Section 1-Four
荒廃した世界を描写するのは難しいです。
誰か教えて。
それはともかく、事態が実に都合よく展開するエピソードを、どうぞご覧あれ。
嫌な息苦しさで目が覚める。
わたしの起床は不規則だ。特定の時刻に起きることはなく、いつも自然に任せている。気持ちよく起きられるよう快眠を心がけているが、たまにこうして、最悪な目覚め方をしてしまうことがある。
「心安らかに死ねる場所、か……そんな所にわたしが行ったら、バチが当たるな」
昨日の少女の話を思い出す。死ぬまで安息が訪れない、その覚悟はできていた。
薄汚れたカーテンの隙間から、暗い部屋の中に光が差し込む。ここはわたしがねぐらにしている、古い宿泊施設の一室。決まった家を持たず旅をしているわたしにとって、少しでも快適に夜を過ごせる場所は重要だ。ここは建物も寝具も古いが、定期的に掃除や洗濯がされているから、それほど不快にならずに寝られる。その分、代金は割高だ。
しっかり稼がないと……妙に重たい体を起こして、わたしはベッドから這い出る。
ぬるいシャワーを全身に浴びて覚醒を促し、習慣である朝の歯磨きをすれば、出かける準備はほぼ完了する。この国は周辺諸国と比べて水道設備が整っているので、古い施設でもこうした身支度ができるのだ。
施設を出て、すぐ近くの朝市でパンと果物を買って、歩きながら軽い朝食を済ませる。昨夜のうちに、ビエラットの資料と地図を照らし合わせ、どこを尋ねて回るか決めておいた。昨日は明るい時間をあまり調査に使えなかったから、なるべく効率よく回りたいのだ。ゆえに、食事の時間さえ惜しんでいる。
昨日は、一番新しい被害者の所へ行くつもりだった。途中で予想外の遭遇をしてしまい、それは叶わなかったが……とにかく、記憶が新しいうちに話を聞かなければ。
貧民街に足を運び、頭の中で印をつけた地図を頼りに、目的の家に向かう。
しかし、何か未知の力でも作用しているのか、またしてもその家にたどり着く中途で、わたしは思わぬトラブルに見舞われた。後ろから駆けてきた人が、わたしの背中にぶつかってよろけたのだ。幸い昨日の少女と違い、転ぶことはなかったが。
「す、すみません!」
その声は幼い少女のものだった。つばの広い白い帽子を目深にかぶっていて、顔は見えなかったが、身長もわたしの胸の高さしかないし、たぶん年端もいかない子どもだろう。だからと言って、見過ごすことはできないが。
軽く頭を下げて立ち去ろうとした少女の、やせた腕を掴んで引き止める。
「…………!」
「手癖の悪い子がいたものね。君の親はきちんと教育もできないほど忙しいの?」
少女はびくびくと怯えながら、ゆっくりと振り向く。日に焼けた浅黒い肌の、あどけない顔が恐怖に歪んでいた。
わたしは少女を睨みつけながら、もう片方の手を差し伸べる。
「返しなさい。それをあげると言った覚えはない」
少女はしばらく躊躇していたが、やがて諦めたのか、掴まれていない方の手に、一個の財布を持ってわたしに差し出した。
そう、彼女はわたしの財布をすり取ったのだ。さっきぶつかったときに、一瞬の隙を突いて……スリの技術は高いようだけど、後ろから攻めたせいで、服の内側に入れていた財布をかすめ取ろうとして、不自然な動きをしてしまったのだ。だからすぐに気づいた。
「まだまだね。スリの技、誰に教わったの」
スリ少女の手から財布を取り戻し、わたしは尋ねた。彼女はぼそぼそと答える。
「……練習、した」
「ふうん。スリを始めて長いの?」
「去年から、やってる」
立派な常習犯だ。親は知っているのだろうか。彼女がすったお金で食っているとしたら、親が娘にスリを教えたか、あるいは強要している。誰に教わったのかという質問に、練習したと答えたのなら、前者は否定される。しかし後者の場合、親から身体的な暴力を受けることがあり得るが、この子の体にそれらしい傷跡はない。つまり親は関知していない。いや、あるいは……。
「あなた、親がいないの?」
そう尋ねると、スリ少女は目をそらしてから、こくりと頷いた。
悪いことをしたかな……彼女は自力で生きるために、やむを得ずスリに手を染めたのだ。それ自体が許されるかどうかは、この際問題ではない。頼れる大人がおらず、日々の暮らしさえままならない彼女に対して、わたしは最初に何と言ったか。
……あんなことを言われたら、いい気はしないだろうな。
「そうか。恵んでやるわけにはいかないが、ここは見逃しておく。怖がらせてすまなかった」
「……おなかすいた」
スリ少女はわたしの懐をじっと見て、指をくわえながら言った。
このクソガキ……スリが失敗した途端、別の手段に打って出やがった。大方、わたしが懐に入れている、朝市で買ったリンゴの匂いに気づいたのだろう。調査の道すがら食べようと思い、そのまま懐に入れていたのだ。恵んではやらないと言ったばかりだが、昨日の事もあって、空腹状態の子どもを放置するのは気が引けた。
まんまとわたしは、彼女にリンゴを与えてしまった。
満足そうにリンゴを頬張る少女とともに、わたしは貧民街を歩いていく。外見や服装で察していたが、彼女……エリーは一応この地区の住人で、小さな家で三歳年上の姉と二人で暮らしているという。話の続きはその家でやろうということになり、連れ立って彼女の自宅に向かっているのだが……。
「え? じゃああなた、親はいないけど独りぼっちではないのね」
「そうだよ。でも……」
果物の欠片を飲み込んでから、エリーは暗い表情になって告げる。
「この前から、ひとりになっちゃった」
「ん? お姉さんは?」
「……いなくなったの。お仕事に行ってくるって出て行ったきり、戻ってこなくて」
それって、まさか。
「ねえ、それっていつのこと?」
「えっと……」エリーは指折り数える。「四日前だよ」
「じゃあ、そのことは誰かに話した?」
「うん、次の日に……この辺りを見回りしている人に、相談したよ」
その人物は恐らくビエラットの手下の一人だ。例の人身売買の事件……一番新しい日付が、エリーの姉が失踪した日と重なる。ビエラットたちはこの失踪を、身売りのための誘拐だと考えたのだろう。
それにしても、まさかこの少女が、これから訪ねようとしていた家の身内だったとは、昨日からずいぶん、思いがけないことが連続している。まあ、こんな願ってもない幸運、逃す手はないのだが。
エリーの家に到着する。周りにある他の家と同じく、木材と大きな石を組み上げてトタン板の屋根をつけただけの、なんとも心もとない家屋であった。エリーは家の中に入っていくと、丸太を切り出したと思しき円筒形の椅子を持って戻ってきた。
「どうぞ、座って」
これはご丁寧に。わたしは遠慮なくその椅子に腰かけた。
「それじゃあ、お姉さんがいなくなったいきさつを、もう少し詳しく教えてくれる?」
彼女にはすでに、探偵という身分を明かしていた。現在調べている事件に、姉の失踪が関わっている可能性が高いので、姉の行方を特定するためにも詳しい話を聞きたいと頼んだのだ。もちろんこれは別件の調査の一環なので、お金はとらないと約束している。
エリーも、追加で持ってきた丸太の椅子に座って、話し始めた。
「お姉ちゃんは、隣町との境目近くにある工場で、ゴミの整理とかをする仕事をしてるんだ。えっと、どれくらいになるかな……たぶん始めて二年くらいになるね。その頃にお父さんとお母さんが死んで、お父さんの知り合いに紹介されて働き始めたの」
「お姉さんは、君がスリをしていることを知っているの?」
「……何も言ってこないけど、たぶん知ってると思う。ゴミ整理の仕事だけじゃ、わたしとお姉ちゃんが暮らすにはとても足りないから……」
十分な食い扶持を稼げない負い目があって、妹が生きるためにスリを働いても、無闇に叱ることができないのだろう。まあ、ここではどうでもいい話だ。
「じゃあ、お姉さんが他の仕事を探していた様子はあった?」
「他の仕事?」
「今の仕事だけじゃ足りないから、他の所に出稼ぎに行った可能性もあるでしょ」
そう言ってはみたが、かなり低い可能性と見ている。稼ぎが足りなくて妹にスリまでさせていることを負い目に感じているなら、その妹をひとり残して出稼ぎに行くとは考えにくい。
だが、姉が何か稼ぎになりそうな誘いに乗って、合意の上で連れ去られた可能性も否定できないのだ。その場合、一見して誘拐だと気づかれにくいため、誰が目撃しても記憶に残らない恐れがあって、より足取りを辿るのが難しくなる。
「うーん……そんな様子はなかったよ。工場での仕事がほぼ毎日あるから、他の仕事をする余裕はなさそうだし……でも、そろそろやめたいって言ってたかな」
「ふうん。それって、他に稼げそうな仕事が欲しいってこと? それとも工場でのゴミ整理が毎日きつくて大変だから?」
「仕事がきついっていうのはあるけど、それ以上に、一度いやな目に遭っているから……」
「いやな目?」
エリーの話によれば一か月ほど前、工場での仕事中、スチール棚の上から落下した段ボール箱が頭に当たり、姉が怪我を負ったことがあるという。どうやら近くにあった機械の振動で、段ボール箱が徐々に動いてバランスを崩したらしい。本来なら姉に過失はないので、工場の管理者が治療費をいくらか負担してもいいのだが、工場側は無関係という立場を押し通し、治療費の負担には応じなかった。
「結局、外国の人たちがやってる病院で、なるべく安く済むように取り計らって手当てしてもらったけど、それでも結構かかっちゃって……」
ああ、昨日行ったあの病院か……人道支援の名目があるから、あまり治療費を高くしていないが、やはり貧乏な家では、一回の治療で生活が圧迫されるらしい。工場もこの家の経済状況を承知しているだろうに、治療費の保障もできないとは……。
「確かにそれは嫌気が差すだろうな。でもやめていないのか?」
「やめたら何をされるか分からないって……」
エリーは目を伏せながら言った。この反応だけで、工場の実情が察せられる。
とんだ仕事場を紹介されたものだ。とはいえ、似たような事例はどこにでもあるし、取り締まるシステムもなければ、あえて問題視する人も少ない。今この世界の辞書には、人権という単語が存在しない。
しかし、どうも引っかかる。どこが引っかかるのか分からないのがもどかしい。
「それで四日前も、お姉さんは嫌々と工場へ仕事に行ったわけだね」
「嫌々と……まあそのとおりだけど」
「失踪に気づいたのは、本来帰ってくる時間に、お姉さんが帰ってこなかったから?」
「うん。いつもは暗くなる前に帰ってくるんだけど、あの日は朝になっても帰ってこなくて……もしかしたら、また工場で何か起きたんじゃないかって不安になったの」
この子も姉の勤め先を全く信用していないな……。
「それで、見回りに来た人にこのことを話したんだね?」
「この街を守っている人たちで、近所の色んな人たちから相談されていたから……」
「その人、なんて言ってた?」
「うちのリーダーに話しておくから、もう少し待っててって」
ビエラットのことだろう。エリーの話を聞いてすぐに、人身売買絡みの誘拐の可能性があると判断したのだ。
「その後、あなたはどうしたの?」
「言われたとおり待つことにしたけど、今までお姉ちゃんがいないなんてこと、なかったから……寂しくて次の日まで泣いてた。あ、ちょっとだよ! ちょっとだけだから!」
暗い表情になったかと思えば、頬を朱に染めながら訂正した。
「はいはい、意外と強がりなのはよく分かった」
「むぅ……でもその時に、通りがかった人に声をかけられて、色々と励まされたんだ。あ、実はこの帽子、その人からもらったものなんだよ」
エリーは自分の頭にかぶっている白い帽子を指差した。なるほど、道理でボロボロの衣服と比べて、ずいぶん綺麗な帽子だと思った。
ん? 綺麗な、帽子……?
「ねえ、その通りがかった人って、どんな人?」
「お姉ちゃんと同じ年くらいの、女の人だよ。すごく白くて綺麗な肌の、美人さん」
「……こんな感じ?」
わたしは、ある写真を見せて尋ねた。小型カメラでこっそり撮影していた、あの記憶喪失の少女の顔が写っている。
「あ、そうそう、この人だよ。お姉さんの知り合いなの?」
「……限りなく他人に近い知り合いだな」
脱力しそうになる。昨日あの少女が、眠りから目覚めた次の日に、小さな女の子に帽子をあげたと言っていた。その女の子というのが、いま目の前にいるスリ少女だったのだ。何なのだろう……昨日から妙に、あの記憶喪失の少女の存在がちらついている。よもやあの子が裏で糸を引いているのではあるまいな。
しかし、そうか……エリーがかぶっている帽子は、元々あの少女のものか。だったらこの帽子に、彼女の素性を突き止める手掛かりがあるかもしれない。
「なあ、その帽子、ちょっと見せてくれないか?」
「え? うん、いいけど……」
エリーは帽子を脱いで、わたしに手渡した。
まずは材質を確かめる。一見しただけで分かるほど、いい生地を使っている。あの少女の着ていた衣服もそうだが、やはり彼女は資産のある家の人間だろうか。だとすると、なぜこの貧民街に、それも記憶を失った状態で倒れていたのか、その謎が残る。
帽子を裏返して内側を見る。すると、あからさまな手掛かりが見つかった。
「これは……刺繍か?」
帽子のサイドの裏側に、刺繍で文字が書かれていた。“シャルロット”と読める。これがあの少女の名前だろうか。
うーん……他にも何か手掛かりがないか、丹念に帽子を調べていると、エリーが声をかけてきた。
「ねえ、その帽子をくれたお姉さんと知り合いなら、その人に帽子、返してくれない?」
「え? もらったものでしょ?」
「そうだけど、すごく綺麗な帽子だから、汚したらもったいないなぁって。ここに住んでいたら、普通に暮らしているだけで服とか汚れるし」
洗えば問題ないのでは……とも思ったが、そんな余裕があれば、彼女はこんなボロボロの服を着ていないだろう。たぶん、そう何着も替えの服は持っていない。
とはいえ、他人にあげたものをわたしが返すというのも、どうなのだろう。変な誤解をされそうだし、あの子が素直に受け取る保証もない。ここはエリー自身が返しにいった方が無難だろう。
ああ、そうだ。ついでに情報提供のお礼もしておくか。
「だったら、君が直接返しにいきなさい。このお姉さん、大通りを西に行った先にある、大きな病院に入院しているから」
「入院? 大丈夫なの?」
「空腹で倒れた程度だし、たぶん大丈夫よ。地図と病室の場所を、紙に書いて渡すから、君が届けていきなさい。無事に届けられたら、二百ポルドあげるから」
「ホント? お金くれるの?」
急に目を輝かせたな、このガキ。わたしは呆れながらも、手元の紙にさらさらと地図を書く。
「まあ、ちょっとした仕事だと思いなさい。今日と明日の飯代くらいにしかならないけど、またスリをさせるよりはマシだから」
「……お姉さん、見た目はちょっと恐いけど、意外と優しいですね」
「やかましい」
別に自分が優しい性格だとは思っていない。ただ、鬼になれないだけだ。
地図と病室の番号を書いた紙をエリーに手渡す。お金を受け取ったわけでもないのに、まるでプレゼントをもらったみたいに喜色をあらわにしている。
「約束だからね! ちゃんと二百ポルドちょうだいね!」
そう言って紙を持つ手を大きく振りながら、エリーは駆け出していった。
さて……エリーの姿が見えなくなったところで、わたしは椅子から立ち上がった。そろそろこの調査も終盤戦に入る。
やはり記憶が新しいうちに聞き込みをするのは価値がある。エリーの話を聞いているうちに、少しずつ、この誘拐事件の輪郭が見えてきた。あとは必要な情報を集めて、全体像を導き出す。時間も惜しいし、ここは彼らの力を借りることとしよう。
通信端末を取り出して、電波のチャンネルを調節する。耳元にあてがうと、ノイズに交じって数回の電子音が響いた後、ビエラットの声が聞こえてきた。
『……おう、どうした』
「ビエラットね? 昨日頼んでおいたこと、調べてくれた?」
昨夜、病院を出て宿泊施設に戻った後、わたしはビエラットにいくつか調べ物を頼んでいた。調べものといっても、すでに彼らの手中にあるはずの資料の、一部を整理して見せるだけなのだが。
『ああ、なんとかご所望のものは揃えられたよ。どこで渡せばいい?』
「じゃあ、昨日のバーで」
『了解。そっちの進捗状況も、聞かせてくれよ』
「……できる範囲でね」
それだけ答えて、わたしは通信を切った。長話ができるほど、端末のバッテリーに余裕はなかったのだ。
言い忘れたかもしれませんが、ジャンルを“推理”と設定したものの、それほど凝ったトリックは使わない予定です。ドラマティックな頭脳戦とか、主人公ふたりのやり取りとか、世界線を読み解く展開がメインになります。
たぶん次週もそんな感じになるので、そのつもりでご覧いただければ。