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延宝六年 夏  霊岸島東条高尾

「これは雑賀様。お待ちしておりました。

 どうぞ奥に」


 半兵衛が霊岸島の豪商河村十右衛門の屋敷に行くと、その手代が丁寧に頭を下げて半兵衛を屋敷の奥に案内する。

 蓬莱弥九郎の根回しがあったとはいえ、ただの簪職人の扱いではない。

 案内一つで、半兵衛をどう扱うのかが分かる。


「しばらくこちらにてお待ちください」


 奥の座敷に通された半兵衛は何となく障子を開ける。

 夜遅い訪問という事もあり、夜空には月が出ていた。


「……昔、あの月を見て己の栄華を謳った人が居たな。

 先生に教えてもらったんだが、誰だったか……」


 待つ間、半兵衛は一人月を見てぼやく。

 返ってくる訳のない返事は、かつて壁越しに聞いた声だった。


「『この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば』。

 古の京にて栄華を極めた藤原道長卿の歌ですな。

 酒井様もよく口にして己を戒めておられますよ」


 半兵衛から見た河村十右衛門は人のよさそうな旦那に見えた。

 もちろん、そんな人の好さでこの江戸随一の政商になれる訳がない。

 その凄みを和歌一つで半兵衛に示してみせるが、半兵衛とて裏の仕掛人。それぐらいの凄みで怯むようではこの仕事は続けられない。


「蓬莱弥九郎から話が来ていると思うが、繋ぎの人間相手に旦那自らが出るなんてな」


「壁越しで酒井様に諫言をした仕掛人の顔を見て置こうと思いましてな」


 あの会話がこうなるのかと半兵衛は苦笑したくなったが、口から出たのは別の事だった。

 月を見つつ半兵衛の声は思ったより響いた。


「所詮、俺は闇の中の生き方しかできん人間だ。

 酒井様や旦那がわざわざ見る顔でもあるまい」


「そうでもありません。

 商いは何時でも何処でも誰とでもする事で繁盛するものです。

 ましてや、下馬将軍と呼ばれた酒井様にあのような口を利く人間は居なくなりました。

 雑賀殿のその口、存外貴重なのでございますよ」


 河村十右衛門が手を叩くと、一人の女が酒を持って入る。

 女の瞳は一瞬だけ半兵衛を見た。怯えでも、媚でもなく、凪のような目。

 それでいて忘れられない目が頭を下げる事で外れて半兵衛はやっと女に引き込まれていた事を悟る。

 その女の仕草や品、若さや妖艶さから半兵衛は察した事を口にした。

 決定打は女の髪に飾られているべっ甲の簪だった。


「あれが東条高尾か?」


「身請け代は仙台藩のお殿様よりは安く済みましたな」


 半兵衛は抜き差しならない所に追い込まれた事を察した。

 石川新右衛門が探している東条高尾をここで出す。

 つまり、石川新右衛門がここに来た場合、ばらしたのは半兵衛という事だ。

 ごくりと鳴った喉が月明かりの部屋の中で大きく響いた。


「安中藩堀田備中守様食客石川新右衛門が東条という遊女を探している」


「存じておりますとも。

 食客の一人が惚れた女を探すぐらいはこの江戸にはよくある事」


 淡々と言う河村十右衛門の言葉に半兵衛は凄みを感じる。

 つまり、半兵衛や弥九郎が危惧していた仕掛けを防げるという自信があるからこそ。

 そして、その自信を揺らがしかねない仕掛けの最たるものが、半兵衛が持つ鉄砲であるという事。


「なるほどな。

 俺を呼んだ理由はこれか」


 広大な屋敷とはいえ、商家である河村十右衛門の屋敷に忍び込むのはその手の者ならば無理ではない。

 そして広大な屋敷内は入ってしまえば隠れ場所などいくらでもあり、見つからず狙撃できる可能性は十分に高い。


「公儀の隠密ともなれば色々な事がありましょう。

 ですが、仕掛けの前に酒井様の恩を思い出していただければと」


 ここで断れば、いや、断るという選択肢はなかった。

 依頼を持ってくるのは弥九郎なんだが、どうせそっちにも圧力はかけているのだろう。

 そのあたりの手抜かりを怠らなかったからこそ、河村十右衛門はこの江戸随一の政商に成り上がったのだ。


「言わんとする事は分かったが、俺に断る力があるなら、とっくに吉原を出てるさ」


「そういう依頼の前に、この河村に一報いただけると。

 仙台の騒動は一歩間違えるとこの江戸が飢えてしまう一大事でございました」


 河村十右衛門の声の後、控えていた東条高尾が半兵衛の前に膳を差し出す。

 乗っていたのは、酒でも飯でもない小判の包みだった。


「簪の代金です。お受け取りを」


「……金には罪はないって先生が言っていたな。

 次はもっと良いものを作るさ」


 簪の代金には過ぎた金を手に屋敷を出る半兵衛の耳に、手代たちの話が聞こえる。

 その話題に、思わず立ち止まってしまう。


「旦那様、身請けしたあの大夫に手をつけていないって本当か?」

「ああ。あれはさる武家の養女となるとかで、旦那様はその手伝いをしたとか」

「じゃあ、酒井様の縁者なのだろうな。

 今度将軍様の御成りがあるとかで屋敷を改築しているじゃないか。

 その手の女はいくらいても足りんからな」

「将軍様、病からもちなおしたのか」


 出口に案内していた丁稚が立ち止まった半兵衛を不思議がる。

 丁稚は手代の会話に興味がないのか、首をひねって半兵衛に尋ねた。


「雑賀さま。どうなさいました?」


「ああ。すまんな。

 月が奇麗でな。旦那に頼まれた新しい簪に使えるか考えておったのだ。

 ささ。出口に案内してくれ」


 しばらくして、旗本佐脇安清が河村十右衛門の遠縁の娘を養女とした事を半兵衛は知る事になる。

 お満流と名乗るその娘の髪には、半兵衛が作ったべっ甲の簪が飾られていた。

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