当たり前の日常の崩壊
きっかけは一本の電話だった。
学校が終われば家に帰りゲームをして、夕食を食べ風呂に入って課題を軽くしてゲームをして寝る。そんな毎日でその日も例になくいつも通り課題を軽くこなしていた。
家の電話がけたたましくなり二階にある僕の部屋まで響く。パタパタ、と母親が小走りする音が続いた。いつも通り普段より高い母の声がする。おしゃべりな母はこのまま一時間話し込むこともある。何をそんなに話すことがあるのか、全く理解できない。しかし、この時間に電話は珍しい。現在十一時を過ぎたばかり。寝るには早いが家の電話に電話するには少し遅すぎる。なんとなく、変だな。なんて考えながら赤ペンを握ったときだった。
バタバタと母にしては珍しい足音を響かせ階段を上ってくる。なんだろう、と思い部屋の入口を見ていたら勢いよく母が飛び込んできた。
「お父さんが、事故にあったって・・」
いつもの明るい顔から笑顔が消えていた。
バクン、と心臓が嫌な音を立てる。
父さんが事故。
今日は飲み会だと言っていた。遅くなるからごはんは母さんと二人で、日付が変わるころに酒の匂いをまとわせふらふらと帰ってきて母が笑いながらおかえり、という。そのかすかな音を扉越しに聞きながらベッドに潜りスマートフォンをいじる。飲みすぎよ、なんて呆れながら言う母の高い声を聴きながら気づいたら寝落ちする。そうなると思っていた。
事故。
自分が、家族がいつ巻き込まれてもおかしくないことは十分知っているはずなのにいざ起こるとどうしたらよいのか全く分からない。
関節がさび付いたブリキの人形のようにうまく動かなかった。
「とりあえず病院行かなきゃ」
「あ、うん」
ギギ、と音がしそうな関節を無理矢理動かして上着を羽織った。きっとおかしな動きをしていただろうがここには笑う者もいない。
準備しなきゃ、と焦る母は動揺しながらも冷静だった。タクシーを呼び戸締りをして父の実家に電話をしている。その様子をただ、ソファで貧乏ゆすりしながらぼんやりと眺めているだけだった。
数分でタクシーがやってきて二人でそれに乗り込んだ。
事故。追突されたのだろうか。父さんは無事なのだろうか。まさか、命に関わることになる、とか。いやいやいや。そんなはずは・・・。
なぜないと言えるのか。冷静に考える自分もいた。事故なんてどこでも起こりうる。生きるということは常に死と隣りあわせではないか。それを平和ボケしたお前は考えようともしていなかっただけだ。
いやなことを考えたくなくて窓の外を眺める。薄暗い街灯に照らされた住宅が通り過ぎる。見慣れた近所の景色も今日は一段と物騒に感じた。
父さんがいるのは家から三十分以上かかる県立病院だった大きな入り口ではなく夜間専用の小さな入り口から入る。薄汚れた白い殺風景の廊下を小走りに歩き角を曲がると夜間診察用の待合室に出た。風邪を引いたのだろう小さな子供とその母親、還暦を超えたであろうおじいさんが一人、そして頭や腕に包帯を巻いた男性が一人で座っていた。
「伊藤です。先ほどこの病院に運ばれたと伺ったのですが」
「あ、あぁ。少々お待ちください」
受付の若い看護師さんが焦ったように奥に引っ込むとベテランぽい恰幅のいい看護師さんに何やら呟いている。少し待つと処置室の扉が自動で空きナース服とは違う衣装の女性がやってきた。
「伊藤さんのご家族でよろしいでしょうか」
「はい」
黒髪をきれいにまとめた女性の言葉に母が頷くと中に案内された。そこはだだっ広い部屋にベッドが何台も置かれその間にカーテンで仕切られた部屋だった。バタバタとお医者さんや看護師さんらしき人が慌ただしく動いている。その中で一番手前のベッドに案内された。カーテンの中に入ると父さんが横たわっていた。
「お父さん!」
母さんはベッドに駆け寄ると父さんの顔を触った。いや、縋りついたという方が正しいのかもしれない。強張っていた表情が一気に緩み崩れた。
「あの、旦那は・・」
「腹部に軽い打撲を負っていますが命に別状はありません。数週間で完治すると思います」
淡々と告げられる女医さんの言葉に母は長い息を吐いた。
「良かった」
なんだ、やっぱり大丈夫だったじゃないか。
安心したらどっと疲れが押し寄せてきた。思ったより自分は気を張っていたらしい。
心配して損した、という気持ちをこめて溜息を吐いた。
「そんな!嘘だ!」
突然男の人の声が聞こえた。どうやら隣のベッドから聞こえるらしい。
「ここに来た時点で、もう処置できる状態ではありませんでした」
医師だろう男の人の声に続いて先ほどの男の叫声が響いた。
力が抜けたはずの体が再び固まった。隣の人も同じ事故の被害者のだろうか。父さんは助かったが助からなかった人もいたのだ。一歩間違えば父さんが死んでいたかもしれない。
その考えが頭に浮かぶと同時にさぁっと血が引くのがわかる。
叫ぶ男性のことを思うと父さんが助かったことをこれ以上この場で喜ぶことができない。
父さんも母さんも固まったように動かない。そのまま母さんは声を押し殺して涙を流した。それは父さんが生きている安堵からか、隣で別れを惜しむ人への同情かはわからなかった。
「すまない」
父さんは母さんと僕をゆっくり見て呟いた。そのかすれた声が酷く震えていて何だか僕まで泣きそうになる。
その時、ふ、と固まった空気が動いた。看護師が入ってきてカーテンが揺れる。
「個室の準備が整いましたので今から移動しますね」
「よろしくお願いします」
母さんが挨拶してベッドから離れた瞬間看護師さんは素早く準備に取り掛かった。待ってましたと言わんばかりにちょうどいいタイミングでもう一人の看護師もやってきてあっという間に動き始めた。ベッドで移動するのは居心地が悪いのか父さんは所在なさげにキョロキョロしている。
処置室を出てベッド専用のエレベーターに乗った。ふ、と口から無意識に息が洩れた。ベッドがあると狭く圧迫感があるがあの処置室に比べればとても楽だ。張り詰めた重い空気に耐えられず、あの男性には悪いが出たくて仕方がなかった。
個室は思ったよりきれいだった。病院は辛気臭い、ちょっと不気味なイメージだったが想像以上にお洒落な内装だ。キョロキョロ室内を見ている間にベッドの移動が完了したのか看護師さんは出ていってしまった。
「急で申し訳ないのですが警察の方が事故について話を聞きたいそうですがよろしいでしょうか」
「警察、ですか」
「はい。事故の状況を聞きたいということで旦那さんとお話したいそうです」
「わかりました」
やっと一息つけると思ったのに部屋を出された。入口で入れ替わるようにガタイのいい壮年の男性と若い二十代くらいの男性の二人が入っていった。
警察、と聞くだけでドキドキしてしまう。悪いことをしていなくても緊張するというか、身が引き締まる。でも、事件だけじゃなく、こういう事故にも事情聴取とかしなきゃいけないなら、大変だなぁなんて思いながらすれ違う。
「なんか、いろいろびっくりしちゃったわね。何か飲まない?」
部屋の外でただ突っ立っているのも邪魔なので休憩スペースに向かった。母さんは僕に温かいココアを渡した。日中は暖かいものの夜になると急に冷え込むこの時期のせいか、指先は冷え切っていた。
母さんは緑茶を一口飲むと電話をかけ始めた。たぶん口調と内容からして父さんの実家だろう。父さんに似て気の弱いばあちゃんは、それはもう心配していたに違いない。
ふとズボンのポケットのふくらみを感じ、そういえばと中に入れていたスマートフォンを取り出した。画面に表示される時刻は午前一時を過ぎていた。そろそろ眠くなる時間だが今は変に目がさえていて全く眠くならない。ゲームをやる気にもならずコミュニケーションアプリを開く。学校の友人や中学の友達がたわいもないことを呟いている。流すようにスクロールしていくが全く頭に入ってこないしこれと言って面白いものもなかった。
気づけば母親の電話は終わっていた。しかし、僕らの間に会話はなかった。真夜中の病院の静寂に慣れてきたころ僕の上に影が落ちてきた。
「伊藤さんのご家族で間違いないでしょうか」
しゃがれた低い声だった。振り向くとさっきすれ違った刑事さんたちが立っていた。
「はい。そうですが」
母親の不安は僕にまで伝わってきた。
「旦那さんのことでお話があるのですがよろしいでしょうか」
笑顔は一切なかった。ひやり、と背中を汗が伝う。
警察の二人について行くと小さな会議室のような場所に通された。こんな場所が病院にあるのか、と現実逃避する。一度若い刑事さんと目が合ったが居心地が悪くすぐ目をそらした。
「あの、話って」
「夜分遅くに申し訳ないです。佐藤と申します。奥様には伝えておかねばならないことがありまして」
はぁ、と訝かし気な、消え入りそうな母の声が小さい部屋に響く。
「今回の事故は飲酒運転の車によるものでした。飲酒により判断力が低下した状態で運転をし、ブレーキが遅れ前の車に追突した、とのことでした」
突然重力が増えたんじゃないだろうか。重い空気が全身にのしかかる。
「その追突した車を運転していたのが伊藤忠さん、旦那さんです」
ひゅ、と喉が鳴った。それは母か僕か、分からない。
父さんが飲酒運転。そんなはずはない。
「ありえません!今日は飲むから車で会社に行っていないんですよ」
初めて聞く母さんの金切り声に肩が震える。でも、刑事さんは慣れているのか微動だにしなかった。
「運転していたのは会社の上司のものとおっしゃっていました。運転するように言われ断り切れなかった、と」
「旦那は、認めているんですか?」
「はい」
母親が顔を覆って崩れ落ちた。何を言っているかわからない。父さんが飲酒運転なんてする様な性格じゃない。気が弱く穏やかだが人様に迷惑をかけてはいけないと口酸っぱく言っていたじゃないか。
「奥様、辛いことかもしれませんが怪我が改善し次第逮捕することになります」
刑事さんは気の毒そうに眉を潜めていた。その深い皺しか頭に残ってはいない。母の嗚咽だけが頭にこびりついて離れなかった。
これが、悪夢の始まりだった。




