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延宝六年 秋  風魔夜盗 あとしまつ 後編

 霊岸島の河村十右衛門の屋敷は夜でも人の往来が絶えない。

 店は閉まっても使用人たちが働いており、半兵衛が裏口に回って戸を叩くと丁稚の一人が出てきた。

 

「『蓬莱楼』の蓬莱弥九郎の使いで来た。

 急ぎ渡したい物があるんだが、中に入れてくれないか?」


「少々お待ちください」


 丁稚が戻ってくるまでの間、外で待たされた半兵衛は生きた心地がしなかった。

 戻ってきた丁稚を認めた半兵衛は、自分がとりあえず助かった事を知った。


「どうぞ中にお入りください。

 旦那様は今外せない用事があるので、少し待ってもらう事になりますがよろしいでしょうか?」


 半兵衛が通されたのは河村十右衛門の屋敷の一室で、来客用らしく造りは豪華である。

 相応の礼を尽くしているのだろうが、それよりも今ははやく懐の書状を渡したいばかりで、落ち着けない半兵衛が座敷に座り込むと隣から呼びかけられる。


「誰かいるのか?」


 声のはり方からして侍なのだろう。

 さて何と返事を返すかと半兵衛が考えていると、相手が更に問いかける。


「返事はしなくていい。

 待たされる間、一人でいるのも飽きたが、隣に似たような御仁がいると思えば少しはましというものよ。

 こういう場所でこういう時に待たされるのだ。

 そちらも明かせぬ身分とみた」


 半兵衛は黙るが、その気配を感じた侍は更に饒舌になる。

 口は軽やかに、言葉はやるせなく、そんな口調で半兵衛に聞かせるように。


「おそらくはそちらと同じ金の手配よ。

 まったく、商人に頭を下げねば藩が回らぬ。

 困ったものよ」


 侍の言葉は真実であり、半兵衛には否定する材料はない。

 だから半兵衛は何も言わずにただ待っていると、やがて部屋の外から声がかかった。


「お待たせいたしました。柳沢様」

「いや、気にするほどでもない」


 そういって隣の部屋の侍は出て行った。

 半兵衛は隣の侍が消えたと思うまで待ってから戸を開けて、近くの丁稚を捕まえて尋ねる。


「おい。ちょっと尋ねるが、柳沢様って安中藩の柳沢様か?」


 丁稚は半兵衛の質問が『あの侍は誰だ?』だったら答えなかっただろう。

 だが、半兵衛がわざと間違えたと気づかずに正解を教えてしまう。


「違いますよ。

 あのお方は館林藩小姓組番衆の柳沢保明様でございます」


「館林藩というとあの館林宰相様の?」


「ええ。何でも多額の用立てをお求めにみえたとかで……」


「こら!さぼってんじゃねぇ!!」


「こいつぁいけねぇや!

 お侍様。失礼!!」


 手代に叱られた丁稚が去ったのを見て半兵衛はまた部屋に戻る。

 柳沢と名乗った館林宰相に仕える侍が来た理由を考えた瞬間、半兵衛の背中に冷たいものが走った。


「……まさか、館林宰相の金策か……?」


 その金は幕閣への賄賂、目的は五代将軍の座だ。

 少なくとも、松平綱吉は五代将軍になる可能性が高いと踏んで、その金を江戸随一の富豪である河村十右衛門に借りに来た。

 そういう目的だと、さきほどの会話も意味が伴ってくる。

 あれは聞かれる事を前提にした会話で、貸すにせよ貸さないにせよ松平綱吉と河村十右衛門が接触した事を知らせる為。


(だが、そうなれば俺が持っている書状はどういう意味を持つ?)


 半兵衛が持つ書状は大老酒井忠清が穏便に収めようとしていた越前国高田藩のお家騒動を根底から覆しかねない。

 同時に、若年寄堀田正俊や松平綱吉にとっては、酒井忠清の手痛い失点は大いに活用したい所だろう。

 半兵衛はまだ、己が幕府の闇から逃れられていない事をいやでも自覚した。


「お待たせいたしました。

 こちらへどうぞ」


 手代が半兵衛を呼ぶまで、半兵衛は体の震えが止まらなかった。




 河村十右衛門は蓬莱弥九郎の手紙を読んでから半兵衛を見る。

 値踏みをしているように見えるが、事が分かっていないような笑顔を作って半兵衛に問いかけた。


「それで、半兵衛様がその書状を持っているので?」


「ああ。これを渡せと弥九郎は言っていたよ」


 半兵衛は書状を渡し、河村十右衛門は行燈の薄明りの中でその書状を丁寧に読む。

 書状を閉じて己の懐に入れた河村十右衛門は半兵衛に尋ねた。


「たしかに、引き取らせていただきましょう」


 河村十右衛門はぽんと手を叩くと、隣の部屋に居たのだろう番頭が千両箱を持ってきてその蓋を開ける。

 中が入っている事を半兵衛に見せたうえで、その箱を閉めると半兵衛の方にその箱を置いた。


「お好きなだけ、お取りください」


 千両箱の重みより、己の喉が重かった。

 飲み込んだのは唾ではなく、理不尽だった。

 半兵衛は目の前にある千両箱がどれほどの価値があるのか知っている。

 江戸の庶民が一両などお目にかかれない中で暮らしているのを他所に、吉原ではその小判を湯水のように使って遊ぶ豪商や大名たちも目にしているが、その豪遊すらできる小判の山が半兵衛の持ってきたたった一通の書状の価値と河村十右衛門は言っているのだ。

 半兵衛や弥九郎にとって疫病神でしかないこの書状は河村十右衛門にとっては金のなる木にでも見えたらしい。

 千両箱を置いて好きなだけという事は、その手紙でそれ以上の金がとれるという事なのだから。

 取ろうとした半兵衛の手を止めたのは、先ほど部屋の中で聞いた柳沢保明の声だった。


(多分そちらと同じ金の手配よ。

 まったく、商人に頭を下げねば藩が回らぬ。

 困ったものよ)


「先ほどの柳沢様にはいかほどご用立てされたので?」


 手をひっこめ、理不尽を叩きつけた半兵衛は河村十右衛門を睨み、気迫を込めて尋ねる。

 その仕草は芝居じみて見えて半兵衛自身が白々しく感じる。

 しかも、相手は江戸随一の豪商。

 半兵衛は下手な小細工は逆効果だろうと思い直し、河村十右衛門の返事を待った。


「柳沢様には堀田様が老中になる程度を」


 つまり、堀田正俊が老中になるように松平綱吉が幕閣に賄賂をばら撒くと言っているのだから。




 朝。

 霊岸島近くの船宿で半兵衛は朝飯を食べる。

 吉原帰りの船を探す間、いつもの言葉を言う前に半兵衛が先に言う。


「石川の旦那。奇遇ですな。

 吉原帰りで?」


 少しだけ漏れた殺気を笑顔で消した石川新右衛門は半兵衛の隣に置かれた千両箱を見て察する。

 それを分かった上で半兵衛は誘い水を向けた。


「こっちは楼主の使いでこいつを吉原に運ばないといけねぇんで。

 どこかに腕の立つお侍様が居ればなぁ?」


「報酬はその千両箱か?」


「霊岸島の旦那を敵に回すおつもりで?

 精々ここの船宿の朝飯ぐらいしか出せませんが」


 白々しいやり取りでも互いに目は笑っていなかった。

 船宿の裏手から雀が飛びたつと先に石川新右衛門が笑った。


「そこの船宿からいい魚の匂いがするんだが、それもつけろ」


「仕方ないですな。

 おーい!

 この旦那に焼き魚をつけて!!」


 それで、ここでは手打ちとなった。

 上はお城の中で暗闘をするのだろうが、下っ端の半兵衛と石川新右衛門にとって千両箱を抱えて吉原に行くのが思ったより重たかった事しか記憶に残らず、この千両箱が後で吉原の夜を動かすことになるとは、このときの二人はまだ知らなかった。

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