英雄譚②
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空の城で、我らは束の間の平穏に息をつくことができた。体と刀にまとわりついた魔物どもの血肉を剥がし、身なりを整える。いくら魔物とはいえ、相手は王だ。最低限の礼儀を弁えなくては、折角の英雄譚に泥がついてしまう。
非常に大きな城だというのに、魔王の所在は思いもよらず容易く見つかった。一の門から、ただ一直線に進んだ果て。今、我らの前に、荘厳な装飾が施された巨大な扉が立ちふさがっている。
間違いない。この扉の向こうに、魔王がいる。
姿が見えずとも、扉から溢れ出る瘴気が。そして、我らの体に流れる勇者の血がそう確信させる。緊張のせいか、一門の誰一人として口を開こうとしない。あまりの静寂に、誰かの唾を呑みこむ音すら聞こえた。
先頭に立つ我らが頭領が、振り返り、生き残った一門の姿を名残惜しそうに眺めた。その表情は日頃の厳しいものとは打って変わって、寂し気で、慈しみを感じさせるものであった。一族の悲願を前にして、かの大叔父上といえど感じるところがあるのであろう。
「それじゃあ、行こうか」
そう呟いて、大叔父は扉に手をかけた。
扉の隙間が漏れ出た冷気が、全身を突き抜けた。極北の大地で鍛えぬいた肉体ですら、そのあまりの寒さに悲鳴をあげている。指先の感覚がない。いや、指先だけではない。腕も足も、瞼すら、四肢の全てが自分の意思で動かせない。僅かにカタカタと鳴る奥歯だけが、自身がまだ生きているということを実感させてくれる。
俺は今日、新たに一つ学びを得た。恐怖とは、酷く冷たいものなのだ。
扉の先に見えるのは、一個軍団が収まりそうな広間。だが佇むは王一人。魔王の前に立った者は、剣を抜くことすらできずに果てる。それ故に、その容姿の一かけらほども人類には伝わっていない。だが、我らにはわかる。奴こそ、魔王だ。
遠目に臨む魔王は、どこか虚ろであった。まるで、何の感慨も湧かないかのように我らを見つめている。命を奪いに殺到した我らを前に、なんと傲岸不遜なことであろうか。
我らなど、とるに足らないということか。ふと湧き上がる怒りに凍った手足がじわりと溶けていく。一門の皆も、同様に怒りを感じているのだろう。身も凍るほどの恐怖を振りほどき、一歩また一歩とゆっくりだが確実に、その玉座へと歩みを進めた。
「ちがう。そうではない……」
ふいに大叔父上が呟いた。
「魔王の目に映るは我らではない。その向かう先は、我らの背後に広がる城下の合戦。
侮られているどころではない、我らは宙に舞う埃程度にしか思われておらんのだ」
その言葉を裏付けるかのごとく、魔王は漸くこちらに視線を落とした。それこそ、大叔父上の声を聞くまで我らに気づいていなかったかのように。
「なんだ、人がいたのか」
厚く、鈍い声が広間に響くと同時に、闇の瘴気が我ら勇者一門にのしかかる。俺は、その重さに思わず膝をついてしまう。俺だけではない、一門の皆が、大叔父上ですら立っているだけで精いっぱいといった面持ちだ。
玉座の間に入って以来、感じていた冷たいプレッシャーの比ではない。恐怖とは冷たいもの? 否、真なる恐怖とは昏く重いものなのだ。その意識が向けられて、俺たちは初めて魔王と戦うことへの真の恐怖に晒されたのだ。
そうか、これが魔王の恐ろしさ。これを前にして、剣を抜くなど一体どれほどの勇気があれば可能なのか。恐ろしさのあまり、瞬きすらできない。剣の柄を握るなどもってのほかだ。抗うことのできない恐怖に、俺もまた臆病者として果てるのだ。
強大な絶望感に心が満たされ、一人の臆病者の物語に幕が閉じようとしたその時。突如、光が差し込んだ。鏡面のごとく磨かれ、青空の下にあっては「次太陽」、月夜にあっては「小天文」と称される我ら勇者一門に受け継がれてきた聖剣ナスタチウムの放つ光であった。
たとえ、吸った魔物の血で曇ろうが、杖代わりに使われ切っ先が欠けていようが関係ない。世に比類するもの無き美しき刀身が、広間に僅かに差し込んでいる光を映し返したのだ。剣を掲げ誰よりも早く勇を示したのは、俺の背に負ぶわれた果敢無き老人、我が祖母その人であった。
「おお、ばば様が剣を抜かれた」「よもや」「なんという勇気」「なんという胆力」
一門より俄かに、声が上がる。誰よりも老いた女が、立つこともできずに負ぶわれた老婆が魅せたその勇気に、皆が歓喜した。だが、俺は知っている。違う。みんな、誤解している。我が祖母は、勇気をもって剣を抜いたわけでは無い。あの剣は、そもそも鞘を失い最初から抜かれていたのだ!
「この臆病者の一族め。これより、《勇者》の号は儂一人のもんぞ!」
祖母の一喝に、呪いが解けたように皆が湧きたった。一人また一人と、体に纏わりつく恐怖を打ち払い気勢を上げ剣を抜いていく。その様子を、魔王は心底嬉しそうに見守った。
「魔王の首は、俺がもらい受ける!」
大叔父上が、ひときわ大きな声をあげ一息に魔王へと切りかかった。婆様に先を越されたせいか、その頬は紅潮し怒髪天といった面持ちであった。
大叔父上必殺の上段構え。一切の防御を捨てた、海すら割る渾身の一撃が放たれる。転瞬いつの間にか抜かれた魔王の剣が、その空いた銅へと横薙いだ。しかし、同じく一瞬のうちに間合いを詰めていた当主供周りがそれを剣で受けた。
かに思えた。魔王の一撃を受けた、供周りの剣は粉々に砕け散り勢いそのままに大叔父上へとその体を打ち当てた。大叔父上は体勢を崩しながらも、その一刀を振り下ろして見せた。しかし、体勢が崩れたせいか軸のずれた剣筋は、魔王の手甲を砕くにとどまった。
意識を飛ばされ倒れかかる供周りを手で押しのけ、大叔父上が再び大上段に構える。あくまで一刀にかける、その頑なな姿に、魔王の口角が徐々に上がっていく。そして、遂には歯を見せ声をあげて呵々大笑してみせた。
「よいぞ、人間!」
魔王も、剣を振り上げ同じ上段の構えをとる。そして、ほんの瞬刻の沈黙の後、二人は同時に剣を振った。
大叔父の巨体が、ぐらりとゆらいだ。同時ではなかった、魔王の剣が僅かながら早かったのだ。
皆が、我が一門最強の敗北に気を取られる中、間髪入れずに魔王へと迫る黒い影があった。影の正体は、我が父。その必殺の刺突が、大叔父上の体の隙間より魔王の心臓へと放たれる。
大叔父上の巨体の影に、巧みに魔王の死角へと隠れ不意を狙ったのだ。魔王の目には、父の剣が無から沸いて出たように見えたであろう。だがしかし、魔王はそれを体を捻り躱して見せた。
勢いそのままに的を失った父は、魔王の袂を通り過ぎる。だが、その隙を狙った魔王の拳が我が父の顔面へと打ち据えられる。父は、地面に突っ伏しうめき声をあげた。
その様を眺め、ゆらりと振り返った魔王の右手には、いましがた奪ったのであろう父の目玉がつままれていた。そして、それをこれ見よがしに我らに見せつけ、口を大きく開け飲み込んでみせたのだ。明らかな挑発に我が一門は、怒りを顕に魔王へと一斉にとびかかった。