Section 6-One
大変お待たせいたしました。シリーズのひとつの区切りとなる、第六章の開始です。
最初に言ってしまうと、この章は実質的に二段構成なので、前半だけだと方向性が見えにくくなるかもしれません。というわけで初回は、方向性を示すために時系列を少し進めました。ローゼの、シャルロットへの思いも、初期の頃から少しずつ変化しているようです。
雨足は激しくなる一方だ。温かな水滴は弾丸のように、肌に叩きつけられる。
むき出しの土壌はぬかるんで、浅い沼のようだ。気を抜くと足を滑らせ、そのまま転んでしまいそうだ。ゆっくり慎重に進めば、その心配はないだろうが、今のわたしはそこまで悠長にしていられなかった。
泥の飛沫を立てながら、わたしは走った。時折立ち止まっては、周囲を見回し、耳鳴りがしそうな雨音に消されぬよう、大声で名前を呼んでいた。
「シャルロット! どこだ! シャルロット!」
……返答はない。どこかで弱っていて、かすれた声しか出せないなら、この雨音の中では聞き取れないかもしれない。
「くそっ……!」
悪態をつきながら、わたしは再び駆け出した。姿を消した、旅の相棒を探すために。
昼前まで宿の布団で寝ていたわたしは、起きてすぐ、シャルロットがいなくなっていることに気づいた。朝の弱いわたしと違って、彼女は早めに起きることが多い。最初は、先に起きて受付あたりにでも行ったのかと思ったが、宿の中をひと通り見て回っても、彼女の姿は見当たらなかった。
受付の人に聞いてみると、一時間ほど前に外出したと分かった。だが、外は本降りの雨だった。雨具を持っている様子もなかったと聞いて、わたしは不安になった。彼女は一度、雨に当たりすぎて熱を出したことがあったのだ。雨合羽を羽織っていても体調を崩すくらいなのに、雨具も持たずにこの大雨の中に出たら……想像するだけでぞっとする。
万が一のことを考え、わたしはタオルと小さな毛布と、受付でもらった白湯を入れた水筒を、カバンに詰めて背負った。そして、雨降る屋外へ飛び出した。
……うん、まあ、わたしらしくないとは思う。ずぶ濡れでも平気なくらいには体力があるけど、自分も雨具を持たずに外に出たわけだから、わたしも相当慌てていたのだ。どうもシャルロットが関わると、たまに冷静さを失うことがある。困ったことに。
いや、現状で困っているのは、彼女を捜し出す手段もないまま外に出て、途方に暮れていることなのだが。
さっきから何度も名前を大声で呼んでいるが、一向に返事は聞こえてこない。外出して一時間も経っているとなると、それなりに遠くへ行っている可能性もある。距離が開きすぎて声が届かないだけならまだいいが、どこかで行き倒れにでもなっていたら……。
ええい、駄目だ。冷静になれ。わたしは濡れた髪を掻きむしる。
「落ち着け……まずは状況の整理だ。そもそもシャルロットは、どうして雨具も持たずに外へ出たんだ……?」
雨に当たりすぎて体調を崩したことは、当然本人も覚えている。それなのに、雨を防ぐ対策を一切せずに外に出るなんて、まるで自殺行為に走っているみたいだ。
わたしと同様に、よほど慌てていたのだろうか。だが、受付の人はそんなことを言ってなかった。慌てていたというより、考え事に気を取られて雨具を忘れた、ということか。それなら途中で引き返してもよさそうなものだが。強い雨に打たれていても、気づけないくらいぼうっとしていたのだろうか。
何か、ショックを受けるようなことがあったのだろうか。
昨日の……レスター・サンプソンの話を聞いてから。
そうだ。思い返してみれば、あのときから様子がおかしかった。帰り道では深く考え込む素振りがあったし、宿に戻ってからも、こんなことを呟いていた。
―――ローゼさんは、別れを惜しむような人ではないですからね。
ほんの些細な、会話とも呼べないやり取りの中で、シャルロットはそう言っていた。あの言葉をその通りに解釈するなら、わたしと別れても、わたしが彼女を引き止めようとはしないと、少なくとも彼女はそう考えていたことになる。
……間違いとは言い切れない。ナオコさんのみならず、わたしはこれまで、多くの悲しい別れを経験してきた。慣れたとは言わないものの、別れを惜しむ感覚が、少し麻痺していると自分でも思う。
シャルロットは、わたしが追って来ないと考えて、わたしを置いて出ていったのか。
わたしは彼女に、嫌われるようなことをしただろうか。
覚えがなくもない。わたしは彼女に隠し事をしていた。そして図らずも、サンプソンからの話によって、その隠し事を知られてしまった。彼女は決して勘の鈍いひとじゃない。わたしがあの事実をすでに知っていたと、どこかで察していたかもしれない。
隠し事をされたことで、自分が信頼されていないと感じて、わたしを嫌ってしまったのだろうか……シャルロットが、そんな単純な人間だとは思えないが。
「いや……思いたくない、ってだけなんだろうな」
なぜだろうな。探偵である以上、嫌われることには慣れているはずなのに。これまで好意的に接してくれた彼女に、今さら嫌われるなんて思ってなかったし、考えたくもなかった。
そうでなければ、こうして雨ざらしになりながら、彼女を探そうとはしない。
とにかく、雨具を忘れたとしても、意図して持たなかったとしても、彼女が何か考え事をしていたのは間違いない。その考え事は、サンプソンの話がきっかけだと思っていいだろう。具体的な中身までは、さすがに分からない。分からないが。
わたしに何も言わず出ていったのなら、その考え事とは、わたしに相談できないことなのだろう。つまり現在、シャルロットはひとりで悩みごとを抱えている。
この辺りの地理に暗い彼女が、ひとりで考え事をするのに、ただ歩いて遠くへ行くとは考えにくい。ここまでの旅路で、わたし達がいかに危険と隣り合わせにあるか、彼女だって重々承知しているはず。ましてこの地域には、人攫いを生業とする連中が至る所にいると聞いている……これもサンプソンからの情報だが。大雨で人通りも少なく薄暗い今、ひとりで出歩けば格好の獲物にされかねない。シャルロットなら、そんな軽率な行動はとらない。
わたしを関わらせないようにするなら、ただ物理的に距離を取るより、それほど離れていない所に、身を隠そうとするのではないか。この辺りに、身を隠せるような場所はそう多くない。そこまで絞れれば探しようはある。
……もちろんこれは、シャルロットがそういう人間だという、わたしの評価を前提とした推測だ。わたしが彼女の人柄を、間違った方向に見積もっていたら、ここまでの推測も当然間違っていることになる。ずっと一緒にいても、分からないことはいくつもあるのだ、他人の人となりを正確に把握するなど、どだい無理なことなのだ。
それでも今は、とりあえず信じるしかない。わたしが知っている相棒のことを。
「待ってろよ、シャルロット……あなたが望まなくても、わたしはあなたを見つけ出す」
自分を奮い立たせるために、わたしはひとり呟いた。
わたしは必死に周辺を駆け巡り、身を潜められそうな場所を探した。人家に隠れるのはさすがに難しいだろうから、小屋とか、建物の陰とか、人ひとりがすっぽり収まるくらいの場所を、とにかくしらみつぶしに見つけては、シャルロットがいないか確かめた。名前を呼んでも反応がないということは、そこで気を失っている可能性がある。隠れ場所を見つけたら、慎重に内部を確認しなければ……。
今わたしは、無意識にひとつの可能性を考えなかった。気を失っているだけではない、という可能性を。
分かっていた。これは推理でも予測でもない。希望、あるいは祈りだ。
ナオコさんの二の舞にだけは、ならないでほしいと、そう祈っている。
「…………あっ」
空き家らしき小さな家屋の、はみ出した屋根の下あたりに、新しい足跡があった。庇が雨よけになって、濡れてもギリギリ消えずに残っていたのだろう。その足跡の大きさと模様には見覚えがあった。
「ここだ……!」
わたしは粗末なドアを開けて、この家の中を覗き込んだ。
ひとつの明かりもない薄闇の中に、人がいる気配はなかった。造りはよくないが、人が住むために建てられたのは見れば分かる。元の住人はどこへ行ったのか、それはもはや知りようがない。が、少なくとも最近まで、ここに人がいた痕跡はない。床に泥の足跡がないから、それは確かだ。
では、シャルロットはどこにいるのか。外にしか足跡がないということは、他人の家に入るという無作法なことはせず、この建物の周辺に身を潜めているのだろう。わたしはもう一度外に出て、家屋の裏手まで回ってみた。
裏手には、子どもの背丈くらいの大きさの木箱が置かれていた。庇の真下にあって蓋も閉まっているが、手作りなのか隙間が多く、多少の雨風はともかく、寒さまではしのげそうにない。恐らく普段は、薪などを入れているのだろう。住人がいなくなってから、ずっと放置されていたようだが、その薪が何本か、箱の外に出されてそばに積まれている。
「まさか……!」
わたしは箱に駆け寄って蓋を開けた。
案の定その中には、シャルロットが丸まった格好で入っていた。
「シャルロット!」
わたしは急いで箱の中から、シャルロットを抱きかかえて出した。
白いワンピースは全身が水に濡れて、艶めきを帯びている。長い髪もぐっしょりと濡れて、しばらく時間が経っているはずなのに、まだ雫が滴っている。そして何より、いきなり抱きかかえられても、ぐったりとして目を開けようともしない。
さすがのわたしも、これには焦ってしまう。
「おい! しっかりしろ! シャルロット!」
必死になって呼びかけるが、彼女は反応しなかった。長く雨に当たったせいだろう、体はすっかり冷たくなっていて、両腕は力なく垂れ下がり、かすかに開かれた口元からは、寝息のように呼吸の音が聞こえていた。
「すー……すー……」
……いや、これ普通に寝息では?
「なんだ、寝ているだけか……とりあえず、建物の中に入れよう」
なんとかまだ生きていると分かって安堵したわたしは、シャルロットを両手で抱え上げて表に戻り、家屋の中に入った。決して丈夫な建物ではないが、狭い木箱の中よりはマシだろう。あんな所では、毛布に包まるのも難しいし。
無人の家の中に入ると、まずはびしょ濡れの服を脱がせた。こんな服をいつまでも着ていたら、体温が奪われて体力も抵抗力も下がる。本人が気絶している状態で、濡れた服を脱がせるのはそれなりに苦労したが……。
下着だけの格好になった彼女を毛布で包むと、次はタオルで髪を拭いた。ベッドらしきところに腰かけて、わたし自身を背もたれ代わりにシャルロットを寄りかからせ、後ろからタオルで丁寧に水気を取っていく。ここまでしても、彼女はまだ目を覚まさなかった。
十分に髪の水気を取ったところで、彼女をベッドに横たえると、わたしは外から薪を持ってきて、部屋の真ん中で火を焚いた。酸欠を防ぐために木製の窓を開けたが、庇もあるし、それほど雨は入ってこないだろう。まあ、薪が雨で少し濡れているせいか、燃え上がるまでだいぶ時間がかかったが。
シャルロットが目を覚ましたのは、薪から十分に炎が立ち始めた頃だった。
「…………んん、あれ?」
「おっ、やっと起きたか。まったく、ひやひやさせてくれるよ」
「ローゼ、さん……あの、ここは?」
「お前が隠れていた木箱のすぐそばの、無人の家をちょっと借りた。シャルロットは遠慮して入らなかったみたいだけど」
焚火のそばに腰かけていたわたしは、そう言って立ち上がった。カバンから白湯の入った水筒を取り出し、シャルロットに手渡した。
「ほら、ただのお湯だけど、飲みな。体の内側からも温めた方がいい」
「あ、ありがとうございます……」
シャルロットは受け取った水筒から、お湯を一口飲んだ。よほど疲労があったのか、一口だけでホッとしたような表情になる。温もりが胃袋に入ると、こういう顔になるし、気持ちも落ちつくものだ。
「……やっぱり来ちゃったのですね、ローゼさん」
「来ないとでも思ったか? そこまで侮られるとは心外だな」
「いえ、そういうわけでは……ただローゼさんは、わたしがひとりで悩みたくても、放っておいてはくれないのですね、と思っただけで……」
「それはどうだろうな。最初のうちは放っておいて、収拾がつきそうにないと思ったら手を差し伸べる、というのが基本かな。でも今回は、この大雨の中を、雨具を持たずに出たから放置できなかったんだ。それで一度熱を出したこと、シャルロットも覚えているだろ」
「ええ、まあ……」
「それだけお前が悩んでいて、しかもわたしに相談できないというなら、今この場で聞き出そうなんて野暮はしない。まだ雨もやみそうにないし、しばらく休めばいいさ」
体調の心配もあるが、シャルロットの個人的な悩みに、土足で踏み込むのはよくない。探偵は他人の事情に土足で踏み込むものだが、それは仕事として依頼を受けた場合の話だ。今のわたしは探偵としてではなく、相棒として彼女に接しなければならない。こういう微妙な距離感には慣れていないけど、相手の悩みの具体的な中身が分からない以上、無闇に踏み込めば痛い目を見るに決まっていた。
とにかく今は、彼女から打ち明けてくれるのを待とう。結局何も言われなくても、それはそれで構わない。わたしがそこまで信頼されていなかったというだけのことだ。
シャルロットはさっきから、ぼうっとして虚空を見つめている。わたしに打ち明けるべきか、考えているのだろうか。
「……少し、話を聞いてもらっても、いいでしょうか」
「!」
思いのほか早く、その時が来たみたいだ。
「……いいよ」
わたしは焚火のそばを離れ、シャルロットの座っているベッドに腰かけた。
心なしか、わたしまで緊張しているみたいだ。考えてみれば、記憶喪失の彼女の口から、改まって話を聞くのは初めてかもしれない。わたし自身、彼女のことは観察した結果しか知らないし、いつか彼女が自分から事情を打ち明けることを、期待していたのだ。
さて、どんな話が聞けるのか……と思って待ち構えていたが、なぜか彼女は一向に口を開かない。
あれ、どうした? わたしはシャルロットに目を向ける。
……彼女は耳まで真っ赤になって、閉じた唇をぷるぷると震わせていた。
「あの、ローゼさん……今になって気がついたのですが、わたし、ほぼ裸になっていませんか。毛布のおかげで、気づくのに遅れてしまいましたが……」
なんだ、そんな事か。
いや彼女にとっては一大事なのだろうけど。
「仕方がないだろう。濡れたままの服をいつまでも着せているわけにはいかないし。とりあえず長い棒を見つけたから、それにかけて干しているけど、この雨じゃすぐには乾かないだろうな」
「……ローゼさん、わたしの裸、見たのですか」
「そりゃあ、見なけりゃ脱がせられないし」
「……それで平然としているのが腹立たしいですぅ」
そんな真っ赤な顔で悔しがっても、じゃあどうすればいいのだ。
「ローゼさんには羞恥心とか性的欲求というものがないのですか。ないですよね。だって大勢の男性の前で平然と裸になれる人ですし。わたしのようなちんちくりんを目の前にしたって特に思うことはありませんよね。そうですよね。そういうのは戦場に置いてきてしまったのですものね。でもわたしは人に肌を見られるのに抵抗がありますし、ましてローゼさんに見られるなんて羞恥の極みであって、それなのにローゼさんは平然としていますし、わたしだけ恥ずかしがるとかどういう罰ゲームですか。そもそもローゼさんは他人の目というものを気にしなさすぎであって」
「早く本題に入れ」
いつまでもわたしへの文句ばかり延々と並べるから、遮ってやった。今日のシャルロットはえらく饒舌だな……まあ、元気そうで安心したけど。
わたしのひと言で冷静さを取り戻したのか、シャルロットは再び神妙な面持ちになって、重い口を開いた。
「……昨日、サンプソンさんの話を聞いているうちに、思い出したのです」
「何を?」
「わたしが、ローゼさんと出会う前の、出来事です」
それは、つまり。わたしは驚愕して彼女を見た。
さっきも一度言ったが、シャルロットは記憶喪失だ。わたしと出会う数日前、彼女は見知らぬ土地で目を覚ました。それ以前の記憶は欠落していた。その数日間のことはすでに聞いているから、今さらこうして話す必要はない。
だから、彼女が言いたいのは……。
「それって、まさか」
「はい……記憶が戻りました。忘れたくなるほど、つらい記憶です」
そして彼女は語りだした。
一国の王女が記憶を失い、遠いところへ流された、その物語のすべてを。
こういう微妙なすれ違いも、不器用な思いやり合いも、百合のひとつの醍醐味ってことで。
というわけで、第六章の方向性は見えましたね?
次週は視点をシャルロットに移し、時系列も戻ります。凄腕の情報屋、レスター・サンプソンとどうやって出会い、どんな話を聞いて、シャルロットがどんなことを思ったか、これからじっくり見せていきますので、どうぞお楽しみに。




