Section 5-Six
長かった過去編も大詰めです。
兵士として育ったローゼが、探偵への一歩を踏み出します。
軍をやめる……ナオコさんを失ってから、ずっと考えていた。駐屯地での役目を途中で投げ出すのは心苦しいが、もうまともに続けられそうにない。ナオコさんという、ほぼ唯一の相談相手もいなくなったので、ずっとひとりで考え続け、このほど結論を出した。
予想はしていたが、コメット氏は渋い表情を浮かべた。
「君が本国に戻ってきてから、何があったのかは聞いている。敵国の攻撃を受けて、隣人が命を落としたそうだな。よもや、軍を辞めたいというのは、それが理由か?」
「そうです」
「ふぅ……相変わらず、受け答えに迷いがない。普通の兵士だったら、そんな理由で辞めたいと申し出るとき、少しくらいためらうものなんだが。君も承知しているだろう。大規模な戦争となれば、自分の家族や友人、知り合いが巻き添えを食うことはよくある。それでショックを受けることはおかしくないが、退役する理由としては不名誉きわまりない。特に君は目をみはる実力があり、将来も嘱望されていた。今ここでやめると、君にとっても軍にとっても、いいことは何もないように思えるが」
当然の答えだった。少なくとも、国軍の上層部の人間としては。むしろ、国のために戦うという名誉を背負っている立場で、身近な人間を戦争で亡くしたという小さな理由でやめようとする、わたしの方が異常なのだ。それはもはや否定できない。
しかし、わたしは最初から異常だったといっていい。そもそも軍に入った経緯からして、異例といっていいのだから。
「わたしは……望んで軍に入ったわけじゃありません」
「そうだったな。他ならぬ僕が、軍にスカウトした。徴兵制のない我が国の兵士は、ほぼ全員が志願兵だが、君は本当に数少ない例外だった。兵士としての才能を見出し、幼い子どもだった君に他の選択肢を与えず、軍に入るという道しか進めないようにした」
やっぱりあれは計算のうちの行動だったか……あの頃の、幼かったわたしにはそれが分からず、ただコメット氏の手のひらの上で転がされていた。
「あのまま、流されるまま正式に入隊していたら、わたしはきっと、あなた達の企みに翻弄されるだけの、ただの操り人形になっていたでしょう」
「企みだなんて、人聞きの悪い」
「でも、わたしはナオコさんと出会って、彼女と触れ合う中で、自分の置かれている状況を俯瞰的に理解する必要性を、知ったのです。その結果、わたしが何のために戦うのか、その意味を見出すことが難しくなりました」
「普通の兵士なら、何かしら高い理想を持っていて、それを実現する、あるいは守るために戦っているのだと解釈するが……君は違ったんだな。頭が切れる一方で、孤児ゆえに社会常識を植え付けられなかったために、大多数の兵士が軽く受け止めがちな価値観に、疑問を抱いてしまった。君の上官からの報告で、他の兵士との協調性に難があると言われたが、今の話を聞いて少し納得したよ。自分が戦う意味がぼんやりしていれば、確固たる意志で動いている他の兵士とは、確かに分かり合えないだろうな」
まあ、協調性に難があるのは、わたしの性格もあるとは思うが……。
「そんな時、ナオコさんから言われました。人間が戦うのは、たいていは何かを守るためだと。自分ではない、大切な誰かを守るために戦うのは尊いことだと……」
「ふうん。いいことを言うじゃないか。僕もそう思うよ」
「だからわたしは、何よりも大切な、ナオコさんと、彼女たちの平穏な暮らしを守るために戦う……そう誓ったのです。そのことがわたしにとって唯一、戦う理由になっていました」
「…………」
「でも、今のわたしは、守るべきものを失いました。戦う理由を失いました。わたしはもう、戦場に立つことはできません」
もしかしたら、他にも何か、守るべきものや戦う理由があるかもしれないと、ここ数日間ずっと考えていた。だが、ナオコさんを失ったわたしの心は、空っぽといってよかった。物心ついたときから、何も持っていなかったわたしに、新たに守るべきものなど、生まれるはずもない。そのくらいわたしにとって、ナオコさんは世界のすべてだった。
もう戦えない、と思った。“戦場の薔薇”は枯れてしまった。
「……そう断じるのは早計な気もするけどね。操り人形になるのは不本意だろうが、君が不世出の才能の持ち主であることは、紛れもない事実だ。僕の立場としては、それをみすみす手放すことは承服しかねるね」
「人殺しに秀でた才能なんて、いっそ捨ててしまいたいですよ」
「それは使い方次第だ。人を殺す才能も上手く使えば、人の役に立てるものさ」
「ナオコさん以外の人の役に立ったって空しいだけだ!」
その叫びに、コメット氏は珍しく目を見開いて驚いた。上司で恩人の前だから抑えていたが、もうそろそろ限界だった。溢れ出す感情のまま、丁寧で冷静な口調も忘れ、わたしは吐き出すように告げた。
「頼むから、引き留めないでくれ……わたしは自分が許せない。わたしが一番、わたしを許せないんだ!」
怒りの感情がこれほど燃え立ったのは初めてだ。よりによって、その相手が自分自身とは、なんとも皮肉だ。
「わたしは、ナオコさんたちを守ると、約束したんだ。でもナオコさんは死んだ。旦那さんも、娘も、家も、平穏な暮らしも、何ひとつ守れなかった。わたしは、嘘をついた。どうしようもなくひどい嘘を、ナオコさんに言ってしまったんだ……!」
それこそが、わたしが軍をやめようとしている、最も大きな理由だった。
嘘をついた、約束を破った、そんな自分がどうしても許せない。だから、ナオコさんたちの命を奪った戦争で、自分が輝かしい業績を上げて称賛されるなど、耐えられない。兵士として認められるなんて、あってはならない。
油断していると自傷行為に及びそうだったが、これでも必死にこらえている。すでに強く握りしめた両の拳では、爪が食い込んだ手のひらが痛むけど。
「……君は意図的に約束を破ったわけじゃない。どうしようもない理由で、約束を果たせなかっただけだ。それを嘘と呼ぶのは勝手だが、客観的に見れば、君に責任はない」
「……本当に?」
「え?」
「本当に、ナオコさんの死は、わたしに責任がないのか?」
「……何を疑う」
コメット氏は真顔で聞き返した。少将の階級は伊達じゃない。さすがは歴戦の猛者、わたしが睨みつけた程度ではびくともしないか。
礼儀や恩義もあるから、初めはコメット氏に丁寧な口調で接していた。だから、この乱暴な口調は素のものだ。目の前の相手への不信感から、素の口調をさらけ出していた。
「例の墜落した敵国の戦闘機……どうしてあんな住宅地を狙ったんだ?」
わたしの問いかけに、コメット氏は答えなかった。
戦争で勝利に近づくために、一番求められるものは何か。昔コメット氏から教わったことがある。それは装備でも、資金でも、頭数でもない。いくら強力な兵器を多く用意しても、莫大な金があっても、投入できる人員が多くても、それが戦争に勝つことにつながるとは限らない。
答えは、効率だ。いかに少ない兵力で、いかに金をかけず、いかに自国の犠牲を出さずに、最大限効果的に敵を攻撃するか。それこそが一番求められるものだ。敵の陣地を攻撃する際も、軍艦が停泊する港や、製造する工場、武器を保管する倉庫など、攻撃されたら困るような場所を集中的に攻撃する。
駐屯地で報告を受けた時から、ずっと引っかかっていた。わたしの住んでいる地区は、軍に関係する施設が一切ない、都心からも少し離れた住宅地だ。人口密度も低くはないが、決して高いわけでもない。そんな場所を攻撃したところで、アムリゴの軍に大きなダメージを与えられるとは思えない。だったら、なぜ狙われたのか。
「……わたしが住んでいたから、じゃないのか」
アムリゴ国軍の内部でさえ、わたしの扱いには慎重になるのだ。当然、敵国にもわたしの存在は知れ渡り、脅威となっていただろう。それが、あの地区を攻撃した理由ではないだろうか。実際、戦闘機はわたしの自宅の近くに墜落していた。
だとしたら、ナオコさんが命を落としたのは、わたしがいたからじゃないか。
わたしがあの家に引っ越さなければ。わたしが軍に入っていなければ。わたしに人を殺す才能がなければ。わたしが、この世にいなければ……。
ナオコさんはもしかして、生き永らえていたのではないか。
「……憶測で自分を責めるのは感心しないな」
コメット氏は真顔で言い返す。それはわたしの推測を一蹴したのも同然だった。もちろんわたしは少しも納得しなかったが。
そもそも、敵国が平凡な住宅地を襲撃したことの不自然さに、コメット氏をはじめ軍の上層部が気づかないとは思えない。どんな理由を考えたか……わたしの推測と同じとは限らないが、そのことをわたしに対してはぐらかそうとしている。わたしが目の前の上司に不信感を抱いているのは、ひとえにそれが原因だった。
「仮に君の推測どおりだとしても、それは君が敵側に恐れられるほどの、優秀な兵士だということだ。誰も君のことを責めたりしないし、得がたい存在だとも思っている。君が自分のことをどう思おうと、我々には君の力が必要だ」
一兵卒にとっては、ありがたい言葉に違いない。でも今のわたしには、神経を逆撫でするふざけた発言にしか聞こえなかった。
わたしはデスク越しに、コメット氏の胸倉を掴み上げ、怒号を浴びせた。
「わたしに何かを求めるなら、ナオコさんを返せ!」
「…………」
「お前らが、戦争なんか始めなければ! ナオコさんは、今だって……」
コメット氏の服を掴む手は、プルプルと震えていた。それでも、わたしは泣けなかった。ナオコさんの亡骸を目にしたときも、涙が浮かぶことはなかった。悲しいという気持ちを、わたしはどこに置いてきてしまったのだろう。
すると、後方でドアを叩く音が聞こえた。執務室に誰かが入ってくる。
「失礼します。あら、先客がいましたの?」
「アンダーソン女史……なぜここに?」
コメット氏が目を見開いて、部屋に入ってきた女性に問いかける。背の高い、キリッとした顔つきの、スーツ姿の女性だった。隙のない身のこなしで、デスクへ歩み寄ってくる。
名前に聞き覚えはない。だが、どこかで見たような気がする。
「ちょっと、ここの通信指令室に用があってね。またも外部からのクラッキングを受けたらしくてね、アクセスのログを取るよう指示していたから、それを回収しに来たんだ。軍の方々には戦争に集中してほしいから、この件は一度、うちらで預かろうと思ってね」
「わざわざあなたが直接出向くとは、よほど重要な領域が狙われたのか」
「いくら君が相手でも、これ以上の詳細は言えないよ。うちの“会社”が機密情報の管理に厳しいのは、君もよく知っているだろう」
「まあな……」
「ところで、そっちの話が済んでないなら、私は少し席を外すけど」
アンダーソンと呼ばれていたその女性は、わたしのことをちらっと見て言った。どうやらコメット氏と親しいみたいで、二人が話している間、わたしはどうにも居心地の悪さを感じていた。気を遣ってくれたのはありがたいが……。
「いえ、わたしはもう戻ります。伝えたいことは伝えましたので」
「おいおい、僕は辞表を受理するとは一言も言ってないぞ」
「どちらにしても、わたしはもうここに来ないので。陸軍との縁は切ったものだと思ってください」
コメット氏はどうしてもわたしを引き止めたいようだが、わたしの決意は揺るがなかった。いま軍をやめても、貯金は十分にあるし、しばらくは生活に困らないだろう。そもそもここに残る理由が、今のわたしにはないのだ。
話は終わったことにして、わたしはその場を離れようとした。そのとき、アンダーソンなる女性が声をかけてきた。
「君、ここの兵士なのかい?」
「そうですけど。まあ、近くやめるつもりでいますが」
「ふむ……もしかして、君がローゼくん? “戦場の薔薇”と呼ばれている」
「その二つ名はあまり気に入ってないんですが、ええ、わたしがローゼです」
「そうか、以前から噂をよく聞いていたんだ。コメット少将がスカウトして、個人で面倒を見ていた、女の子の少年兵がいると……それが君だったか。ああ、紹介が遅れたね。私の名はフィリス・アンダーソン。軍の人間ではないが……」
「中央情報局のひとですよね。大統領府の直轄にある、唯一の情報組織」
わたしがそう言うと、アンダーソンは目を丸くした。余裕は崩していないが。
「おや、私を知っているのかい」
「ご自分でおっしゃったじゃないですか。うちの“会社”と。ただの会社員が、国軍の通信指令室に出入りしたり、上層部の執務室に単独で入れるわけがないですから、“会社”というのは隠語……アムリゴでその隠語が使われるのは、中央情報局です。あなたの話にあった仕事の内容とも符合します」
「これはまいったね……瞬時に素性を見破られるとは。戦闘訓練のみならず、座学の成績もトップクラスだと聞いているが、確かにその通りみたいだね。しかも勉強熱心でもある」
ん? 今の会話のどこから、勉強熱心という評価が引き出されたのだろう。確かに軍に入ってから、内部事情については調べられるだけ調べて頭に入れておいたが。
……待てよ、何かうっすらと引っかかるものがある。
「もしかして、どこかでお会いしました?」
「ああ、一度だけ、この建物ですれ違ったことがあるよ。その時は名前と顔が一致しなかったけど、軍の資料室に女の子が出入りしていたから、嫌でも記憶に残るさ」
そうか、思い出した。何年か前、資料室で調べ物をして、そこを退出しようとしたとき、入れ違いで入ってきたのがこの女性だ。あのときも、軍の関係者でなさそうな人物が、資料室に何の用だろうと思っていたが、なるほど、同じ大統領府直轄の、中央情報局の人間だから入れたのか。
「というか君、軍をやめるのかい? まだ戦況は厳しいし、こんな時期にやめたら色々言われるよ。今や新聞でも報じられて、君の活躍は知れ渡っているんだから」
「その新聞記事はわたしも見ましたけど、本人の了承もなければ軍のコメントもないせいで、ごく小さな扱いでしたよ。言うほど知れ渡っているでしょうか」
「少なからず衝撃的な内容ではあったと思うよ」
「だからこっちは必死に止めようとしているんだよ」コメット氏が肩を落として言う。「今やめられたら、我が軍は大きく戦力を失いかねない。今はとりあえず治安維持の仕事を回しているが、いずれは本格的な戦場に送り込む目算もあったんだから」
「それについては、諦めてと言うしかないですね」
「仮にも上司に向かって遠慮を知らない物言いをしてくれるね……成長しているということなら喜ばしいことだ、うん」
無理に自分を落ち着かせようとしているのが丸わかりだ。まあ、以前だったらコメット氏に逆らうなんて、思いつきもしなかっただろうけど。
「というか君、軍をやめた後はどうするつもりなんだい?」
アンダーソンからの問いかけに、わたしはしばらく、うーん、と考えた。お金にまだ余裕はあるけれど、次の仕事のあてがあるわけじゃない。自宅は更地にして売るとして、もっと小さい家に住んでもいい。アパルトマンでも一向に構わない。だけど、これから何年も先のことを考えると……。
「……旅にでも出ますかね」
「僕はときどき君の世間ずれのなさが心配になるよ……」
コメット氏からいい反応はもらえなかった。というか呆れられた。まあ、わたしが俗世にあまり馴染めていないのは否定しないけど。
もちろん世の中を侮っているつもりはない。旅に出て、自分の目で世界を見てみたいというのは、ずいぶん前から考えていたことだ。軍の施設で資料をただ見ているだけでは、本当の意味で世界を知ることは難しいと、今回のことで痛感したのだ。
とはいえ、そういう目的の旅ともなると、途方もなく長い時間を要するし、資金面での心配だってある。帰る場所も、今のわたしにはない。不安要素は枚挙にいとまがないけど、それ以上に、やってみたいという気持ちは強かった。
「まあ、やってやれないことはないですよ。泥水をすすって生きるのは慣れていますし」
「確かに大概の生存術は叩き込んだし、今回の戦争でも実践できたみたいだが、これから世界中で情勢が乱れるのは目に見えているし、何も軍をやめてまで旅をする必要はないと思うけどね……」
「旅をするかどうかの前に、軍を去るのは決定事項ですけど」
「決定してないよ、まだ辞表を受理するって言ってないよね」
「だったら……」
わたしとコメット氏の会話に、アンダーソンが口を挟んできた。なかなかとんでもない提案を添えて。
「いっそうちで、ローゼくんを預かるというのはどうだろう?」
「「は?」」
思いがけず、わたしとコメット氏は声をそろえてしまった。この女性がいきなり何を言い出すのか、さっぱり理解できなかった。
「アンダーソン女史……いったい何を」
「中央情報局に入って、ローゼくんを諜報員として育てるんだよ。知能は高いし、身体能力や精神力も優れている。協調性に難があるらしいけど、諜報員にはそんなものは不要。いざとなれば、仲間を見捨てて自分だけ生き残っても責められないからね。ローゼくんには、諜報員としての素質が十分にある」
後半は褒められたように聞こえなかったが……。
「同じ大統領府直轄の組織なら、軍との関わりも継続できるから、よほど彼女が必要な事態になれば、私の権限で貸し出すこともできる。ローゼくんにとっても、調査の名目で世界中を回って、見識を深めるいい機会になると思うわよ」
なるほど、その話が本当なら、わたしとコメット氏の双方にとって、ある程度ではあるが望みが叶えられるわけだ。わたしとしては、軍との関わりそのものを絶ちたいが、一応やめた後のあてができるわけだから、辞表が受理されるための障害は減ったことになる。癪ではあるが、アンダーソンの提案はいい落としどころと言えた。
というかこのひと、諜報員を軍に貸し出せるほどの権限を持っているのか。コメット氏と旧知の間柄なら、それなりに高い階級だろうとは思っていたけど、実は相当偉い人なのでは……。
コメット氏はしばらく悩みつつ考えていたが、やがてしかめ面を上げてアンダーソンに視線を向けた。
「なんというか、貴重な人材を奪われたような気もするけど、僕もなるべく、彼女の意思は尊重したいと思っていた。彼女が自分の意思で、身の振り方を決めて訴えてきたのは、これが初めてだったから……それに、当てもなく旅をさせるよりは、女史に預けた方が何かと安心ではある」
「おやおや、親心が透けて見えるよ、コメット将軍」
「皮肉交じりに階級を使うのはよせ。あとニヤニヤするな」
ずいぶんと親しげというか、遠慮を知らない物言いが二人の間で飛び交っている。コメット氏とアンダーソン……どういう関係なのだろう。まあ、邪推するだけ時間の無駄か。
「それじゃあローゼくん、あとは君の意思次第だ。生半可な覚悟じゃ諜報員には決してなれないが、それでも私のところに来るかい?」
握手を求めるように、アンダーソンは手を差し伸べてきた。
その手を取っていいのか、迷いがよぎった。幼い頃の、選択の余地を与えられないまま、軍に入る道を選んでしまった、あの日のことを思い出す。今度は避けることもできる。選択の余地があるということは、間違えた時に後悔することになる。わたしは、どうするべきなのだろうか。
……答えは出なかった。
「すみません、一日だけ、時間をもらえませんか」
* * *
急な提案ということもあり、アンダーソンは考える時間をわたしにくれた。一日だけだが、そのくらいの制限がなければ、わたしはいつまでも悩んでしまいそうだから、かえってちょうどいいくらいだ。
陸軍本部を後にしたわたしは、そのまま自宅のあるノイヨルケ郊外の街に向かった。……正確には、自宅のあった、だが。戦闘機の特攻によって街は壊滅し、わたしの自宅ももはや原形を留めていない。わたしは今、陸軍本部で寝泊まりしている。
借りた車を走らせ、到着したのは自宅の前……ではなく、同じくがれきの山と化した、ナオコさんの家だった。
聞くところによると、ここは明日、行政の依頼で完全に取り壊されるらしい。家の土台から何まで、残らず撤去される。このご時世だから、ジパニカにいるナオコさんの親族が、ここにきて遺品などを持っていくこともできない。取り壊しに際して行政が回収する運びになっているから、まだここには、ナオコさんたちの痕跡が残っている。
すっかり住人がいなくなって、街は閑散としている。風の音さえ静寂に吸い込まれたみたいだ。そんな中、わたしはたった一人、がれきの中に立ちつくしている。
わたしは迷っている。同じように悩んだ時、ナオコさんに相談したことで気が晴れた。今はもう、その相談相手もいないというのに、未練がましく求めるように、この場所まで足を運んでしまった。
ナオコさんたちの生きた証……少しはあるだろうか。
「ああ、そういえば……」
ナオコさんはアムリゴに帰ってきたら、わたしにお土産を渡したいと言っていた。ナオコさんがジパニカに帰省したあと、ずっとわたしは国外に遠征していたから、結局そのお土産は受け取れていない。だったら、まだここにあるだろうか。
……まあ、望み薄だろうな。建物がこれだけ壊れているのだから、どんな代物だろうと無事では済まない。見つかったとしても、きっと原形を留めていない。
それでも、ナオコさんがわたしに残した何かを、わたしが探さないわけにはいかない。このままがれきと一緒に、処分されるなどもってのほかだ。
わたしは探し始めた。足元に散らばった建材の破片を拾い、何もなければ近くにポイっと投げ捨てる。そんな作業を繰り返しながら、どこかにあるかもしれないナオコさんの痕跡を探した。時間が過ぎるのも忘れて……。
リビングだった部屋に入った。普段から家具や調度品を置いているだけあって、厨房と同じくらい足の踏み場がなかった。探すのもひと苦労しそうだな、と思った時、視界の隅に注意をひかれるものがあった。
それは壁際に置かれていたチェストだった。元から丈夫に設計されていたのか、ほぼ無事な状態で立っていた。わたしは一番上の引き出しを開ける。ずいぶん前に一度見たきりだったけど、ナオコさんがあれを取り出したのは確か、このチェストの引き出しからだった。
「ずいぶん少ない……」
引き出しの中は、乾電池とかクリップとか首飾りのチェーンなど、こまごまとしたものが少し残っているだけだった。よく見ると、チェストのすぐ脇の床は、不自然なほどがれきがなく綺麗だった。ということは、元々倒れていたチェストを誰かが起こし、中にあった金目のものを取っていったのだ。火事場泥棒とは無粋なことをする輩がいたものだ。
ただそれでも、残されるものはあった。
「あった、ジパニカのお金……」
以前にナオコさんが見せてくれた、ジパニカの硬貨が一枚だけ残っていた。財布は見当たらない。小銭を一枚だけ残して財布だけ盗んだやつがいるのか……まあ、黄色い金属製で、穴が開いていて、人物の肖像もないから、そもそもお金だと思われなかったのだろう。わたしにとっては幸運なことだ。
それとも、これが“ご縁”というものなのだろうか?
「ナオコさん……」
あのひとが生前語っていたことを、今でも鮮明に覚えている。人間のひとり一人に神様がいて、そうした神様との“ご縁”によって願いを叶えることが、祈りの本質なのだと。
今、わたしが願うこととは何だろう。一番はもちろん、ナオコさんにまた会いたい、というものだが、もはやその願いが叶うことはない。誰に祈っても。
だからわたしはここに来た。ナオコさんの生きた証を、彼女との繋がりを、無くさないようにするために。忘れないように。ずっと心に留めておくために。
「ご縁、か……」
一枚残った硬貨を手に取り、同じく引き出しに入っていたチェーンを、硬貨の穴に通した。そしてそのチェーンを、わたしは首元にぶら下げた。
分かっている。本当は、こういう所から遺物を持ち去るのはよくない。たいして価値があるものではないとはいえ、故人の持ち物であることに変わりはないからだ。それでも、いずれゴミとして処分されることを思えば、放置することはできなかった。
思い出すと辛くなるかもしれない。ナオコさんの亡骸が夢に出て、あのときの苦しさがよみがえるかもしれない。それでも忘れたくないから、わたしはこの繋がりを、“ご縁”を身につけることに決めたのだ。肌身離さず、抱き続けると誓った。
神様との縁などいらない。わたしから大切なものを奪った、残酷な運命の神など、祈る価値もない。だから、おのおのが神様を宿しているという、他の人間との縁もいらない。
わたしには、ナオコさんとの“ご縁”だけあれば、それでいい。
それだけで、わたしはどこにでも行ける。どこに行っても生きていける。
兵士ではなく、ひとりの人間として。
決意を固めたわたしは、アンダーソンに電話をかけた。
「ローゼです。はい……ええ、決めました」
そして告げた。わたしが自力で決めた、自分の進む道を。
「中央情報局の入隊試験、お受けいたします」
……わたしは知りたい。知らなければならない。
ナオコさんがなぜ死ななければならなかったか。なぜ誰も彼女を救えなかったか。なぜ敵国はこの場所を標的としたのか。なぜ誰も憎しみの連鎖を止められなかったか。なぜこの戦争は起きてしまったか。
……いま、世界で何が起きているのか。
突き止めてやる。今度こそ、大切な人を失わないために。
ナオコさんを失い、ひとりの人間となるまでのお話が終わり、そしてまた、新しい物語が始まろうとしていた。
それは、世界の謎を解き明かす、物語である。
とりあえず、ローゼの過去にまつわる伏線は、これでほぼ回収しました。同時にまた新たな伏線が仕込まれたようにも見えますが……。機会があれば、情報組織時代のエピソードも書いてみたいですが、果たしていつのことになるのやら。
過去編はこれにて一旦終わりです。次週からは時系列を戻しまして、ローゼとシャルロットの乗った船で、事件が起きます。もちろん、殺人事件ではありません。ここしばらくミステリ的展開がないので、揺り戻しみたいにミステリっぽくなるはずです。
恐らく今回で、年内の投稿は最後となるでしょう(二週間前の予約投稿なので、本当に最後かは分かりませんが)。来年も『ロード・トゥ・ヘヴン』をよろしくお願いします。
では、よいお年を!




