元禄十一年 秋 霊岸島川越藩中屋敷 回想
「これはこれは。
柳沢出羽守様。
ご機嫌麗しゅう……」
「世辞はいい。川村殿。
そなたも今や侍の身。
そんなにかしこまられても困る」
「とはいえ、柳沢様は川越藩八万二千石の城主なだけでなく、今や老中格として権勢は江戸の町民なら誰でも知る所。
それがしは百五十俵の旗本。とても畏れ多く……」
「それがしは上様のお側に仕えるのが仕事よ。
とはいえ、聞きたいことがあって呼んだのだ」
「お答えできることでしたら」
「何。昔の話よ。
まだ上様が江戸に入る前の話だ。
あの頃から江戸一番の富豪だったお主は雅楽頭と備前守の争いに両天秤を掛けていたのだろう?」
「……はい」
「それを責めるつもりはない。
だが、雅楽頭や備前守と同じ場に座る事になった今、知りたいのだ。
何をもって、お主は雅楽頭から備前守に寝返ったかを」
「……」
「何故口を開かぬ?
開かぬ言えぬ理由でもあるのか?」
「…………」
「沈黙か……。まあよいわ。
その沈黙が答えという事なのだろう。
それを肝に銘じてこれからも上様にお仕えするのみ」
「柳沢様のご慧眼に上様もきっとお喜びになるでしょう」
「褒めても何も出さんし、金も米もお主のほうが持っていようて」
「今や酒井様や堀田様と並ぶ権勢を誇っておられる柳沢様に比べればとてもとても」
「あの頃はまだ館林藩で小姓組番衆として働いていたものよ。
それが今や大老酒井雅楽頭や堀田備前守と同じ権勢を誇っているとはな」
「それがしとて若かりし頃は行商をして諸国を行脚していたものです」
「ふむ。せめてもの戯言だ。
お主から見た酒井雅楽頭や堀田備前守を聞かせてくれ」
「黄泉路に行かれたとはいえ幕閣の方の事を口にするのは……」
「だから戯言よ。
ここにはお主と儂しかおらぬ。
小姓組の若造と行商人の若造が何か言った所で上様の天下は変わらぬ。
ここは吉原ではない。
火縄の臭いのした簪職人も柳生の剣術使いの食客も今は昔のことよ」
「……柳沢様がそのお二人をご存じとは」
「柳生の方は上様の剣術指南もしておってな。
簪職人はお主の屋敷であった事がある」
「そうでしたか。
もう随分と昔の事のように感じますな」
「だからこそ知りたいのだ。
酒井様や堀田様と同じ所に座る前に」
「確かにそうですな。
では、僭越ながら申し上げます。
まず酒井様ですが、あの方は譜代名門酒井家のご当主として単に幕府を支えているのではなく、幕府の諸藩について深く熟知しておられました。
次に堀田様ですが、あの方は春日局様の縁者という事もあり、三代将軍家光様のお側でお仕えしたお方でした。
しかし、その胆力と正論により酒井様を屈服させた手腕は見事と言えましょう」
「うむ。あの頃から譜代大名出の老中と近習出の老中の諍いはあった訳だな」
「ですが、おふたりとも大老に相応しきお方でした」
「ほう。それほどか」
「はい。お二方の政治に対する考え方は真反対とも言えるものですが、共に上様に忠誠を誓っているという点では一致しております」
「うむ。そうだな」
「ただ、酒井様の方がより忠臣と言えるかもしれませぬ」
「それは何故だ?」
「仙台騒動然り、越後騒動然り、酒井様は穏便に事を収めようと努力なさっておられました。
堀田様はご正道を信じ、その裁きは柳沢様もご存知かと」
「ふむ。そうかもしれんな。
……では戯言も済んだ。下がって良いぞ」
「はい」
「……上様に与えられた大老格のなんと重い事よ。
酒井は失脚して病に倒れ、堀田は稲葉の凶刃に倒れた。
だが、儂は酒井や堀田のような末路は辿らぬぞ……」