第一部 9
──りっちゃん、いたせりつくせりのチャンスって、なんだよ。
尋常ならざるいじけようになんだかこちらの方が悪いことしたような気分になってきた。ちゃんと予防線は張っておこう。
「あと、今のうちに言っとくけど、たぶんあのこと、俺以外にはばれてないと思うよ。保証はできないけど」
立村は床を見すえたまま一言だけ搾り出した。
「最初の質問の答えだけど、してない」
事実がどうであれ簡単に白状なんてしないだろう。秋世なりに第一の突っ込みを用意した。さらりと言うのが自分のやり方だ。残念そうな顔をしながらも、
「もったいない。いや、別にいいんだけど、りっちゃん本当に、してなかったわけか?」
「あたりまえだろ。俺だって退学になりたくない」
「じゃあなんで? 俺だったら絶対、逃さないけどなあ」
「そういう問題じゃないだろ」
妙に意地になっているところがまた笑えた。もう事実関係なんてどうでもいい。こちらは余裕かましているのに、生真面目に言いかえそうとする立村は秋世よりもみっつよっつ年下の後輩っぽく見えた。本条先輩もこれじゃあ心配するだろう。旅行前にも「俺の弟分のことなんだが、悪いが、面倒みてやってくれよな。あいつ、ほら、追い詰められたらまたひとりでつっぱしらんともかぎらんしな」と電話がかかってきたのだから。
「じゃあ、証拠を拝見」
たいていそのあたりのまずい情報を仕入れた際、男子同士でチェックする項目は、やはりゴムのありかだ。ゴムというよりも、一般的に言う「男性用避妊具」とも言う。最先端の性教育にこだわっているらしい青大附中で保健体育を学んでいるからこそ、できること。あっけらかんとたずねた。思った通り、立村の横顔には血がささっと昇ってきているのが見え見えだ。笑える、下ネタ女王の古川が毎朝からかいたがる気持ちもよくわかる。
「なんだよ証拠って!」
「変なところ見たりしないから安心しろよ、りっちゃん。ほら、こういう時に使うものってあるだろ? それ使ってなんてないよなあ」
手もみしながらもう一度秋世は立村を見上げた。泣きべそかきかけているけれども、必死に崩れないように唇噛んでいる立村の表情がくるくる変わって面白い。
「……わかった、見せればいいんだろ」
胸ポケットから手帳を取り出すと、立村は秋世に差し出した。目をそらしたままだった。押し頂く。持った感じ、表紙のカバーがさりげなく厚ぼったい。隠しているのはたぶんこのあたりだ。開いてみるとやはり、白い紙に包まれた「あれ」が鎮座ましていた。
男子の常備品で二年最後の保健体育授業の際、男子たちにだけ配られたものだった。
「避妊」は男子としての常識であり同時に覚悟でもあるとのお言葉が印象に残っている。
もっとも秋世からしたら、三年ほど遅すぎる情報でもある。
──それにしてもな。
普通、真っ正直に渡したりなんてしないだろう。しかも使ってないものをなんて。
──りっちゃんらしいよなあ。
こいつは百パーセント白だ。
せっかく他の連中よりも一歩前に進めるチャンスなんだから、いかにもあったんじゃないかというところまで話を膨らませてもいいのにだ。もし秋世だったら、事実関係はともかくとして頭ひとつぬきんでた、という自信を見せびらかすために少々大げさなことを口走るかもしれなかった。男として、それこそ「昼行灯評議委員長」が今まで馬鹿にされていた連中よりも一気に大人になった証明として。そこまで頭が回らなかったんだろう。その点、くそまじめというか不器用というか、純情過ぎる。
思わずため息つきたくなった。
本条先輩が心配するのもよおくわかる。ここいらで少し、知識を補充してやらないと、「本番では絶対に困るだろう。友情の証として、ここいらで少し付き合ってもらうとしよう からかい虫と肩組みながら、秋世は少し考え込むような振りして話を進めた。まったく困った奴だ、と言う風に、ため息を本当についてやった。
立村ときたらもう、耳まで真っ赤になっている。
「りっちゃん、あのさ。これはまずいよ。肝心要の時に使えないじゃん」
「使うもなにも」
「学校でよっぽどのことがないと使うことないだろ。こういう時はだいたいさ、ズボンのポケットに入れておくとかさ、専用のケース使うとか、そちらの方がいいと思うなあ。それに一番の問題はさ、こうやって持ち歩くと、袋が擦れるだろ。りっちゃんは紙に包んでいるけど、やっぱりさ、肝心な時に破れてしまったら、意味ないじゃん、そういう時のために三ヶ月に一回は交換した方がいいと思うんだ。ま、だいたいのところはわかった。じゃあさあ、せっかくだし、もう少し詳しい事情を教えてほしいんだけどさ」
本条先輩から教えてもらっていない可能性大だ。目がきょときょとしてくるだけではない、言葉を何か発しようとしているのだが、うまく舌が回らず戸惑っているという感じだった。立村が片手を差し出して生徒手帳を返してほしそうな身振りをするので、秋世も馬鹿丁寧にたたんで手のひらにおいてやった。大きく息を吸い、肩を少しだけこわばらせ、もう一度ゆっくりと吐き出した。秋世の方をまた泣きそうな瞳で見つめた。
「事情聞いてどうする?」
「いや、俺だけの楽しみにしたいかなあと。ほら、修学旅行中いろいろあったからさ、ひとつくらい他人の話を肴に盛り上がるのも乙なものかなと思っただけであって」
「自分のことを棚に上げてかよ」
「それはお互い様、そうかあ、じゃあさ、こうしよう」
真剣な立村には申し訳ないけれども、つっこんでいると秋世としては面白い。もう少しからかい虫のえさになってもらってもいいだろう。どうせばらす気なんてさらさらない。どうせ何にもなかったんだってことがわかったんだから、あとは秋世の胸に秘めておけばいいことだ。なんだか懸命に言い訳のチャンスを探してあたふたしている立村を見ていると、なんだか「ほら、りっちゃん、もう少し要領よくやり方考えろよな」とあったかいアドバイスをしてやりたくなる。きっと立村がこういうお坊ちゃん性格にもかかわらず、青大附中の評議委員長に選ばれたのは、周りが気持ちよくかまいたくなるような部分がにじむからだろう。男子には一種の屈辱的表現でもあるけれど、立村には「かわいらしい」という形容詞がよく似合う。
「俺の質問に答えられるとこだけでいいからさ、穴埋めをよろしく。そのくらいならば、いいだろ? イエスノーだけでいいからさ」
どうせわかりきっていること聞くだけだ。
どういう反応するかを見たいだけのことだ。
「わかった、そんな中途半端なことするくらいなら、俺から話すよ」
反応はやはり予想通りだった。
真剣な表情はさらに、研ぎ澄まされていく。
「けどひとつだけ条件あるんだ」
整った口元がきりりと引き絞られていくところは実に見物だった。
一呼吸置いた後、立村はそっと秋世にまた、泣きそうな目を向けた。助けてほしいに違いない。余裕を持って秋世は問い返した。
「なになに?」
「このことは俺ひとりが悪いんであって、他の奴は関係ないんだ。だから、関係した人たちにはこのことで一切、話を振らないでほしいんだ。あとはほんとに、全部白状する」
「そうか、かばうときたか」
「そういうわけじゃないけどさ。ただ、このことは全部俺の責任だし、それでまた、誰か、退学になったりしたらいやだから」
思わず吹き出しそうになる。もっとも立村の心境が笑うどころじゃないことくらい見当ついているのでその辺はこらえた。
もちろん、女子とふたりっきりで「一夜」を明かしたのは停学に値する扱いだろう。しかも仲間を巻き込んだときたら、そりゃあ顰蹙だろう。
ただ、立村がそういうことを自分の下劣な本能だけでするわけがない。何か理由があるはずだ。立村はもしかして、秋世が友だちとしてではなく、規律委員としての権限を振り回したいと想像しているのではないだろうか? もしそうならば、勘違いもいいかげんにしろと頭をぶん殴ってやるのが筋だ。でも立村にはそれができない。瞬間、立村自身がこなごなに砕けきってしまうのではないか、直感しているからかもしれなかった。
秋世はゆっくりと、腹にひとつ、収めた。ざんげを聞く準備をした。
「いいよ、りっちゃん、まずは俺に、ざんげしなさいや」
まず一呼吸置いた後、ゆっくりと語り始めた。途切れ途切れになるのは、のどが詰まって風邪気味だったからかもしれない。部屋の中あれだけ乾燥しているのだから、ふたりっきりで語り明かしたら、のども痛めるだろう。
「昨日の夜、うちの担任来ただろ、部屋にさ」
「うんうん」
「あの時、またいつものことだけど、いろいろあってさ」
──ははん、それがきっかけか。
仔細を話しはしなかったけれども、秋世には大体見当がつく。なにせこの立村と担任菱本先生とは犬猿の仲ときた。別に菱本先生はそれほど厳しいことを話しているわけではないし、秋世が立村の立場だったとしたら「ふーん、そうっすか」で流せるのだがそれができないという。たぶん、また人生の先輩として「アドバイス」をしたのだろう。けど大人には理解できないんだ、先生側のアドバイスが、生徒側からしたら「余計なお世話」と感じられるのが。秋世や東堂のように、感謝感謝雨あられ気分でこちらから菱本先生を「面倒みてやっている」のとはわけが違う。
「たまたま、女子の部屋で羽飛が話をしていたら、まあ、向こうもいろいろ失礼きわまること言われたらしいんだ」
「どんなこと」
「向こうの名誉の問題もあるし言えないけど」
清坂美里が何を言われたかは正直どうでもいい。話を促す方が先決だ。立村も早く解放してほしいんだろうが、秋世には逆らえないらしくてぼそぼそと続けた。
「だったら少し、なんか話をしに行ったほうがいいかなと思って、行ったって、それだけだよ。ほんと、すぐ帰るつもりだったから」
「だから古川さんも羽飛の部屋に来たってわけか」
ちらっと秋世の方を見て、舌打ちする。
「だから、本当はすぐに向こうへ話をして、それから部屋に戻るつもりだったんだ。けど、タイミングがずれて、いろいろ話しているうちに、眠くなってさっさと寝てさ」
話をフィニッシュに着地させようとしているが、そうは問屋が卸さない。
秋世は合いの手を入れた。
「ストップ。本当に、寝ること、できたのかなあ、りっちゃん」
「寝たにきまってるよ」
「だってさあ、仮にも自分の彼女がだよ、隣にいるんだよ」
「いたって関係ないよ。俺もまさかなあとは思ったんだ。朝いきなり、りっちゃんの部屋から古川さんが出てきた時にはさ、それもものすごいスピードで駆け抜けてったんだからさ。何かあるぞと思わずにはいられないよな。あのホテル、内側ロック形式だったから中に入ってない限り、開かないだろ? 一応、これでも規律委員だからさ、部屋の点検とかなんとかしたほういいかなってのもあったのと、まあ白状するとひとりでいろいろと片付けたいものもあったりしてさ、たとえばあの写真とか、りっちゃん、ちゃんとあれ、処分した? ほらあのきれいなおねーさんの写真」
読み通り、立村は何も言い返せずまたこくっとうなだれた。かわいそうに。ちょいと言い過ぎたかなと思うのだが、せっかくのこの機会、もう少し楽しませていただこうぞ。
「まあいろいろとばたばたやってたわけっすよ。髪の毛もまとまらなかったしさ。そろそろ出ようかなと思っていたらいきなり古川さんの大移動じゃないですか。俺も変だなあと思ったんだけどさ、なんとなくひらめくものがあってさ。だから四階まで行ってみたってわけ。いや、ほんとこれ直感。まさか俺だって、りっちゃんが髪の毛ぬらしてさ、せっけんの香りに包まれて現れるとは思ってなかったしさ。なんで朝っぱらからシャワー浴びるのかなとも思ったけど、それが必要なことしたあとだったならしょうがないかなと思うわけであって。ただ、なんかなあ、もしこれみたのが本条先輩だったらどういうこと言ってるかな、とふと思ったんだ。俺、本条先輩にも言われてたんだ、りっちゃんのことよろしくってさ、だから、かなあ」
勢いよく、ハイテンションで続けた。そんなに落ち込まなくてもいいのに。こちらはちょっとだけからかってやりたいだけなのに。お互い、女子に感じるものとか本能めいたものは隠したいだろうけど、それが辛いんだったら素直に言ってくれればいい。別に他の連中にばらすつもりなんてさらさらない。まだかたくなに言葉を飲み込む立村に、ちょっとばかり厳しく接してやりたくなった。空を見上げてまた唇をかみ締める立村の顔はまさに、追い詰められたねずみ状態だ。
「じゃあもっかい最初の質問に戻るけど、今、すっごくストレスたまってない?」
「え?」
「だからさ、シャワー浴びたくなるのもそりゃあ当然だなって思っただけ。俺もそうしただろうし。ちなみに彼女が出て行った後だろ」
婉曲な表現だったので通じなかったのかもしれない。立村は横目で秋世を見返した。不承不承に頷いた。どうも肝心要のところまで話が進まない。じれったくなる。しかたないので秋世はもう一発、変化球を投げてみた。
「そっか、以上大体わかりました。あのさりっちゃん、ひとつ聞いていい?」
「なんでもどうぞ」
もう投げやりだ。やけ状態が口調にもにじみ出ている。このあたりでそろそろ解放してやらないと、また立村はすねてしまうだろう。やりすぎたかな。
「女子ってさ、どうなんだろう? 朝、目覚ました時、何するのかわかるか?」
「顔洗ったりするんじゃないのか、あと着替えしたり」
さらに言い方がぶっきらぼうになっていく。こういうの、普段の立村には絶対に見られない。秋世もそうだが、いつも「穏やかな評議委員長」もしくは「クラスの昼行灯」といった仮面を使い分けているような感じが、立村にはした。その仮面をはがしたところをたまたま何かの拍子で秋世は覗き込み、そこからつつっと何かが染み込んでいった、それがふたりの友だち意識なのかもしれない。今の立村ならば、もう少し殻を破って何かを流しそうな気がする。もうちょっと、つついてやりたくてならなかった。
「やっぱり、おめかしは、最優先なんだなあ、わかる、わかる」
「けどシャワーは浴びてなかったよ」
ここでわざわざ「シャワー」という単語をなぜ出すんだろう。自分がこれから突っ込まれるっていうのに気づかないんだろうか。きっと気づいてないんだろう。もう、パニック寸前なんだろう。せっかくひっかかってきたんだから秋世も投げ返した。
「必要ないからなあ。そうかあ、衣擦れの音とかも響くわけなんだなあ。それはつらいよな」
「ああ、そうだよ、よくわかるよな」
「そうかそうか、じゃあすなわち、りっちゃんは彼女がいなくなった後に、着替えなりシャワーなり浴びたってわけっすね」
「そこまでわかればいいだろ」
完全にすねてしまった様子だ。
──そろそろ、いいか、だいたいわかったしな。
「りっちゃん、よくわかりました。ほんと、よくこらえたなあ」
秋世は自然ともれてきた笑い声を立てた。最後の「よくこらえたなあ」には、ひとえに実感がたっぷりこもってしまった。そうだろうそうだろう。女子とふたりっきりで、しかも一応は「自分の恋人」とだ。一夜を明かして、そこではなにもないときた。これだけすねまくっている立村のことだから、きっと何にもしなかったんだろう。自然に、うつうつした夜を送ることになったのだろう。自分がもし彰子とふたりっきりで、天女の微笑みで眠っている姿を見たら、当然自制なんて、できるわけがない。当然お初、頂戴するため行動をとっているに違いない。これが十五歳、男の本能だ。
立村はゆっくりと顔を上げた。唇がだいぶ乾いて震えていた。
──あらら、こりゃあまずいぞ、りっちゃん血が昇ってるかも?
「それなら聞くけど、なぐちゃん。お前、経験したことあるのかよ」
──経験、かよ。
はっと自分でも呼吸が止まりそうになり、自分でも慌てているのがわかる。いいかげんに装った言葉をつなげた。
「けいけん、って、すなわちりっちゃん、いわゆるそのあのそれですか? いや、チャンスがあればそりゃあ、なあ。でも世の中なかなかそううまくいくものじゃないよ、りっちゃんみたいに」
頭の中でふっと、「経験」の意味とかつて指先に走った感覚が蘇った。そうだ、あの時、確かに秋世の指は女子を触れたことがある。そのさわり心地が身体に伝わってきて、同時にすうっと染み込んでいった。潮の香りに似た水菜さんのにおい、あれは女子独特のものだったのだろうか。秋世にはわからなかった。
東堂も、同じにおいをかんだのだろうか。
そして立村も。
──彰子さんも、同じにおいするのかな。
ぽこ、ぽこと頭の中に浮かぶ、かつての記憶。
言い捨てる立村の言葉を、秋世は聞いた。
「俺は至りつくせりのチャンスがあってもできない奴なんだよ、悪かったか!」
去年の秋くらいだったか、ふたりで話をしている時に、かなり思いつめた表情で、
──なぐちゃん、もしさ、もしもだよ。なんかの拍子で、ほら、変なものを見たりしてさ。その場所だとそんなことしちゃいけないってわかってる時にさ。そうなったら、どうすればいいと思う?
とっくの昔に本条先輩からそういうテクニックはマスターしているはずじゃないのか、と秋世としては答えたかった。後から聞いたところによると、本条先輩もさりげなく下ネタを突っ込んだりしていたらしいけれども、立村の性格上どうしても素直に受け入れられなかったらしい。
──りっちゃん、そういう時は開き直ればいいんだよ。だって、男の体はそう反応するように出来ているんだからしょうがないって。
これ、小学五年の頃、何かの拍子で父に説教された時、言われた言葉だった。そのまま受け売りで流しておく。
──けど女子の前でそんなことになったらどうすればいいんだろう。どうすれば大人しくなるかいい方法、知らないかな。
このあたりでもう立村は言葉もどもるわ、目も今以上にきょときょとするわで、またそれも面白かった。ただ本当に切羽詰った悩みだということだけは秋世も感じ取ったので、即まじめに答えたのを覚えている。
──うーん。ひつじを数えるとか、うまくブレザーを羽織りなおすとか、けど一番いいのは普段から溜めないようにしておくことじゃないかなあ。ごめん、りっちゃん。俺、そんなこと真剣に考えたことなかったから、役立つこと言えないなあ。
──そうか、ごめん、変なこと聞いてさ。
──いいよ、そのくらいのことだったらおまかせあれですよん。
実際、そのくらいしかアドバイスなんてできっこない。本当にベストなのは、本条先輩のようにごくごく自然な男女交際を行うことなんだろうが、そんなこと立村に言ったらどん底まで落ち込まれるに決まっている。
あの時の自分は明らかに、立村よりも経験が豊富な立場だった。
今、そばでじっとにらみ返してきている立村は、秋に真っ青な顔して「立ったらどうするか」の相談をしてきた時とはまったく違っている。
本当にいわゆる「初体験」とは別の何かを立村は、秋世より先に「経験」している。 それがじわりと瞳の奥から伝わってきている。
なんでこうも身体がどくどくとざわめくのだろうか。
親友の東堂にも……東堂がかつての彼女とBまでいったという話を聞いても……こんなにじりじりしたあせりを感じたことはなかった。
好きな女子ではないにしても、ひとりの女子に直接触れて、身体の反応が自然とつながっていくことを感じたことがあった。唇を重ねて自然とあわ立っていく身体の欲求に押し流されなかったのは、ただ偶然、そこまで盛り上がらなかったというだけのこと。
経験、してるよとっくに。そう答えられたら。
もしあの時の経験が水菜さんでなくて彰子だとしたら、自分はそう答えていただろうか。
──りっちゃん、いたせりつくせりのチャンスって、なんだよ。
二人きりの時を過ごしたというそれだけかもしれない。原因不明のむかつきは船酔いのせいだけじゃない。どくどくした気持ちのゆれに、秋世は戸惑うしかなかった。
余計なことは考えたくない。いやな気持ちになんてなりたくない。
潮のにおいをもう一度吸い込んだ。頭をすっきりさせたくて髪の毛をかきあげた。
「りっちゃん、あのさ、あの、ひとつ誤解しないでほしいんだけどなあ。俺、ちょっとだけりっちゃんをからかいたかっただけ、って前もって説明しなかったのが、間違いだったかなあ」
きっと、自分の穏やかな表情に、さっき感じた泥ついた気持ちは隠されているはず。
こんな素直で純情な奴に、やっかむなんて自分には似合わない。
デッキの白い壁にもたれたまま、立村はずっと青潟方向の海を見据えたままだった。