々が皆その美しさに目を奪われていた。

 冬花が着ているのは、江戸では珍しい唐物であり、その模様は牡丹であった。

 太夫である証であり、太夫の中でも最上の位である事を表す紋である。

 そして、彼女が頭に飾る簪が今話題の半兵衛の簪である。

 この道中は花魁が『蓬莱楼』の格を示す為に行われるので、『蓬莱楼』にとっても大きな宣伝となる事もあって、吉原の中でも一際盛大に行われるのだ。

 今や『蓬莱楼』は河村十右衛門が借り切り、大老酒井忠清がお忍びで来る店として吉原で権勢を誇り、その『蓬莱楼』看板大夫として冬花がこうして吉原を練り歩く。

 冬花が道中している間、禿や新造たちは裏方として花魁を出迎える支度をし、花魁が通る道の脇には茶屋が軒を連ねて客引きをしている。

 そんな中を、冬花は堂々と胸を張って歩き、吉原で一番の賑わいを見せる大通りに足を踏み入れる。

 見物客のざわめきが夜風に乗って流れてくる。

 冬花が歩を進めるたび、揺れる簪が宵闇の中で揺れ、半兵衛は目を細めた。

 衣のすそが石畳をかすめ、そのたびにほのかに香が立ちのぼる。

 群衆の歓声の中、半兵衛はふと喧騒が遠くに聞こるような気がした。

 大通りは多くの見物人でごった返しており、冬花が通り過ぎた後には人波が動きを止める。

 美しい花魁の姿を見ようと、多くの者がその場に留まって冬花の姿を眺めた。

 そんな観衆の中に、冬花を見ていた男が一人いた。

 半兵衛である。

 半兵衛には冬花が咲き誇るように見え、後に聞く旦那の言葉を思い出すほどの笑みだった。

 冬花の姿が人ごみに紛れるまで、半兵衛はその背を目で追っていた。

 自分が打った簪が彼女の歩みに合わせて小さく揺れるのを見て、ふと夜空を見上げる。

 冬花を半兵衛は見送って吉原の大門を出ると、待っていたかのように石川新右衛門が居た。


「奇遇ですな。旦那」

「前にあった時は、俺の方が先に言ったな。その言葉」


 半兵衛の挨拶に石川新右衛門は苦笑いしながら返す。

 半兵衛は別に石川新右衛門を嫌っている訳ではないしそれは石川新右衛門も同じだろうが、向こうはどう思っているかわからない。

 半兵衛としては、石川新右衛門が若年寄堀田正俊の手の者として動いている事を警戒していた。


「で、今から吉原で?」

「まぁな。花魁道中を見損なったのは残念だ。

 お前はこれから何処に?」

「ありがたい事に、簪職人として大店の旦那に呼ばれましてな」

「そうか。邪魔したな」


 そして吉原の大門の前で二人の男は別れる。

 石川新右衛門は半兵衛が門を出た事を確認してからゆっくりと吉原に入り、半兵衛も互いの背を確かめるように一拍遅れてゆっくりと吉原を出て行とこうし、石川新右衛門の気配がほんのわずかに強まった気がしたが気のせいだと思いたかった

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