8.ミレイナ、魔獣係を解雇される(3)
◇ ◇ ◇
紅茶を入れたトレーを押しながら、ミレイナは人知れずため息をつく。
(みんな、いい子にしているかしら?)
行政区の侍女役に任命されてから早一週間。完全なるもふもふロスである。
あの可愛い子達のもふもふに顔を埋めたいのに、思ったよりも拘束時間が長くて全然会いに行くことができない。
ミレイナの今の仕事は、行政区と呼ばれる執務エリアで働く文官達にお茶を用意したり、会議の前の簡単な準備を手伝ったり、資料を届けに行く雑用を引き受けることだ。
仕事は問題なくこなしている。
魔獣係と違って服が汚れることもなければ、時々文官達に用意するお菓子のあまりを貰えたりする。
そして──。
「ミレイナ、どこに届けにいくんだい?」
ミレイナが顔を上げると、爽やかな雰囲気の男性が前から歩いてくるところだった。焦げ茶色の少しくせがある髪は無造作に掻き上げられ、大きめな口は緩やかな孤を描いている。
「あ、ディックさん。こんにちは。今からこれを内政局に届けにいきます」
「そうなんだ。終わったら俺のところにも頼むよ」
「はい、かしこまりました」
ミレイナはぺこりとお辞儀をする。
ここで働く人達は全員、ラングール国の中枢部に務める文官で、いわゆる『エリート』だ。今声を掛けてきたディックも財務局のエリート文官のようだ。
こういう人達と知り合いになれることが、メイド達にとっては人気の理由なのだろう。
ミレイナは目的の部屋に向かう途中、ふと足を止めた。
向こうから、『ジェラール陛下』という言葉が聞こえた気がしたのだ。立ち聞きはいけないと知りつつも、耳をそばだててしまう。
「ジェラール陛下が気になる女性がいるって仰ったって本当かしら?」
「なんでも、ラルフ様がそう聞いたと仰っていたと噂よ。でも、相手がよくわからないのよね」
「いずれにせよ、あの舞踏会でダンスを踊った方の誰かよね? 誰かしら?」
「陛下もいよいよご成婚ね。誰に決まっても、恨みっこなしよ」
キャーキャーと楽しげな話し声がする。
きっと、休憩中のメイド、それも、先日の舞踏会に参加した貴族令嬢の方達だろう。
(ジェラール陛下がご成婚……)
ミレイナはトレーを押す手にぎゅっと力を込めた。
ジェラールが結婚するときはきっと、ラングール国を挙げて盛大なお祝いがされるのだろう。
職場が変わってリンダとも会えないし、魔獣達と触れあうこともできない。
その上、ジェラールの隣に誰か知らない女性が立ち、二人が愛おしげに見つめ合っている光景を目の当たりにしたら?
きっと、耐えられないと思った。
(アリスタ国に、帰りたいな)
ミレイナは顔を俯かせる。
本当は、ララとして逃げ出したときにアリスタ国に帰るつもりだった。けれど、途中で魔獣に襲われてとんぼ返りして今に至る。
それでも、魔獣係をしていたときは自分の存在意義が感じられて、楽しかった。リンダという新しい友人に恵まれ、魔獣達によい環境を与えたいと自分なりに頑張って、毎日充実していた。それに、クレッグとの素敵な出会いもあった。
今の仕事は嫌いではない。
けれど、以前のようなわくわく感を感じない。
それに、なによりも──。
ミレイナはメイド服の下にしまったカメオのペンダントを服越しに触れる。ジェラールとの交流は全て、ミレイナの中ですてきな思い出になっている。そのひとつひとつを、大切な宝石のように心の中にしまっていた。
(ジェラール陛下……)
脳裏にあの凜々しく整った姿が、そして、最近ミレイナに見せる優しい眼差しが浮かび、ミレイナはぶんぶんと首を振る。
「さっ、お茶を出しにいかないと!」
ミレイナは気を取り直すと目的の部屋に向かい、笑顔でお茶を配膳した。
その後、ミレイナは再びティーセットを用意すると今度は財務局へと向かった。
ディックの執務室をノックすると、すぐに「どうぞ」と返事がした。
「お待たせしました」
「ああ、ミレイナ。ありがとうね」
書類から顔を上げたディックは、柔らかな笑みを見せた。
「ここに置いておけばいいですか?」
「うん。よかったらミレイナも飲んでいかない?」
ディックに微笑みかけられて、ミレイナは戸惑った。
「ティーカップなら、そこにもあるから」
ディックが指さした壁際のサイドボードを見ると、ガラス張りになった棚の中には何客かのティーカップセットが置かれていた。来客用だろう。
「いえ。わたしは仕事中ですし」
「ちょっとくらい平気じゃない?」
ディックはまるでミレイナの話を聞いていないかのように、立ち上がると棚からティーカップをひとつ取り出す。
「それに、可愛い子が話し相手してくれたら疲れも癒えるしね」
近くまで歩み寄ったディックは器用にウインクしてミレイナの腰に手を回す。
(か、軽い!)
今まで出会ったことがないタイプの男性に、ミレイナは唖然とした。
仕事中なのだから断るべきなのだろうが、相手は高位貴族のエリート文官。断るのは失礼に当たるだろうか。
どう対応すればいいのか考えあぐねていると、ノックもなしにドアがカリャリと開く音がした。
「おい、断りなしに勝手にドアを開けるな」
突然の来客に不機嫌そうな声を上げたディックは、そこにいる人物が誰かに気づくと表情を強張らせた。
「勤務時間中に女を口説くとは、いいご身分だな?」
聞き覚えのある低い声にミレイナは驚いて振り返る。
そこには、険しい表情でこちらを睨み付けるジェラールと、その足下には尻尾を振るゴーランがいた。