哀しい女
どうしてこんなに気持ちいいんだろうか。
冷たい粒が頬を濡らして。
湿った空気が心に潤いを与えて。
雨が降っていた。
休日。私が部屋で寝転んでいると、ポツポツと小気味の良い音が聞こえて、暫くするとザーッと降りだした。
「雨だっ」
現実に心底辟易していた私は、いつもと違う風景を見て子供のようにはしゃぐ。窓に両手を貼り付かせ外を眺めると、透明な粒が次から次へと曇った空から落ちてきた。
ガラッと窓を開けて、私は勢いよく左手を伸ばす。
「やっぱり雨だっ」
雨じゃないならなんなんだ。そう言われても仕方のない確認をし終えると、お気に入りの服に着替えて外に出た。
ザー ザー ザー
外を歩いている人は少なかった。辺りに光は一筋もなくて、私は行く宛もなくたださまよう。心地よい音が耳に響いて、不安やストレスが洗い流されていくのがよくわかった。
ザー ザー ザー
雨の打つ音を聞いているうちに、気分がおかしくなってきた。
雨にまみれて。雨に打たれて。雨が私を呼んでいて。
ザー ザー ザー
絶え間無く聞こえる癒しの音。
ザー ザー ザー
何かを暗示させる不気味な音。
「最っっっっっ高!」
普段は叫ばないのに、何故か叫んだ。
「アハハハハハハっ」
甲高い声で笑っても、誰も私を振り向かなかった。
誰も見てない。誰も聞いてない。誰も興味を示してない。
少し寂しいかも……
でも、よかった。もしかしたらみんな気づかない振りをしてるだけかもしれないけど。
雨さえあれば、それすらどうでもよかった。
雨
雨
雨
雨
傘も差さずに両手で粒をキャッチして、私は喜怒哀楽を一編に吐き出した。時折、笑って。時折、泣いて。時折、睨んで。時折、無表情になる。そんな感情の繰返し。目まぐるしいくらいの繰返し。
そんな時だった。
目の前から、性格がいかにも良さそうな、優しい表情の青年が歩いてきた。
いい人そう……
雨の日は何をしても許されるような気がして、私は彼にイタズラをしてみた。どれを選択するか少し悩んで、私は哀を演じることにした。
目の焦点をワザと合わないようにする。唇をブルブルと震わせる。表情が見える程度に前髪を垂らす。肩の力を抜いて腕をだらんとぶら下げる。ゆっくりと今にも倒れそうな感じで、ヨタヨタと歩く。
出来た……
哀しい女の出来上がりだ。
土砂降りの中を、今にも倒れそうな、訳ありそうな私がフラフラと歩いていた。
「大丈夫ですか?」
青年がそんな私に小走りで近寄ってきた。私はストンッとその場に座り込む。
……かかった。かかった。
引っかかった。引っかかった。引っかかった。
「なん……ですか?」
私は俯いたまま、雨に消されそうな弱々しい声を出す。
「だってあなた……こんなにびしょ濡れでっ。何かあったんですか?」
青年は心配そうな表情を見せる。自分が濡れることなどお構い無く、私に傘を差し出してきた。
なんて優しい人なんだろう……
私は僅かに申し訳なさを感じたが、それでも雨が洗い流してくれた。
「いえ……あなたには関係ないことですから……」
私は敢えて、青年の優しさを振り払った。
「そんなっ…。何かなきゃこんな風にはならないですよ。とりあえず雨の当たらないところに行きましょうっ」
「あなたには……関係ないことですから……」
私はじらした。彼を時間をかけてゆっくり見上げると、うっすらと微笑んでみせる。青年はそれを見て、さらに顔を曇らせると
「いやっ。でもこのままじゃっ」
「大丈夫ですから……。関係ないことですから…。あなたには……。あなたにはっ」
私は濡れた地面に肘をつけると、顔を隠すように両手で覆う。
「何があったんですか!? 僕に話してみてください。絶対にあなたの力になりますからっ」
青年はびしょ濡れになりながら、真剣な表情で私の肩に触れてきた。
……ああ。いい感じ。
頃合いだった。
私は両手を顔から外すと、顔に悲壮を纏わり付かせて精一杯の笑みを浮かべる。
「ありがとう……。心配してくれて」
私は傘を振り払って、その場から走り去ろうとした。すると
「待ってくださいっ」
青年が私の腕を掴んで、精悍な顔つきで引き止めていた。
ザー ザー ザー
ずぶ濡れの二人が、雨の中で互いに見つめ合っていた。
私は手を振りほどこうとしたが、青年の力は思いのほか強く離れなかった。
「僕に協力させてください。何があったのかわからないけど、僕は絶対にあなたの力になりますから」
真剣な眼差しで真っ直ぐ私を見つめると、彼は優しく微笑んでくれた。それを見ていたら
あれっ……?
私の目から知らず知らずのうちに涙が流れた。その涙は雨ですぐ流されてしまったけれど、それでも涙は止めどなく流れた。
青年はさらに続ける。
「あなたが何を抱えているのかはわかりません。あなたが何に悩んでいるのかもわかりません。でも僕はっ…。あなたが雨に濡れながら悲しんでいるのを、そのまま見過ごすことは出来ないんです。とにかく……、雨に濡れない場所に一緒にいきましょう。ついてきてください」
青年はそう言うと、返事も聞かずに腕を引っ張っていく。私はそれを嫌がることもせず、ただ彼に引かれるばかりに足を動かす。
彼の背中が大きく見えた。後ろを振り返ると、歩道には傘が一本取り残されていた。
「あのっ……。傘が…」
青年は振り向かない。雨に打たれたまま腕を引いて、傘とは反対方向に私を連れていく。雨に溺れるように濡れた私たちは、真っ直ぐな道をただ真っ直ぐ進んだ。何処へ行くかなんてわからない。それでも私は、彼の手を振りほどこうとは思わなかった。
きっとなんとかなるよね……
私はこの後の展開を、もう何も用意してはいない。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。