Section 5-Two
いきなり結構ヤバい場面から始まります。こんなものを期待していたわけじゃない!という読者の方々、ご容赦ください。
わたしには、親がいたという記憶がない。
物心ついた頃には、たった一人で、さびれた街の中を徘徊する生活を送っていた。道端に落ちているものを拾っては、食べられるものなら食べ、そうでないものは怪しげな業者に渡して、代わりに食べるものをもらっていた。言葉もろくに話せず、文字も書けなかった当時のわたしに、金銭のシステムを使いこなす力はなかったのだ。
どこの世界の話かといえば、戦前は経済大国として名をはせたアムリゴ合衆国の、大都市ノイヨルケの話である。華やかな経済都市の片隅にも、うらぶれた生活を強いられる人々がいて、わたしはそうした界隈で生きていたのだ。
何も持たないわたしにとって、豊かで何不自由ない生活を送っている人々は、完全に別世界の住人だった。同じ界隈に生きている他の人たちは、時にそういう普通の人々を、うらやみ、中には怨嗟の念を抱く者さえいたが、わたしは違った。生まれ方の違いが境遇の差につながっているなら、関心を寄せるだけ無駄だと、幼心に考えていたのだ。
とはいえ、このすさんだ生活をどこまでも受け入れられていたかといえば、そうではなかっただろう。“普通”の人々から蔑むような目で見られ、ろくでもない大人と関わりを持ったばかりに、野良犬以下の扱いを受けることもしばしばあった。縄張り意識の強い悪漢どもから、足蹴などの暴力を浴びたのも一度や二度じゃなかった。
……それは本当に、神の采配と言ってもいい偶然だった。
五人くらいの悪漢どもに足蹴にされ、起き上がるのがやっとという状態までボロボロにされたある時……煤煙や土埃で汚れた路地裏の舗道に倒れていたわたしの、手が届くすぐ近くの所に、窓ガラスの破片が一枚落ちていた。わたしはそのガラス片を、立ち去っていく悪漢どもに見つからないよう、こっそり拾って手元に隠した。そして……。
「おい、こんなもんで逃げるのかよ。―――――野郎め」
語彙力が壊滅的に欠けていたわたしの、精一杯の侮蔑的な物言いに、案の定、悪漢どもはブチ切れて再びわたしに襲いかかってきた。地面にうずくまっていたわたしが、ガラス片という刃物を隠し持っているとも気づかずに……。
一分も経たないうちに、わたしは悪漢どもをガラス片一枚で制圧した。というか、頸動脈をばっさりと切りつけたので、当たり前だが全員死んだ。そのうちの一人は、見せしめで他の連中を怯えさせるために、一太刀で倒した後、なぶるように首にガラス片を何度も突き刺した。文字通り、首の皮一枚で頭部が繋がっているような状態だった。他の連中も、手首や目元などの急所を切りつけられていた。
雨が降ってきた。舗道のおびただしい血だまりは、徐々に洗い流されていく。わたしの顔についた返り血も、どんよりとした空を眺めれば、少しずつ流されていく。水もろくに手に入れられないわたしにとって、それは恵みの雨だった。
「…………苦い」
頬を伝い、口元に流れてきた雨水は、錆びの味がした。
終わった、と思った。いずれこいつらの遺体は見つかって、顔や服に返り血を浴びたわたしが犯人だと簡単に分かる。これ以上自分が傷つかないためとはいえ、五人も殺したわたしは救いようのない犯罪者だ。スラムのような界隈に生きていても、それくらいはわたしにも理解できた。きっとわたしは捕まって、処刑される。
まあ、いっか。わたし一人が死んだところで、もはや誰も気に留めない。社会が下す罰で死のうと、汚い路地で野垂れ死にしようと、どちらも変わらないことだ。
そんな事を考えていた時……わたしに話しかける人が現れた。
「そこの君、お腹はすいてないかい」
腹の底から通り抜けるような、男の声が背後から聞こえた。びくり、と驚きながらも、わたしは素早く振り向いて、血まみれのガラス片を差し向けた。
スーツをしっかりと身に纏う、目をみはるほどの長身の男が立っていた。雨の中だというのに傘もささず、髪も服も濡れているというのに、穏やかな笑みを浮かべながらわたしをじっと見ていた。……見下ろしていた。
「……お前、誰だ」
わたしはその男をキッと睨みつけ、言葉を絞り出すように尋ねた。しかし男は顔色ひとつ変えることなく、質問にも答えることなく、こう告げた。
「いい目をしている。幼さゆえに、自制心は未熟なようだが」
当時のわたしには、その言葉の意味が正確には理解できなかった。ただ、品定めをされていることは察しがついた。そのことがわたしは気に食わず、しかも五人の男の遺体が転がっているこの状況で、穏やかに笑っているその態度が不気味でもあった。
ほとんど反射的に、わたしはこの男を排除しようと動いた。地面を蹴って飛び出し、無防備なその男の喉元をめがけて、ガラス片の切っ先を突き出した。
ところが、確かに狙いをすましたはずの男の首は、瞬時に消えた。空を切ったガラス片、それを握るわたしの右手は、直後にがっちりと掴まれた。
気がつくとわたしは、ガラス片を持つ手を掴み上げられ、空中にぶら下がっていた。もちろん、この怪しげな男の仕業だ。
何が起きたのか、一瞬分からなかった。だがすぐ我に返り、抵抗しようと身をよじり、男の手から逃れようとした。冷静に考えたら、大の男に掴み上げられた状態で、幼い女の子だったわたしがどうしたところで、逃れるすべなどなかったのだが。
そう、逃れられるわけがなかった。でも男はこともあろうに、暴れるわたしを鎮めるために、わたしの右手を掴む手にさらに力を込め、ひねり上げた。その強烈な、脱臼するのではと思えるほどの痛みは、確かにわたしをおとなしくさせるには十分だった。小さな女の子の扱いとしては、かなり問題があるが。
「いっ……!」
「まったく、まるで野良犬だな。悪いが、少し眠っていてくれ」
そして男は、わたしを掴み上げたまま、近くに壁にわたしの体を押しつけ、もう片方の手を拳にして腹部に突き立てた。
さっきの悪漢どもとはわけが違う。格が違う。敵う相手じゃない。喉が焼かれるような痛みと酸味の後に、そんなことを考えたのも束の間、わたしの意識はふっと途絶えた。
* * *
あれからどれだけ経っただろう。牢獄のような暗い一室で、わたしは目を覚ました。
硬いベッドの上で横たわっていたわたしには、薄い毛布がかけられていた。雨で濡れていたはずの服も、囚人服を思わせる白いつなぎに変わっていた。髪も体もきちんと乾かされていた。気絶している間に、わたしはまあまあ丁重な扱いをされたらしい。
もっとも、片足に枷が嵌められ、壁と鎖で繋がれていたから、どこまでも丁重ではなかったが。
「やあ、ちょうどお目覚めみたいだね」
あの男の声がした。牢獄の、唯一外と繋がっている鉄格子の扉が開かれ、スープ皿とパンを載せたお盆を片手に、あの男が入ってくるところだった。こいつも雨で濡れたからか、スーツを着替えている。
殴られた腹部の痛みはまだ残っている。その痛みが、目の前にいる男への怒りを掻き立てる。傷のひとつでもつけてやろうと、飛びかかろうとしたが、足枷のせいでベッドの上から降りることさえできなかった。
「まったく、困った暴れん坊だ。逆らえなくなると思って多少痛めつけたが、どうやら逆効果だったみたいだな。ところで君、お腹はすいてないかい」
鼻息の荒いわたしを歯牙にもかけず、男はベッドの上にお盆を載せた。パンの香ばしい匂いと、薄黄色のスープの甘い香りを含んだ湯気が漂い、怒りに支配されていたわたしの意識が引き寄せられていく。
幼かったわたしに、理性で欲を抑える力はなかった。唾液は口元から垂れてしまうし、腹の虫は盛大に鳴いてしまうし。まあ、これまでの境遇があまりに悲惨だったせいか、羞恥という観念が育ってなかったので、そんな体たらくでも恥ずかしいとは思わなかったが。
男は銀色の匙でスープを掬うと、ふぅふぅと息を吹きかけてほどよく冷まし、わたしの目の前に持ってきた。食べさせてくれるのか、と純粋にそう思ったわたしは、何も考えずその匙に食いつこうとした。
しかし、寸前で男は匙を引っ込め、なんと自分の口に入れた。
「…………」
「そんな目で見ないでくれ。君は、自分が何をしようとしたか、分かっているのかい」
「え?」
「君はさっきまで、僕を敵だと思っていたはずだ。そんな僕が持ってきた食事に、何の疑いも持たず手をつけようとした。毒が入っていることくらい、最初に疑うべきだ」
そんなこと、考えもしなかった。当然だろう、わたしはまだ幼い子どもだったのだから。毒を盛られた経験でもなければ、真っ先にその可能性を疑うなんて、まともな子どもがやることじゃない。
……いやまあ、一分も費やさずに五人を殺した時点で、まともじゃないが。
男は胸ポケットから手巾を取り出して匙を磨くように拭くと、今度はスープ皿と一緒に渡してきた。
「これで毒見は済ませた。安心して食べるといい」
ようやく分かってきた。この男は、わたしに正しい危機意識を教えると同時に、スープに毒が入っていないことを証明したのだ。どことなく方法が意地悪めいて見えるが、子どもゆえの甘さを正すためでもあったのだろう。
まあ、毒が入っていないというなら、今度こそ遠慮なくいただこう。わたしはスープと匙を受け取った。
「…………」
スープを匙で掬う前に、わたしは自分の着ていた服で、もう一度匙を拭いた。そしてようやくスープを口に運ぶことができた。
ああ……甘い……温かい……こんな料理を食べたのはいつぶりだろう。もしかしたら、物心ついてから初めてかもしれない。そのくらいわたしは、温かい食事に飢えていた。
がっつくようにスープを半分ほど食べたあと、一緒に置かれていたパンを手に取った。適当なところから一口大にちぎって、それを、目の前の男に差し出した。
「ん? ああ、これも毒見か……」
すぐに察した男はパンの欠片を受け取り、あっさり口に入れた。これも安心して食べていい、と思いながら、わたしはパンを少しずつちぎりながら食べていった。
結局、ぜんぶ食べてしまった。胃袋が満たされたためか、わたしの、男への警戒心は薄れている。とりあえず敵というわけではなさそうだ。
その男が、食べ終えて満足そうにしていたわたしを見て、呟く。
「なるほど、君は賢いね」
「…………?」
「さっきの戦い方を見た時も思った。ガラス片は十分な殺傷能力があるが、力の弱い君が振り回しても、無駄な抵抗にしかならない。確実に相手を仕留めるには、相手から近づいてくるように仕向け、隠し持っていた凶器で、一番の急所である首を切りつけるのが最適だ。その後も、残りの連中をただ切りつけるのではなく、最初に倒した奴を徹底的にいたぶることで、相手の戦意と士気を下げておき、隙を見せたところを狙って手首や目元など、血が出やすい場所を切りつけた。そして動揺したところで首を切ってとどめを刺した……本能的かもしれないが、実に見事な戦い方だった」
当時のわたしに、難しい理屈は理解できなかったが、わたしが悪漢五人を殺したところを見て、何やら分析していたらしいとは分かった。どうやら称賛していたようだが、わたしはちっとも嬉しくなかった。自衛とはいえ、弾みとはいえ、人を殺したのは事実だ。そのことを後悔していたはずのわたしを褒めても、なんら気が晴れるものじゃない。
「それに今も、僕の助言から学んで、食べる前に匙を、自分の服でもう一度拭っただろう。スープに毒が入ってなくても、僕の手巾に毒が仕込まれている可能性を疑ったからだ。パンを食べる時も、直接かじらずに手でちぎって食べることで、内部に毒入りの錠剤などが仕込まれていても、誤って口に入れることを避けられる」
「……ずっと観察されていると、気味が悪いです」
「すまないね。人が戦っているところを観察して品定めをするのが仕事でね、職業病みたいなものだ。だが、おかげで素晴らしい逸材を見つけられた」
そう言って男はニヤリと笑った。このときのわたしには、この男が何を考えているのか、露ほども分からなかった。
男は一歩うしろに下がると、胸に手をあてて恭しく頭を下げた。
「名乗るのが遅くなった。僕は、アムリゴ国軍陸上部隊、第二陸上師団隊長、アーネスト・コメット少将という。気軽に“将軍”と呼んでくれたまえ」
絶対気軽に呼べない……と、子どもながら思った。
名乗られた役職や階級がどの辺りのものなのか、軍隊の知識がなかったわたしには見当もつかなかったが、たぶん結構偉い人なのだろうと察した。そんな偉い人が、幼い女の子を気絶させて攫って、挙句に牢屋みたいな所に閉じこめて、何のつもりだろう。
「……本当に軍隊のひとですか」
「その目は完全に怪しんでいるね……まあ無理もないか。君をここに閉じこめているのは、また暴れて怪我をされても困るからだ。こっちが君に用があるのに、まともに話を聞いてもらえなくては、たまったものじゃない」
「軍隊のひとがわたしに何の用ですか」
「端的に言うと、君を軍にスカウトしたいと考えている」
……それはつまり、わたしをアムリゴ国軍の一員に加えたい、ということか。
え? 本気で? わたしみたいな、貧乏で教養もない女の子を?
コメット少将の申し出に、わたしはもちろん困惑した。というか混乱した。その様子を察したのか、彼はしゃがんでわたしに目線の高さを合わせると、じっとわたしを見つめながら告げた。
「君には兵士としての才能がある。身体能力、判断力、度胸。どれも申し分ない。我が軍に入ればその才能を存分に生かせるだろう。ただ、君にはまだ知識と経験が足りないし、歳も幼い。だから今すぐ入隊させることはできない。その代わり、僕が君の身柄を預かって、兵士となるための、最低限の教育と指導を行なう。どうだろう?」
「……それ、断ったらどうなるんですか」
「この部屋から出した後、元いた場所に帰すだけだよ。食べ物も水もろくに手に入らない、怪我をしても誰も助けてくれない、そんな世界に逆戻りするだけだ。もちろん我々は無関係だから、たとえ君が困っていようと手出しはしない」
それでは、断るという選択肢は初めからないようなものだ。コメット氏の管理下に入れば、そうした厳しい環境から逃れられる。
まあ、受け入れたところで、生活環境が劇的によくなるという保証はないし、闇の中での暮らしに慣れてしまった今、断ったところでデメリットが大きいとも言えない。もとよりわたしは、野垂れ死にする覚悟もしていた。
でも……いずれ無様に死ぬのなら、それまでは温かいスープを飲んでいたい。
「……さて、答えは決まったかな」
コメット氏からの問いかけに、わたしは俯きながらも、しっかりと頷いた。そして、ひとつしかなかった答えを返した。
「……ここにいさせてください」
待っていた答えを聞けて満足したのか、コメット氏はふっと笑いながら、わたしの足に嵌めていた枷を鍵で開けた。……まあ、どんな答えが来ても、いずれこの牢獄から出すつもりだったみたいだが。
ようやく拘束を解かれたわたしは、ベッドを降りた後に尋ねた。
「そういえばわたし、人を五人も殺してしまいましたけど、大丈夫でしょうか」
「心配いらないさ。五人程度なら、遺体を処分して痕跡を消すなどわけもない。もみ消しこそ、国家権力の本領だからな」
この当時はよく分からなかったけど、コメット氏が、ろくでもないことで誇らしげにしていることは分かった。
「それに、君が殺したのはたった五人だ。これから軍に入れば、君は何百人も殺すことになるだろう。その程度で罪悪感など覚えるな」
最後の最後で、コメット氏の軍人気質が現れたのか、厳しく重い言葉がわたしにのしかかってきた。忘れかけていたが、兵士とは人を殺すのが仕事だ。彼もまた、わたしが人を殺すところを見て、わたしを引き入れようとしたのだ。
でも、他に道はなかった。引き返すこともできなかった。立ち止まることも許されなかった。運命に逆らう力をもたないわたしは、ただ進み続けるしかなかったのだ。
* * *
それからは、じっくり思い返すこともままならないほど、怒涛の日々だった。
年齢の壁もあって、訓練生にすらなれなかったわたしは、コメット氏の別荘がある山の中に移って、彼の指導の下で独自に訓練を始めた。体力づくりはもちろん、あらゆる武器を使用した戦闘訓練も、一日も欠かすことなく行われた。並行して、軍隊で生きていくための最低限の知識も、座学で叩きこまれた。
元々の才覚なのか、コメット氏の教育の賜物なのか、二年後には、正式な隊員となるための試験すべてに合格するほどの能力を身につけた。それでも志願できる年齢には到達していなかったため、あくまで非公式という形で、わたしは本格的にアムリゴ国軍の訓練に参加することとなった。
自分で言うのもあれだけど、向かうところ敵なしだった。体術訓練では、他の隊員との体格差をものともせず、大体は一撃で相手を倒すことができた。高所やがれきの山を踏破する訓練は、三日で及第点をもらえた。コメット氏の下で、厳しい体力づくりを続けた成果が出たようだ。
だがそれ以上に結果が出たのは、鍵開けや爆弾の解体など、知識と集中力が求められる作業だった。言葉も分からない状態から始めていたので、他の隊員より明らかに走り出すのが遅かったが、わたしは三年ほどで追い越したことになる。工学、薬学、生物学、地政学……果ては歴史や言語学やコンピュータ科学まで、とにかくあらゆる知識を効率重視で詰め込み、それらを元に高度な技術を身につけた。その凄まじい成長は、各分野の教官を唸らせるどころか、もはや恐れられていると言ってもよかった。
そんな感じだったので、正式に入隊する前から、わたしは軍の内部では注目の的だった。制服級の人物が個人的に預かっているということで、ありもしない醜聞をでっち上げられないよう、わたしの存在は一応秘匿事項となっていた。だから軍以外では、わたしのことは噂にも上っていない。逆に言えば、それだけわたしは、軍内部にとって台風の目になりかねない存在だったのだ。
当然、規定の年齢に達してすぐに受けた入隊試験も、そしてその後の実地訓練も、軍の誰もがその結果に注目していた。まあ、あまり自慢になっても嫌だから、細かいことは省くけど、どちらも難なく突破することができた。
ちなみにアムリゴ国軍への入隊には、アムリゴ国民である証明もしくは永住権が必要らしい。わたしは元々、身寄りも住む家も持たない孤児だったので、どちらも持ってはいなかった。だが、コメット氏の別荘で少なくとも二年間、一度も国外に出ていないことは証明されたので、彼が軍の上層部を介して手を回した結果、アムリゴ国籍を取得することができたのである。……コメット氏はどうしても、わたしを軍に入れたいみたいだ。
そして、一定期間の実地訓練を終えたことで、わたしはアムリゴの市民権も獲得し、ようやく自立して生きていけるようになった。もう普通に暮らしていける、というコメット氏の判断もあり、わたしは彼の別荘を出て、ひとり暮らしを始めた。軍を退官して地方へ引っ越すことになった知り合いが元々住んでいた、ノイヨルケ郊外の一軒家をもらって、そこに住み始めたのだ。
……少々、ひとりで住むには広すぎるとは思ったが。
感慨深いものはあった。親もない、友達もない、お金もない、家もない……そんな境遇にあったわたしが、まさか自分の家を持って普通に暮らすことになろうとは。思えば、道端でガラス片を拾ったところから、すべては始まっていたのだ。これが神の采配というのなら、どれだけわたしは神に愛されているというのだろう。
すべての荷物を運び終えて、玄関の外でそんな感慨にふけっていると……。
「あら、もう新しい人が入ったのね。こんにちは」
生け垣の向こう、隣の家の敷地で、泥だらけの手で鉢植えを抱えているひとりの女性が、わたしに声をかけてきた。軍と関係のない、かたぎの人に声をかけられるのは初めてだったから、わたしは珍しく緊張してしまった。
「……こ、こんにちは」
「きょう引っ越してきたばかりなの?」
「は、はい」
「じゃあ、あとでご挨拶にお土産を持っていくわね」
そう言って、彼女は笑った。長い軍隊教練を経て、知らないうちに心がすさんでいたわたしには眩しいくらい、屈託のない笑みだった。
ここまでは、わたしが少年兵となるまでのお話。
そしてここからは、わたしがお隣の女性、ナオコさんと出会って、普通の人間になっていくまでのお話だ。
やっと登場しました。ベールに包まれた謎の女性、ナオコさん。
次週はローゼとナオコさんの、一風変わった交流をお楽しみください。




