4 後ろ盾 ※殿下視点
私の母──生母は側妃のイヴ・フォルダン。フォルダン公爵家の令嬢だった。私が6歳の時、母は亡くなった。停年29歳。病死だった。
必然的に王妃、サラコーナ様が養母となった。
王妃は隣国の友好国、ケンリッチ帝国の第2王女で高貴な身分だった。当時、王妃は28歳。体は健康そのもので、後継者も望める年齢だった。その2年後には第2王子のカインを生んだ。
王妃が王子を生んだのだ。これで私の役目は終わりかと思ったが、後継者教育は続いた。そんなある日、フォルダン家当主から王家に、孫のマティオスに公爵家を継いでほしいと嘆願があったのだ。
高貴な王妃から第2王子が生まれたことで、マティオスの身に何かあってはいけない、もし第2王子に何かあれば、またマティオスを王族に戻せばいい。とにかく命を狙われないよう出来るだけ早くマティオスを王族の籍から外して欲しいというものだった。これは側近のソアン経由でわかった、摂政が知る情報だった。表向きは跡取りとして、しかし公爵はまだ若い娘が病死したことで、王家に猜疑心を持ちはじめていたのだ。
しかし既に私は陛下から真意魔法を受け継いでいたため、フォルダン公爵の嘆願は却下された。陛下ではなく、王妃からの強い希望によって。
『マティオスが後継者であることは、周知の事実よ。そのつもりで教育しているわ。成人したら貴方は王太子となる。その頃にはフォルダン公爵も杞憂だったと気付くでしょう。だから周りになんと言われようとも、マティオス、後継者は貴方よ。それだけは決して忘れないでね?』
『はい。母上』
養母は元から王族であったからか、その知識は幅広かった。公式の場で見せる王妃の顔とは違い、私の前では厳しくはあったが、いつも遅くに1人で夕食をとる際、たまに皿の下に養母から日々の勉強に対する労りの手紙が添えてあった。最初はただえさえ勉強で目を酷使しているのに、また読み物が増えたと煩わしく感じていたその手紙は、いつしか返事を考えながらゆっくりと食事をとる、その手段のようになり、だれかと供に食卓にいるようで、上手く言えないが1人でとる食事が嫌じゃなくなった。また明日も頑張ろうと思えた。
『マティオス……血は繋がっていなくとも、心を通わすことはできるんじゃないかって、わたくしはそう思うのです』
『はい。母上……私も、そう思います』
『あ、いま笑った!?』
『……』
めまぐるしい日々が過ぎていき、少しだけ勉強にも余裕が出てきた時、お茶会でフォルダン公爵家当主、リッツお祖父様が話し掛けてきた。
『君は、イヴの亡き顔をみたかね?』
『いえ私は……後継者として、身の安全が第一だと言われていたため、病気で療養していた生母の離宮に入ることは許されていませんでした』
そういえば養母は、私の母、側妃との仲は年に数回顔を合わすだけで、あまり交流もなかったようだ。
『……私の嘆願は、それほどまでに、常軌を逸したものだったか?』
『え?』
フォルダン公爵から突然肩を掴まれて固まった。苦悶の表情だった。
『こ、の半年の間も、君への接近禁止令が出る程の、罰を受ける程のものだったか? 孫の安全を思えば、正当なものだろう? なのに王妃はっ……あの女狐……』
『……フォルダン公爵?』
『それでも私は……! ……あの当時、床に額を擦り付けて陛下に嘆願した。どうにかして娘の体だけは、公爵家に帰ってきた』
『は、い……生母は、実家のフォルダン公爵家の霊標で、とくに仲がよかった祖母の隣で眠っていると、お聞きしています』
『……気を付けなさい』
『え?』
カサっと渡された1通の手紙。
これは医療の発達したカナラマナラ王国、その三大公爵家のひとつ、オルザムンク公爵家の紋章ではないか。
しかしカナラマナラはひとつの大陸を統一して健在する超大国だ。同じ公爵とはいえ、格が違う。フォルダン家といえ、易々と交流できる相手じゃない。
それでも、この手紙にある溶岩を模した紫色の紋章は、【底】の称号を持ち、海底と地底を支配域とするオルザムンク公爵家の紋章で間違いない。主要国のことは何度も学習し、頭に叩きこんだのだ。しかし、──何故こんなものを、そう問いかけるより先にフォルダン公爵は立ち去っていった。
『…………』
手紙の中身──私の生母は、毒殺された可能性があるとの診断書だった。髪、爪、血液、皮膚や肉の一部、その全てから、多量のドライオキシンが検出されていた。
母は……毒殺……された……?
我が国はもちろん、世界中にいる医師や薬師、その多くがカナラマナラで使われている大陸共通語で診断書を書く。勉強不足な今の私では読めなかった箇所もあったので、私は少ない時間の中で、必死になってドライオキシン、その成分がなんであるかを王宮の書庫で調べた。
ドライオキシンは毒性が強い、しかし成分を調整すれば薬にもなること、我が国では毒の規制が厳しく薬師でも入手が困難なこと、他国では成分を薄めることで麻酔薬として使用されていること、ある程度の毒性を取り除くことで痛み止めとしても服用されていること、過去にその成分を使って毒殺された他国の王族がいること……様々な文献から調べた。
周りに怪しまれないように、勉強の合間に書庫へ寄ると告げて、時間をかけて。こんなこと、誰にも言えない。気付かれてはいけない。
『マティオス、目の下に隈が出ているわ。成績も問題ないし、家庭教師の太鼓判もある。少し学習の速度を下げましょう、ね?』
『はい……母上』
『あと、陛下からお聞きしたわ。……婚約については、まだ焦らないで』
『はい……そう、ですね』
最近、書庫に入ると手が震える。
──真実を知りたい。
──何も見つからないでくれ。
──母は毒殺されたのか?
『殿下! なぜ私を頼ってくれないのです! 私は貴方の側近でしょう?』
いきなり書庫に現れたソアンが私に叩きつけるようにしてメモを突き付けた。
【ドライオキシン──キラークラゲの毒袋。
ケンリッチ帝国ではキラークラゲによる海産物の被害が多く、毒袋から大量の黒い毒を撒き散らし景観も損なうことから発見次第駆除の対象である。毒袋を処理する際、そのまま廃棄することは自然界を汚染するため推奨しない。捕らえたそれの多くは一般的にインクの材料として消費される。ドライオキシンは乾燥に弱く、乾かせば毒性は消える】
『これ……』
『殿下、弛んでいます。読んだ本をきちんと棚に戻さないから、私にバレるんですよ』
『…………』
『そんな有り様でこのさき周りに隠し通せるとでも?……何を探り、誰を疑っているのです?』
『…………ソ、アン』
震える手を握り締めた。
1人で抱え込むには、あまりにも事が重大過ぎて。限界がきていた。耐えきれなくて、ソアンには胸の内を吐いた。フォルダン公爵からの警告、生母は毒殺された可能性があること、養母を信じたい気持ち──いま持っている手掛かりは、不透明なものを含め全て見せた。
『ケンリッチ帝国の王女であったサラコーナ様なら……キラークラゲの毒袋を入手することは不可能……ではありません、ね』
『私も可能性を消すところから始めた』
書棚から数十通の手紙を取り出し、ソアンに見せた。
『それは……王妃殿下からの手紙、ですか?』
『これが全てではない。私はドライオキシンがインクの材料として使われていることは書庫の文献でも発見していた。だから2通ほど……』
然るべき専門機関に頼めないかと思って、文字が書かれたインクの部分を切り取り、……しかし外部に協力者がいない今の私にその手段はなく、そしてそれをする理由も、ソアンの情報からすると今は必要性が無くなった。
『恐らく……それは証拠にもならないでしょう。インクに加工されている時点で、毒性は既にありません』
『……ああ。全くもってその通りだ』
今までの私は、いつか弟に後継者の座を渡す日がくると、心のどこかで諦めていた。しかし日々の教育によって、自身に王族の気質が芽生えはじめていることも感じていた。私はこの国の王になりたい、と。災害の度に辛酸を舐めさせられている西の辺境の民の為に未開の樹海を開発して彼等の糧になるようにしてあげたいし、王都の兵についても武力を示す為だけじゃなく救助や治療専門の隊員も育てるべきだと思っている。色々と学習している内に、私だったら、私が国王になったら、と──そこで自分の気持ちに気付いた。今ならまだ、芽生えだしたばかりのこの気持ちに蓋をすることもできる。カインが継ぐのなら、それはそれで、私に出来ることをやればいい。……こんな、中途半端に、迷いがあるのは私が後継者として相応しくないからかもしれない。このさき……どうすれば。このままではいずれ勉強にも身が入らなくなるだろう。そんな今の気持ちを全てソアンにぶつけた。
『殿下、我々だけでは今はどうにもなりません。だから陛下を信じましょう』
『……陛下、を?』
『……私は殿下の側近ですが、私が陛下だったら、ケンリッチ帝国出の王妃殿下よりも、自国出の側妃との子を後継者にします。恐らく陛下もそう思われたから、第2王子が生まれてすぐ、殿下に王位継承権のひとつ……真意魔法を授けたのでしょう』
『…………』
私は……今は……誰も信じられない。
けれど、ソアンの事は信じよう。そう思った。
『母上』
『なに?』
『……キラークラゲを知っていますか?』
『あら、キラークラゲは母国ではクラゲインクとして有名よ。あのクラゲの毒袋は、太陽の下で乾かすことによって毒性が消えるの。それを粉末状にして、使う時に油で解くのよ。通常のインクとは違い、水で文字が滲むことはなく、色も鮮明で伸びもよく、長期に渡って本や手紙を保存できるようになったわ。陛下もこれは画期的だと、水害の多い地域に下賜しはじめたところよ』
そういって王妃は誇らしげに『写本するなら絶対にこのインクがおすすめよ』と私に黒い瓶を渡してきた。
いま、私の手元には、そのインクが入った瓶と、今まで王妃にもらった手紙と、フォルダン公爵から渡された診断書が入った手紙がある。
『確固たる証拠はないのだ。公にするつもりはない……このことは、今は私の胸の内に留めておくだけにしておこうと思っている。……ソアン、これを頼む』
『はい。その時がくるまでは、安全な場所に隠しておきます。……殿下の生母は公爵家で護られている……医療は日々発展していきますし、私達が調べたものはいつかきっと役に立つ日がきます。これは殿下の身を守る術となりましょう』
『ああ……だがまだ足りない』
『殿下?』
15歳で成人し、王太子となるまでは……。
早急に後ろ盾、婚約者を決める必要がある。
『ソルド伯爵家のマーガレット様──領土も広く、毎年私兵を増やしております。それに嫡男リカルド様は騎士団の副団長です』
『それではだめだ』
『では……スピリッツ家のミディ様はどうでしょうか? 各国の王族はもちろん、我が国の平民でもその家名を知らぬ者はいない程、顔は広いです。潤沢な領地の資源と有り余る財産で過去には王家すら借金を申し込んだ大富豪のスピリッツ家なら、王妃殿下とはいえ、簡単に手出しは出来ないかと』
『確かに……いや、代々女伯爵の家だ。一人娘を王家に寄越す筈がない』
それでなくとも政略婚を嫌う家だ。
万が一にも婚約できたとしても、……無理だ。ケンリッチ帝国は三百万人の兵士団がいる、おまけに宰相夫人は王妃の元侍女、それを後ろ盾に持つ王妃なら、その気になればスピリッツ家を握り潰せるだろう。
『残るは、辺境伯……一国に打診するようなものです。陛下の許可も必須となるかと』
『……頭の痛い問題だな』
書類を置き、目頭を押さえる。
いや、今は休んでいる暇はない。
『ん?……モーライト伯爵の祖母は、本家ドリティス公爵家の出身なのか?』
『はい。わざわざ分家に娘を輿入れさせるくらいですから、今も仲は良好だとお聞きしています』
『ならモーライト伯爵家は公爵家の後ろ盾があるということか』
『しかし妙齢の令嬢がおりません。伯爵の娘は……ビビアン嬢、いえ今はキエトロ侯爵夫人になっております』
そうだった。名前は聞いたことがある。確かモーライト伯爵の娘ビビアンは……学生時代、父上の婚約者候補に上がったこともある。
『キエトロ侯爵家か……その令嬢はヴェロニカ……私と、同じ年……?』
『ハッ……殿下! 公爵家の分家であるモーライト家と、キエトロ侯爵家……その2人から生まれたヴェロニカ嬢は、この両家の血筋と後ろ盾を持っているということでは!?』
……そうだ。ドリティス公爵家とキエトロ侯爵家、絶大な力を誇る家だ。万が一どちらかが狙われても、ひとつは残る。その間に対策を練ることも出来る。共倒れすることはない。王妃とはいえ、一度に両家を潰す手段は持っていない筈だ。
『現段階では向こうにも婚約者はおりませんし、後ろ盾としてこれ以上の令嬢はいないかと』
『決まりだ、陛下に面会の許可を』
「はい! 私の父上にも話は通しておきます」
書類を放って深く息を吐いた。
王太子になるまでは、先の見えない濃霧の中を、武器も持たずに歩いているような、こんな日がずっと続くのかと危惧していたが……。疲労に霞む目を押さえると、少しだけ目の前の霧が晴れてきた気がした。
『ジュリアンの令嬢か。……はぁ』
『父上?』
『いいだろう。また……打診はしておくが、マティオス』
『はい?』
『侯爵家は高位貴族だ。王家からの打診とはいえ、先に顔合わせが必須となる。そこでヴェロニカ嬢が頬を染めなければ、婚約は成立しない』
『顔合わせ……それは、わざわざ見合いの場を設けるという意味でしょうか?』
『できるか? 失敗すれば、二度と侯爵家に打診することはできなくなる』
婚約までの面倒がひとつ増えた、ただそれだけの事。勿論できる──
『いけません!』
──そう答える前に王妃が横槍を入れてきた。想定内だ。ソアンと目を合わせ、次の段階を待つ。
『わたくしそのような古い風習は即刻排除すべきだと諫言したはずです! 陛下もご納得されたからこそ今まで見合いの席を設けなかったのでは!?』
『しかしなぁ……ジュリアンからは何度も断られておるのだ。ヴェロニカ嬢が頬を染めれば、ジュリアンも納得するやもしれんぞ?』
もう既に打診していた? 陛下が?
やはりソアンの考え通り、陛下は私を正式な後継者として見てくれているのか?
『調べによるとヴェロニカ嬢は面食い。7歳頃から王都劇団のそれはもう見目麗しい花形子役達に入れ込んでは、花を贈っている』
それなら、会話をせずともなんとかなるのでは?
おごるつもりはないが、私の容姿は整っている。この王宮でも、私が見つめただけで表情を崩す侍女は多い。更に微笑めば、男も女も面白いほど真っ赤になる者もいた。側近のソアンでさえ、最初はからかいがいがあるほど反応して、私の顔に慣れるまで苦労していた。あの無表情は努力の賜物だ。次第に飽きてそのようなことをすることはめっきり無くなったが、……今度笑顔の練習をしておこう。
『面食い? 貴族令嬢はみな面食いです。それだけの理由でマティオスに見つめられたヴェロニカ嬢が頬を染めない筈がないと、そう仰って?』
『確信はある。噂ではヴェロニカ嬢はマティオスとの婚約を望んでいるのだ』
『裏付けもなく確信とは言いません』
『……そう気色ばむな』
『わたくしは面食いですが、陛下にお会いしたとき頬を染めませんでした。それでも、そう仰って?』
『……それは王族教育の賜物だろう』
『ヴェロニカ嬢が頬を染めなかった場合、そこで手詰まりとなるのです。わたくしが愛した陛下はそんな危険な橋を渡る方ではありませんわ』
『……』
会話が止まったところでソアンが目配せをしてきた。わかった、と目で返し、一歩前に出た。
『母上、私がヴェロニカ嬢と婚約する、そのことになにか問題でも?』
『問題あります。貴方は婚約すればいいだけと思っている。ヴェロニカ嬢の頬を染めさせただけで、本当にキエトロ侯爵家とドリティス公爵家が真の後ろ盾になるとでも?』
『…………婚約は可能です』
『ヴェロニカ嬢と婚約しただけで、キエトロ侯爵が妃教育に協力するとでも? 侯爵からはもう3回も断られているのですよ? ヴェロニカ嬢がマティオスを好きになったとして、妃に相応しい令嬢となるかはまた別の話です。ここからは子供だけではどうにもならない、非常に高度な政治の話になるのです。マティオス、貴方はこの母の言葉を思い返し、後悔する日がきっとくるでしょう。そうならない為にも、婚約は双方の家が遺恨を残さない形で成立させ、更に周りを納得させ協力させる必要があるのです。貴方は一番重要な事がなにか解っていない』
『……』
王妃が言った言葉。
それは、見事に的中した。
「ヴェロニカ・キエトロでございます。マティオス・ル・アクトレギオン第1王子殿下」
王妃の怒濤の追い込みに思い直した陛下が先に手を打っておかなければ、この時点で詰んでいた。