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姫と御曹司

不器用なお姫様の奮闘

作者: あやぺん

 ソファに座って、私は穴を睨みつけていた。銀色の細くて小さな針の、それより更に小さな穴。通そうとしている糸が、嫌だ! というようにスルリンと穴から逃げる。


「ああ、また……」


 そう口から溢れた時、クスリという笑い声が聞こえてきた。右前方、机で何やら仕事用の書類を訂正している彼の横顔。愉快そうに微笑んでいる。何も聞いていませんと言わんばかりの澄まし顔だが、笑みが隠せていない。


——そのボタンは私がつけます


 私が言い出して、もう二十分は経過している。不器用な私はボタンをつけるどころか、針に糸が通せない。彼の為に何かしたくて、ちょうど彼の上着のボタンが床に転がったというのに、この有様。世の女性は、こんな難しいことをスルスルとしているらしい。


 そもそも、糸の端を結ぶのも大変だった。こういうことは、全部侍女がやってくれていた。他の女性に彼の世話をさせるのは、何だか悔しいので、あれこれ勉強中。裁縫もその一つ。侍女に教わった時は今より上手く出来たのに、彼がチラチラ見るからか、緊張しているのか、全然進まない。


 不意に、彼が腕を上にあげた。椅子の上でグッと体を伸ばす。ほうっと息を吐いてから、彼は私を見た。穏やかで優しい微笑に、胸が軽く締めつけられた。こういう空気にまだ慣れない。婚約したが、まだ夢見心地。


「ひと段落ついたのですが、そちらはどうです?」


「滞りありません」


 糸が大反乱して、大暴れをし、邪魔をされています。と言うか迷ったが口にしなかった。そっと唇を結ぶ。こんな事も出来ないと思われたくない。笑われるかと思ったら、彼は真顔だった。彼の性格からして、遅いと怒るのは想像出来ない。だから、不器用を揶揄うように笑うと思っていたのに、彼はただぼんやりと私を見つめている。何だろう?


「そうですか」


 彼が立ち上がり、手に書類の束を持って近寄ってきた。


「指摘事項を修正しました。後で確認してもらえます?」


 それなら得意だと、私は目の前のテーブルに針と糸を置いた。彼から書類を受け取る。手元の書類をパラパラと確認すると、指摘箇所を修正だけではなく内容が濃くなっている。よくもまあ、こんなに次々とあれこれ思いつく。物凄い速さで生まれていく新法案。私がこの国に与えようとしているものを、強化してくれる。足りないものを補ってくれる。逆もそうだと言われて、彼の手伝いが出来る自分の頭脳はとても誇らしい。


 誰よりも働く勤勉家。今のように朝から働き続けている姿を見ているから、隣国の民は彼を尊敬してやまないのだろう。豊かな隣国の高貴な身分の御曹司。そんな人に認められた。隣にと望まれた。私の為に、この国で暮らしてくれるという。


「いえ、今すぐ内容を確認します」


 少し休んでください。 その言葉に甘えて紅茶を飲んでのんびりしていた。手持ち無沙汰なので、針仕事というのに挑戦してみたくて奮闘。惨敗。休憩は終わりだ。


「先にしていた仕事がありますよね? 片付けてからでお願いします。このままだと、みっともなくて部屋から出られません」


 彼が机の上にある上着を指差した。彼は私から書類をそっと取り上げた。書類はテーブルに置かれ、代わりに針と糸を手渡される。


「そうですね。分かりました」


 挑発されたので、見事にボタンを取り付けてみせる、とやる気が出た。彼はもう元の位置に戻っている。足元に置いてある皮の黒鞄から、また新しい書類を出していた。一体、いくつの草案を作成してあるのだろうか。チラリと赤い字が見えたので、誰かが確認したものを、これから更に確認するのだろう。


 さて私。目の前には大切な書類。手には針と糸。ボタンくらい、さっさと取り付けて、すぐに働こう。


 それには、解決方法は一つしかない。


「自分で申し出たのに、あれなのですが……」


 彼の背中に声を投げた。ん? と振り返った彼は、どうしてなのか機嫌が良さそうだった。普通、逆ではないか?


「いつそう言いだすのかと待っていました」


 再び席を立った彼が、また近寄ってくる。私の隣に腰を下ろすと、彼の手が伸びてきた。降参、と針と糸を渡そうとしたら彼の手の甲に針が刺さった。


「っ痛」


「まあ! すみません」


 慌てて手を引っ込めたら、彼に勢い良く両手首を掴まれた。眉間に皺を寄せた彼の怒り顔に、心臓が嫌な音を立てる。


「今度は自分の指を襲うとは、危なっかしい」


 彼に言われてみて、視線を移動させる。私の右手が掴む針が、左手の指を刺す寸前だった。私はどういう軌道で手を動かしたのだろうか? 自分のことながら、分からない。目が合って、怒っているのではなく心配されているのだと分かった。


 顔の近さに急に恥ずかしくなる。距離感もだが、針仕事一つ上手くできないという事実には羞恥心しかない。彼がそっと私の手首を解放した。私は視線を落として、彼から少し離れた。


「あの、本当にすみませんでした。それに、ありがとうございます」


「こちらの注意不足のせいです。君が怪我をしなくて良かった。気をつけてください」


 改めて、彼の優しさを実感する。心の底から良かったと思っているという笑い方。この人といると落ち着くのは、こういう所だ。


「はい。次は気をつけます」


 自然に笑えた。多分、照れ笑いになっているだろう。彼が目の前にある裁縫道具箱を手に取った。中身を確認している。


糸通し器(スレダー)があると楽なんですがこの裁縫道具箱には見当たらないですね」


 机の上に裁縫道具箱を戻すと、彼の手が私の髪をそっと掬いあげた。ゴミでもついていたのだろうか? 彼を見ると、彼の手が私の髪から離れた。ホコリなどを取ったようには見えない。


「昔、教わった方法があります。試してみます?」


 そう言うと、彼はいきなり自分の髪の毛を引っこ抜いた。何で髪?


 彼が私の指から針をそっと奪った。抜いた髪の毛を穴に通し、その髪先をまた針に通す。


「この輪になったところに糸を通して、引っ張るんです。糸より細いから簡単ですよ」


 彼の目線が、輪になった髪の毛の所に糸をどうぞというように動いた。私が糸を輪に入れる。これだけ大きな穴なので簡単。彼が髪の毛を引いていった。輪が小さくなり、糸ごと針の穴を通っていく。思わず、感心してしまった。生活の知恵というのは、面白い。得意げな表情の彼。褒められるのを待つ犬みたい。こういう子供っぽい顔もするとは知らなかった。


「もっと早く助けてもらうべきでした。時間を無駄にしてしまいました。ありがとうございます」


 感謝を伝えたのに、彼は悲しそうに眉を下げた。彼が糸の通った針を机に置く。そっと腕を撫でられたので、身を竦めた。一体、どうしたというのだろう?


「そうだ。無駄にさせてしまった。針糸と戯れている姿が可愛いので、つい放置してしまった。すまない」


 突然現れた可愛いという単語に、全身が熱くなった。ごめんという目の、悲しそうな揺らめき。この人はこういう発想をするのか。私は小さく首を横に振った。彼の口元が綻ぶ。私の腕に触れていた彼の手が、私の頬へ移動した。


「あ、あの……」


「呼んでくれれば助けるのに。やる気を無下にしたくない。手伝うと言ったら機嫌を損ねるか? そんな事を考えていたから、ちっとも仕事が捗らなかった。お互い不利益だったようなので、次から気をつけます」


 彼の指が、私の頬をくすぐるように動いた。全く予想していなかった展開。私は少し体を反らした。彼の手が引っ込んで、彼の体も離れる。


「すみません。つい。ああ、今度は自分一人で糸を通してみます? 何でもそうですけど、最初から上手く出来る人の方が少ない。君には機会や、教えてくれる人がいなかっただけ。すぐに上達しますよ」


 机の上の針に手を伸ばす彼。私はその手にそろそろと手を伸ばした。シャツをそっと指で摘む。こういう時、何て言えば良いのだろうか? 気恥ずかしくて、声が出ない。続けて欲しいという、明け透けな言葉なんて口に出来ない。


「嫌がられた。そう思ったんですが勘違いなようで良かった。続けて欲しいとねだっているように見えるんですが、良いです?」


 返事をする前に、もう先程と同じ体勢に戻った彼。それ以上はしてこない。多分、私の返事を待っている。何をされたって良いと思っているのに、私は彼にとても尊重されている。思いっきり甘えられる性格なら良かったのに。小さく「はい」と呟くのが精一杯。優しくて、少し熱っぽい彼の目を見つめ続けていたいのに、照れてしまって無理なのもそう。


 意を決して彼の胸に飛び込もうとしたら、私の額が彼の顎にぶつかった。ゴンッとかなり強い音がして、サアッと血の気が引く。涙目で顔を歪める彼。顎に手を当ててさすっている。慌てて謝ろうとしたら、彼の方が先に口を開いた。


「ず、頭突きとは勇ましい……。少々自制心を失っていたので助かった。すみませんでした」


 一瞬、嫌味かと思ったが彼は未婚の女性には、恋人であろうと手を出さない。らしい。しかし、私は恋人ではなく婚約者。結婚式典までも、そんなに日にちは無い。なので、彼が自制心を失ったままで良かった。それなのに、折角の甘いムードを頭突きで破壊。器用に抱きついて、甘えられていたら良かったのに。


「ま、まさか! い、今のは事故です。抱きつこうかと思っ……」


 本音がポロリと溢れ落ちた時、彼が大きく目を丸めた。それから嬉しそうに笑った。何か言われるかと思ったが、彼は黙って私を見つめている。また少し距離が縮まった。動くと、また何かしでかしそうなので、私はその場で目を閉じた。キスならしてくれるのは分かっている。恥ずかしくて破裂しそうだけれど、キスして欲しい。また抱きつこうと挑戦する勇気はないが、これなら頑張れる。


「そんな風に誘われると困る。君を大切にしないとならない」


 そう言いながら、彼が私の顎をそっと持ち上げた。壊れ物を扱うような手付き。キスも同じくらい優しかった。砂糖菓子よりも甘い。そう思う。それだけで離れていきそうな彼を、もっと私に夢中にさせたくて、私は彼の首に腕を回した。ソファに両足を乗せて、横になり、彼を引き寄せる。


 そう思い描いていたのに、私はバランスを崩してソファから落下した。


「すまない。誘うではなく、嫌だったとは……。酷い勘違いをした」


 罰が悪そうな彼に、否定の言葉を投げようとした。逃げたと誤解されたらしい。違うと告げるより先に、彼は私を起こしてソファにエスコート。おまけに私に背を向けて、さっと部屋から出て行ってしまった。去り際、かなり傷ついたような表情で青ざめていた。


 とんでもない誤解を与えてしまった。折角、婚約者になったのに何てこと。慌てて後を追いかける。城の廊下に彼を見つけ、名前を呼んだ。彼が振り返る。駆け寄ろうとしたら、ドレスの裾を踏んづけて転んだ。彼が急いで駆け寄ってくる。私は廊下に座り込んだまま、つい愚痴を零した。


「もうっ! こんなことばかり! 上手く動けないなんてどうなっているの? 誤解されるし、みっともない姿も見られて……。甘えるはずが正反対……。折角、大好きな……」


 言いかけて、彼と視線がぶつかり、息が止まった。密室でも無い場所でなんていう台詞を……。周りを見渡したら、後方の壁際に護衛騎士が澄まし顔で立っていた。何も聞こえていませんという表情。やはり人気が無い訳がない。私は恥ずかしくて消えたくなった。白い腕が赤く、顔が火照っているので、全身真っ赤だろう。


 口元を抑えている彼。少し頬が赤らんで見える。彼が私の手を引いて立たせてくれた。


「そ、その……嫌ではなく……むしろ逆で緊張やらで……」


 彼が私の唇の前に指を伸ばした。彼が口元を隠したまま顔を横に振った。その後、口から手を離した彼は、何でもないというような精悍な表情になった。しかし、繋がれた手は力強くて熱い。ここまできたら、恥など捨てる。私は意を決して考えついた言葉を口にした。


「た、大切にしてくださるなら……離れるよりも、その、触れていただける方がとても嬉しいです……」


 彼は私の台詞を遮るように歩き出した。


 手を繋いで、無言で部屋に戻った私達。


 あれこれ頑張ってみた私の苦労が報われたかは、秘密。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ほわほわっとした雰囲気に凄く癒やされました。 こういった作品を読む機会はこれまであまりなかったのですが、心が温まり元気が出ました。
[良い点] きゃあああああ!!!!! か、かわ、かわ、かわいい! かわ! ……すいません、取り乱しました。 不器用なお姫様の不器用すぎるところが可愛すぎました♡ 針に糸を通す方法、そんな知恵があ…
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