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延宝六年 秋  冬花大夫に千両箱 その一

 目の前に銭が落ちて拾って懐に入れた所で知っているのは地獄の閻魔様のみならば、死ぬまでに釈明すればいい。

 とは言えそれも小銭までの話で、人は本当に大金が落ちているとそれを拾うのを躊躇う。

 『蓬莱楼』に運ばれた千両箱は、そのたぐいのものだった。


「で、どうするんだ?これ?」

「こっちが聞きてえよ……」


 千両箱が置かれた時、誰もが一瞬、手を止めた。

 持ってきた半兵衛は厄が落ちたかのようにあっさりと尋ね、聞かれた蓬莱弥九郎は頭を抱える。

 何しろこの千両箱を運ぶ所を吉原中に見られている。

 当然、吉原の人間は『何の金だ?』という疑問が湧くだろう。

 やばい書状を売り払った代金なんて馬鹿正直に言える訳もないので、彼は早急に何かの言い訳を考える必要があった。


「一応聞くが、何で石川新右衛門とこれを折半しなかった?」


「運ぶ途中でしようと考えたさ。

 で、今のお前と同じ顔になって押し付けようと」


「畜生。こういう時だけ手を組みやがって」


 蓬莱弥九郎とて隠せるならば隠してしまいたい金である。

 だが、事を企てる前に早々と半兵衛が石川新右衛門に見つかってしまったのが運の尽きである。


「石川新右衛門は、この金について何も尋ねなかったのか?」


 弥九郎の確認に半兵衛はしっかりと頷いた。

 そこで嘘をついても仕方がないし、もっとやばい話は既に弥九郎に語っている。


「ああ。

 河村十右衛門の屋敷に舘林藩の柳沢保明という男が金の工面に来ていた。

 若年寄の堀田備中守を老中にするための金だそうだ」


 石川新右衛門はその堀田備中守正俊の食客なだけでなく、舘林藩剣術指南御付の一人でもある。

 つまり、遠からずこの千両箱の素性は知られるし、下手したら柳沢保明が工面した金の一部になりかねない。

 それは、大老酒井雅楽頭忠清側についている二人からすれば、渡す事で先の不利が早まるという代物だった。


「使い切っちまうのが一番か」


 弥九郎がぼやく。

 吉原の楼主ともなれば、千両箱とて見慣れたものであるし、それぐらいため込んでいるのだろう。

 だからこそ、この扱いに困る金を使いきるという最善手を口にした。

 それを聞いた半兵衛も悪い話ではないと内心考えている。

 何しろ、ここは金と色の夜の町吉原。

 使うとなればどのような手段でもある町だった。


「よし!じゃあ、早速借り切ってお大尽でも……」

「待った!」


 早速使おうと言いかけた半兵衛の言葉を遮り、目に悪戯の光が宿った弥九郎が止める。


「どうした?」

「半兵衛。お前、気づいていないのか?」


 言われて半兵衛は首をひねる。

 正直そこまで頭が回っておらず、普段ならまだしも昨日今日で立て続けに色々ありすぎたせいだ。

 これは半兵衛が悪いわけではないが、完全に気づいていない顔を見た弥九郎はやっと笑みを浮かべたのだった。




「弥九郎の旦那。

 お呼びって聞いたけど……あら、半兵衛も来ていたのかい?」


 遊女たちにとって自由な昼の時間に呼ばれた冬花の機嫌は良くはなかったが、半兵衛の顔を見て上機嫌になるのだから女ってのはと男二人の心が一致する。もちろん、それを言って冬花の機嫌をそこねるほど男二人も馬鹿ではない。


「ああ。喜べ。冬花。

 お前の身請けが決まった」


「……身請け?」


 弥九郎に言われた言葉の意味を理解しかねた冬花はきょとんとした顔をした後、しばらく沈黙した後に言葉を繰り返す。

 何の冗談と言おうとする冬花の前に置かれた千両箱がそれが嘘でないと物語っている。

 その反応に満足そうな顔を見せた弥九郎であったが、その後の反応は予想外のものであった。

 冬花の目に涙が浮かんだと思うと、そのまま泣き崩れたのである。


「嫌だよぅ。あたし、ここを離れたくないよぉ。

 ここを離れたら、半兵衛に二度と会えないじゃないか」


 半兵衛にしがみついてまるで駄々っ子のように泣く冬花の姿に、半兵衛はおろかさすがに弥九郎も慌てている。


「おい。ちょっと待て。どうなってんだ?」

「知らねえよ。俺だって驚いてんだ」


 涙顔で冬花が半兵衛をなじる。

 手は半兵衛を叩くが、痛くないのに痛く感じた。


「約束したじゃないか!

 年季が明けたら私を嫁にもらってくれるって!!

 大夫に成れたのもお零れみたいなもんだ!

 だったら、私は半兵衛の嫁になるの!!!」


 太夫にまで上り詰めた女の告白に思わず二人は顔を見合わせる。

 確かにそんな話はあったような気がするが、あれはあくまでその場限りの話である。

 しかし、こんな風に泣かれては嘘だと言うわけにもいかず、そもそも今の半兵衛は幕閣の暗闘という闇にどっぷりつかっており、冬花を危険にあわせるつもりはなかった。

 だが、それで納得できるほど冬花の思いは浅くはなく、彼女とは吉原の中で長い付き合いで、半兵衛との縁が惚れに変わるまでの時間は十分にあった。

 その思いを叶える為に辛い修行に耐え、辛い客取りをこなしてきたのである。

 そう簡単に諦められるはずもなかった。

 そして、こういう時の女は強いのである。


「もういい!半兵衛なんて知らない! そっちがそういう態度を取るんなら、こっちも勝手にする!」


 そう言うなり部屋を飛び出していく冬花。

 後に残されたのは、呆然とした顔の二人だけである。


「えーっと。どういう事だ?」

「知るか」


 完全に状況に置いてけぼりを喰らった弥九郎に、同じく置いてきぼりを食らった半兵衛が答える。

 とはいえ、このまま放っておく訳にはいかない。

 いくら何でも、今のままでは後味が悪い。


「とりあえず、追いかけた方がいいんじゃねえか? このままだと本当に出て行きかねないぞ」

「それは困るが……」

「何が問題なんだ?」


 弥九郎の提案に渋い顔をした半兵衛だったが、弥九郎の方は何がまずいのか理解できずに首を傾げている。

 弥九郎が、その意味を問いただす前に半兵衛が口を開く。

 その声音は真剣そのもので、普段の半兵衛からは考えられないぐらい迫力があった。

 問題は、それが色恋沙汰だという事で言葉が喉の奥で固まる。

 逃げる言葉しか吐けない己が情けなかった。


「俺が今、あいつに会えば絶対に面倒な事になる」


 半兵衛の言葉に弥九郎は気が抜けた。

 色恋の町吉原。今の半兵衛は冬花以上に逃げていた。

 尻をたきつけるように弥九郎が苦笑する。


「お前さん、あの子の気持ち知っててそれか?」

「だから困るんだよ」

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