延宝六年 秋 風魔夜盗 その四
風魔夜盗がこの吉原に居るのは間違いがない。
問題はこの狭いようで奥が広い吉原の何処に風魔夜盗が潜んでいるかだった。
幕府の役人だけでなく隠密や仕置人がその行方を捜しているのに、その情報は未だ出て来ない。
そうなると見方を変える必要があった。
その為に会いたくはないが、半兵衛は蓬莱弥九郎の伝手を使い、吉原前の番所の役人中村主計に連絡を取って石川新右衛門と接触する事にしたのである。
「呼び出されて来てみれば、男二人の寂しい宴じゃないか」
「遊ぶなら遊ぶで金を払ってくださいよ。
ここはそういう場所なので」
「三階建てなんざ、この町じゃ本来はご法度なのに、どうやって認めさせたのやら」
「そこは楼主の蓬莱弥九郎の手腕という事で。
ここは火事の際の物見なんですよ。
おかげで客は寄ってくる。見栄を張れる場所は、この吉原では強いんですよ」
『蓬莱楼』の名前の由来はこの建物が楼閣であり、他の吉原の店と違って三階建てという特徴があるからだ。
それゆえ、『蓬莱楼』で遊べると思った石川新右衛門は、三階の遊郭とも思えぬ簡素な部屋で半兵衛と向き合って実にわざとらしく嘆くが、目は笑っていない。
「遊ぶなら先に用事を片付けてからにしようじゃないか」
「そう言っていただけると思いましたよ。
正直、こっちは手詰まりで、明かせる話を石川様に話してしまおうという訳で」
「……寝返ると?」
「あいにく、酒井様の恩義を忘れた訳ではございません。
とはいえ、館林様も堀田様も吉原を焼くような非道はお許しにならぬと信じておりまする」
開けられた障子の外には煌めく夜の吉原が映る。
その欲望の灯りに照らされる新右衛門は少し押し黙るが、それは迷いではなく葛藤だった。
「……いいだろう。
だが、こちらも条件がある」
「何でしょう? 銭ですか?」
「そんなものはいらん」
「ならば、何を?」
半兵衛の言葉に新右衛門はニヤリと笑う。
一時的に共闘するだけの敵だと割り切っているはずなのに、半兵衛は新右衛門の笑顔に見とれる。
こういう笑い方をする人たちを半兵衛は由井正雪の近くで見てきたのだから。
「終わったら、ここで酒の一杯でも奢れ」
「わかりました。
その時はできうる限りの一杯をご用意いたしましょう」
こうして二人は互いに晒せる手札を晒す。
互いに敵であり、隠さねばならぬ事を隠しつつ、それを探りながら現状は手を結ばざるを得ない言葉の駆け引きは、二人の顔に汗を浮かばせた。
「なるほどな。
風魔が本当に焼こうとしたのは、大老酒井様の御屋敷だったか」
「我々は当初、風魔が堀田様の手の者と繋がっていると考えていたのでございます。
石川様。怖い顔をしないでくださいまし」
「……すまぬ。
俺が聞いたのは吉原を焼く不埒者の話で、そいつが風魔である事も、真の狙いが大老酒井様の屋敷である事までは掴んでいなかった。
お主らが居たからこそ、話を投げたというぐらいの気持ちだったのだ」
狐と狸の化かしあいのような会話が続く。
半兵衛の方は新右衛門が探していた東条高尾が依頼主である河村十右衛門の所に居る事を口にしないし、新右衛門の方も彼が誰から吉原を焼く話を聞いたのか口にしていない。
お互いが腹の底を見せず、ただ探り合う。
そのやり取りは剣の試合のようでもあり、だからこそその道を知っている新右衛門の方が先に動いた。
「とはいえ、風魔をこの吉原で探すのは骨が折れる。
奴らを吉原から出す必要がある」
「とはいいますが、どうやって?」
「簡単だ。
火を放つ前という事は吉原に居られなくなる訳だ。
つまり逃げ込むための盗人宿を奴らは押さえている」
新右衛門は理路整然と語る。
その際彼の眼は鋭く半兵衛を睨み続けている。
「で、盗人宿を押さえるという事は、当然金がかかる。
つまり、風魔の連中はその金を用意する為に、火付盗賊を行っているはずだ」
その言葉を半兵衛は否定できない。
盗人宿というのは、徒党を組んで暴れる盗賊たちの隠れ家みたいなもので、お尋ね者である彼らは彼らなりの繋がりを持っている。
そこまで聞いた半兵衛は疑問を口にした。
「旦那の話は分からんではないですが、江戸は広いですよ」
「そうでもない。
風魔を名乗るのならば、彼らが向かうのは相模国か伊豆国か、まぁそのあたりだろう。
そうなると、東海道の品川宿か川崎宿か、そのあたりに盗人宿を押さえている訳で、その近辺の火付盗賊の事件を洗えば尻尾は出てくるだろうよ」
(確かに奴の言うことは理に適っている。だが、吉原を知っているのは俺だ。
遊女の息遣いも、客の欲も、銭の匂いも……。新右衛門には見えぬものが俺には見える……)
「盗人宿を押さえりゃ、奴らの退路は塞がれる。動けば捕縛、逃げれば喰い合いだ」
新右衛門は盃を置き、薄く笑った。
半兵衛は己にない視点に眉をひそめながらも、新右衛門の理屈に耳を傾けつつ、盃を静かに傾ける。
既に江戸の町で風魔夜盗絡みの事件が起きていて、それを解決すれば今回の件に繋がるという組み立ては、吉原しか知らない半兵衛ではできない。
そんな半兵衛の思いを知ってか知らずか、新右衛門は風魔夜盗を追い詰めてゆく。
「風魔夜盗とて馬鹿ではない。
盗人宿を押さえられれば、逃げる為に江戸を離れざるを得ない。
そこを待ち構えれば楽に潰せる。
捕り物は中村主計に任せればいいとして、小田原藩は老中首座の稲葉美濃守様の御領地。
お主の上から酒井様のお耳に入れれば、稲葉様も動かざるを得ないだろう。
品川宿と川崎宿の盗人宿は盗賊改の中村勘解由様に動いてもらわねばならぬ。
それは、我が主君堀田備前守様に……」
新右衛門の口が止まり、彼の手が刀にかかるのは、トントンと階段を上がる音が聞こえたからだ。
半兵衛は己がさしている村正に手をかけずに、新右衛門の方に手を出して抑えると障子向こうから呑気な声が聞こえてきた。
「半兵衛。楼主から差し入れ持ってきたけど……なんでこんな所で宴を開いているの?
座敷ですればいいのに?」
障子を開けて酒瓶を持ってきた冬花の目には、吉原の町を眺める男二人の姿が見えた。
旦那を相手にする前の少しの時間に来ている半兵衛の顔を見にきた冬花のおせっかいに気づかぬ半兵衛ではないし、新右衛門もそれを指摘する無粋な男でもなかった。
「たまにはこういう宴もいいもんだ」
「そっか。
お侍様。どうか、半兵衛を……あの人は不器用ですが、吉原を誰よりも大事に思っています。
私には、それがわかるのです」
この吉原の大夫に登った冬花が新右衛門に土下座して半兵衛の事を頼むと、酒瓶を置いて階段を下りて行った。
必要な事は既に語り終えていた二人にとって、真面目な話をする気は失せていた。
たとえ立場が違い、敵となり血で語らねばならぬ相手だとしてもそれは今ではない。
「いい女でしょう?
あれがこの間、この店の大夫になった冬花でございます」
「ああ。いい女だ。
だが、困ったな。
できる限りの一杯が先払いとは聞いていないぞ」
そんなやり取りの後、二人はただ黙って吉原の夜を肴に酒をあおるのだった。