Section 2-Ten
ニックさんが実行犯であることは、これで明らかになりました。しかし、わたしにはどうしても気になることがあります。
「それにしてもローゼさん、どうしてニックさんは、万年筆でなくボールペンに毒を仕込んだのでしょう? 普段使っていない万年筆に毒を入れておけば、ボールペンの代わりにこっそり使う面倒もありませんし、こうして証拠が出ることもなかったはずなのに」
「こればかりは想像するしかないが……たぶん、ニックも一度はその方法を考えたはずだ。でもやらなかった……いや、できなかったんだ。恐らくその理由は二つある」
「二つ、ですか?」
「ああ。まず一つは、ペン先の材質だ」
ローゼさんはこのように考えました。
万年筆のペン先はほとんどが金属製です。たいていは金や鉄鋼などの、耐久性や耐薬品性に優れたものが選ばれていますが、それはあくまで、弱酸性であるインクに長く触れることが前提です。強酸性あるいは強塩基性の物質に触れることは想定していません。
今回どのような毒物が使われたにしろ、人体に有害な物質が濃縮されていれば、反応性は極めて高いでしょう。そんなものを万年筆に入れてしまえば、しばらくは大丈夫でしょうが、いずれペン先が腐食してしまいます。ペン先が腐食すれば、中に入れている有害物質が漏れ出てしまい、キャップを外した時に手指にかかってしまいます。非常に危険ですし、こっそり川に毒を流すのも難しくなります。
一方、ボールペンの芯は合成樹脂が使われていて、これは金属よりも強酸性、強塩基性の物質に強いとされていて、実際、劇薬を保存する容器のほとんどがそれです。常にテープで塞いでいれば、漏れ出る心配はありませんし、仮に少し漏れたとしても、ボールペンの本体に溜まるだけですから、よほど慌てなければ手にもかかりません。
確かに、自分の安全性でいえば、ボールペンを使う方が理に適っています。
「もっとも、犯行を始めるにあたって、果たしてそこまで深く考えたかどうかは分からないけどね……単に万年筆に毒を入れる気にはなれなくて、後からその方が好都合だと気づいただけかもしれないし、あるいはそこまで考えてなかった可能性もある」
ローゼさんはどこまでも慎重です。彼女と違って、人間の思考や行動が、いつも合理的とは限りませんからね。
「その、万年筆に毒を入れる気になれなかったというのが、二つ目の理由ですか」
「一言でいえばそうだが、たぶんそう単純じゃない」
そう言ってローゼさんは、ニックさんの元へスタスタと歩み寄っていきます。犯行をことごとく見破ってきた探偵の接近に、ニックさんの顔に恐れに似た表情が現れます。
ローゼさんはニックさんのすぐ目の前で立ち止まり、真っすぐに彼を睨みつけながら、こう告げました。
「その万年筆、見せてくれる?」
ニックさんは瞬時に顔を歪めて、万年筆の刺さっている胸元を手で押さえながら、一歩後ずさります。この期に及んでも、大事なものを渡す気にはなれないようです。
「ふうん……あんたがその気なら、悪いが手荒に行く」
ローゼさんは右手をぐっと前に伸ばしながら、ニックさんに迫ります。ローゼさんに万年筆を奪われると察したのか、ニックさんはとっさに身を右によじり、襲ってきたローゼさんの右手をかわしました。
しかし、突然のことで手元に注意が向かなかったのでしょう、胸元を押さえていた手が、一瞬だけ離れました。ローゼさんは狙いすましたように、その一瞬の隙をついて、左手で万年筆をかすめ取りました。
「ああっ……!」
油断を突かれたニックさんは、泣きそうな声をあげました。
奪い取った万年筆を、ローゼさんは手の上で転がして観察します。お尻の部分を見て、ニヤリと口角を上げました。
「……やはりね。さてみんな、これに見覚えはあるよね?」
ローゼさんは、わたしを含む全員に見えるように、万年筆のお尻の先を見せました。そこに描かれている動物の横顔に、全員が驚き声をあげました。
「あ、あれって……!」
「まさか、ケルマ一族の……」
「ああ、ケルマ一族の紋章だ!」
やはり地元の有力者一族だけあって、全員がその動物の紋章を知っていました。他人の前ではずっと胸ポケットに差していて、お尻の部分が隠れていたから、誰も今まで気づかなかったのでしょう。
ちなみにわたしとローゼさんは、昨日、一瞬だけ見えたその紋章を覚えていて、宿屋に戻ってから本で調べて、これがケルマ一族の紋章だと知りました。
ちなみにあのトラやヒョウに似た動物は、ジャガーというらしいです。
「これ、ケルマ一族の人間か、あるいは一族と近しい人間から貰ったものだな? 有力者一族の紋章が入った、高級な万年筆……とても毒なんか入れられないよな」
「そんな……親からの贈り物じゃなかったのかよ」
マイクさんも少なからず衝撃を受けているようです。ずっと同僚に嘘をつかれていたと知ったわけですから、無理もありません。
「つまり、ケルマ一族から貰った大切な万年筆だから、毒を入れて台無しにしたくなかったと?」
「ケルマ一族との付き合いが未だにあるなら、『あの万年筆はちゃんと使っているか』と尋ねられる可能性もある。台無しにすれば何を言われるか分からないから、下手に犯行の道具として使いたくなかったんだろう」
「…………」ニックさんは何も言いません。
「もっとも、ケルマ一族がそんなことを気にするとは言い切れないが」
「え?」
ローゼさんのひと言に、ニックさんはようやく顔を上げました。
「わたしは今回の事件を、ずっと妙に思っていた……一年にもわたって川に毒を流し続け、その事実に辿り着かれないよう、呪いやら殺人やらの噂を広めた。あまりに手が込みすぎている。個人的な出来心で起こされたものとは到底考えられない。何か、とても大きな目的があるのではないかと、ずっと考えていた」
「大きな目的?」マイクさんが首をかしげます。
「そう、とても個人の規模では収まらない、それこそ大きな権威や影響力をもつ存在が絡むような、大それた動機だ。何しろ、よその部族の縄張りで、生活の命綱である水を汚すわけだから、真相が明るみになったときの影響は計り知れない。逆に言えば、それだけの危険を冒しても、それに見合うだけの利があるから一年も続けられた。だが、水質検査の業者のいち社員に、果たしてそれだけの利益があっただろうか……」
確かにそうです。犯人がニックさんであることはもはや明らかですが、動機という点で見れば、彼には何ひとつ得るものがありません。森の住人たちに恨みでもあったのでしょうか。怨恨だけで一年も、こんな手の込んだ犯行に及ぶとは考えにくいですが。
「それに、今回の事件では、呪いの噂に説得力をもたせるために、上流域の製油工場で殺人事件があったという噂をでっち上げていた。とうに潰れたとはいえ、行政機関の管理下にあった工場で、劣悪な環境に耐えかねて人を殺したなんて嘘の噂が流れれば、国が黙っているわけがない」
「つまり、噂を流すだけでも危険だということですか?」
「ああ、下手をすれば国の名誉を傷つけたとされて、どんな仕打ちが待っているか分かったものじゃない。ただの一般市民がこんな噂を流すのは危険すぎる。だが、その工場の運営に深く関わっていて、多少なりとも国に物申せるほどの権力をもつ人なら、噂を流してもほとんど無傷で済むんじゃないか?」
ああ、そうか……ようやくローゼさんの考えを理解しました。
あの廃工場で、呪いや殺人の噂が眉唾だと分かったときから、ローゼさんはこの事件の背後に、権威や影響力を持つ大物がいると考えていたのです。その大物が、自分の地位あるいは利益を守るために、今回の事件を起こしたとしたら、真相を調べようとしているわたし達は目障りな存在……それゆえに命を狙ってくる恐れがあります。だからわたしを調査に連れていくことを、あのようにためらっていらしたのです。
ローゼさんは再びニックさんに向き直り、じっと直視しながら問いかけます。
「お前、自分の意思で犯行に及んだわけじゃないな? この街で一番の有力者に借りを作っていたとしたら、何を頼まれても断れないわよね」
「うっ……」
「ためにならないよ。万年筆一本じゃ、ケルマ一族の関与は証明できない。すべてが明るみになったところで、ケルマ一族を訴える手段はないし、関知してないという立場を貫かれたら、当然あんたに救いの手は来ない。所詮、あんたとケルマ氏の繋がりは、筆記具ひとつ程度のもの……あんたの存在はトカゲの尻尾もいいところさ」
「そ、そんな……」
ニックさんは青ざめた顔で、その場にへたり込みました。自白に等しい反応です。ケルマ一族から何らかの見返りを期待していたのかもしれませんが、ローゼさんの言葉は、それが望み薄だということを示していました。
ケルマ一族はきっと、ニックさんのことは警戒していないでしょう。ニックさんがケルマ一族からの指示だと訴えても、誰も聞く耳をもたないでしょうから。しかし、第三者が事件の構図を調べた結果、ニックさんに辿り着いたとすれば、話は違ってきます。その第三者がケルマ一族の関与をほのめかせば、確たる証拠がなくても、噂として町じゅうに広まってしまいます。それこそ、呪いの噂のように。
ケルマ一族はわたし達の存在を危険視したでしょう。きっと、さっきわたし達を追っていた怪しい二人組は、ケルマ一族の手先に違いありません。
……あれ? だとしたら。
「ローゼさん、あの二人組がケルマ一族の手の者だとしたら、今ごろ、わたし達を必死になって探しているのでは……?」
「そうだな。変な所で見失ったから、しばらくはあちこちを探し回るだろうが、そのうちわたし達がクラウス化学に向かったと結論づけて、じきにここへ来るだろう。たぶん、逃げられないよう人数も増やすだろうな」
「呑気にしている場合ですか! 早く逃げた方がいいのでは」
「何を言う、シャルロット。逃げるつもりなら最初からそうしている」
ローゼさんは余裕を崩しません。相手の動きをぜんぶ見通して、それでも逃げようとしないということは、何か秘策でもあるのでしょうか……。
「それに、今さら逃げても遅いから」
ローゼさんは目を細め、視線を入り口の扉に向けます。
つられてわたしも同じ方を向いた直後、扉の向こうから騒音が聞こえてきました。誰かが言い争っているようで、怒号と物音が響いています。荒々しい靴音が、次第に大きくなって、こっちに近づいているようです。それも一人や二人のものではありません。
「ローゼさん……!」
近づいてくるのが何者なのか、もはや明らかです。わたしは急速に不安になって、ローゼさんを見ます。彼女はため息をつきながら、わたしのそばまで来ました。
そしてついに、扉が乱暴に開かれました。武装して槍を構えた男たちが七人、一斉になだれ込んできました。
「やっと見つけたぞ、こそこそ嗅ぎ回ってる女ネズミどもめ」
先頭に立つ男性が、眉根を寄せて言いました。ずっと探し回っていたせいか、かなり苛立たしげです。
ドリーさんがこっそりローゼさんに耳打ちします。
「ケルマ一族の衛兵です。屋敷を警護する人たちと同じ格好です」
「へえ、衛兵にしてはずいぶん積極的ね。さっきはこんな格好をしてなかった……武装しないと敵わないと判断されたようね」
「ごちゃごちゃうるさいぞ。ケルマ様がお呼びだ、おとなしくついて来い。逃げる素振りを少しでも見せたら、我々の裁量で好きにすればいいと命じられている」
つまり、殺しても暴力をふるっても構わない、ということでしょうか。直接的にそう命令しないことで、自分の責任を免れようとしているのです。ケルマ様というのはどこまでも姑息です。
ローゼさんもそれはご承知のはずですが、それでも全く動じません。
「……わたしは逃げも隠れもしない。ちょうど、ここでの用事が終わって、これからあんた達のボスに会おうと思っていたところだ」
「ちょっ、ローゼさん何を」
「元からそのつもりだったよ。仮説はあるが、やはり本人の口から聞くのが一番だ。わたしは探偵だからな、真実以外に興味はない」
恐れることも挑発することもなく、ただ真っすぐにローゼさんは睨み返します。
「つまり、おとなしくついて来るのだな?」
「ああ。ただし」
ローゼさんはそう言って、わたしの肩を掴んで、ぐっと引き寄せます。そして、思い切り敵意を込めた眼差しを、衛兵たちに向けました。
「彼女にかすり傷ひとつつけたら、その限りではない」
その眼差しに気おされたのか、衛兵たちの何人かが、わずかに後ずさりました。彼女のその、武装した兵士すら怯ませる眼力は、恐ろしくも心強く、そして同時に、魅力的ですらあったのです。
まーたこういう、女の子を無駄に惚れさせることを平然と……ローゼにそのつもりはないでしょうが、とんだスケコマシです。
さて、まだ明るみになっていない謎もあります。次週、黒幕との対決。お楽しみに。




