第一部 5
──お前だけだもんな、最後までやったことあるのさ。
修学旅行四日目の予定はきちんとこなした。彰子と過ごす予定だった自由時間も、幸い東堂たちとゲームセンターでたむろったり、名産品を食いまくったりして時間をつぶせた。いないならいないで最初っからないことにしておけばいいことだ。秋世なりに割り切ってはいた。いつまでもうじうじしているよか、旅行が終わって後の予定をみっちり立てるほうがいい。その点開き直りは早かった。
「そうだ、噂聞いたか?」
とことん遊びほうけて後、ホテルに到着した秋世に、地獄耳情報を持ってきてくれたのはやはり、親友東堂だった。
部屋にまずは荷物を置いて、制服のまんまねっころがった秋世に。
「立村がさ、清坂以外の女子とデートしてたらしいぞ。ただいま噂の真っ最中」
「ふうん、そうなんだ」
正直、他人の恋路には興味が薄いタイプである。秋世なりの考えで言えば、恋愛よりも考えたいことというのは人それぞれたくさんあるわけだ。もちろん昨日の夜は彰子のことで埋め尽くされたけれども、一眠りすればきちんと収まるところへ気持ちが治まる。延々と一人の人のことばかり考えるよりも、もっと楽しいこと、興味ぶかいことに専念したくなるのは、男としてごくごく普通のことだ。ただし、そのネタに挙がっている立村という奴が、「男としてごくごく普通」の感覚とは違うことを知っているだけに、まったく興味がないとは言えなかった。自分に火の粉が飛んでこないように、「ふうん、そうなんだ」ともう一度だけ繰り返した。
東堂もその辺、心得ているようだ。秋世と三年近くつるんでいるわけではない。
「なんでも、第一スタンプラリー場所の教会で、B組の女子と二人っきり、仲良く手をつないで別行動を取ったんだとさ。やるねえ」
「B組かあ」
あの、がり勉集団の固まっている、B組か、とは繰り返さないで置いた。東堂もそのあたりは理解してくれているはずだ。
「それ見て、D組連中大騒ぎ。羽飛が立村を追いかけて首根っこ捕まえようとしたが、果たせず謎のままだって噂」
「りっちゃんはもう戻ってきているだろ。直接聞けばいいじゃん」
単純なことだと秋世も思う。クラスの評議委員を務め、現在は評議委員長という地位についている立村上総は、秋世にとってもいい友だちだ。かなりの部分、親友に近いんじゃないかとも思っている。ただ、東堂と違うのはほんの少しだけ「弟分」めいた部分がのりしろになっているところだろうか。同学年ながら、なんとなく年下の後輩に対しての気遣いが必要な瞬間を、多々感じる。その点東堂は秋世とまったく同じ、のりしろのいらない付き合いに徹することができて、楽だ。もし東堂が「自分の彼女以外の女子とデートしてきた」という話だったら、即、取材活動を始めただろう。それができないのは、立村の性格ののりしろが、注意必要だってところからかもしれない。
──ほんとかなあ。
十五歳男子としては、自然な衝動たるデートだけれども、相手が意外な奴、というのも気になる。
「東堂相手だったらどんなことやったかって聞いちゃうんだけどなあ、俺も」
「へ?」
秋世は東堂の肩に両手を起き、思いっきり抱きついた。誤解を招くいちゃつきぶりと言われそうだ。
「そうかあ、南雲、お前こういう趣味だったのか」
「そ、ただいま欲求不満」
亀の子みたいに首根っこにかぶりついた。どすんと東堂もベッドの上にねっころがり、背中で秋世を押しつぶそうとする。
「ねーさんなーんもさせてくれねえんだもんなあ」
「ご存知の通りでござんす」
「媚薬がほしい今日この頃っすなあ」
保健委員で、彰子とは相棒の東堂。尻で思いっきり腹を撫でてきた。
「だから、食欲であふれかえってるってわけっす」
「早く食う準備しようぜ、南雲よお」
ここで真剣に「ねーさんのこと、心配なのか、南雲」と問わないのが東堂だ。
「奈良岡さんのことが、心配なんだよな、ごめん」と謝る必要もないのに気を遣おうとするのが立村だ。
人それぞれなかなか個性のあるいい奴だ。
ほこりっぽい格好のまま、食事を終わらせた。本当はこれから修学旅行最大イベントの「蛍狩り」が行われる予定だったのだが、だんだん降りしきる大雨により急遽中止になってしまった。小雨程度だったらまあ、「こっちの水があまいぞ」といいながらも傘さして眺めるのも乙だったろう。しかし天気予報によると「局地的大雨」になる恐れありだという。ほたるおっかけて、自分が流されてしまったら元も子もない。秋世は自分なりに納得して、蛍狩りをあきらめた。彰子がいない分、あきらめもそんな苦痛なく、切り取ることができた。
「りっちゃん、食う?」
隣の席で無言のまま好奇の目にさらされている立村に、漬物を指差した。
「あ、うん、ありがとう」
他の男子たちからも、「おいおい、浮気の報告はしたのかよ」と突っ込まれているのだが、まったく返事をしようとしない。
髪の毛はきちんとまとまっていて、ちゃんと身だしなみも整っている立村。
秋世の友だちの中では、おしゃれの方向こそ違うにせよ、ファッションにきっちり関心を持っている男子の一人だ。
少しだけ日焼けしているように見えるけれども、もともと色が真っ白いだけに顔が赤らんでいるだけなのかもしれない。
一部では「蝋人形」とか「マネキン」とか言われているけれども、もともとの顔は整っていると秋世なりに見ている。状況が許せば、秋以降にでも「青大附中ファッションブック・秋号」あたりに特別ゲストとしてファッションモデルやってもらってもいいかも、と思ったりしている。もちろん本人の説得が不可欠だが。正式なトラッドファッションがきっと似合うと思うのだ。あまり崩さない、それでいて真面目で、礼儀正しい着こなしが可能だと思うのだ。
「りっちゃんさ、今度なんだけど」
思い立って秋世はしょうゆを押し付けつつ、訊ねた。
「俺と一緒にファッションのお勉強いたしませんか? どうでしょう」
「なにするんだよ」
少しご機嫌悪そうだが、周りの「浮気者!」視線よりは心地よさそうだ。立村は箸で器用にかぶの漬物をつまんだ。
「いやさ、そろそろ規律の方で『青大附中ファッションブック』の作成準備をしないとまずいかなと思ってさ」
「別に、いいけど」
言葉は少なかった。まあいいのだ。要は困らない会話でお茶を濁せれば。すべて真実を暴露させようとして、突っ込むことが正しいと秋世は思わない。いろいろ事情が人にはある。その事情を聞き出すのにちょうどいい時期がかならず来るはずだし、話せることだったら相手の方からしゃべってくれるだろう。のりしろなしでべたっと張り付くのは、やっぱりこいつには向かないのだ。
立村は少し、物言いたそうにしていたが、女子たちの「いったい何考えてるのよこいつ!」と攻め立てる視線に参ったらしく、
「じゃ、今日はこれだけでいい。ごちそうさま」
と両手を合わせた。かなり茶碗のご飯、および味噌汁、ハンバーグが残っている。食欲ないんだろう。きっと。
──やっぱり、旅行終わってからだな。
秋世もお茶をすすりながら、長期戦に切り替えることにした。
「でさ、聞いてみたのかよ、南雲、立村にさ」
部屋に即、戻った後、秋世は浴衣に着替えた。ジャージで寝ている奴もいるし、いろいろ楽なのかもしれないが秋世は浴衣の方が好きだった。袖も短く丸まっているし、帯も思ったより簡単にくるくるまかさる。今日は別に外をうろつくわけでもないのだから、多少裾が広がってようがかまわない。東堂も同じく、胸毛を若干のぞかせる格好であぐらをかいていた。保健委員は意外と清潔感を求めてこない。かなり大雑把な性格と秋世は見ている。本人はどう思っているかわからないが、同じことをどうやら彰子も思っているらしい。「東堂くんはわかりやすいからいいよねえ」と。
「聞ける状態じゃないよ、ありゃあ」
短く答えた。東堂はベッドの上に腹ばいになり、秋世の足元に這いつくばった。
「そりゃあそうだろうが、みなもう周囲から興味津々状態が続いてるんだぞ、あいつ」
「人それぞれあるだろ。それに見た限り、清坂さんとは別れてないみたいだしさ」
立村が二年の六月から現在にいたるまでお付き合いしている女子の名前だ。それなりににこやかに食事していた様子を確認していた。
「いや、わからんぞ、女子はなあ」
「東堂よ、お前さ、自分と人がおんなじと思うの、やめなさいね」
一年前はかわいい年下の彼女がいたのに、最近思いっきり振られてしまい心の傷がまだいえていない、哀れな東堂に。
「俺とは関係ねえよ。いやいや、南雲。お前だってそう思ってなかったか?」
「いやそれは」
言葉に詰まった。東堂も、秋世と同じアンテナを持っていると見た。前からこの立村上総という奴には、普通とは違う感覚が備わっていると思っていたのだが、それは別に不快感を持たせるものではなく、いつも自然に受け入れられていたものだった。しかし、どうも今回に関しては違和感が抜けない。たぶん東堂の言いたいのはその辺だろう。
「あのふたりがいまだに付き合い続いているってのが、まず奇跡だよ」
「言いたいことはね、よくわかるよ東堂先生」
「絶対別れるぞって思ってたけどなあ」
「人にはそれぞれ、相性ってもんがあるんでしょうや。俺みたいにね」
「いや、ねーさんとお前は別だけどな」
珍しく東堂が秋世の恋に感想を口にした。ほんと、これは珍しいことなのだ。のりしろなしの付き合いで、こういうことというのは珍しいのだ。
「へえ、それはどうして」
秋世は他人の噂よりも、自分に対して相手がどう考えているかを知りたいと思う性格だった。
テレビのワイドショーよりも、地元ローカル番組の地域密着ニュース。
「せっかくだ、教えてくれよ、正直なところをとことんと」
「なぐちゃん珍しい奴だなあ」
聞かれるとうれしいのでしゃべってくれるのが、東堂のわかりやすい性格でもある。
「つまりさ、ねーさんってさ、ぶっちゃけた話、女子みたいにべたべたしないだろ。あ、ねーさんは女子だけどさ」
「うんうん、言いたいことわかるよ」
東堂はあぐらを書き直し、すね毛を一本、また一本と抜いた。
「反面、南雲ってな、どうでもいい子にはどうでもいい態度取るけど、好きな子にはべったりだろ」
「人と場合による」
「そこらへんのバランスが、絶妙だよなってしばし思うわけ」
「ふうん、そうなんだ」
男子たちの意見は非常にわかりやすい。あまり深いことを考えない男だったはずなんだが、彼女に振られたことによって精神ががりがりと削られたらしい。
秋世が求めているような言葉を、少しずつ掘り起こしてくれる。
「たとえば、さっきの立村と清坂。あの二人はどうみても、立村が尻に敷かれてるよな。評議委員長様とは思えないあの扱われ方、涙を誘うぜ」
「言いたいことはすごくわかるぞ」
「さっきみたいにデートをした後、立村はきっと、清坂に頭を下げるであろうということが想像できるわけだよ、俺としてはだ」
頷くことしかできない秋世。東堂もやはり、秋世と同じ目でクラスの評議委員カップルを見つめているということだ。自分が言葉にしなくてもいいことがたくさんだ。
「たとえどんなにうんざりしていても、まずはお付き合いせねばと、あせる気持ちがひしひしと俺には伝わってくるわけだよ、すなわちだな」
秋世に、東堂はとどめを指した。
「愛し合ってねえよなあ、あの二人」
──愛し合ってるって、すげえこというな、東堂。
返事をせず、秋世はもう一度ごろんと横になった。さっさとシャワーを浴びて後、テレビでも観ながらごろごろしたいところだったけれども、なんだか気持ちが高まっているようで落ち着かない。中途半端な遊び方はかえってストレス溜めるだけだったのかもしれない。せっかくだったらイラストブック持ってくればよかった。
「なんてっかさ、南雲、俺もあんまりさ、うまいこと言えねえけど、やっぱり感じるってあるよなあ。好きあってるって奴はさ。けどあのふたり、どうもな」
「人様のことを突っ込んでると、今度は自分が餌食にされるぞ」
「まあそうだ」
はは、と声をあげて東堂は笑った。
「この歳になると、いろいろやばいこともあるしなあ」
東堂がかつて付き合っていた年下の女子と、すったもんだの末別れたのは知っていた。
あまりそのことについては男子連中も聞いていないし、東堂自身も話していなかった。ただ、どうしても彰子と同じ保健委員ということもあって、ちらほらと噂だけは耳にしていた。つまり、その、求めてはならないところをつい調子に乗って、求めてしまったのがまずかったという結論だ。健康な男子からすると極普通のことを、女子には受け入れてもらえなかったということだろう。秋世も彰子にはしょっちゅう似たようなことをしているわけだが、そのあたりは暖かく掌で解かされ、笑顔で還元されてしまう。男子にとっては口惜しくも、まあしかたないかなと笑える終わり方となる。東堂はきっと信じてはいないだろうが、彰子に一度もキスすらしていないことを、どう説明すればいいのだろうか。いや、夏木、名倉の存在をにおわせたことすらないのだ。青大附中のベストカップルそのものの顔をしながらも、秋世が現在、三股関係のままだということを、親友の東堂にすら話していない。
──俺たち、愛し合ってるように見えるのかねえ。
問いたくなった。
「東堂先生よ、俺たち、愛し合ってるように、見えるか?」
「お前らがそうでなかったら、どうすんのみんな」
──やっぱり、見えてないんだ。
親友にも、気付かれていない溝が、確かにあった。
いつもそうだ。秋世はすべて、何もかも与えられている人間だと周りから思われているふしが、確かにある。
「あんな性格のいいかわいい子と別れるなんてねえ」
水菜さんを初め、いろいろな女子と別れる時いつも言われた言葉だった。
「なにを好んで奈良岡さんなわけ?」とも。
「きっと恵まれすぎてて変わったものでないと満足できないのよ。あの脂肪の塊って人を抱きしめて気持ち悪くならないのかしら」とも。
──恵まれてるのかねえ、俺って。
「どうした南雲」
「俺ってさあ、何でもほしいものが手に入るように見えるわけ?」
「なんだよ藪からぼうに」
秋世は浴衣の前を思いっきり広げたままつぶやいた。当然、東堂に向けてだ。
「なあんでも、持ってて、幸せ一杯なように見えるわけなんだよな」
「ものによりけりだろ」
さすが親友、そのあたりは理解してくれているようだ。秋世は頬を枕につけたまま笑った。ほおが少しひくっとする。
「奈良岡のねーさんはなあ、まあ、時間の問題でしょが。なあ。あのご面相だったら南雲以外の奴が手を出すこともねえだろうしさ。性格で狙われるのはそれこそ大人になってからだろうしさ。その点も十分、南雲なりに考えてるんだろ」
──わかってねえなあ。
もちろん、話してないのだから、わからなくて当然なのだ。東堂には、彰子のファンクラブが小学校時代の有志によって結成されていることとか、もともと人気者だったということしか話していない。保健委員としてもそのあたりは把握してくれている東堂に、それ以上の話をする必要を感じない。
「ほしいもんなんて、入ってねえよ」
急にくたっと気力が萎えてきた。東堂がテレビのスイッチを入れ、
「先にシャワー浴びるからな」
言い捨ててユニットバスへ飛び込んだ。本日のお宿はビジネスホテル、ツインルーム。修学旅行最後の宿にしては実にビジネスライクなムードだった。
少し居眠りしていた。体が重たかったのはやはり眠った証拠なのかもしれない。
「おいおい、南雲、起きろ、ほらほらなんつう格好しとるんだ、ご開帳だぞ、ファンの女子たちがこんなとこ見たらどうするんだ」
部屋に本来いないはずの大人の声がする。薄眼を開けると真上には、担任・菱本先生の汗ばんだ顔が浮かんでいた。化けものかと思った。慌てて裾をあわせ
、起き上がる。正座を一応、ベッドの上でした。まだ東堂の奴、シャワールームから出てこない。
「先生、何しに来たわけっすか」
「ほら、今日は最後の夜だろ。少しは膝を突き合わせてさあ、な」
うざってえ、というところだろう。本音ならば。まんざら菱本先生という人を秋世は嫌いではなかった。三十路寸前ということもあるし、若干説教くさいところも無きにしも非ずだが、話は通じる。恋愛関連のネタも、結構わかってくれるみたいだ。秋世のようにそれこそ「女ったらし伝説」を派手に流布させていた奴に対しても、「お前も大変だよなあ、モテる男の運命だ、今のうちに覚悟しとけ!」と笑って話してくれる。軽く言われると「ま、いっか」という気持ちにもなる。二年以降彰子との付き合い一本になってからは、どうやら両家をうまく取り持ってくれているらしい。両親、教師にばれて困るようなことを幸いか不幸かしていないので、その辺も今のところはありがたい。
「いやあ、膝つきあわせたくても、俺、酒ねえですよ」
「ばあか、それは十年後のお楽しみだ」
軽く頭をはたかれた。
「東堂、早く出てこいよ!」
「はーい」
のどかな声がシャワールームからする。きっと時間稼ぎしようとしてるんだろう。気持ちはこちらもよくわかる。
しかたない、秋世はいつもの人懐っこい仮面を取り出しかぶった。
「昨日のことだが、お前、何か言いたいことあったか?」
さっと思い出した。そうだ、すっかり忘れていた。彰子が夏木親子に拉致されて船に乗せられていったというとんでもない事件だ。どうして忘れていられたのか不思議だ。他の女子たちが不安げに「ねえ、彰子ちゃん彰子ちゃんが」と噂していたのだが、それに対して正式な話を一切することができず、ジレンマだったのだ。
「奈良岡さんのことっすよねえ」
勘がいい先生だ。大きく頷いた。秋世の座っているベッドに腰をおろした。
「たぶんな、お前にはあとで奈良岡から話が出ると思うんだが」
一呼吸置いて、
「お父さんがな、体調を崩して入院しているんだ」
「だいたいそんなとこかと思ったけど、で、今大丈夫なんすか」
菱本先生はかすかに笑った。おそらく、生命の心配はないんだろう。
「一応な、お元気だ。入院はしているが、元気だ。奈良岡からもさっき電話あってな、みんなにごめんと言っておいてくれってな」
──あきよくんに、じゃねえのかよ。
身勝手とわかっていても、むっとくる。まずい、仮面がはがれてしまう。夏木の勝ち誇った面を思い出すと、また胃がきゅうっとしめつけられる。
「ただな、青潟に戻ればわかることだと思うが、少々新聞沙汰になっていることもあって、あまり詳しい話ができないんだよ」
「新聞ざた?」
警察沙汰じゃないのか? 聞き返すと、
「いや、これも詳しい事情はまた後で説明するがな。奈良岡のお父さんが倒れたきっかけになったのが、ちょっとした会合の場だったそうなんだ。本当はたいしたことないんだが、話を大きくしないためにまずは入院してもらうという。ほら、あるだろ。政治家が何か悪いことやらかして、即、入院してしまうっていう。あれだよ」
「じゃあやっぱり悪いことだったんじゃないっすか」
またいらいらしてくる。たぶんはっきりした事情を彰子も、菱本先生も、当然ながら夏木も知っているのだろう。水口ももしかしたら、若干はつかんでいるのかもしれない。蚊帳の外に追いやられているのは秋世だけだ。今、少しずつ菱本先生が話してくれているものの、それが本当なのかどうかも定かではない。もっと詳しくわかりやすく、とねだれば「それ以上は家庭のプライバシーだ」とか「警察沙汰だから」とか言われるだろう。飲みこむしかない。
菱本先生は膝のところを二度、三度とつまんだ。
「どうなんだろうなあ。とにかく、奈良岡は元気だし、ご家族も大丈夫だが、ちょっと大変なんだってことだけはわかってやってほしいんだよな。南雲、それはお前だったらできるだろ?」
──まあな。
言いたくないなら言わなくてもいい。それが秋世なりのスタンスだ。
相手が口に出すまでは待つ。
しかし、彰子に関してのみはそれが通用しない自分もいる。
──俺以外の奴がもっと詳しいこと、知ってるのにさ。なんでだよ。
先生相手用の仮面がぐらぐらとはがれそうだった。こくりと頷きごまかした。
「わかりやした。まあいっかってとこっすね。元気がなにより!」
「さすがお前、規律委員長だな! どこかの誰かとは大違いだ!」
──かわいそうに、りっちゃん、また何かやらかしたな。
隣の部屋でおそらく、菱本先生のご訪問を受け、さんざんおちょくられた後の立村上総について思いをはせた。菱本先生の明るく熱血な性格を楽しく受け入れられる奴もいれば、激しく嫌悪してしまう男もいる。後者の性格たる立村にとって、このつっこみはしんどいことだろう。この先生も大人なのに、どうして立村の扱い方を理解できないでいるんだろうか、とふと思う。秋世が早い段階で気がついて、丁寧にのりしろをつけてつながるようにしているのに対し、菱本先生はいつもべたっと紙前面に糊を広げて、立村を覆いつくそうとしているのだから。
ちょうどそこへ、時間を稼ぐにも限界だったらしい東堂が風呂上りスタイルで現われた。秋世とは違い、それほどファッションにこだわるでもない。ぬれた髪のまんまで、髪の毛をかきながら、
「お、どうも、先生、どしたの」
やっぱり秋世と同じく、まんざら菱本先生嫌いではない奴だ。
「東堂、来い来い、ちょっと座れ」
今度はターゲットを東堂に移している菱本先生。めんどうくさそうだがそれでも、ふむふむ頷く東堂。
「お前な、ちょっと、あせりすぎたんだろ、そうだろ」
──ちょっと待て、東堂お前、どこまで話してるんだ!
秋世だってそこまで聞いていない。東堂はそれでも嫌がるでもない。こっくり頷いて、ぼそっと告げた。
「若いって、恥じっすね」
──なんで先生に言えるんだ、こいつ。
別にいいのだ。東堂はそういう奴だと思えればいい。しかし、もっと先にしゃべってくれてもいいであろう相手が側にいるのにだ。
具体的に何をしたかは秋世も聞いていない。ただ、年下の彼女にキスかそれ以上か、何かを求めて振られたというそれだけの事実のみだ。「何か」が何なのかについては、礼儀として耳に入れちゃいない。
「南雲も知ってるんだろ」
「いや、たぶん知らないと思うんです」
「じゃあまずいか」
ここでもし、「言わないでおくんなせえ」といったとしたらすぐに、秋世は東堂をぶんなぐることだろう。みな、内緒にしすぎると違うんだろうか。いくら秋世があまりつっこまないように、と心していてもだ。友だちではなく、なぜ先生に先に打ち明けるわけなんだ。さすがにそのあたりも秋世の親友たる東堂は理解していたようで、激昂させるようなことを口にはしなかった。
「いや、言うつもりだったし、この場で」
「別にいいよ、無理せんでも」
「いや、隠しとくのはなんかな」
──二ヶ月隠しておいてなんだそれは。
秋世がゆっくりと口を開こうとしたとたん、東堂は告げた。はっきりと、信じられない言葉を混ぜた。
「俺さ、結婚の申し込みをして振られたんだわ、ったく、笑えるよな、先生」
──結婚?
付き合い、ではない。今確かに東堂は、「結婚」と言ったはずだ。秋世の耳が狂ってなければ、の話だが。
「付き合いじゃねえんだろ? 東堂、結婚ってなんだ?」
「文字通り、その通り」
菱本先生の顔を覗くと、苦笑いするように秋世と東堂の顔を見やりながら、
「惚れた女にそう思えるってことは、素直に偉いと思うぞ。男としても、勇気あるなと尊敬するぞ」
──菱本先生だってそろそろなあ、年貢の納め時だろ。
彼女がいるかもしれないと噂の菱本先生がだ。
「だがな、断られたのは当然だとも、今は思ってるだろ?」
「はい、まあ、先走りすぎたかなと」
ますますわからない。秋世は東堂の顔がだんだん真っ赤なりんご状態で晴れ上がっているのに驚いた。いや、赤い風船を膨らませている状態といえば近いだろうか。
「あのな、東堂、別れたきっかけって、プロポーズかよ」
どもりながら秋世は尋ねた。
「親経由ってのが、今思えば、まずかった」
さらに絶句だった。一緒にばかやって洋服屋をうろついたり、ボーリングやって勝負したり、女子の顔のレベルで盛り上がったりしていた東堂が、いつのまにか陰でそんなすごいことをやらかしていたとは思わなかった。まさかとは思うけれども、つっこんだ質問をしてしまう。
「腹でっかくしたわけじゃ、ねえよな」
「まあな。じゃあ俺退学してるじゃねえか」
「じゃあなんでだよ」
側に先生がいるのによくもまあ、しゃべるもんだ。もしやこいつ、先生に協力してもらったとか言わないだろうな。秋世なりに推理してみたがつながらない。東堂は先生にも、秋世にもそれぞれ目配せしながら、
「やっぱ、責任取りたいって思ってたし、南雲みたいに家族できちんと付き合えるかどうかってのも大切だなって思ってたからさ。ちゃんと相手の親宛てに交際申し込み書みたいなものを送りつけたってわけだわ。恥じ、だよなあ」
笑いでごまかそうとする東堂に、菱本先生は軽く奴の頭を撫でた。
「教師としては、非常に正しいと思う行為だが、女子にそれは通用しねえよなあ。わかる、わかる」
なにが「非常に正しい」のだろうか。秋世なりに考えてみると、「正々堂々」たる態度でかつ、「教師の問題」に達しないということだろうか。
秋世の知らないところでみないろいろあるものだ。自分なりに言いたいことはあるものの、それはそれとして割り切れるものがあるはずだった。東堂とは入学時代かなり親しいつもりでいたがお互いかくしておきたい感情というのは誰にでもあるもの。秋世はいつもそれを掘り起こしたいとは思わなかった。聞かれたら答え、相談されたら助言する、それだけでいいと思っていた。
ただ、教えてもらえそうなこととか、相手が自分から言いたくてならなさそうなことは、こちらから水を向けるのもまたよしだ。ひざを開き加減にし、その間に両肘を押し付けるような格好で、秋世はあごをちょこんと手の中に乗せた。
「ふうん、そうなんだ、わかるんだ」
繰り返してみた。菱本先生も気を遣っているのかそれとも面白がっているのかにやついたままだ。きっと東堂にとってもそういう笑いが出てくる程度の話なんだろう。
「教師としてはだ、それは当然だと思うんだよ。だがな東堂、相手の反応もこれから考えないとまずいってことを学んだよな」
「はあ、ったく、まさか隠されてるとは思わなかったしなあ」
東堂と菱本先生はふたり、楽しそうに恋愛論議をはじめた。幸い秋世は聞き役に回るのみですんだので、それ以上のことを口には出さずにすんだ。それはそれでいいだろうと秋世も思った。
大体の事実関係は話の中でつかんだ。
つまり、東堂は二年に入ってから付き合っていた一年後輩の女子と、かなりあつあつの日々を送っていたらしい。秋世もそのことをちらっと聞いてはいたけれど、相手の女子についてはまったく面識がなく、話を聞くだけにしていた。男子の付き合いというのはそういうものだ。女子のように「ねえねえなんとかくんが、かんとかくんがねえ」と打ち明けごっこをめったにしない。例外ももちろんいるが、それは相手の性格見が必要だ。たとえば立村の場合とか……。
たまたまその彼女は、結構派手目な性格だったらしく、今年に入ってから少しずつ不良化の兆しを見せてきたらしい。これも東堂の言い方によるが、秋世からしたら単純にちょっとはめをはずした程度なんじゃないだろうか。スカートが短くなったとか、ほんのりと目立たない学校用メイクをして通うようになったとか。規律委員としては取り締まらねばならないが、プライベートではそれほど言われるものでもないだろう。
彼氏たる東堂としては、やはり心ざわめいたのだろう。特に、他の同級男子たちの視線を意識させるような言動を眼にして、「これは俺がなんとかせねば!」と義憤に燃えたらしい。秋世からすれば、単なる嫉妬としか見えないが東堂の希望どおり、思っておこう。
何度か彼女に対して「スカートを短くするのはやめろ」とか「けばい化粧をするな」とか、口うるさい教師めいた口調でいろいろと注意をしたが、当然言うことなんぞ聞きはしない。それどころかちょっかいかけてきた男子たちと仲良くデートを繰り返したり、時には街でナンパされてみたりと、かなり激しい行動の繰り返し。とうとう彼氏・東堂としては行動を起こさざるをえない。自分なりの方法でもって……このあたり具体的な表現を避けた様子だが、たぶん交際に関する手紙を親に送りつけたというところだろうか……彼女に言うことを聞かせようとしたらしい。
問題は、彼女自身が東堂の「愛情」をあっさりと「束縛」と受け取ってしまったところにあるようだ。
寝耳に水の彼女両親は、即、学校に東堂の出した手紙を手に、担任教師へ問い合わせたという。たまたま東堂も保健委員としてはきちんと仕事をしていたし、学内でも堂々と彼女をエスコートしていたし、「節度」を保っていたこともあって、教師側からの厳しい指導は特になかった。ただ、東堂の担任・菱本先生に話が流れてしまい、仕方なく話を引っ張るはめになってしまった。つまり、先生指導のもと「今後の交際」について明言させられたというわけである。
──これはしんどいよなあ。
東堂はそれなりに愛情を感じていたようだし、手紙を出した以上は当然責任を取りたいと強く訴えていたのだが、彼女はそこまで一切求めていなかった。軽い気持ちだったのに相手の方が盛り上がってしまってたまったもんじゃない、とばかりに、菱本先生の前で決別を宣言されてしまった。東堂は担任教師の前できっぱり振られてしまったというわけだ。
──最悪じゃん。
それを笑って話すことができるのが、東堂たるゆえんだろう。
「まあな、俺もいい人生勉強をしました」
「これからまだまだいい出会いがあるさ、がんばれよ、東堂」
秋世も素直にこっくりとうなづいた。なんだか、奴らしい。
しばらくたわいもない話をした後、菱本先生は部屋から出て行った。やはり、ほたる狩りが中止になった分、生徒との交流を深めようとする努力が暑苦しいくらい伝わってくる。
「俺たちは別にそれはそれでいいけどさあ、かわいそうだなあ、立村は」
「想像するだけ笑えるな」
東堂と顔を見合わせて思いっきり笑った。
「そうだなあ、あいつと菱本先生、天敵だもんな」
評議委員の立村と菱本先生とが仲よろしくなく、三年越しのバトルを繰り広げているのは周知の事実だった。
秋世からするとそれほど問題あることを先生は言っていないのに、立村の方が過剰反応をする、といった感じだろうか。
たとえば今のような会話を交わした場合、秋世や東堂だったら「ふうん、どうも、ありがとさん」ですむだろう。
立村ならそうはいかない。
「まず絶対に無視しまくるか、にらみつけまくるか、黙って席を立つか」
「いやいや、今夜は逃げられませんぜ」
「ったくもって、そのとおり」
秋世の顔を見ながら東堂はひざをたたいた。
「そうなんだよなあ、あいつどうしてそういうところうまく流せないんだろうなあ」
「お前にそれ言われたかあないよ」
軽口をたたきながら、秋世は窓辺を覗き込んだ。遠くの建物に黄色い明かりがたくさんついているのがわかる。雨交じりの音は窓ガラスにべったり耳をつけないと聞こえないけれども、かなり激しい。ホテル前の道路には水が勢いよく横に流れている。
「東堂悪い、テレビ入れてくれよ」
「はあ? 天気予報か」
「そ、なんかすごい雨だぞ、俺たち帰れるかなあ」
「閉じ込められたらしゃれにならねえぞ」
とかいいながら東堂はテレビのスイッチを手を伸ばしつけた。まだ報道番組の時間帯ではないせいか、二時間ドラマの濡れ場場面にぶつかってしまった。別に恥ずかしがって切ることもない。東堂とふたり、まずはじっくり見入った。話の内容を追ってみると、どうやら刑事と犯人の女との禁じられた逢瀬らしい。
「すげえよなあ、やっぱし、腕立て伏せ」
「ほんとなあ、仕事とはいえ、うらやましい」
ぼそっと秋世はつぶやいた。同い年の連中でもし、「濡れ場」に興味を持たない奴がいたら絶対嘘つきだとつっこんでやるだろう。素直にすごいと言える。東堂もごくごく自然に眺めながら、
「なあ南雲」
と続けた。
「こういう時ってさ、やっぱり、快感なのかねえ」
「おいおい、いきなりなんでだよ」
「いや、さ」
東堂の言葉は次の瞬間、菱本先生に決して言わなかったものを発していた。
「お前経験してるからわかると思うけどさ、もむ場所って人によって違うのかねえ」
──もむ場所?
──俺が、経験してる?
あえて表情を変えずに聞いていたので、東堂には感づかれなかったはずだ。
「いやさ、あいつ、もう経験してたからさ。そんなにしたいんだったら俺が全部やってやるって、やったんだけどさ」
「やったって、いわゆるあれっすか?」
「Bまでしかいけねえよなあ。やっぱし、それが、まずかったのかもしれねえな。やっぱし」
──てか、お前、やったのか、Bまで?
「南雲くらいしか経験者いねえからさ、あえて聞くけどさ」
東堂はいかにも当然といった顔で、さらに続ける。
「どういう風にすれば、女子って悦ぶのか? わからねえよほんと。適当にさ、今のテレビみたいなことやったけどさ、ぜんぜんうまくいかなくってさ。結局さ、へたくそって言われちまってさ……」
菱本先生はたぶん気づかなかっただろう。「それなりのこと」というのがどういうことだったかを。
「こういうことってさ、教えてもらいようがねえもんなあ、たぶんあれが、致命傷だったと思うんだ。ちくしょう、俺さ、もっと早く南雲にテクニック教えてもらえばよかったってつくづく思ったよ。お前だけだもんな、最後までやったことあるのさ。二年上の先輩と最後まで行ったんだもんな」
──やっぱりそう思われてるのかよ。
否定はしないでおいた。話を合わせるのは慣れている。
──やっぱり俺は、女ったらしだと思われてるんだな。