Section 1-Two
赤道直下にあるこの国は、一年を通して気温が高い。今日みたいに曇って日差しが少ない日も、外を少し歩くだけで汗がにじみ出す。バーを出たわたしは、うだるような熱気にあてられながらも、汗をぬぐいながら歩を進める。
慎重居士のビエラットは、バーを出てようやく、用意していた行方不明者の詳細なリストを渡してくれた。わたしが信用に値すると判断するまでは、人目につく場所で大事な情報を見せたくなかったらしい。そしてわたしからはビエラットに、連絡用の通信端末を渡した。基地局を介さない直接通信なので範囲は限られるが、それでもこの街を丸ごとカバーできるし、傍受もできないし混信も生じない優れものだ。
「さて、まずは近いところから聞きこむか……」
リストをぱらぱらとめくって、バーから一番近いところの住所を探す。
見つけた。この大通りからもそう遠くない。記憶している脳内の地図を頼りに、わたしはその家を目指して歩き出す。
大通り沿いは割とにぎやかだが、少し逸れてしまえばあっという間に貧民街だ。こういう構造の街は珍しくない。
すれ違うのも難しいほど狭い路地を進んでいくと、大通りよりさらに汚れの目立つ道に出る。心なしか大通りより薄暗い気がする。高い建物が密集する細い道だから、というのもあるだろうが、道行く人や座り込んでいる人の、醸し出す雰囲気のせいでもありそうだ。誰もかれも、未来に希望を抱く余裕がない、そんな表情をしている。
わたしはこれまで世界中を放浪してきたが、市井の人たちが揃って晴れやかな顔をしている町には、ついに一度も出会わなかった。世界戦争が終結して、財政の破綻する国が相次ぎ、なんとか国の機能を維持している所でも、厳しい財政状況が続いている。これまで頼り切っていた文明が崩壊したことで、再建の足掛かりさえ得られないのだ。未来に希望を持つことは、大半の人が諦めている。
この貧民街に関しては、政府の目も行き届いていないようで、ゴミや動物の糞がそのまま放置されていて、衛生状態もよろしくない。戦争以前に水道が地下に作られたおかげで、腐敗の進行が遅いことが唯一の幸いだろう。ビエラットたちも、本気でこの地域を支配下に置きたいのなら、まずは衛生状況の改善を考えるべきだろう。
預かったリストを頼りに、わたしは四軒ほど、子どもが行方不明になった家を探して回り、どういう状況で消息を絶ったのか尋ねた。大方はリストの内容と一致している。とりあえずビエラットの情報は、信用する前提で動いて構わないだろう。
「しかし……どの子どもも、一人で行動していた時に姿を消しているのか。これじゃあ追跡調査は難しいな……」
十代の子どもの失踪が相次いでいることは、この街の人たちはみんな知っているはずだ。それなのに単独行動を許しているということは、親に子どもの面倒を見る余裕がないのだろう。みんな日銭を稼ぐのに手一杯なのだ。
「新しい記憶から辿っていくしかないな。えっと、一番日付が新しいのは……三日前か。住所はここから遠くないな」
その場所に向かおうと歩を進めると、すぐ目の前の、細い路地の出口から、人影がぬっと現れた。ボロボロの布で頭を覆っているせいで人相は分からないが、一見して若い女の子だと分かった。ふらふらと、危うい足取りで歩いている。
大丈夫か、あの子……と思っていると、女の子が前のめりになって膝をついた。
倒れる、と直感したわたしは、反射的に駆け寄って、女の子の胸に手を回して支えた。なんとか、正面から地面に体を打ちつけるのは避けられた。
「ちょっと、大丈夫?」
女の子に呼びかけるが、すぐに返答はこなかった。足腰に力が入っていないのか、女の子はわたしの腕に支えられたまま、膝をついてしゃがみこんでいる。
ようやく意識が戻ったのか、女の子はこちらを向いた。
「んっ……あ、すみません……」
「!」
その顔を見て、わたしは驚いた。乾いた泥が少しついているが、白く綺麗な肌をした、整った顔立ちの少女だった。
……どういうことだ。年中通して晴れの日が多く気温も高いこの国の、まして貧民街に住んでいる子どもが、なぜこんなに色白なのだろう。よく見ると、衣服もボロボロになっているが、いい生地を使ったワンピースだった。貧民街の人間が入手できるとは思えない。
「君、一体どうしたの……」
「その、ここ二日ほど、何も食べてなくて……」
確かに、色白というより蒼白というべき血色で、見るからに必要な栄養が摂取できてなさそうだ。……わたしの質問の意図とは違うが。
「いや、そうじゃなくて……君?」
女の子はわたしの腕の中で、ぐったりとして気を失った。まずいな……人間が飲まず食わずで生きられるのはせいぜい三日間だ。二日間も何も口にしていないなら、体力も免疫も著しく低下している。おまけにこの暑さだ、放っておけば命に係わる。
「ああ、もう。面倒くさいな」
瀕死の状態にある見ず知らずの女の子を放置して立ち去れるほど、わたしは薄情になりきれない。とはいえ、そんな女の子を預けられるような知り合いは、この街にいない。
わたしが病院へ連れていくしかない。確かこの街には、都市機能の残る国が運営している病院があるはずだ。そこに行けば適切な治療を受けられる。電話で医師を呼び出せたら早いのだが、携帯電話の基地局も戦争の影響で機能していないのだ。
なんとか女の子を背に担ぐと、脳内の地図を頼りに、わたしは病院を目指した。
* * *
衛生状態の悪い区域のある街で、病院が多忙でないわけがなかった。栄養失調、怪我、それらに伴う感染症など、治療を必要とする人間が次々と訪れる。人道支援の名目で設立された病院としては、誰であろうと診察しなければならないし、お金を払えそうになくても追い返すことは出来ない。当然、病床はほとんど埋まっている。
しかし、二日ほど飲まず食わずの状態だったなら、砂糖や塩を少量溶かした水を慎重に飲ませれば、一晩くらいなら持ちこたえられる。病院ならば、必要な栄養も清潔な水も確保できる。ひとまず応急処置だけ施して、病床に空きが出るまで待つことにした。
夕方になって、治療の終わった怪我人が別の病室に移動したことで、ようやく、わたしの連れてきた少女に病床があてがわれた。血液検査をした限りでは、感染症の疑いは低いと診断されたので、点滴を受けて回復させることになった。
わたしはベッドのそばの椅子に腰かけ、少女が目を覚ますのを待っている。様子を見守るのは担当医師に任せてもいいのだが、わたしに病院と連絡を取る手段がないので、仕方なくここに留まっている。何しろ、少女は無一文だし、その素性も現時点で分からない以上、診察代を負担する責任は、連れてきたわたしにある。連絡が取れない状態で立ち去るわけにはいかないのだ。
おかげで調査は、彼女が目を覚ますまでお預けとなった。
「まったく……厄介なことに巻き込んでくれたものだよ」
純白の布団にくるまって眠っている少女の顔を見ながら、わたしは悪態をつく。まあ、事故みたいなものだから、目を覚ましても文句は言わないことにしよう。
それにしても……わたしは病室を見回してみる。この病院に来るのは初めてだが、周辺の建物が、今にも崩れそうなほどボロボロであるのとは対照的に、ヒビひとつない小ぎれいな外見をしている。戦争が終結した後に建てられたのだろうが、急ごしらえではなく、鉄筋コンクリートでしっかりと組み上げている。よほどの金持ちが出資したのだろうか。世界的な通貨価値の暴落で、建材を調達するだけでも苦労するご時世だというのに……。
「んっ、んん……」
ベッドからかすかな唸り声が聞こえてきた。わたしは椅子から立ち上がり、少女のそばまで駆け寄った。少女の眉根がぴくぴくと微動し、ゆっくりと瞼が開かれる。
「気がついたか?」
わたしが問いかけると、少女の視線がこちらを向いた。かすかな呼吸音とともに、かすれた声で呟く。
「ぁ、おねえさん……ここは……?」
「病院。あの後すぐに気を失ったから、わざわざ運んでやったんだ」
「あぁ……そう、でしたか。ありがとうございます……」
少女は懸命に微笑んで見せた。体力も著しく低下しているし、話すだけでも大変なはず。他人に気を遣う余裕などないだろうに。
「まあ、恩には着せないからいいさ」わたしは再び椅子に腰かける。「で、体調はどうなんだ。お腹はすいているか」
「いえ、それほどでは……」
胃に何も入れない状態で点滴を打っているから、そうなっても仕方ない。
「ふうん。まあ、そのうち空腹になるだろうし、少しずつ食べる量を増やしていけば、じきに体調も戻るでしょう。他は? どこか痛むところとか」
「痛む……そういえば、さっきから右腕にチクチクと痛みがあります。ずっと針が刺さっているような……」
「それは点滴の注射だ……よし、他に問題はなさそうね」
点滴の注射針が挿入されている所は、布団の下に隠れている。天然なのか無知なのか、彼女には点滴という概念がそもそもないのだろうか。
頭が痛くて手で押さえたくなったけど、なんとか耐えて質問を続けた。
「それで、なんであんな所をうろうろしていたの? 二日も何も食べずに……」
「えっと……なんか、気がついたらあの場所にいました」
「全然答えになってない。あなた、あの辺りに住んでいるんじゃないの?」
「いえ……たぶん、違うと思います」
「たぶんって何よ。自分が住んでいた所を覚えてないの?」
「…………」
少女は呆然としながら、口をぽかんと開けて虚空を見つめている。ただ忘れただけなら、そのように答えるか困惑するはずであり、こんな、思考停止のような状態にならない。
もしかして……嫌な予感がして、わたしは尋ねた。
「ねえ、昨日はどこで何をしてた?」
「昨日ですか。えっと……何ていうんでしょう、大通りと比べてボロボロになっている街の中を、ずっとうろうろしていました。あ、途中で小さな女の子に出会って、帽子をあげました」
どういう状況で自分の帽子をあげることになったのか知らないが、とりあえず昨日の記憶ははっきりしているようだ。
「じゃあ、一昨日は?」
「一昨日は……何でしょう、薪がたくさん積まれている所で目を覚まして、それからまた近くをうろうろしていまして……」
「……その前の日は?」
「……あれ。すみません、覚えていません……」
「そう。質問を変えるけど、あなたは何歳?」
「年齢ですか。えっと……あれ……」
「じゃあ、名前は。あなたの名前はなんていうの?」
「…………なんていうんでしょうね」
少女は引きつった笑みを浮かべて答えた。
これではっきりした。彼女には、一昨日より前の記憶がない。
さっそくタイトルを回収しました。次週から事件も大きく動き出します。