Section 1-Three
彼女には、一昨日より前の記憶がない。自分の名前も年齢も、恐らくは出自も覚えていない。やや常識に欠けるところはあるが、会話に支障がないということは、欠落しているのはエピソード記憶だけ……典型的な記憶喪失の症状だ。
さて、困った。名前も住む家も覚えていないとは……病院側も、患者の名前が分からないのは困るだろうし、いざ治療費を請求する場面になって、住居も家族も不明な一文無しの患者に支払えるわけがない。たぶん、わたしが立て替えることになるのだろうが、退院後の面倒まではさすがに見きれない。
彼女がこの地域に住んでいるなら、ビエラットに調べてもらえば素性を特定できるかもしれない。しかし、彼女の肌の色や衣服の素材を見る限り、この街とは違う場所、しかもかなり遠い国から来た可能性もある。そうなるとビエラットの手にも負えない。
いずれにしても厄介だ。どうしたらいいものかと頭を抱えていると、少女が不安そうに声をかけてきた。
「あの、すみません、ご迷惑ばかりかけているようで……」
「まあ、迷惑に感じているのは否定しないけど、記憶喪失なら責められないわよ。あなた、二日前に目が覚めてから、飲まず食わずでこの街を徘徊していたみたいね」
「はい……どこを頼ればいいのかも分からなくて」
そのつらさは察するに余りある。自分が何者かも分からず、頼るものも分からず、生きる糧を手に入れる手段もないのだ。この街に、見ず知らずの女の子に手を差し伸べる、そんな余裕のある人も滅多にいない。わたしと遭遇したのは、彼女にとっては幸運だっただろう。……彼女にとっては。
「あのままだとどうなっていたか……本当に、お姉さんのおかげで助かりました」
「うん、問題の大部分は解決してないけど、どういたしまして」
「落ち着いたらお礼がしたいので、お姉さんのお名前を尋ねてもよろしいでしょうか」
どんなお礼をするつもりか知らないが、さて、どうしようか。少し考えて、構わず教えることにした。記憶喪失の少女に、わたしの身分を悪用する知恵も働くまい。
「名前はないけど、一応、ローゼという通り名を使っている。世界中を旅しながら、探偵の仕事で日銭を稼いでいる」
「探偵さんですか」少女は目を見開く。「あの、推理とかをして、事件を解決するという?」
間違ってはいないが、どうも曖昧なうえにずれている気がする。たぶん、小説や舞台などの物語めいたところから知識を得ているのだ。いちいち訂正するのも面倒だが。
「まあ、そんなところ。ちょうど今は、この地域の有力者から依頼を受けて、ある事件を調べている。詳細は話せないけどね」
「本当にすみません……お仕事の最中でしたのに」
「いいよ、どうせ急ぎの仕事でもなかったし」
なんて言ったら、ビエラットに怒られるだろうか。実際わたしは、人身売買の一件が、それほど調査に急を要するとは考えていない。さらわれた子どもがどこに売られようが、実態を知ったビエラットたちがどんな手段に訴えようが、いずれこの街を出ていくわたしには関係ないのだ。
わたしはただ、依頼に基づいて事実を突き止め、しかるべき手段に従って報酬を得る、それだけだ。
「あの……探偵さんって、事件じゃないと依頼は受けてくれないのですか?」
少女が不安そうに尋ねてきた。
「いや? 調べてほしいことがあれば、基本的に何でも受け付けるよ。もっとも、報酬をきちんと支払える必要はあるけど……まあ、依頼の程度によるかな」
「……そう、ですか」
「何かわたしに、依頼したいことがあるみたいね」
少女はきゅっと口元を結んだ。図星という反応だ。大方、自分が記憶をなくした原因や、記憶喪失になる前のことなどを、調べてほしいのだろう。しかし報酬を支払える見込みがないから、言い出せないでいるのだ。
「引き受けるかどうかはともかく、何をしてほしいか聞くだけなら、お金はとらないよ。とりあえず話すだけ話してみたら?」
「……重ね重ねすみません。別のお仕事の最中ですし、ご無理は承知でお願いしようかと思っていたのですが」
「うん」
「その、ローゼさんは、世界中を旅して回られているのですよね。退院したら、わたしをその旅に同行させていただけないでしょうか」
「は?」
眉間にしわが寄るのを感じながら、わたしは思わずこんな答え方をしてしまった。予想の斜め上を行く、あまりに頓狂な頼み事だった。
「えっと……わたしと一緒に旅がしたいってこと?」
「いえ、目的は別にあって……探してほしい場所があるんです」
「探してほしい、場所?」
「はい……わたしが死ぬのにふさわしい場所です」
いや、まったく意味が分からない。今まで様々な依頼を受けてきたが、ここまで理解に苦しむ内容は初めてだ。
「どういうこと?」
「わたし、一昨日より前の記憶は全然ないのですが、ひとつだけ、目が覚めた時から、強烈に頭の中に残っているものがあるのです。わたしは、ある場所に行く必要があって、必ずそこで一生を終えなければならない……という意識が」
「……そういう義務感のようなものが、あなたの中にあるってこと?」
「そうです。理由は分かりませんが、わたしはどうしても、その場所に行かなければならない、そんな気がするのです。一昨日からずっと、その場所がどこかと探して回ったのですが、それらしい所は見つかりませんでした……」
見つけられるわけがない。自分にふさわしい死に場所なんて、判断基準が曖昧すぎる。だが、彼女が飲食も疎かにしてこの街を徘徊していたのは、頭の奥に植え付けられていた、この義務感に突き動かされたせいでもある。記憶のない今の彼女にとって、それだけが、自分のルーツにつながる唯一の手掛かりなのだ。
普通に考えればそれは、何らかの暗喩か、あるいは終の棲家を決めるべしという教えを意味しているのだろう。彼女自身はどう解釈しているだろうか。
「あなたは……その場所を見つけて、死ぬつもりなの?」
「まさか。そこまで厭世的になってはいませんよ。見つけてすぐに死ななければならない、というほどではないですし、単にその地に根を下ろして、心安らかに死を迎え、天国に行けたらいいと思っているだけです」
よかった、希死念慮に苛まれているわけではなさそうだ。無意識の自殺願望が、そうした義務感を生んだ可能性もあったからな……せっかく助けたのだから、簡単に死なれては寝覚めが悪い。それにわたしは、これ以上人が死ぬのを見たくない。
まだ腑に落ちない点はあるが、彼女がわたしに頼みたいことは分かった。わたしと一緒に旅をしつつ、自分にふさわしい死に場所を探す、その手伝いをしてほしいのだ。
……正直を言えば、とてつもなく面倒くさい。そもそも探偵の仕事の範疇といえるかどうかも怪しい。報酬も用意できそうにないし、本来なら断るべき案件だ。しかし……ちらっと少女の姿を見て、判断が揺らぐ自分がいる。
少女は上目遣いにわたしをじっと見つめ、無言で懇願してくる。断りにくい雰囲気を作っているのは、意図的なものだろうか。……そうは思いたくないが。
まいったな……返答に迷っていると、病室の扉がガラガラと開かれた。
「おや、目が覚めましたか」
薄く黄色に変色した白衣をまとった、医師らしき男性が入室してきた。すぐ後ろには看護師らしき女性も控えている。
助かった、と心底思った。この場はとりあえず医師に任せて、わたしは一度退散することにしよう。落ち着いてから断りに来ればいいのだ。
「どうですか、体の具合は」
「それなんですが……」
わたしは椅子から立ち上がる。一番詳しく状況を説明できるのはわたしだ。少女をここに運び込み、先に記憶喪失の事を突き止めたのだ、これくらいは責任を持つべきだろう。
「先に色々話をしたところ、どうも一昨日より前の記憶を失っているみたいです」
「えっ。記憶喪失? 本当に?」
「はい。自分の名前も年齢も、住んでいた場所も思い出せないようです」
「なんてことだ……君、モーリス先生を呼んできてくれ」
医師が後ろの看護師に指示すると、看護師は「はい」と短く返答し、速足で病室を後にした。モーリスというのは、脳神経か精神系の医師だろうか。
医師はベッドまで歩み寄って、少女に直接尋ねた。
「君、彼女の話したことに、間違いはないね?」
「はい……お姉さんから色々質問されたのですが、何も思い出せなくて……」
「思い出せない……名前とか年齢以外で、思い出せることは? 家族構成とか……お父さんやお母さんがどんな人だったかとか」
「うーん……駄目です」
「一昨日より前の記憶がないそうだけど、厳密にはどこから記憶がはっきりしてる?」
「えっと……朝方に、薪がたくさん積まれている所で目を覚まして、そこからの記憶ははっきりしています」
「薪がたくさん積まれている所? どこかの小屋とか? 近くに住んでいたのかな」
「さあ、そこまでは……たくさん歩き回ったので、もうどこにあるかは……」
「分かった。まずはしっかり休んでおこう。別の先生とも、検査の日程について擦り合わせておくから」
「よろしくお願いします……」
少女は医師に向かって頭を下げる。律儀な奴だ。
さて、そろそろ頃合いだな。わたしは椅子から立ち上がる。
「じゃあ、わたしはもう帰るよ。明日の仕事を終えて……夕方くらいにまた来るから」
「そうですか……ありがとうございます」
にっこりと、優雅に微笑む少女。なんか心配だなぁ……わたしは少女の背中に手を添えて、付け加えるように言った。
「とりあえず、明日いっぱい大人しく寝ていろ。お医者さんの言うことはきちんと聞くように」
「ローゼさん、わたしのこと子ども扱いしていません?」
少女は怒ったようにむくれた。実際、見てくれはガキだからな。
「じゃあ先生、あとはお任せします」
「ああ。君もわざわざ、送り届けてくれてありがとう」
「いえ、たいしたことは……」
あれは必要に迫られてやったことだ。本当は、ここまで関わるつもりはなかったのだ。少女があからさまに感謝の視線を向けているこの状況では、言い出せないけれど。
「あ、そうだ。さっき言っていたモーリス先生って、この病院の精神科の医師ですか」
「そうですよ。まあ、当院は怪我や栄養失調、感染症の治療が多いので、常駐しているのはモーリス先生だけなんですが」
「ふうん……」
少し気になっただけなので、無関心を装って答える。わたしはそのまま振り返らず、少女と目を合わせることもなく、病室を後にした。
なんだか奇妙な展開になってきましたが、今後、どのような形で“ふたり旅”にもつれ込むのか、じっくりとご覧いただければ。
では、次週もお楽しみに。