第一部 8
──なんでシャワー浴びてたってわけなんだ? やった後なら、やはり、浴びるだろうな。
世の中の出来事は、予測できないことの方が少ないんじゃないか、というのが秋世の経験則だった。確かに想像できないこととか、自分ではどうしようもないことも起こるけど、自分がまあなんとかなるさ、と割り切っておけばほんと、なんとかなることの方が多かった。記憶のはるかかなたとはいえ、小さい頃大病を患い入院していた時だって、結果としては生きてこれたわけだし、ぜんぜん勉強なんてしなかったのにいつのまにか青大附中に合格してしまったり、一番服装違反しまくりそうな自分がなぜか規律委員長の任を受けたり。信じられないこともあるけれど、自分が「まあなんとかなるさ! 悪いようにはならないさ!」と決め付けて行動すれば、たぶんうまくいく。
だから、最後の最後に隣の部屋から古川こずえが血相変えてエレベーターに駆け込んでいったのを見送った時も、それほどあせりはなかった。ドアを細く開けて、古川の姿が角のエレベーターに乗り込んだ段階で、秋世はゆっくりと荷物を抱えた。そっと足音立てないように……別に立てたの見られても困らないけれども……昇り方面ボタンを押した。
予定としては、たぶんこんなもんだろう。
フェリーに乗り込めないくらい遅くなるんだったらまずいけれども、他の連中から聞いた限りだとかなり余裕を持って時間は組まれているらしい。そういえば彰子を乗せたあの日の丸カーは無事、青潟に到着したのだろうか。
──青潟についたらすぐ、彰子さんに連絡せねばな。
改めて誓う。
なんとかなるさ、悪いようにはならないさ、秋世の、そして彰子の考え方。
──彰子さんは笑ってたしな、菱本先生も心配ないって言ってたしな。
たぶん、大丈夫だろう。秋世は少し重たくなりかけのまぶたを軽くつまんだ。眠気覚ましにはよく効くのだ。本当はモーニングコーヒーを一杯、ゆっくりといただきたいところだがそんな冗談口走る余裕も本当はない。頭を軽く振って秋世は、まず目下の問題を片付けることに専念した。
そうだ、ひとりで片付けるのに、骨な奴が約一名、いるわけだし。
一度一階まで降りた後、また三階に昇ってくるエレベーター。もしもその前に通り過ぎたエレベーターに乗っていたとしたら、もう立村は無事集合場所へ到着したはずだ。だったらラッキーだろう。もちろん。無理に秋世が心配することもない。
──けど、やっぱり、念には念を入れてだな。
秋世の性格上、怪しいと思ったことはきちんと調べておかないと気がすまない。
たとえ自分の胸の内に収める覚悟だったとしてもだ。
──りっちゃんが、ちゃーんと脱出できたかくらいは確認しておかないとな。
三階、止まった。昇りのエレベーター内には背広姿の男性がいっしょに乗り込んでいた。まだ朝早いのに、ずいぶんなことだ。大人になるってこういうことなんだろう、きっと。秋世は四階の丸いボタンを押した。後ろでえへんと咳払いの声がした。思いっきりむかついたんだろう。さっさと上の階に戻りたいのに、中学生ごときに割り込まれて頭にきたんだろう。
秋世は四階に下りた。すでに四階女子たちの姿はまったく見えず、観るからに静かな状態のように思えた。ところどころ扉が開いていて、ベッドのカバーが入り口の大きなごみ箱みたいなものに放り込まれていた。係の女性らしき人たちのしわざである。
──こりゃあ、まずいぞ、おいおい。
男子なのに秋世がうろついていてもそれほど違和感を感じなかったらしく、無言で過ぎた。
──清坂さんの部屋ってどこだったっけ?
かばんの中から旅行のしおりを取り出してもいいが、時間がもったいない。
だいたい見当をつけて往復した後、気配がなければ降りるつもりだった。
一番奥の部屋手前、ちょうどそのあたりの扉がかすかに開いたのを、秋世は見逃さなかった。内側に開くようになっている扉の前で秋世は立ち止まった。隙間から覗き込んでいる、見慣れた同級生の顔を見つめた。目と目が合った。
──あらら、りっちゃん、やっぱりここかよ。
瞬時に秋世は、足を踏み出しかけ動けず立ちすくんでいる立村に、さわやかな「いい奴スマイル」をプレゼントすることにした。
「りっちゃん、お迎えだよ、さ、行こうよ」
どうしようもなくばつが悪いだろう。わかるわかる。
でもここで何もない顔して無視するわけには、残念ながらいかない。
「そろそろこの部屋もさ、掃除のおばさんたちが来て、覗きに来るよ。早いとこ行こうよ。どうせ俺たちしかこのあたり、いないみたいだしね」
言葉が出ないのは、完璧動揺している証拠だ。やっぱり、非常事態において立村の性格はマイナスに働くことがよくわかった。しょうがない。秋世は扉のノブを握り、ぐいと押し開けた。覗き込んだ部屋の中は、少し空気が水っぽかった。しけっている、といった方が近いだろうか。同時にシャワーソープの香りがかすかにした。なんでだ?と眺めていたらその香りの発信源がすぐに見て取れた。立村の奴、後ろの髪の毛が思いっきりはねている。前髪がぬれて固まっていた。制服はほとんどしわのない状態でしっかり着こなしているけれども、襟元と袖がかなり、ぬれてしみになっていた。
──さては、もしかして。
男子にしては色白さんで、かつほっそりした身体つきの立村は、見た目ちょっとボーイッシュな女の子のように見える。もちろん女っぽいというわけではなく、歌舞伎の女方がプライベートを過ごしていたらこんな感じかな、という程度の雰囲気だが。顔立ちも目元がひとえに見えて実はしっかり二重で、やたらと瞳がらんらんとしているところとか。それ以外がみな、がりがりと絞りこまれているような体格の持ち主だから、たぶん男らしいという雰囲気はあまり感じられないだろう。女子たちから人気がないのは、そのあたりに原因があるのではないかと秋世は思っている。話してみれば、内気ではあるけれども自分の考え方をしっかり持っていて、ちょっとやそっとではゆれない芯を持っている、少し意地っ張りな奴だとわかるのにだ。外見で損をしている奴の典型かもしれない。
今だって、本当は秋世に何か言いたくてならないのだろう。薄い唇をかみながら、目をうろうろさせている。そこんところが面白いので、秋世はじっと立村の瞳を覗き込んでやる。
「りっちゃん、もしかしてさ、さっきまでシャワー浴びてた?」
「え? なんで」
すっかり秋世の手の内に入ったも同然だ。男のおしゃれに関しては悪いが自分の方がずっと先輩だ。足元の荷物はしっかりまとめられている。たぶん、秋世のようにしっかりと無香料のムースとか、そういうおしゃれ品は持ってこなかっただろう。
秋世はまず、自分の茶色いかばんの脇に押し込んだはずの、無香料ムースを取り出した。結構潮風で髪形セットしたのが壊れてしまい、トイレで手直しする時のために必需品だった。まだまだ残っている。チューブごと手渡した。
「髪の毛がさ、思いっきり後ろ、はねてるんだけど」
「はねてる?」
「うん、これ使って早く直せばいいじゃん。においしないよ。無香料だし」
秋世は自分が普段使っている時のように、手にとる真似をして手ぐしで髪の毛をいじって見せた。完全に凍り付いている立村が手を明らかに震わせながら、チューブから透明なジェルを手のひらにのせ、後ろの髪の毛に塗ったくっている様子は、実に笑えた。
ほんとはそんなに無理して寝癖直さなくたっていいんだけども。
なんかわからないが、立村を見ていると秋世のからかい虫が目を覚ましてしまう。
決して悪意なんて食いたくない虫だけど、ちょんとつついてやりたくなる。
「OK、じゃ、行こうか」
「なぐちゃん、あのさ」
何かを言いかけジェルをそのまま差し出した立村。もうそろそろ移動しないと、今度こそほんとにお掃除の人に発見されてしまう。秋世なりに時間配分と集合時間ぎりぎりの読みはしているのだから、立村の言い訳をここで聞く余裕はないってことくらいわかっている。
もちろん聞きたくないわけなんて、ないのだが。
「話はあとで、船の中で、たっぷりと」
楽しみは、あとあとにとっておこう。まずは無事に片付きそうだし、なんとかなるさ。
秋世は立村の黒いかばんの柄をひっぱり、廊下まで引っ張り出した。べたついたのだろう、指をまだ髪の毛にからませている立村。髪形はいつもと違って、若干シャープな雰囲気に見える。もともとおぼっちゃん雰囲気の立村にしては、イメージチェンジ成功ってところだろうか。また、からかい虫がけけけ、と笑い出すのを感じる。
「それにしてもさ、なんでシャワー浴びてたの?」
自分で言いかけて、あっと飲み込んだ。
おちゃらけ気分が一瞬、ふうっと消えた。
──シャワー、なんで浴びてた? りっちゃん?
朝一番にすっきりシャワーを浴びたいと考えるような奴は、秋世以外男子でいるとは思えなかった。女子だってそうたくさんはいないだろう。そんなことするくらいだったらまずぐっすり睡眠を最優先でとりたい、そう思うのが一般的だろう。たまたま秋世は、子どもの頃から身だしなみに対して個人的にこだわりがあったから、多少遅刻しようが宿題忘れようがしっかりと朝風呂に入る習慣をつけていただけだ。自分があまり普通じゃないことをしていることは自覚している。
立村とは、そのあたりの話題を振ったことも振られたこともなかった。
まあ、たまたまなんだな、と聞き流せばよかったんだろう。廊下を二人で、無言で歩いている間、秋世はもう一度立村の髪の毛をちらと見た。まだぬれている様子だった。こうやって見ると、やっぱり立村は実際の年齢よりもみっつくらい年下に見える、とおぼろげに感じた。みっつ、というと下手したら小学六年くらいだ。やせているからなおさらだ。
エレベーターのボタンを押そうとした立村より早く、秋世は手を伸ばした。五階に止まっていたエレベーターがすぐに降りてきた。グットタイミングだ。
「あのさ、りっちゃん」
「なんだよ」
すっかりしょぼくれてしまっている様子の立村に、エレベーターのドアが開くまでの間、どうしても聞きたくてならないことを、あえて飲み込んだ。
「さっき、たまたまさ、古川さん見たんだ」
「え?」
明らかに動揺したって顔つきだ。立村の性格はもともとポーカーフェイスを気取りたがるくせに、顔には感情が丸見えってところだ。入学した最初の頃は秋世も立村のことを、「ずいぶん無感情な奴だなあ」と思っていたけれど、なんのことはない。そうしていないとすねたりいじけたりむくれたりしているところが人の倍以上現れてしまう。だから、懸命に隠している、それだけなんだと。やはり、今回の読みは当たっていた。秋世は確信した。
「勢いよく走ってエレベーターに乗り込んでいたとこ、見たよ」
エレベーターのドアがささっと開いた。やはり背広を着た男性がしかめっつらをして秋世たちが乗るのをにらんでいた。お邪魔してごめんなさいね。まずはこれから質問すべきことを頭の中で整理しておこう、そう決めた。
腕時計で確認したところ、思ったよりも集合時間に遅れずにすんでいたことにほっとした。
予定通りとはいえ、やはり最後の最後に登場して顰蹙を買うのはできるだけ避けたいところだ。しかも規律委員長と評議委員長の組み合わせ。ただでさえ目立つ。
後ろの背広おじさんには悪いが、一番先に飛び出さないとまずいだろう。秋世は立村を背にして、しっかりとエレベーターが開くと同時に足を踏み出した。目の前のロビーにはすでに、半ば整列完了状態の青大附中生徒一同がそろっていた。ざっと見た感じだと、秋世たちが最後らしかった。菱本先生がちらと秋世たちの方へ視線を向け、ぎろりんとにらみつけた。お怒り、ごもっとも。先手だ先手。いつもの「先生受けする仮面」を即くっつけて、笑ってみせた。
「すんませーん、先生、ちょっと一風呂浴びてきたわけで、かなり遅刻しました、申しわけないです!」
実はいつも、学校でやっている言い訳だ。
嘘じゃないところが、説得力あると自分でも思っている。
「なんだあ、南雲、規律委員長ともあろうもんが! 十分近く遅刻だぞ。こういう場合、お前だったら違反カード何枚切るんだ? 」
ひとつの違反につき一枚しか切れないだろう、と突っ込むなんて野暮なことはしない。前髪がうまくまとまっているのを指先で確認した後、秋世は後ろに控えている立村の方にもちらっと目を走らせた。すっかり萎縮しているんだろう。目をきょときょとさせて、自分のお仲間たちに合図を送ろうとしている。見つめ合って伝え合っている、というのが一番正しい状態だろうか。列後ろに頭突き出して、目をまんまるくしている羽飛。女子列先頭で点呼を取りながら立村に何か言おうとしている清坂、はっきりと何か文句を言っているようだが、言葉が聞き取れない古川。それぞれ、立村に「予定が違うだろうが!」とあせりと怒りをぶつけたくてならないんだな、という感情がよく伝わってきた。かわいそうに立村、これからバスで、羽飛といっしょに乗り込むはめになるだろう。突っ込まれるだろう。同情、同情。
「罰掃除、お任せあれです。もう一人、相棒もいるし。ぴっかぴかに磨きますよ! な、りっちゃん?」
完全に自分が追い詰められていると自覚状態の立村に、秋世は肩をぽんとたたいてやった。
「さ、りっちゃん船の上で、掃除の段取り、相談しような」
「なぐちゃんあのさ」
「ま、あとであとで」
秋世にもやはり、少し時間がほしい。
──なんで、りっちゃん、シャワーなんか浴びてたわけ?
夜の疑惑にからむ三人の視線を無視して、秋世は東堂のそばに滑り込んだ。
「無事、任務完了」
「お疲れさん」
バスの中では、二人で仲良く座ることになる。東堂もまた、秋世にさりげなく目で合図を送ってきた。
「ま、これから詳しく、な」
東堂にもどこまで話していいのか、そのあたりも少し整理せねばなるまい。
バス道中は実に静かだった。旅行初日から四日間やたらとハイテンションな連中だったのに、さすが五日目となると気力体力精神力みな萎えるんだろう。ひたすら、ただ、寝ていた。立村も羽飛も、その他大勢もみな、目をしっかと閉じていた。まあ立村の場合はもともと乗り物酔いしやすい体質のため、具合悪くなる前にさっさと寝てしまうのが得策というところもあるようだ。秋世も決して酔いにくい体質ではないのだが、毎回祖母からもらう薬を飲んで事なきを得ていた。
「南雲、例の件なんだけどな」
「はいな」
静まり返った中で、秋世の耳元へあやしい声をかけてくる東堂。
「だあれも、気づいてねえみたいなんだわよ」
「そっか、よかったよな」
三年D組内の平和はまず守られている確認を取った。
「でも、本当のとこどうなのよな」
「さあ、俺にはわかりません」
「正直なところ、お前、どう思う?」
なんだよこいつ、好きものじゃないか。秋世なりにあきれ果ててしまうのだが、まあそれも仕方あるまい。最後までいかなかったとはいえ、キス以上の経験はしている東堂だ。好奇心もりもりというのもわからなくはない。
「いったか、いかないか、か?」
「経験者の目で見て、いかがかと」
「まず、ないでしょう」
少し間を置いた後、秋世は小さくつぶやいた。
──りっちゃんがさ、経験しているとは、まず思えねえよ。
接してみた感じからして、たぶん八割方はありえないだろうという確信がある。
しかしその一方で、どうしても頭からぬぐえない。
──なんでシャワー浴びてたってわけなんだ?
秋世がどうしても割り切れない理由。
まだ水っぽい朝の日差しに頬をさらしたまま目を閉じた。
──やった後なら、やはり、浴びるだろうな。
自分のかつての経験……未経験ではあるにしてもゼロとはいえない水菜さんとの……を思い起こすと、確かに最後まで完了したら身体をきれいにしたくなる衝動を感じてしまうだろう。
さっきちらっと見た立村の表情を想像するに、やはり八十パーセントありえないと見た。あのおどおどした態度といい、言葉を発せられないような不安げなまなざしといい、どうみても「経験者」には感じられないものだった。秋世も実質、最後まで進んだわけではないのでなんとも言えない。ただ、経験している男子先輩たちの様子や話し振りを見ていると、やはりどことなく、違うのではと思わなくもないのだ。
──たとえば、本条先輩だよな。
一年上の、元評議委員長を務めた押しの強い先輩。立村が一途に慕っている、いわばあいつにとっては兄貴分に当たる人だった。秋世とはたまたま家が近かったこともあって、先輩後輩というよりも年上の友だちという感覚でしゃべったりしている。だから若干立村との関係とはずれがあるかもしれない。
とにかく、この人は女性関係が半端じゃない。中学三年において、二人以上の女子とC以上の関係を持っているだけではなく、数もこなしている。詳しい事情についてはあまり深入りしないようにしているけれども、向こうが話してくる内容からしてその辺のアダルトビデオなんて目じゃない、という気がする。もし相手を妊娠させちまったらどう責任取るんだ?と人事ながら心配になってしまう。秋世も武勇伝を聞かされるたびに、世の中本当にいろいろな人がいるものだと感動することしきりだった。
本条先輩は、腹にしっかと根拠のある自信を確かに持っている。
性格上のものもあるのだろう。そうでなければ評議委員長を務めるなんてこともできなかっただろう。「俺は男なんだ!」という迫力のようなものが伝わってくる。他にも本条先輩以外のいわゆる「童貞を捨てた」先輩たちや小学時代の友だちも同じような雰囲気を感じる。「女を知る」経験の意味はそこらへんにあるのかもしれない。他の連中よりも一歩早く、大人になった。自信のようなものが身体にまとわりついている体温から伝わってくる。
秋世にしても似たようなものだった。水菜さんといっしょに夜を過ごす寸前となった冬のことも、その時何をしたかは覚えていないけれども、確かに他の連中よりも階段をひとつ昇ったかもな、という感覚は残っている。どうして最後までいかなかったのか、そのあたりの感情だけは定かではないけれども、他の男子たちがひゃあひゃあ女子たちをからかったりしている様子を静かに眺められるようになったこととか、告白してくる女子たちの目に同じような感情を見出せるのかとか、いろいろと考えてしまいたくなるのは確かにある。
男子にとって「童貞を捨てる」というのはかなりのステイタスとなる出来事だ。
立村には今回、いわゆる「男になった」というような押しの強さがまったく感じられなかった。その直感が秋世の「決して立村は今回その手の経験をしていないだろう」という読みになっている。
ひっかかるのが「シャワーをなぜ浴びる?」という疑問、それだけだ。ふたりっきりで何もなく、ただ語り合っている程度だったらそんなことをする必要もないだろうに。素直に服を着替えて、さっさと知らん顔して出てくればいい。なんで髪の毛まで洗う必要があったんだろう? 下種なかんぐりだけど、「やはりそのにおいをかがれて感づかれるのはいやだ」という意思表示なのだろうか。
──りっちゃん、どうなんだろうな。このあたりつっこんでみるか。
窓から海辺が光っているのに気づいた。即、寝てしまったからか気づかなかった。
「そろそろ降りる準備をしろよ、寝るのは船に乗ってからだぞ」
菱本先生の若干寝不足めいた声がバス内に響いた。明らかにこの先生も、五日間ろくに睡眠もとれていなかったのだろう。もし立村たちのご乱行がばれたら、さらに眠りが削られるはめになるだろう。生徒だって先生のことを心配していないわけではないのだし、秋世の選んだ方法は間違っていない。生徒だけではなく、教師の規律正しい生活も守ってやるのが、規律委員の仕事じゃないかと秋世は思う。
──まずは、深い事情をじっくり聞かないとな。他の連中にばれないように。
なかったことにはする。でも、やっぱり聞くべきことは聞いておきたい。
どうしても、そうしないと気がすまない、そう叫ぶ自分がいた。
バスから降りた後、すぐに立村の肩をたたいて一声かけた。
「ということで、罰そうじ当番のことなんだけど、相談したいんだけど、いいかな? りっちゃん、目が死んでるよ、どうした?」
「本条先輩と同じ顔、するなよな」
バスでの睡眠では明らかに足りなかった、不機嫌そうに立村が答えた。
やっぱり、意識しているんだと思って、思わず笑いたくなった。バスから降りて後、他クラスから船のタラップを昇りながら、秋世はさらに話し掛けた。思いっきりこのあたり、つっこんでみたい、いじめてみたいところでもある。
「りっちゃん、どうしたのかな。顔色悪いよ」
「もともとそうなんだからしょうがないだろ」
「だから、乗ったらすぐに甲板に出ようよ。それの方がりっちゃんも、いいだろ?」
「そういえばさあ、俺もあまりりっちゃんと、この旅行中、話、しなかったもんなあ。一時間じっくり、語ろうねえ、よろしく」
さりげなく軽やかに尋ねていく秋世に対し、立村の態度はやはりぎこちなかった。
いつものようにあっさりと「ふーん、そうなんだあ」と笑って終わらせてもいいはずなのに、秋世の言葉にだんだんどろどろしたものが混じっていくのが、自分でも感じる。こんなマイナスの気持ちを、立村相手に感じたことはかつてなかったはずだ。
さっさと寝たくてたまらなさそうな菱本先生およびD組一同を船室に残し、秋世は甲板に立村を押し出した。昨夜のどしゃぶりが信じられないくらい凪いだ海だった。
立村はそっと頬のあたりを手の甲でこするようなしぐさをし、ちらっと秋世をにらむような視線を送ってきた。文句言いたそうなんだが、言えないのが悔しそうだ。足元からがたごととモーターの回る音が響き、腹にくる。ひとつため息をついた後、立村は髪の毛をかきあげるようにして、白いペンキの壁にもたれた。じっと青潟側の景色を眺めていた。
もう、完全に髪の毛は乾いている。後ろの方だけムースがつきすぎて割れているのがご愛嬌だ。これでも青大附中に戻れば立村評議委員長、生徒会よりも権力をもつ存在の、はずなのだ。自分に与えられた肩書きにまだなじめないで、長すぎる袖やスラックスの裾を折り曲げているような、そんな感じが立村そのものだった。
からかい虫にまかせて、秋世はまず一言、自分のまんまでたずねてみた。
「りっちゃん、朝のシャワーはどうだった? 寝癖直し、結構使えただろ?」
「青潟についたら返す、ありがとう」
じろっとにらみ、またすぐに視線を海の向こうに戻した。ご機嫌、最悪だ。また笑いたくなる。もっとつっこんでやりたくなる。
「けど、やっぱりどんな時でも清潔さを守るってところが、りっちゃんの性格だよなあ。ひとつ、聞いていいかな?」
「答えられることと答えられないことがあるけど、それでいいなら」
──答えられないことを聞きたいんだよなあ。
さらにギャラリーが増えていく。やたらとカップルの多い我が青大附中。男女コンビのそれぞれが、海を眺めている。
「じゃあ聞くけど」
ふっと、潮のにおいで息がつまりそうになる。やんちゃなからかい虫がそのまんま、秋世の本音をぺらぺらしゃべってくれた。
「シャワー浴びなくちゃいけないようなこと、したの?」
立村ほど、感情をストレートに読みやすい奴はそうそういない。一度あごをひくようなしぐさをした後、足元をじっと見下ろした。唇はぎゅっと一文字。答えはなかった。