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延宝六年 秋  風魔夜盗 あとしまつ 前編

 越後国高田藩の騒動はお家争いであり、重臣の争いであり、それ以上に徳川親藩の争いという所に問題点がある。

 高田藩藩主松平光長公の祖父はあの越前中納言秀康公。

 越前松平家七十五万石を治め、この徳川の世において制外の家と呼ばれた別格の一門は、次代忠直公の代で越前騒動を引き起こし、その後ご乱行が目立つようになった忠直公は幕府によって隠居に追い込まれ藩は幕府の支配を受ける事になる。

 おそらくは、これが全ての元凶だったのだろう。

 三代目で現藩主の松平越中守光長公はその際幼かった事から、越前七十五万石から越後国高田二十五万九千石へ国替えとなったのだが、その体質は越後国に移った今も変わっていなかった。

 結果、越後騒動と呼ばれる騒動がまた起こり、幕府の介入を受ける羽目になったのである。

 半兵衛が手に入れた手紙に書かれた人物の名前は越後国高田藩次席家老荻田本繁。

 幕府の仲裁で失脚したお為方の中心人物である彼が、風魔夜盗に支援をしていた。

 太平の江戸の町の闇は、未だ深かった。


「やばいな。これは」


 半兵衛が手に入れた手紙を見た蓬莱弥九郎が小さく呟く。

 忘八者を束ねる彼が小声で言うぐらいこの手紙はやばいという事に半兵衛は体を震わせた。

 吉原という町は情報収集には都合が良く、ましてや公儀仕置人を差配する蓬莱弥九郎ぐらいになると、話を知っていなければ生き残れない。

 その彼がやばいというのだ。


「誰かにつけられなかったか?」

「気配はなかったが、俺がここに飼われているのは吉原中が知っているだろうよ」

「だとしたら、この手紙がばれるのは時間の問題だろうな」


 既に捕まった風魔夜盗については取り調べが進んでいる。

 半兵衛が撃った頭領の首は日本橋に晒されているが、風魔夜盗の誰かがこの手紙の事を知っていたら、それが幕閣の耳に入ったら半兵衛どころか弥九郎の命も危ない。

 これはそういうものだった。


「で、どうする?」

「慌てるなと言いたいが、多分時間はそんなにないぞ」


 いつもなら強がる弥九郎だが、その顔にいつもの余裕がない事は半兵衛にもわかった。

 手紙の内容が本当ならば、高田藩お取り潰しすら視野に入る。

 失脚した高田藩お為方だけでなく、彼らが目の敵にして今の高田藩を差配している小栗美作すらこの手紙を奪いに襲い掛かるかもしれない。

 それは、越後騒動を仲裁した大老酒井忠清の権威に瑕がつきかねず、反酒井の堀田正俊すら手に入れようとするだろう。

 そして、高田藩お為方が大老酒井忠清を狙ったという事は、酒井忠清の仲裁を受けた仙台藩伊達家でも同じような動きがあるのかもしれず、その仙台藩相手に二人は仕掛けをしたばかりだった。

 持っているだけで破滅、渡すというか押し付けるにしても誰かを敵に回す。

 これはそういう手紙だった。


「まずいな」

「ああ、そうだな」


 弥九郎の言葉に、半兵衛が答える。

 何も事態は解決しないが、そう言いたくなる二人も決断を迫られる。


「誰に渡す?」


 半兵衛の一言に弥九郎は言葉を詰まらせる。

 半兵衛はある意味気楽なもので、己が駒であるのを理解している。

 だからこそ弥九郎にその決断を委ねたのだ。

 逆に蓬莱弥九郎はこの吉原で栄華を極める『蓬莱楼』の楼主である。

 半兵衛を駒として使っている以上、この決断は彼にしかできなかった。


「……他に渡せる相手はいない。

 河村十右衛門の旦那の所に持って行ってくれ」


 絞り出すような弥九郎の声は、咥えた煙管の火が尽きるまでの時間を要した。

 半兵衛はその言葉に頷いて立ち上がる。


「分かった。今から持っていこう」

「今からか!?」


 既に吉原は夜の時間となり、大門を出たら朝まで帰ってこれない。

 だが、取り調べを受けている風魔夜盗の口からこの手紙のことが漏れる事を考えたならば、今からでも遅いぐらいである。


「元々この依頼は河村十右衛門の旦那からの依頼だし、半兵衛は簪職人として入り込める。

 今から手紙を書くから、それも持っていけ」


 急いで手紙を書く弥九郎の手が震え、字が乱れるのも構わずに書き上げた手紙を半兵衛に押し付ける。

 ただの一枚の紙切れが、まるで首に縄を巻かれたように重く感じられた。

 半兵衛は手紙を弥九郎から手紙を受け取って尋ねた。


「俺たちが生き残る目はあるのか?」

「この生き地獄の吉原で楼主なんてやっていると、その目を作らないと生き残れないんだよ」


 『蓬莱楼』を出て半兵衛は吉原の大通りを大門の方に向けて歩く。

 既に夜見世が始まっており、格子越しの女たちも通りを歩く男たちも吉原の空気に酔っていた。


(さて、どうなるかな?)


 半兵衛は懐の手紙を思いつつそんな事を考える。

 もし、この手紙を奪いに来るのならば、あの柳生侍こと石川新右衛門だと半兵衛は確信していた。

 そして、侍にはなれなかった半兵衛にはあの石川新右衛門の剣をかわせる自信はない。


「忘八者の俺が、天下の命運を懐に抱えて歩いている――笑わせる話だ。」


 自然と漏れた言葉に半兵衛は笑うしかない。

 だからこそ、己の命を賭け札に博打が行われていると理解する。


(吉原の賽は俺の命か。

 出会ったら俺の負け、出会わなかったら俺の勝ち。

 これはそういう博打か)


 不意に冬花の笑顔が浮かんだ。

 死んだら、あの女はどうするのだろう?


(尼になる事はないだろうが、泣いてくれるのだろうか)


 立ち止まった足を急かす。

 吉原大門を出て、提灯を片手に半兵衛は大川の船着き場を目指す。

 この時間、吉原通いの旦那を運んだ船が山谷堀の河口でたむろしているのを半兵衛は知っていた。


「すまん。霊岸島まで行けるかい?」


「河村十右衛門の旦那の所かい?

 俺は今仕事が終わったばかり……」


 船頭を黙らせたのは、半兵衛が投げた一枚の小判だろう。

 命がかかっている時に小判を大事に持って命を失うよりもましである。

 半兵衛を載せた猪牙船が大川に出て下るのと同時に、安中藩の家紋である堀田木瓜の提灯が吉原に向かうのが見えた。

 背筋に鋭いものが走った。目に見えぬが、間違いなく石川新右衛門の気があった。

 灯の向こうに立つのは敵。互いに声も掛けず、ただ次の機会を待つ――狐と狸の、睨み合いは静かに終わり、そのまま船は大川を下って行った。

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