神話の残骸
在りし時、まだ誰もいないこの世界に、一人の少女が舞い降りました。
彼女は無数の世界を眺め、訪れることができる不思議な少女。
たくさんの世界にたくさんの人々。
彼らが楽しく暮らしていることが少女の幸せでした。
けれど今、少女はとても悲しんでいます。
彼女が行ったことのない世界から、おぞましい獣たちがあふれ出したのです。
彼らは人々が幸せに暮らす世界に入り込み、
目につくものすべてを貪り食らっています。
どの世界の人間も、獣を憎み倒そうとしましたが、力及ばず食べられていきます。
少女はこのままではいけないと思い、
そこで
他の世界から隔てられたこの場所に住まわせることにしました。
少しずつ連れてきて、
彼女はその人々がこの世界で幸せになれるよう一生懸命頑張りました。
そうすることで獣たちに抗いました。
しかし獣たちはそれが気に入らなかったようです。彼らは
遂にはこの世界を見つけ出しました。
彼ら自身はどうやってもこの世界に入ることができなかったので、
代わりに彼らは、自分たちよりも優れた王女を何人も作り出しました。
王女たちはこの世界を覆う壁を破り、獣の群れとともに攻め込んできました。
彼女を滅ぼし、数多の世界を皆で食らい続けるために。
少女は戦いました。
人々も彼女から力を授かり、彼女と共に立ち向かいました。
獣は人々に倒されましたが、王女たちはとても強かったのです。
戦いは長く激しく、それでもとうとう少女たちは勝ちました。
豊かな大地と、彼女自身を犠牲に。
もう獣はここにはいません。そして少女も。
すっかり荒れ果てたこの世界に、僅かばかりの人々が残されました。
いつまでも嘆き悲しんではいられません。
彼らは少しずつぼろぼろの世界で立ち上がり、
やがて再び寄り集まって逞しく生きていきます。
強くなって、
そして何より、少女が戻った時に、彼女が笑顔になれるように。
♢♦♢♦♢♦♢♦♢
この世界、この時代にはもはや宗教は存在しない。人々は何かに縋る必要性を感じなくなった。健全か不健全か、漠たる精神的支柱がなくとも、ある程度共通した価値認識を持つに至ったためである。その背景にはもちろん、クヴァエレとの戦争で塗り固められてきた時代がある。
しかしその事情とは別に、ある種の神話は今でも語り継がれている。一部の情報が失われながらも残っているその物語は、千年前の実話だとか。
本気にしている者はあまりいない。一方で千年前に何かが起こって、文明が記録と共に消滅し、人類が少数から再出発したという歴史と、符号しているのも事実。つまるところ、正体不明の逸話だった。
その物語を綴った絵本に今、一人の少女が目を落としている。部屋の光源はテーブルランプのみ。ベッド脇にある椅子に腰かけた彼女は寝巻姿で、いかにも寝る前の穏やかな時間に寛いでいるような絵面である。
しかし絵本を見る少女の目は暗く濁っており、既に擦り切れているその本を視線で朽ちさせようとしているようにも見える。舌打ち、続いてため息。
何の気なしにパラパラとページを捲っては眺めていたが、やがて立ち上がって絵本を本棚に直す。大きな欠伸をしてベッドに入ろうとすると、部屋の端末がコール音を鳴らし始めた。
少女はこの世の終わりのような顔をしながら、端末に近づき応答する。
「私です。どうしました?」
「そうですか。でしたら普段通り、あなた方で処理してもらって結構ですよ」
「ああ。なら、私も一緒に考えねばなりませんね」
「いいえ、知らせてくれてありがとう。今から向かうので、十分後からでいいですか?」
「構いません。それでは十五分後に」
通信が切れるや否や、少女は部屋を飛び回るように行き来して身支度を整える。仕事着を着込み、携帯端末をポケットにねじ込む。すっかり臨戦態勢となった少女は玄関に突き進んでいき靴を履く。
最後に鏡で自身の姿を確かめ、反対側の棚に飾っている二つの写真を振り返って見る。慌ただしく動いている中、その数瞬だけ動作を止めて一呼吸。
よし。と小さく呟くと、視線を外してドアを開け、通路に飛び出していった。
少女が見た写真、一つには今より幼い姿の少女と若い男女が、もう一つには今の少女と男の方だけが写っていた。