第一部 6
──だってさ、りっちゃん、清坂さんに一人で、みやげ物、選べるか?
真夜中から早朝の間、大体四時くらいだったろうか。
なんとなく東堂と、深夜洋画劇場の刑事物を観ながらベッドに横たわり、とりとめもなく話をしていた。そのうちにだんだんまぶたが重くなり、テレビの電源をつけっぱなしにしたまま眠ってしまった。部屋にはがんがんと、フランス語と拳銃の発砲音だけが響いていた。かなりひどい雨音も、防音ガラスの効果ありで、ほとんど気にならない程度。すっかり眠りほうけていた。かなり室温も高かったせいか、掛け布団をかけるのも暑苦しい。
「おい、南雲、南雲」
だいだい色の甘い灯りに覆い被さる東堂の顔。
とりわけ暑苦しいったらない。
「さわやかじゃない目覚めだなあ」
「ちょいと、耳澄ませ」
「はあ?」
目をこすり、目やにを取る。秋世は身体を起こさないまま、東堂の顔を見上げた。まさに襲ってくださいとばかりのポーズ。野郎相手にモーニングキスなんてやっていられるか。
「隣の部屋から、ちょっとな」
心なしか東堂の声もひそめがちだった。
「どっちだよ」
「こっち」
バスルームの方を指差した。
「さっき便所に行った時にな、やたらと女子の声が聞こえるんだよな。あとばたばたとさ」
「ばたばた?」
まだ頭が十分働いていないと自分でもわかる。秋世は少しこめかみが痛くなった。寝癖がついているかもしれない、とふと思った。
「女子、いるかもな」
「いるわけねえだろ、ここはむらい男子の一列」
「けど聞こえるんだよ、本当に」
東堂ったらずいぶんしつこかった。こいつがもともと、嘘を言い立てる奴でないことは、秋世も知っている。しかしなぜ女子の声が聞こえるというのだろうか。隣の部屋はと考えて、はっとたどりつく。ああそうだ、隣は立村と羽飛の部屋だ。
「テレビ、消してみろよ」
「OK」
即、放映中のラストシーンをぶちんと切った。すでに雨はやんでいるらしく、かすかに薄青い色が窓にさしてきていた。この調子だと雨は降らないですみそうだ。船もゆれずにすみそうだ。
「女子の声?」
「そう、女子だぜ女子」
「誰だろ?」
「さあ」
そりゃあそうだよな、わかるわけないよな。やっと頭のコンセントがつながり始め、秋世は上半身を起こした。まだだるさが抜けていないのは寝不足のせいか。耳を済ませると空調のかすかな響きだけが聞こえるのみだった。
「東堂、今、聞こえたのかよ」
「いや、ちょっと前だ」
秋世が眠りほうけている間のことらしい。東堂も腕をぼりぼりかきながら、
「なんかなあ、しゃべってるんだよ。どういうことかわからんけど。ただ女子っぽい甲高い声でなあ」
「でもどうしてだよ」
「知らねえよ」
しかたない。寝ぼけ頭のまま、秋世は状況を把握することに努めた。
東堂の言う隣の部屋は立村と羽飛が寝泊りしている。修学旅行四日目は、気心知れた仲間がツインルームで泊まるというお約束となっていて、秋世は当然のように東堂と組んだ。同じことが立村と羽飛にもいえたようで、このあたりの組み合わせはあっさりと決まった。
もちろん真夜中、仲間同士一室で語り合うことも可能だろうし、見つかったら担任から一発二発殴られるだろうが、それほどのことでもない。なにせ男子同士。別にいいじゃないかと。秋世も東堂も、そこまでエネルギーがなかったというのでやらなかったというそれだけだ。そうだ野郎同士だったらなんも問題がない。
しかし、東堂が言うには「女子の声」がしたという。
ホテル三階には男子、四階には女子と区分けされているにもかかわらず、なぜなのだろうか。もちろん、恋する彼女がいるのならば夜這いもしたかろう、ふたりっきりで愛も語りたいだろう。しかし、教師たちの部屋をうまく通り越して部屋にもぐりこんだとしても、帰り、どうやって脱出するというのだろう? 明日の朝、青潟へ帰るための連絡船に乗りこむため、相当早い時刻に目を覚まさねばならないのだ。あと二時間くらいしたら、そろそろ準備をしないとまずいだろう。もし、その時に三階どこかの部屋から、女子の甲高い声が聞こえてきたりしたら、どう言い訳するというのだろうか。秋世はそこまで危ない橋を渡る度胸がない。もし仮に彰子の部屋へ入り込むチャンスがあったとしても、朝までいっしょにいることはまずしないだろう。どんなに遅くても、どんなにすることしても、万難排して自分の部屋に戻るだろう。
それをしないで、なぜ、女子がいるのだろう?
いやそれ以前の問題だ。
「あの部屋、羽飛たちの部屋なんだろ? 誰がいるんだよ、いるとしたら」
「清坂かあ?」
現在立村の彼女たる女子の名前を挙げた。可能性は、ある。
「ということは、立村と羽飛と、清坂さんとか、あるなあるなそれ」
もっと言うなら、羽飛と清坂とは幼馴染なのだ。ある年頃になると疎遠になりがちな幼馴染の関係とはよくある話だが、この二人にはそれが通用しない。羽飛いわく「たまたま女子が話の合う奴だっただけでなぜ、そんなことにこだわるんだ?」とのことだが、秋世からしたら単純明快、「幼馴染でかつ自分の大切な子」ただそれだけじゃないかと思う。なぜ、立村と親友づきあいしている羽飛が、宝物の清坂美里を提供しようと考えたのか、自分なりに答えは出ているけれども、秋世はそれを口に出す気もなかった。ただ、とばっちりをくらった立村に、軽い痛みを覚えるだけだった。
ふたり、十秒ほど黙った。声は聞こえない。空耳ではないのか、と問いたい。
「空耳、なのか?」
「グラス持ってきて、耳に当ててみるか?」
洗面所のガラスコップをわざわざ持ってきて、底に耳を当てる東堂。
「やめとけよ、それ、盗聴罪に問われるぞ」
「じゃあ、お化けとか」
「のろわれるぞ」
今、お互い軽口をたたき合い、笑い話に落とし込もうとしているのが秋世の意思だ。頭の中ではそれなりに物事が整理されてゆき、もしかしたらこういうことなのでは、という答えが導き出されようとしているのだが、事実をそのまま決定付けてしまうとあとあと面倒なことになりそうでいやだった。決して秋世と羽飛という奴が、入学当時から犬猿の仲だったこととか、相手のしくじりに長じてけりを入れるような真似をする気もないという両方が理由だろうか。親友の親友が、親友であることはまずない。そういうものだ。
なんとなく気づいてくれたのだろうか。東堂がガラスコップの底を手の甲でたたきながら、
「せっかくここいらで、羽飛にぎゃふんと言わせるチャンスだと思わないのかねえ、規律委員長さま」
「そういうせこい真似は俺、しないの、それが今年の規律委員会のモットーなのさ」
「そういうもんかねえ」
あっさり流して、しばらく首をひねっていた東堂だが、
「まあな、立村が巻き込まれてる可能性、大だもんな。あいつあれでも前科者だもんな」
「そういうこと」
意味の伝わる笑いを返した。「前科者」まさにその通り。立村が一年近く前、二年の宿泊研修時にしでかした「バス脱走劇」は今でも記憶に新しい。同時に羽飛と清坂を通じて行われた立村へのきつい報復処置も。このあたりの事情についてはまた聞きでしかないし、ある程度は秋世の予想も含まれている。本当のことについてはおそらく把握しきれないだろう。
「どうすんだろうな、もしだぜ、もし清坂と立村、羽飛の三人で熱く語り合ってたりしたら。まあ立村は停学か」
「下手したら退学かもな」
とはいえ、多分大丈夫だろうと見積もってもいた。なにせ青大附中にはかつて、「二股愛の王者」と呼ばれた人が在籍していたのだ。附属高校には進学しなかったものの、それでも青潟市の公立高校ではトップクラスと言われる青潟東高校に合格したつわものだ。小学六年の夏に初体験を済ませた後は、本能に走る生活だったとかでないとか。それでも無事三年間青大附中生活を勤め上げたのだ。まず、よっぽどのことがない限り退学はないだろう。
「まあ、あの三人ならあることかもなって感じかなあ」
「幼馴染と、彼女とか」
東堂はにこりともせず、しばらくだいだい色の灯りにガラスコップを透かした後、
「けどな、どっちにしてももしばれたら、しばらくは地獄だよな」
「まあなあ。来年以降の修学旅行は男女別行動を義務付けられるかもな」
──俺たちには関係ないけれども、後輩たちが哀れなり。
秋世は横たわった。
「とりあえずさ、東堂先生よ。万が一、の時に備えての相談なんだけど」
裾をひっくり返したままで、
「どうするべきだと思う?」
「やっぱり、弾劾でしょうや」
青大附中の人間ならば、誰でも発想することを東堂は答えた。その通りだろう。東堂の言う通り、クラスの誰かが道を踏み外すようなことをしでかした時、必ずクラスの代表格に当たる奴が「弾劾裁判」を起こすのが陰の慣わしとなっていた。もちろん校則にも載っていないし、いわば非合法な行為だ。学校側の処分があいまいだったこととか、教師たちがお目こぼししてごまかした出来事について生徒側が納得いかない場合は、とことんつるし上げるのがお約束だった。幸い秋世は被告人席についたこともないし、自分自身で開くことを要求したことなんてあるわけがない。しかし、「こっそりと男女部屋でいいことしていた」……かどうかは定かでないにしてもだ……がクラスメート全員にばれたとしたら、知らぬ存ぜぬのだんまりでは済まされまい。先生たちの下す処分と共に、三年D組の弾劾裁判は行われるであろう。
「南雲としたら、やりたかあねえよなあ」
「まあな」
短く答える。
「羽飛だけだったらまだしもなあ」
「個人的感情で物事を判断してはいけないのであります」
わざときっぱり、答えてやる。
「けどさ、もし完璧にばれなかったとしたらだ」
秋世は天井を見上げたまま、明るい橙色のふたつみつと揺らいでいる灯を指差した。
「弾劾やる必要もねえんじゃないのかなあ」
「最初っからばれなかったら、ということか」
「そういうこと」
勘の鋭い友達に感謝だ。秋世はこれ以上、自分の考えていることを東堂に説明する必要がなくなった。答えがあっさりと返ってきた。
「最初っから、ばれないようにすりゃあいいんだなあ」
「そゆことそゆこと」
さすが我が親友よ、人の心の痛みがやたらめったらわかる奴よ。
秋世はもともと、人のしくじりを利用して甘い汁を吸いたいとか、きっかけをつかんでのし上がりたいとか、そういう野心が薄い方だった。これは自分でも以前から自覚していたことだが、大人になって社長になりたいとか、スターになりたいとか、パイロットだとか、そういったトップクラスに進みたいという気持ちが沸かない性格だった。男子として、かなり珍しいタイプだと周りからは言われている。当然、成績も気持ちに比例して横ばい状態だが、まあ赤点を取らないだけいいじゃないかと開き直っている。
今回の「あわや女子が男子部屋に侵入か?」事件を耳にして、実際の状況を確認したとしても、それをチャンスにウマの合わない奴をつるしたくはなかった。できるならば、青大附中独特の悪風習「弾劾裁判」を消し去りたい、という気持ちすらある。かつて付き合ってきた女子関係のよしなも、幸いみな性格のいい子ばかりだったこともあり、それほどの問題は起きなかったが、もしかしたら自分も足を踏み外していた可能性がある。彰子をもし、他クラスの女子がひどいやり方で攻め立てて登校拒否状態にしたとしたら……その時は規律委員の仮面を捨て去って、南雲秋世当人が直接殴りこみにいくだろう。直談判という奴だ。
ただ、百パーセントこの「弾劾裁判」という方式を否定しきれないのは、かつてかなりひどいやり方をして、クラスメイトを叩き落そうとしたある女子の存在が頭の片隅に残っているからだった。自分に付き合いをしつこくかけてきて迷惑していると、他クラスの女子にうわさを撒き散らし、最終的にはその男子に対して精神的苦痛を与えたという、一年三学期のある事件だ。その時対処したのは秋世ではなく別の男子だった。だが、言われもない「女ったらし」伝説を撒き散らされた奴の気持ちを慮れば、本来ならば情報を得た秋世の方から、規律委員の名を持って弾劾裁判を要求すべきだったのでは、と今は思う。
いや、そんなことはどうでもいい。
今、隣の部屋で三人語らっているのを無理やり引っぺがして、弾劾裁判まで持っていく必要はないような気がした。人様のことだ、どうでもいい。むしろ将来後輩たちが、余計な規則でがんじがらめにならないよう、ばれないように対処を行う方がいいのではというのが、秋世の判断だった。
もちろん、隣の部屋のうち、一人が三年D組内での天敵・羽飛貴史というのもひっかからないわけではない。これをネタにちょこちょことつついてやるのも、ひとつの手だろう。しかし、そんなことしたって個人的嫌がらせに終わるだけだろう。目的もないのに相手をつるすのは、あまり意味がないし、面倒だし、自分の手も心も傷だらけになるだけだ。
「けどさ、なんもやってねえかなあ」
ぼそりと、東堂が親指を立てて言う。秋世も今度は両手の親指を立てて答える。
「やってたらさあ、お前、廊下いっぱいにあの声が響き渡るぜ」
「うわあ、相当なもんか?」
「あたりまえだろ。それも、言っちゃあなんだが三人でだったら」
怪しい想像をしつつも、絶対そんなことありえないと断言している自分がいた。
少なくとも、立村がそんなこと、できるわけがない。
デジタルクロックの蛍光緑色が光っている。一応目覚まし用にセットしておいたのだが、うっかり寝坊してしまうとも限らない。ばあちゃんの教えもあって、秋世は旅行用時計を枕もとに用意していた。手のひらに隠れるくらいの大きさだが、音がけたたましい。「くそうるせえ時計」とは、東堂のお言葉である。
「もっかい時計セットしておいてだな、俺、もっかい寝ていいか?」
「OK、一時間後にグットラック」
やっぱり、睡眠欲には負ける。枕もとに東堂はガラスカップを置いて、ごろんと秋世のベッドにもぐりこんだ。こちらの方が第三者的に見ると、誤解を招く光景だとは思うのだが。秋世もしかたなく、東堂のでかい顔を避けるようにして、寝返りを打った。
──夜這いかあ。りっちゃん、体力あるよなあ。
東堂は一分も立たない間に鼻いっぱいのいびきをかきはじめた。これをやられると寝るわけにはいかない。秋世もいやおうなしに物を考えることとなる。
──けどさ、ありえねえよ。りっちゃんに限ってさ。
羽飛と清坂は幼馴染同士、家族旅行もいっしょだと言う噂を聞いている。はんぱでない仲良しでありながら、なぜ付き合わないのか? あまりにも近すぎるからという説もないわけではないが、一番の理由は「清坂が羽飛にやきもちを妬かせるため」だという。本当かどうかは定かではないし、別に聞くつもりもない。ただ、清坂の彼氏が立村であり、いろいろありながらも一年以上恋愛的お付き合いをしているのは確かなのだから、そのあたりには関心がある。
──りっちゃん、本当はどうなんだろうな。
なにが、どうなのか。
立村の恋愛事情も、本人の口から聞いた限りよくわからないものだった。たぶん一番理解していないのは、本人ではないだろうか。たまたま清坂に付き合いをかけられて、恋愛未経験の立村は「友情の証」として受けたという、それだけのことだ。だったら本気の子と出会った段階でご清算になっても不思議はないのだが、いまだに続いているのは、
──本当に好きな子、いないのかなあ。
この一言に尽きるだろう。
いや、厳密に言うと、いないわけではない。
このあたりも秋世はかなり鋭く観ているつもりだ。
四日目の夕食前、たまたまホテル内のみやげ物売り場コーナーで、立村は他クラスの女子と二人、大きな手鏡をいじっていた。浮気相手ではないらしいということだけ確認して、さっさと通り過ぎようとした秋世だったが、その時立村の発した言葉、
「あのさ、これ絶対、杉本の好みだよ。あまりうるさい柄、苦手なんだよ、それとさ、お菓子もたぶんなんだけど、こだわったものでないと杉本、おいしいなんて言わないよ。だから絶対これがいいと俺は思う。これにしようよ。なんとかさん」
「なんとかさん」のところには、いっしょにいた他女子の名前が入る。顔ももう覚えていない。「なんとかさん」は抵抗したさそうに首を振って、もっとピンクピンクしたファンシー小物を指差していたが、結局立村が「いや、これの方が絶対いい! これにしようよ。もしあれなら俺一人で買うよ」と押し通してしまった。押しの弱い評議委員長として有名な立村が、どうしてこうも意地になって地味な和風手鏡(大)を購入したのか? 面白い見ものではあったけれども、そこにすべての答えが表記されていて、しばらくは提出される予定もないことを理解するには時間がかかった。
──だからさ、りっちゃん、言ってしまえばいいのにさ、清坂さんにさ。
──「友だち」なんだろ? それだけなんだろ?
何度も、それこそ数限りなく口元にこぼれかけた言葉だった。
秋世だけではない、他のクラス女子たちも同じことを考えている様子だった。それこそ二年の六月に立村が清坂と付き合い始めてからは、
「なんで清坂さん、立村なんかと付き合いたがったんだろうねえ」
「あんなじめっとした男子、私だったら即、けり、だけどね」
「きっと、羽飛にやきもち妬かせたいんだよねきっと」
女子たちの意見とは若干違う。立村擁護の寄りで言わせていただくなら、秋世も思う。
──りっちゃんに、清坂さんは、合わないってさ。
──だってさ、りっちゃん、清坂さんに一人で、みやげ物、選べるか?
これも噂だが、立村は去年のクリスマスに「ちりめんのハンカチーフ」らしきものをプレゼントしたという。かなり高額なものだったという。しかしながら、色がモスグリーンでかつ、地味な花模様か星模様が金粉で施されているものだという。きっと、どこぞの老舗でご用意したものなのだろう。けど、そこに深いものは感じない。真っ赤なギンガムチェックのワンピースか、キュートスタイルの膝丈スカートにしゃきっとしたブラウスを合わせ、銀色のヘアバンドでまとめるという感じの清坂さんのため、選んだとは言えない。
──むしろさ、あの手鏡の方が、ずっとずっと、意味あるよ。
値段はちりめんのなんたらよりもずっと安いかもしれない。けど、ちゃんと、「だれだれのために」という意思がある。果たして相手にそこまで読み取ってもらえるかわからないが、たぶん立村は渡すことだけで満足するんじゃないだろうか。そう、秋世が自由時間の合間を見計らって、真っ赤な色付きリップクリームを購入した時のように。
──彰子さんには、俺と一緒の時だけ使うようにって、念押しとかなくちゃな。
祖母にも言われていた。「歳を取ってもね、女の子は口紅を忘れないものなのよ」
校則違反だし、他人さまの目の前でこの色っぽいふわふわ唇をさらけ出させるわけにはいかない。規律委員としてそれは注意しなくてはならない。ちゃんと、プライベートタイムにだけ、のお約束だ。
──彰子さん、どう思うかなあ。
菱本先生の言葉で彰子の状況がそれほど心配すべきものではないとわかっただけに、今橙色の灯りの下、彰子を夢見るのは楽しかった。朝の、面倒な処理の問題なんてどうでもよかった。
──「あきよくん、ありがとう!」って、それからすぐ塗ってさ、それからすぐさ。
妄想が走ると同時に、すとんと眠りにおちた。
耳たぶをひっぱりあげられるようなベルの音が響いたのは、意識からいくとだいたい五分後だった。時計の針およびデジタル文字は「五時半」を指していたが、たぶん眠りに吸い取られたあとなんだろう。血迷って東堂がドラキュラになった跡もない。秋世はそっと目をこすった。東堂の姿は隣になく、少し安心した。人それぞれとはいえ、今のところ秋世には男子に性的興味が沸かない。
「おーい、東堂?」
声をかけてみる。いない。
「東堂、朝のお通じか?」
返事なし。しかしかすかに人気がユニットバスの方からする。スリッパのすれる音だろうか。秋世も近づいてみた。ノックをしてみた。もし朝の快便中だったらそれは失礼、なのだがそれだったら返事くらいするだろう。ノックが二回、帰ってくると同時にドアがきゅうと引かれた。東堂が反対の手で戸を開けて、もう片方の手でコップの口を壁にくっつけ、底の方に耳をぺったりくっつけていた。秋世の方をちらりと覗き込み、くそまじめな顔でもって、
「やばいぞあいつら」
「盗聴かよお前」
「しゃれじゃないぞ、本当にまずい、これやらかしたら四人退学だぞ」
「はあ?」
東堂の顔は決してふざけていない。そのあたりの呼吸も秋世にはいつも伝わっているはずだ。非常事態か、と確認しようとする前に、東堂はつぶやいた。
「隣にいるの、古川だわあ、我がクラスの誇る、下ネタ女王様」
「古川?」
まったく意識の範疇外、名前が頭に入ってこない。
「今、羽飛としゃべってる」
「立村は?」
頭に張り付いている一人の名前を秋世は尋ねた。東堂は黙って首を振り、
「今、女子の部屋にいるんだと」
──女子の部屋にりっちゃんが?
盗み聞きの良し悪しの問題ではなかった。秋世の頭の中で組み合わさるはずのジクソーパズルが一気に落っこちてばらばらになった。隣にいるのが羽飛、清坂、立村の三つ巴だったら絶対にありえないことが、二人っきりという設定になるとまったく別の話になってきてしまう。もし、自分だったら、もし、彰子の部屋に自分がいたら。
「南雲、まさかと思うがな」
東堂の言葉がとどめだった。
「俺、同じ状況下だったら、絶対最後まで終わらせてるよな。だろ?」
──かもしれない。
振り返った先のベッドには、誰もいなかった。それが今の、秋世の現状だった。