延宝六年 夏 風魔夜盗 その一
「今回の依頼は河村十右衛門からの依頼だ」
実に面白くない顔で蓬莱弥九郎が言う。
半兵衛はそんな弥九郎の顔を面白そうに見ながら弥九郎の言葉を待つが、弥九郎は何も言わない。
すると半兵衛は小さく溜息を吐いた後にぼやく。
「言わないなら冷やかしとして帰るが?」
「少しは言葉を探している俺の身にもなれって言うんだ。
風魔だ」
既に戦国は昔となった今、半兵衛はその言葉を呑み込むのに少しの時間がかかった。
「風魔?あの忍びの?」
「ああ。あの忍びの風魔だ。
戦国の世が終わり、戦が無くなった忍びは幕府や大名のお抱えとして生きるしかなくなった。
だが、風魔を使っていた戦国大名北条家が滅んだ結果、風魔を雇う大名は現れず。
夜盗となって消えたと聞いている」
「なるほど。そんな連中がどうして今頃になって出てきた?」
「夜盗になった果てにこいつら、火付に急ぎ働きとろくでもない事をして騒がせている。
聞いたところだと、明暦の大火や由井正雪の乱にも絡んだとか……
半兵衛。怖い顔をするな」
「ああ。すまない。で、その風魔がどうして今更」
由井正雪の名前を聞いて半兵衛は弥九郎を睨んだまま。
過去に何があったか知っている弥九郎はそれでも仕事の話を続ける。
「つまり、河村十右衛門が手掛けている屋敷に火をつけようという馬鹿がその風魔らしい」
半兵衛の顔色が変わる。
それはそうだろう。何しろ、河村十右衛門が手掛けている屋敷なんて今、将軍御成の為に建て替えを進めている大老酒井忠清の屋敷しかありえないからだ。
幕閣随一の権力者の屋敷を狙う忍びの排除なんてやばいどころの話ではない。
しかし、半兵衛は直ぐに冷静さを取り戻して弥九郎に聞く。
「何故、俺にこの依頼を持ってきた?」
「そりゃあお前さん。こんな依頼、酒井様の方も動いているさ」
「……ふむ」
弥九郎は呆れたような顔を浮かべた。
そして、その言葉を察するかのように半兵衛が口を開く。
それはもう不機嫌そうな表情であった。
「あの柳生侍か?」
「そういう事だ。
あの柳生侍と風魔が繋がっているかもしれんと考えている訳だ」
「なるほどな。それで俺か」
半兵衛は腕を組んで考え込んだ。
あの柳生侍が動くという事は、若年寄堀田正俊と次期将軍候補者松平綱吉が動くという事を意味する。
それを下馬将軍と呼ばれる大老酒井忠清が知らないはずがない。
だから、接点がある半兵衛も動かして解決させた方が早いと判断したのだろうと半兵衛は考えたのだ。
半兵衛は幕閣の権力争いという政治に絡めとられてゆく己を自覚したが、首を軽く振って飄々とした声を出す。
「まあ、受けるしか選択肢はないな」
「そう言う事だ。
上の争いなんかに巻き込まれたくないがな」
いまいましく弥九郎が吐き捨てるが、二人にこれを止める手段などなかった。
幕閣中枢の命で動く公儀の仕掛人である以上、上の意向を無視するわけにはいかないのだから。
「で、その風魔の場所は分かるのかい?」
「ああ。明暦の大火から火付盗賊の類は幕府が厳しく取り締まっている。
にもかかわらず、こういう依頼が来たという事は、盗賊改も火付改も、多分町奉行すら届かない所に居るって訳だ」
半兵衛の確認に弥九郎が白々しく言う。
なるほど。その理由からも半兵衛に依頼が来たと一人納得した顔を見た弥九郎も、あっさりとその場所を言った。
「つまり、この吉原のどこかさ」
吉原の町は江戸で一番の花街である。
そこに住む者の中には、当然遊女だけではなく、男もいる。
そして、そんな連中は男女問わず人でなしである。
でないとこの吉原では生きられない。
「久方振りに会えたと思ったら、私を連れだして歩くなんてどういうつもりよ?
まぁ、嬉しいんだけど」
夜の着飾った衣装ではなく、昼の襦袢姿で冬花は半兵衛の腕を組んで微笑む。
先日吉原の頂点である大夫に登った冬花と表は簪職人の半兵衛の関係は、吉原でも知っている者は知っている。
大店の商家から身請けの話も来ているのだろうが、そんな事は言わない冬花は半兵衛と狭い吉原をあてもなく歩く。
「別にどうってことはないけどな」
「あら、つれないわね」
「お前さんだって仕事なんじゃないのか?」
「今日は客は取らないし」
客を取らないのなら確かに暇かもしれない。
だが、その暇を潰す為にわざわざ半兵衛の誘いに乗って出歩く必要はないはずだ。
「しかし、お前が大夫ねぇ……」
「本当よね。年季明け前に成れたなんて私が一番驚いたわよ。
半兵衛の簪のおかげよ」
近くに居た卵売りからゆで卵を買って二人で頬張る。
冬花の髪には、半兵衛の作った簪が揺れていた。
「太夫が羨ましいって禿の娘に言われちゃった」
冬花はそう言って苦笑した。
太夫になれば、女郎の最高位。その生活は贅沢三昧の極みであるが、太夫になったらなったで色々と面倒ごとも多い。
「おや。奇遇だな」
その声を待っていなかったと言えば嘘になる。
半兵衛は白々しくむっとした顔でゆで卵を食べていた石川新右衛門に返事をした。
「石川の旦那。
吉原通いが続くと安中藩食客の座を奪われますよ」
「相変わらずの遊女探しでな。
改めて聞くが、東条という名前の遊女は知らぬか?」
「旦那。吉原にどれだけの女がいると思っているんですか?」
半兵衛はため息をついた。
何しろ、石川新右衛門は、若年寄堀田正俊の手駒であり、堀田正俊が推す松平綱吉の覚えめでたい柳生侍だ。
下手な態度を取れば半兵衛の首は簡単に飛ぶし、冬花共々この場で斬り捨てられてもおかしくはない。
だが、ここは吉原。
昼の幕府の威光から隠れる夜の町の理の町である。
故にこの二人は、互いに裏がありながらも、ここではただの知り合いという関係に過ぎない。
「まぁ、気長に探すさ。
邪魔したな」
そう言って石川新右衛門は去ろうとし、思い出したように立ち止まる。
半兵衛の方を見ずに背中越しに語られた言葉に二人は絶句する。
「そうだ。吉原を焼こうとする不埒者の話を聞いた。
吉原は女もそうだが金も集まるからな。
火付けの急ぎ働きなんてされたら吉原が燃えて俺も遊べなくなる。
ここはお主の方が動きやすいだろう。
しかるべき所に話を持って行くといい」
「……まさかと思いますが、石川の旦那。
都合よく俺を使おうとは思っていませんよね?」
「思っているさ」
振り返る半兵衛に石川新右衛門は良い顔で言い切る。
己の、侍としての顔がそこにあった。
「お前は敵にしたくないからな。
味方だったらなお良い」
そんな事を言い残して石川新右衛門は手を振って去ってゆく。
石川新右衛門が見えなくなったのを確認して冬花が半兵衛に尋ねた。
「良いお侍さんね。知り合い?」
「……多分」
半兵衛はそうとしか答えられない自分がもどかしかった。