延宝八年 春 吉原 某所
火縄銃。
種子島と呼ばれたそれは、戦国の末期異国よりもたらされ、天下統一に大いに貢献した武器である。
それゆえ、天下が治まった徳川の治世において『入り鉄砲に出女』と言われるぐらい、この武器は幕府によって規制された。
そんな時代において、この火縄銃を用いて幕府の密命を受けて動く仕掛人。それが俺だった。
暗闇の中、火縄銃を置いて相手が来るのを待つ。
遊郭の隠し部屋とくれば相手の秘密を盗み見る為だが、こうして敵を待ち構える事もできる。
いつ来るかもしれない相手を前に、のぞき穴からじっと誰も居ない座敷を眺めるというのはなんともいえないわびしさを感じて額に手を当てておかしさを噛みしめる。
遠くから賑やかな音が聞こえる。
ここまで聞こえるはずが無いのだが、耳を澄ませると賑やかな音に紛れて男女の色恋の音も聞こえるのだろう。
ここは吉原。男と女の愛欲と金銭のやり取りが渦巻く街である。
華やかなりし吉原の街だが、その裏で闇に溶け込んで生きる者がいる事を、俺は知っている。
だからこそ、幕府の法のお目こぼしが受けられ、公儀の影として動く事ができるのだ。
目を閉じて、吉原の夜を思う。
提灯灯りに照らされて、格子向こうで遊女が男を誘い、男たちはそれを見ながら店と遊女たちを品定めする。
その向かいでは引手茶屋に向かう太夫が共をつれて花魁道中を練り歩く。
お大尽が馴染みの店の娘を見初めてもらおうと、必死に貢ぎ物をして口説き落とす様子。
山海の珍味に舌鼓を打つ大夫がいる別の部屋で、は客が取れなかった花魁が安い粥で腹を満たしている。
一夜の宴の為に酒も食事も豪華絢爛に作られ、二階のそれぞれの部屋では一夜の夢の喘ぎ声が虫の音のように鳴りやまぬ。
花魁道中の下駄の音を思い出す。
年季明け間際に太夫に上がり、花魁道中を誇らしく歩いた遊女の名前は冬花。雪のように白い肌と、火薬にも負けぬ強い眼差し。
俺がこの吉原で、名を呼ぶことをためらわない、ただ一人の女。
「いかん。浮かれてやがる」
桜の香りが漂うような気がした。
花はそろそろ見ごろだろうと、冬花と語った吉原の夜桜を思い出し、頭から追い払う為に持っていた火縄を嗅ぎ、頭の片隅にこびりついていた冬花の髪に残っていた白檀の香を消す。
火縄銃は、明確な利点と欠点がある。
まず、遠距離から仕留められる点。これは、相手がこちらに気付かない限り、一方的に攻撃できるという長所だ。
次に、殺傷力が高い点。これは、当たれば命を落とすだけでなく助かっても大怪我という点だ。
仕掛人としての利点もある。
御禁制の火縄銃で仕掛けるという事は、幕閣の命を受けていれば、それも赦されるという訳で、万が一露見しても闇に葬られるのだ。
もちろん、欠点も大きい。
まず大きな音が出る。この銃声を聞けば誰もが驚くぐらいで、これが隠密行動の足枷となる事もある。
そして、弾込めにも時間がかかるし、銃身が熱くなるので連続射撃には向かない。
更に、火縄に火をつけると火薬の臭いが漂い、遠くからでも気付かれる場合がある。
夜ともなると、火縄の灯で位置が気づかれる事も配慮せねばならない。
それでも、俺はこの火縄銃を使い続けた。
「きっと、本物の侍ならばこんな浮ついた事を思わなかっただろうに。
まだまだ、俺は忘八者だな」
忘八者。孝、悌、忠、信、礼、義、廉、恥の八の徳を忘れた無法者で、江戸吉原一帯を取り仕切る浪人のなれの果て、無頼の徒の一人が俺である。
刀を差して忘八侍なんぞと名乗っているが、表向きの仕事は簪職人と遊郭の用心棒。本業は公儀隠密の仕掛人なのだから苦笑せざるを得ない。
「今の俺を見て由井先生が見たら何というかね」
小声で誰に聞かせる訳もなく俺はぼやく。
思えば、あの時が始まりだった。
江戸の世に知られる世を騒がせた謀反人として名を遺した由井正雪先生。
神田連雀町の長屋に捨てられていた俺に雑賀半兵衛という名を与えてくれた恩人。
浪人たちの苦境を憂い、由井正雪先生が決起してそれが失敗に終わってからおよそ三十年ばかり。
江戸の町を焼き、今の吉原が出来上がった明暦の大火からも二十数年ばかり。
幕府は、江戸は繁栄を謳歌していたが、その裏で激しい幕閣の争いが繰り広げられているからこそ事を俺はここにいる。
次期将軍を巡る大老酒井忠清と老中堀田正俊の対立は抜き差しならぬ所に来てしまい、だからこそ、俺はこんな所で一人闇を相手に独り言を言う。
今回の相手は、幕閣に連なる公儀隠密。俺と同じ穴の狢だが、仕えるのが違うだけでこうして殺し合いをする羽目事に。
ぼやいた口を塞ごうと手を当てて、それでも言葉はこぼれてしまう。
「全く、嫌になる」
己の声が楽しそうに聞こえなかったと言えば嘘になる。
命のやり取り、俺が死ぬか相手が死ぬかの決闘。しかも相手は見知った相手。
暗闇の中、己の顔は笑っているのだろう。
そして、多分相手も笑っているに違いない。
この幕閣の争いの結果、出会いがあり、別れがあり、俺にとっては良い事も悪い事もあった。
それ故に今ここにいる自分がいるとも言える。
少しだけ目を閉じて、かつての吉原の生活を思う。
そんな吉原で、生き方を示してくれた師が居た。
助けてくれる友が居た。
女房にと惚れた女が居た。
主と定めた主君が居た。
侍の生き方を教えてくれた男がいた。
今、俺の傍に居るのは闇と吉原の宴の音のみ。
今宵、これが最後の仕事になるのだろう。
それを終えて、冬花の元に帰るのだ。
あいつに伝えないといけない言葉があるのだから。
そうこうしている内に、待ち人がやって来たようだ。
潜んでいる隠し部屋の中で火縄に火をつける。
火打石の音と火花が暗い隠し部屋を一瞬だけ照らすが、隠し部屋だからバレる事もない。
相手は柳生新陰流を極めた公儀隠密。
まともにやり合って勝てる相手ではないが、負けるつもりもはなから無かった。
(考えて見れば、妙な因縁だったな……)
呟く事なく口の中でとどめた言葉とは裏腹に相手を気配を探りながら、思いは出会いの、高田藩の侍を撃った俺と守っていた友との夜に戻っていた。