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Section 2-Three


 この地域を流れる川に、呪いと呼ばれる現象が起きたのは、だいたい一年ほど前からだそうです。

 地域住民、特にこの森の中に住んでいる人たちは、昔から伝統的にこの川の水を、農業や生活のために使っていて、まさに命綱といえる存在でした。ところが一年前のある日、森の中で猟をしていた男性が、休憩がてら川の水を飲んだところ、急に体調を崩して倒れたのです。幸い命には関わらなかったのですが、後遺症でしばらく猟を続けられなくなったそうです。

 ふもとにある街の業者が、すぐに川の水を検査しました。というのも、川の上流にはかつて、植物油を精製する工場があって、一時期、工業廃水を川に流していたとして住民から非難を浴びたことがあったのです。その工場は戦争の影響で閉鎖されましたが、配管が詰まるなどして再び汚染水が流出した、という可能性が考えられました。

 しかし、何度調べても川の水はただの淡水で、人間の体に悪影響を与えるような物質は見つかりませんでした。


「つまり、原因は分からなかったと?」


 わたしの問いかけに、ベルサさんは沈鬱な表情で頷きました。


「それでも、あの川の水を飲んだり、料理に使って食べたりして、体調を崩す人が次々と現れたわ。この一年で十四人よ」

「十四人も……それは多いですね」

「そうか?」


 ローゼさんは首をかしげます。どうも数字の感覚がわたしとは合いません。ベルサさんは必死に訴えるように説明しました。


「ここらで川の水を使っている家は二、三十くらいしかないんだ、十四人も体調を崩したら充分に一大事だよ。ふもとの街の感覚で考えないでおくれ」

「そんな感覚で言ったわけではないが……まあいいさ。じゃあ、体調不良の中身は。具体的な症状とか分かるか?」


 いつの間にかローゼさんの口調が、いつもの少し粗暴な感じに戻っています。


「一番多いのは腹痛じゃないかしら。でも、心臓発作を起こした人もいたし、手足のしびれを感じた人もいたらしいけど、詳しいことは私には分からないわ」

「でも、症状がバラバラだということは確かなんだな?」

「そうね……それが何か重要?」

「呪いに関してあれこれ推測するのは無意味だけど、何か一つの有害物質が原因なら、症状はどれも似通ったものになる。話を聞く限りだと、神経系に影響を与える物質……金属などを含む、塩基(アルカリ)性の有機化合物が考えられる。でも、これらの症状は物質によって大きく違ってくるし、話に出たすべての症状を引き起こす物質を、少なくともわたしは聞いたことがない」

「つまり……?」

「いくつかの症状は無関係かもしれない。あるいは、複数の有害物質が関わっている。どちらにしても、その潰れた製油工場が原因とは考えにくい。そもそも、製油工場の廃水にそんな物質が混ざっているとも思えないしね」


 おお、さっそく探偵の推理が展開されています。さすがローゼさん。次にどんな推理を話してくれるのか、わたしはすでにわくわくしています。


「だが、この程度の推測は、水質を調べた業者でもできる。被害者の体を検査したであろう、病院も同様だ。原因がはっきりしなくても、不審な体調不良の患者が続出すれば、これを単純な事故だと考えることはまずない。真っ先に疑うべき可能性は、誰かが故意に有害物質を川に流している、というものだ」

「わざと人に害のあるものを流した? そんな、まさか……」


 ベルサさんが口元を押さえ、信じられないとばかりに眉をひそめます。


「順当に考えればそれが一番ありうる。まあ、それはふもとの業者とかが引き続き調べるだろうから、まだ気にする必要はないだろう。それより気になるのは、呪いだよ」

「あ、やっと興味を持ってくれましたか」

「言っておくが、シャルロット……わたしは呪いの解明に興味を持ったわけじゃない。この状況で、なぜ呪いという発想が生まれたのか、腑に落ちないんだ」

「呪いという発想が生まれた理由、ですか?」

「順当に考えれば、誰かが故意に引き起こした事件だと考えるのが普通だ。だけどベルサさん……あなたはこの一件を、呪いの仕業だと確信している。通りすがりのわたし達に、親切心で忠告するくらいに。いくら原因不明の状況が続いていても、一年足らずで呪いの噂が生まれ、それが地元民に定着するのは妙じゃないか?」


 確かにそうです。呪いなんて、可能性としては真っ先に省かれそうな考えです。それが順当な可能性を差し置いて、定着するのに一年もかからないなんて、あまりに期間が短すぎます。呪いの言い伝えが昔からあって、それと整合しているなら話は別ですが。


「ちょっと待ってよ」ベルサさんが憤慨して言います。「まさかあんた、わたしがでたらめを言っているとでも思ってるの?」

「その可能性も無くはないけど、だったら探偵に呪いの調査なんて頼まない。調べれば簡単に嘘だとばれるんだから」


 ローゼさんが疑っていないと分かって、ベルサさんはひとまず胸をなでおろします。


「じゃあ、どうしてこんな短期間で呪いの噂が……?」

「さあ。でも定着するには、それなりに納得できる原因があるはずだ。誰が、あるいは何が、どんな原因で川を呪っているのか、あなたもそのくらいは聞いているよな?」


 ローゼさんはテーブルに両肘をつき、上目遣いにベルサさんをじっと見据えています。彼女の鋭い眼光にひるむ様子を見せながらも、ベルサさんはゆっくりと話し始めました。


「まだ、例の製油工場が生きていた頃……戦争のさなかにあって、工場ではかなりきつい労働が強いられていたそうよ。一日ずっと、休憩なしで作業する、それが連日のように続いていたものだから、過労死する人も少なくなかったみたい」

「ひどい、ですね……」

「戦時下ではよくあることだ」ローゼさんは冷静に告げます。「特に燃料は、石油や石炭が枯渇しそうになっていることもあって、植物から精製するものが好まれた。土地に余裕のある所を次々に開拓し、製油工場を建てていった……でも戦争が長引くにつれ、需要に供給が追いつかなくなった。やけになって過重労働を強いる工場が続出し、結局燃料の供給は間に合わなかった……どこでも聞く話だ」

「ええ、そうね……それである日、耐え切れなくなった従業員の何人かが、工場の責任者を殺したそうなの」

「殺した?」


 わたしは思わず声を張り上げました。呪いの原因となる話ですから、きっと穏やかではないと思っていましたが、殺人はさすがに想定外です。


「もちろん、責任者を殺したことがばれたら、従業員は全員ただじゃすまないから、細切れにして川に捨てたそうよ」

「もしかしてその川が、例の……?」

「そう……だからあの川には、殺された男の人の怨念が今も潜んでいて、川の水を飲んだ者を無差別に呪っているという話よ」


 なんて恐ろしい話でしょう。怨念とか呪いとか、飛躍している気もしますが、あの川でそのような凶行があったとなれば、軽い気持ちで川の水を飲むなんて、とてもできそうにありません。もしベルサさんが寸前で止めてくれなかったら……吐き気がしそうです。


「今、男の人って言ったか?」


 一方でローゼさんは顔色ひとつ変えていません。精神が強靭すぎます。


「え?」

「その工場の責任者が、男性なのは間違いないのか?」

「さあ、深く考えたことなかったけど……何かおかしかったの?」

「おかしくはないけど、責任者が女性という可能性もあるのに、男性だと確信しているように聞こえたから。話の内容はみんな伝聞なのに、性別の部分に限って確信的に話せるのは、どういう形で噂を聞いたときだろうと思ってね」

「そんなの、特に理由はないわよ……工場を統べる人っていったら、だいたいみんな男だと思うじゃない」

「じゃあ、性別に関しても、はっきりと聞いたわけじゃないんだな?」

「そうよ、悪い?」


 ベルサさんの口調が、心なしか苛立ちを含んでいるようでした。


「悪いも何も、噂なんてものはたいてい曖昧だ。むしろ詳細に知っていればいるほど、怪しむべきものだ。じゃあ、事件が起きた日の天候とかも、聞いていないのか?」

「天候? さあ……そこまでは聞いていないわね。それって重要なの?」

「まあ割と重要かな……確かに今の話は、川の呪いの原因としてはありえそうだが、腑に落ちない点がいくつもある。否定できるほどではないが、疑ってかかった方がいい」

「当てにならないっていうのかい」

「端的に言えば、そういうことだ。でも一番の問題は、そんな噂がどうしてこの地域に広まっているのか、だ。殺人の噂は、呪いの話と直結している。この殺人の信憑性が低いとなれば、呪いの噂も川の水の異常と同様、自然発生したものではないかもしれない」

「殺人の話も、誰かが意図的に定着させたってことですか?」


 もしそうだとしたら、誰かが川に有害物質を意図的に流したという可能性が、いっそう強固になります。


「そこで思い出してほしいんだけど、あなたはこの噂をいつ頃から聞くようになった?」

「いつ頃から……たぶん、半年くらい前かしら。もう少し前だったかもしれないけど」

「つまり、ここ一年以内で?」

「そうね。その頃にはすでに、川の水で体調不良になる人がたくさん出ているって話が、この地域に浸透していたと思うわ」

「それ以前に、例の工場で殺人が行なわれたという話は聞かなかったのか?」

「聞いた気もするけど……ちょっとあやふやね」

「まあ噂なんてそんなものだ。いつどこで聞いたのか、はっきり覚えている方が珍しいんだ。だけど少なくとも、川の水による被害者が出たあたりから、この呪いや殺人の噂を、はっきりと聞くようになった……」

「誰かがその時期に、川に有害物質を流し、噂を広めたってことですか。でも、なんでそんな噂を広める必要が……」

「その方が受け入れられやすいからじゃないか」


 ローゼさんはこともなげに言いました。突飛で非科学的に思えそうな、死者の呪いの噂の方が受け入れられやすいとは、どういうことでしょう?


「人間はどういうわけか、きちんと論証を重ねて得られた結論よりも、深く考えなくても正しいと思えるような話の方を信じやすいんだ。冷静に考えたらどんなにおかしな噂話も、それっぽく聞こえればたいていの人は疑わない。そして、一度信じてしまった嘘は、どんなに理屈を並べて反証しても、簡単には信じることをやめられない。嘘が、噂話として事実を覆い隠し、人間の理性を侵食する……そうして生まれた悲劇は世界各地にある。わたしに言わせれば、呪いなんかよりそっちの方が何倍も恐ろしいね」


 だからローゼさんは嘘が嫌いなのでしょうか……。


「つまり噂は、真実を隠して、追究されないようにするために広められたと?」

「おあつらえ向きに、川の上流に、実態の知れない工場があったから、偽の噂に利用したってところね。となると、有害物質を川に流したのは気まぐれでも悪戯(いたずら)でもなく、何らかの大きな意図があると考えた方がいい。事実を隠すためにこんな噂を広めるなんて、悪戯にしては手が込みすぎているもの」

「意図、ですか……」


 そもそも、川に何らかの物質が流されたとして、その物質が何なのか、未だに特定されていないのです。業者の検査をすり抜けるような方法を使っている以上、ただの悪戯である可能性は低そうです。

 だとすると、誰が、何の目的でこんなことを……。


「もっとも、誰の仕業か突き止めるのはたやすいと思うけどね」


 ローゼさんがさらりと言った言葉に、わたしは驚いて振り向きます。


「えっ、突き止められるんですか!」

「たぶんね。あと、目的もだいたい見当はついている。詳しく調べてみない事には、なんとも言えないけどね」


 ……唖然としてしまいます。ローゼさんの推理は知らないうちにどんどん進んでいました。わたし、一応ローゼさんの仕事を手伝うのが、旅に同行する条件だったのですが、ひょっとして、わたしは必要ないのでは……?


「じゃああんた、わたしの依頼は引き受けてくれるのかい。調べることが決まっているなら、こんな簡単な仕事はないだろう?」


 ベルサさんはどうしても、川の呪いについて調べて解消してほしいようです。これが呪いでなく人の手による可能性が高いなら、十分に探偵の守備範囲に入るとは思いますが……ローゼさんはなおも表情を変えません。


「……お金取るけど、いいの?」

「あんたねぇ、助けてもらってお茶飲んで燃料ももらって、この上まだわたし達から搾り取る気かい」

「燃料はまだ受け取ってないし、わたしだって採算の取れない仕事は御免だから」


 まあ、旅の費用はバカになりませんからね……すぐに消費してしまう物を報酬にしても、こちらの利益にならないのは分かりますが。ベルサさんは苦虫を噛み潰したような表情で尋ねます。


「……いくらよ」

「調査経費と、この先三日分の旅費、しめて十万ポルドってところね。調査が終わってから払えばいい」

「十万……結構もっていくわね」

「現時点での見積もりだから、経費はなるべく抑えるよ。ところで気になっていたんだが、このお茶に使っている水はどこで調達したんだ?」


 ローゼさんは手に持ったお茶のカップを見て尋ねました。そういえば、この辺りに水道が通っている様子はないですし、川の水は呪いのせいで使えないのに、どうしてここにお茶が出ているのでしょう。ハーブを育てるにも水は必要なはずです。


「ああ、それね。川の水が使えないと分かってから、ふもとの街でわざわざ水を買っているのよ。シャワーなんかは、たまに降る雨水をためて使うけど、毎日使う水はこうやって買うしかないのよね」


 そう言ってベルサさんは、壁際の棚の一番下から、半透明の大きな容器を取り出して見せました。バケツ一杯分の水が入りそうな容器が、棚にまだ四個あります。


「そういえば、旦那さんは今ふもとの街にいらっしゃるんですよね。その時に水も調達してこられるのですか?」

「ええ。もっとも、電動自転車(バイク)で移動するから、一度に二個しか運べないけど。この山の中じゃ水道も届かないし、ただで使える川の水もこれだから、面倒でも買ってくるしかないんだよ」

「この森に住んでいる人たち、みんなそうなのか?」

「そりゃあね。川はどこにでもあるものじゃないし、みんな似たようなものよ」


 なるほど、やはりそうか……ローゼさんはぼそぼそと呟きます。何か気づいたみたいですが、熟考を始めてしまったので、わたしは尋ねる機会を逸してしまいました。

かつて南米に渡った日本人は、第二次世界大戦の影響で取り残され、終戦後も大多数が情報を遮断されたそうです。そのため、「日本が勝利した」というデマを信じ込み、事実を受け入れた日系人と衝突して暴動に発展し、地元民からの信頼を失ったとのことです。デマを信じ込んだ日系人は、のちに正しい情報が入ってきても、なかなか受け入れなかったといいます。現代でも、ネット上に誤った情報が拡散し、無実の人がリンチを受けて命を落とす、という事例はあちこちにあります。そして誤情報に翻弄された人々は、大抵の場合、被害者側に回って責任を逃れようとするのです。

どんな嘘も決して人を幸福にすることはないと、そろそろ誰もが気づいて欲しいものです。

次週からは本格的に、ローゼたちによる調査が始まります。

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