気づき始める彼の真実
約一週間ぶりだった。
「ちょっと」
「いっ」
「あ、ごめん」
まだホームルームの始まる前。閑散とした教室で彼と会った。咄嗟に手を握れば顔をしかめる彼に咄嗟に手を放す。
ゆっくりめくればまだ赤黒い痣があった。
「やめてくれる。誰かに見られたらどうするの」
焦るわけでもなく、淡々という彼の表情からは感情が読み取れなかった。
今は教室に二人きり。それでもすぐに他の人がやってくるだろう。
「ついて来て」
そう言うと彼は何も言わずについてきた。不思議な気分だった。そんなに話したことのない神崎君と、僕はいったい何を話そうとしているのか、自分でもまとまって無かった。
教室棟と渡り廊下でつながっている別棟は理科室や家庭科室などがあり、授業が始まるまでほとんど人がいない。その別棟の階段下は格好の人目につかないポイントだった。
「それで、こんなところまで連れてきて、何の用?」
「いや、それは・・・」
もっと、焦ると思ってた。もしくは、一週間前にコンビニで会った人は別人だと思いたかった。でも、彼は一瞬間一度も顔を見せることはなかった。それが何よりの証拠だった。
「何もないなら戻るよ」
「待って。あの、誰にやられたの」
階段裏は光が差さず薄暗い。その中で、一層暗い瞳に鳥肌が立つ。
「言ったらどうするわけ」
「いや、どうするって・・・。でも、誰かに相談したり」
「そう言うのいいから」
そう言って体を翻した神崎くんを引き留めようとして肩を掴めば、痛そうに顔を歪めてうずくまった。
「ほら、こんな状態で放っておくわけにいかないって」
忌々しそうに睨んでくる顔も今は怖くなかった。ただ、ちょっとした喧嘩だったら放っておいた。しかし、暴力されていることを指摘されても焦らないし、なれているような態度は習慣的に暴力を受けている証拠じゃないか。現に、神崎君が休みでもみんなまたか、で終わった。昔から、良く休みがちだったらしい。つまり、そんな昔から暴力を受けているんじゃないか。
「親、なの」
彼から、ごっそりと表情が抜け落ちた。
「お父さん?お母さんは知ってるの?児童相談所に言った方が」
「うるさいな」
荒げるわけでもない、それでも強い声が響いた。
「だったら何。かわいそうだな、とか思って見下してんの?気持ち悪い」
「見下してなんか!」
「じゃあなに、迷惑なんだけど。別にどうこうするつもりもないし、構わないでくれる」
そう言うと、彼は背を向けて歩いていってしまった。
そりゃあ、おせっかいだとは思うけど、あの日見た神崎君の顔があまりにも衝撃的だった。きれいな顔がいびつに腫れあがり、変色し、寧ろきれいなまま残っている鼻や長いまつげが異質だった。正直、昔のように男の子は喧嘩する時代でもない。そんなゆとりの僕にとって生々しい傷跡を始めてみたからかもしれない。他人のことなのに震えた。
教室に行けば、仲良さげに友達と話している神崎君がいた。その姿は『いつも通り』だった。
授業中も彼を見ていたが特に変わった様子もない。
その日は、彼と一度も目が合うことはなかった。
今日は、父さんに会いに行く日だった。行きたいと思ったことはない。あの日見た父さんはやつれて、弱弱しくて、情けなかった。また、あの気持ちになるのか、と重い気持ちと、それでもどこかに心配する気持ちはある。刑務所なんて、ちゃんと眠れているんだろうか。他の受刑者とか、やばい人しかいなそうだし、いじめじゃないけど、嫌な思いと化してないだろうか。
「ごめん今日部活休む」
「また。しょっちゅう休まれても困るんだけど」
いつものへこへこした態度とはうって変わって高圧的だ。彼の中で、僕は完全にしたの人間になったんだろう。こいつはどうでもいい。周りの目が痛かった。
「ごめん」
「謝ってすむのかよ」
背中に呟かれた。謝ってもダメ、謝らなくてもダメ。結局何を言ったって悪いほうにしかとられないし、目の敵にするんだろう。どうしようもない脱力感に鞄を取って教室を出る。
「やっほー」
明るい声と共に背中を叩かれたと思ったら、ふわ、とシャンプーなのか柔軟剤なのかいい香りが鼻腔をくすぐる。
「大丈夫?最近元気ないね」
やはり、というか、立花さんだった。
「大丈夫」
「ほんとかなぁ、伊藤君の大丈夫は信用ならないなぁ」
おちゃらけた口調に少しだけ心が軽くなる。
「今日部活休むから一緒に帰らない?」
「珍しいね」
彼女はとてもまじめで、あまり休むイメージがない。そういえば、最近体調崩してたっけ。
「体調悪いの?」
「あぁ、大丈夫だよ。家の用事」
二人で靴を履き替え外に出る。下校する生徒がちらほらといる他に、部活動に行く生徒で賑わっている。いつもはイヤホンをしているから、今日は一層騒がしく感じる。いつもは気になる視線も、彼女といればあまり気にならなかった。
「伊藤君、今日部活は?」
「父親に会いに行くんだって」
「そっか」
母が楽しみにしてたから、巻き添えみたいな感じだけど、まぁ家族だし仕方ない。僕はそんなにしゃべらないから顔を見て帰ってくればいい。彼女も何とも言えなそうな顔で歩いている。立花さんとは学区が一緒だからほとんど通学路が同じだ。進めば進むほど同じ学校の生徒はいなくなっていった。
「そういえば、あのさ」
「なに?」
「神崎君のこと、知ってる?」
急な方向転換に不思議そうな丸い目がこっちを見た。ぱさぱさとまつげが揺れる。
「神崎君?どうしてまた」
「いや、あんまり会ったことないから」
「確かに。休み多いよね。伊藤君が休んでるとき結構来てたんだけどなぁ。最近も来るようになったね。でも、保健室登校の日とかも多いよ。体が小学生の時から弱いんだって」
やっぱり、風のうわさで聞いた話だった。誰も、彼が暴力を受けていることを知らないんだ。
「あとね、これは神崎君と同じ小学校の人から聞いたんだけど」
と、彼女は声を潜めた。
「お母さん、亡くなってるらしいよ。噂によると、自殺じゃないかって」
自殺。
それは、もしかしてお父さんの暴力に耐えかねて、だろうか。でも、もしそうなら亡くなったときにあまりに痣や傷が多くて疑われるだろうに、彼のお父さんは未だに彼に同じ行為をできている。
「神崎君のお父さんって何してる人か知ってる」
「実業家って言ったかな。めちゃくちゃお金持ちだよ。近所でも評判がいいタイプで、私が聞いた子はイケオジって言ってた」
あはは、と彼女は笑った。
何年か前に、テレビでDV彼氏にはまって抜け出せなくなった人の話を見たことがあった。確か、暴力の後は突然優しくなって、普段はすごくいい人だった。二面性怖いなぁ、なんて画面の向こうで思ったが、彼のお父さんもそういう人なんじゃないだろうか。
大丈夫、何だろうか。ちょっとしか見てないけど、怪我の様子はかなりひどかった。このまま、死んじゃうとか、ないよな。
僕自身が自殺願望があるから、自殺したいって言ったら止められないし、気持ちはわかってしまうけど、生きたいのに殴られて蹴られ死ぬのはかなり苦痛だろう。想像しただけで鳥肌が立つ。
「でも、すごいよね。お母さんがいなくてもそういうの全然出さないじゃん。いっつも爽やかでさ」
尊敬するよ、と間延びした声で言った。
確かにあれはすごいと思う。ただポーカーフェイスがうますぎて怖いのだ。あの笑顔はお面の様だ。いつも、心から楽しそうじゃないし、感情が全く読めない。
気づけば別れるところに来ていた。
「じゃあこの辺で」
「あぁ、また」
改めて一緒に帰っていたと思うと気恥ずかしくなる。その気持ちが移ったのか彼女も恥ずかしそうに小さく手を振って角を曲がっていった。
別に、彼女とはそういう関係ではなかったが、そもそも、この年で女子と帰るということが恥ずかしい。振り返すのもなんかなぁ、と迷って、行き場を失った手で首を掻く。
夏が終わり、冷たい風が、ひゅうっと頬を撫でた。




