第一部 4
──だって、奈良岡さんと一緒に、あすこの高校受けるって言っただろ!
よりによって会いたくもない奴が目の前にいる。しかも秋世の格好は、いなせな湯上り浴衣姿。相手はごついガクランとの対決だったら、まず最初の段階で勝負終わってしまう。
腰のところを掴むようにして、後ろから覗き込もうとするのは水口だった。後ろ蹴りしてやりたいところだが、さすがにここは大人の部屋だ。留めておく。
「あ、ごめん、先生、ちょっとまずいっすか」
まずいと言われても引っ込む気はなかった。
彰子に満点の笑顔ビームを送ると、ちゃんと暖かく返ってきた。反対に野郎側から氷点下ビームらしきものがこちらに飛んできたが、そっちは無視した。
「どうした南雲、あとではだめか」
菱本先生は少しばかり口をつぼめて答えた。三十目前の熱血先生で、いつもだったら熱く「おお、どうした、お前なんか相談あるのか? 人生の先輩としてなんでも聞いてやるぞ!」みたいなことを言い放つ人だった。秋世なりにこの場の雰囲気がしめっぽいものだとは認識していたものの、少々場違いだったことは否めない。まずはこの場の事実関係を知りたかった。「ひえ、いやいや、お邪魔しちゃったようでどうも。あれ、そこにいるのは夏木くんでしょうか?」
てめえに名前呼ばれたくもない、と言いたげな面をして夏木は秋世を睨みつけている。お互い様である。彰子がわざわざ夏木に確認を取ってくれた。
「そうだよね、あきよくん、ナッキーのこと知っているんだよね。先生、そうなんですよ」
不快を隠せない表情ながら、夏木は肯定も否定もしなかった。
菱本先生だけが大きく溜息を吐いた後、
「そうか、十分、証人は揃っているんですなあ。南雲、こちらのおふたりとは知り合いか?」
「はい、そりゃあもう」
三日前にちゃんとお会いしたんですから、と言ってやってもよかった。この部屋に敷き詰められた畳の匂いみたいなものが、重たくじとっとしていて息苦しかった。いつもの秋世らしい態度はあまりよろしくないだろう。
夏木の隣に正座している五十過ぎの男性……おそらくこいつの父ちゃんだろうと思う……にも念のため頭を下げておいた。無表情のままこくっと秋世に挨拶してくるとこみると、自分の息子と秋世とが彰子を巡る三角関係にあることを知らないらしい。まあ、夏木の本音としては話したくもないだろう。
「だから、これで文句ねえだろ、彰子の先生」
「こら、宗、少し黙れ」
教師とも思わないこの態度、それでいて彰子の父さん先生にはめちゃくちゃなついていると来ている。夏木の持つ「大人」に対する尊敬基準とはどういうものだろう。
彰子が時々困った笑顔を見せているのが気がかりだった。水口の話が正しければ、彰子の父さんが体調を崩してしまって、即、青潟へ帰らねばならないはずだと聞く。せっかく明日のデートを完璧にセッティングしておいた秋世からしたら非常に切ない。しかし愛する彰子の一大事、祈りを込めて見送ってやるのが筋だろう。帰り荷物を持って出発をせずになぜか恋敵夏木、およびその父上と膝と膝付き合わせているのだろう?
「とにかく、奈良岡さんの状態を考えると、彰子ちゃんをすぐに青潟へ帰してあげてほしいというのが私の気持ちです。確かに、この格好とこの状態では、誤解を招くものはあるでしょうが」
──誤解?
夏木の父ちゃん、片手にサングラスを握り締めている。しかもいかにもという感じの真っ黒いレンズ。見るからにマフィアとかその筋の人、の要素大だ。背から漂ってくる空気が、夏木本人のとは違い、びしっとくるものも感じる。菱本先生との間に漂う「大人と子ども」とは違う雰囲気だということだけは、肌から感じた。
「だから、彰子、お前早く荷物まとめろよ!」
大人と大人の会話に割り込む中学生ひとりが騒いでいる。我慢の限界、ばちばちとはじけている様子だ。いつものことだがそれでも彰子は静かに微笑むだけだ。泣き崩れてもおかしくない状況なのに、なぜこうも落ち着いているのだろう。
秋世にはそのあたりもよく理解できなかった。
「うん、ありがと。でもナッキー、きっと父さん大丈夫だと思うよ、こうやってみんな心配してくれるんだからね。おじさん、本当にありがとうございます」
話が見えるようで見えない。秋世は袖口に片方の握りこぶしを突っ込んで、腕組みをしたまま突っ立っていた。後ろにくっついている水口が邪魔だった。
菱本先生は全く、秋世たちの存在を意に介していない様子だった。
「彰子さんのお母さんからの一筆書いたものがあれば、また違うのですが、そのあたりはいろいろと難しいものがございまして」
「だから言っただろ! 俺が証人だ!」
拳骨を食らわせる音が鈍く聞こえた。当然、サングラス片手の夏木父が息子に鉄拳を食らわせた。あまりにも素早い制裁に秋世も息を呑んだ。ぼこっとか、いかにも漫画の吹きだしじゃないかって感じの音だった。
「ナッキー!」
慌てる彰子が手を夏木に差し出そうとする。
「あいってえ、けど父ちゃん」
「黙れ。今度は手加減しないぞ」
手加減って、あれでも手加減してるのか?
さすがに夏木の髪の毛を膨らませるようなたんこぶは浮かんでこなかった。かなり後々尾を引きそうな音だった。見ている秋世の方が耳のあたりじわじわ痛くなってきた。
「せめて、お母さんと病院で連絡を取ることは出来ませんか。それさえできれば」
「状況が状況ですので、奥さんはなかなか身動きできる状態ではないですね。それもあって今回、ああいう形での送迎となったわけですが」
──状況が状況?
ますますわけがわからなくなっていた。自分の頭脳がさび付いているとは思わない。でもなんでこうもわけがわからないこと言うのだろうか、このおじさんは。
「とりあえず、旗は立てずに走ります。今から移動すれば、深夜出航の連絡船には間に合うでしょうから、彰子ちゃんに迷惑をかけるようなことはないはずです。どうか、私のことを信じていただけませんか」
すでに秋世はいてもいなくてもいい、空気のような存在となっているらしかった。
空気は素直に循環するしかない。
「じゃあ、とりこんでるみたいなんで、また後できます」
菱本先生はちらと目の端で秋世を見て、唇をぴくぴくと動かした。OK、の意と見た。
去り際、我が花散里の君に秋世なりの「元気を出してスマイル」を送ったつもりだが、受け取られていたかどうかは定かではない。夏木が父親と同じような「近寄るんじゃねえ」的気を出していて、びんとはじかれてしまいそうだった。後ろにへばりついているはずの水口に一言、
「さあ、後だ後だ」
振り返った。言葉が最後まで出なかった。
水口はいなかった。
──あいつ、どこ行きやがったんだ?
こんなわけのわからない状況に引きずり込んだのはひとえに、水口要、こいつのせいだ。
彰子がどれだけ家族の一大事に苦しんでいるか、想像できないわけではない。
しかし恋敵と顔を合わせるはめになるとは。
──大人の事情だよな。
全く見当がつかない。いったい何があったのか、どうして迎えに来てくれているのにさっさと帰そうとしないのか、どうして夏木までおまけにくっついてきているのか。
部屋を出るとまた、他のクラスの女子たちが秋世に向かい、曖昧な笑みとひそひそ話をしているのが見えた。なぜか勘に触った。眼をそむけ、いつものようにスマイルスマイルを振りまく気に、どうしてもなれなかった。東堂曰く「南雲の営業スマイルは完璧だよなあ」とのことだが、別に意識しているわけではない。する気がなければ、なんにもしない。自分はきわめて感情に正直な奴だと思う。
「憂いある、って言うのかな、南雲くんやっぱりこうしてみると、かっこいいよね」
かっこよければ彰子を独り占めできる、それなら大喜びでかっこつけさせてもらうのだが。
腰に巻きつけた兵児帯を横っ腹叩くように扱いた後、秋世はもう一度廊下を隅から隅まで見渡した。もう少し情報を得るために、水口を見つけて、もう一度絞らねばならないだろう。同時に今仕入れた夏木父と菱本先生との会話を頭の中で整理したかった。まだ、部屋に戻らなくても言い訳がしやすい時間帯だったのは運が良かった。
秋世は旅館内みやげ物売りコーナーへと足を向けた。
背の低い女子の頭だけが眼についた。ずうっと歩いていると、ひとり、同じくらい低い男子のぼっちゃん刈りの姿を発見した。青いジャージをだらっと着たまま、背中を向けている。自動販売機の手前に並んでいるカード式公衆電話のが緑色に光っていた。水口だということはすぐに知れた。片手に握り締めているテレホンカードの枚数は、ざっと勘定してみて二十枚くらいはありそうだった。青潟あたりに長距離電話していると見た。背中ごしに近づいた。
無防備なのか、性格チャイルドなのか。かなりでかい声で水口は喋り捲っていた。
「そうだよ、そうだよ。だから、今からうちの病院に連れてって南平先生に頼めないの? だって、まずいに決まってるよ、だって、心臓だろ。心筋梗塞だろ? まずいよ、すぐやらないと。だから、俺、電話番号教えてもらえたらすぐにかけるよ。すぐ連絡すればいいだろ? だからあの、その」
どいつもこいつも、意味不明な言葉ばかりつぶやきやがる。
推理必要な言葉をコレクションするはめになりそうだった。
気持ちが糸のこぎりみたいにぎいこぎいこ言い出す。まだ秋世が背中にくっついているのを気がつかない水口。背中は夏木父子と異なり、隙だらけ。後ろからばっさりやられても、文句言えまい。
「無理だって、そんなあ、だって、一緒に学校行くんだよ、一緒に行くのに、なんでだよ」
胃がただでさえ痛いのに、なんでこいつまで、秋世のわからない言葉をたくさん呟くんだろう。彰子に関してのみどうして自分がつかめなくなってしまう理由がわからない。水口の幼いエロ発言行動も「しょせんクラスの赤ん坊が」と大目に見ていられる自分が、彰子がらみになるとつい、かっとなってしまう。
水口のわがままいっぱいに唇尖らせている様子を覗き込もうとした寸前、出た言葉に、秋世は瞬間フリージングされていった。呼吸も一緒に何もかも。
「だって、奈良岡さんと一緒に、あすこの高校受けるって言っただろ! 約束したんだよ!」
──あすこの高校?
──あすこの高校受けるって言ったって、「あすこ」ってどこだよ。
──青大附高しか行かねえだろ? 青大附中から行くとしたら。
──何、こいつ、意味不明なこと言いやがるんだ?
言葉が掴めない。次から次へとテレホンカードを差込口に入れていく水口の指は、むかつくくらい慣れていた。もう使い切ったらしいテレホンカードの絵はみな、「献血ありがとう」だとか「祝・開業祝」だとか、水口のご家庭特有の医療系ムードが漂っている。
彰子と水口の会話が盛り上がっていて、秋世が決して入り込めない話題が、「医」の世界に関することだった。将来、ふたりとも医学部を目指していることは重々承知しているし、それはそれでいいことなんじゃないかと感じているはずなのに、なぜかもやもやしてしまう。じれったい自分がいる。
「そうだよ、だからだから、奈良岡さんのお父さんのいる病院、連絡して、うちで手術してくれよ。そうしたら……え? もう終わってるなんてことないよ、だって集中治療室にって」
さらにわけのわからない医学用語、病名、その他いろいろ飛び交い出した会話を秋世はもう聞く気なかった。ただぼんやりと、でくの棒みたいにつったって聞いているだけだった。
「うん、わかった、じゃあまたあとで」
最後の一言を言い終わり水口が両手で受話器を置くまで秋世は息を呑んでいた。
振り返って初めて水口が、
「南雲、なんで?」
慌て出したのを、秋世は手首をぽきんと折りたくなるくらい握り締め、
「最初から事情、もう一度話せ」
声を絞って、響かせた。
答えによっては複雑骨折の一つくらいさせてやってもいいかもしれない。
水口はしばらくためらい口を開こうとしない。
呼び水をやるのが一番いいだろう。秋世は自分なりの仮説を立てることにした。
「つまりだ、彰子さんを巡る事情ってのはどういうもんなんだ? さっきお前が言ったのは、彰子さんの父さんが心臓悪くして倒れたってことだよな。今、集中治療室に入ってるってことだよな」
「そうだよ」
簡単に答える。しかしそれ以上のことは言わない。
「だから、あのふたりの親子が彰子さんを青潟へ連れ帰るために迎えに来たということだよな」
「わかってたらもういいだろ」
「良くないから俺を呼んだんだろ? さっきさあ」
懐が少し開き気味で、秋世の美意識に反するはだけ具合だった。襟が緩んで胸元が冷えてきて気づいた。襟元を直した。さっき水口が使ったテレホンカードを電話の上から手に取った。枚数を数えた。六枚あった。
「俺、わからないんだけどさ、すい、なんで菱本先生すぐに彰子さんを帰そうとしないんだ?」
「わからない」
尋ねた後で秋世も無理難題だということに気がついた。自分にわからないことが水口にわかるわけないだろう。与えられている状況証拠は同じものだ。水口にしかわからないことを尋ねたほうがいい。秋世なりに判断し、質問の方向を変えた。
「お前、今の電話どこに掛けてた?」
言うまでもない。ぼそりと答えた。
「うちだよ」
「なんでだ?」
男子がホームシックにかかって母さんの声を聴きたくなる、なんてことはまずありえない。特に修学旅行という解放区そのものの場所で、そんなうっとうしくなるようなこと、誰がするだろうか。特に最近、大人への目覚めはなはだしいすい君がなぜだろう?
「しょうがないから」
「もう少し長くわかりやすく説明してもらえないかな」
今度は自分の仮面の中でも一番の穏やかバージョンたる「規律委員長」風にしゃべってみた。他に「付き合いのいい男子ののり」と「ファンでいてくれる女子たちむけ」などいろいろなものが揃っているけれど、水口の口を開かせるにはやわらかに攻めないとまずい。背伸びしていてもやはり、「お子さますい君」だというところは変わっていなかったらしく、水口は少し息を吐いた。
「彰子さんの父さんが受けた手術って、そんなにすごい大掛かりなものなのか?」
心筋梗塞だとか言っていた。心臓の病気だということくらいしか、秋世にはわからない。ただ、すぐ手術しなくてはいけないものなのだからきっと大変なんだろう。集中治療室なる言葉も混じっていた。秋世なりに想像つかないこともないけれども、とにかく一刻を争う状態であることは確かだろう。
水口の表情が少し和らいだ。
「急性心筋梗塞だったら、即、集中治療室が用意されている病院へ輸送して、すぐに手術しないといけないって決まってるんだよ。南雲、そういうことも知らないの?」
ちくしょう、悪かったな、知らなかったよ。
ちくりちくりと針のようなものが突き刺さる。
「今の話でねーさんの父さんどうなってるかわからないけど、本当だったらすぐ、帰らなくちゃだめなんだよ」
「じゃあなんで、お前電話した? それとだ、もう一つ教えろよ」
秋世が一番知りたい質問を投げかけた。
「あすこの高校、って何さ?」
「高校?」
「お前、そう言ってただろう? あすこの高校受けるって、なんだそれ?」
荒れそうな波を自分の中で押し留めながら繰り返した。
「青大附高じゃ、ねえの? すい、答えろよ」
口を尖らせたまま、水口は秋世をぐいと見上げた。がんつけた、が一番近い。
水口に思わずびくっと一歩退きたくなるのを耐えるなんて、なんたる屈辱か。
秋世はすい君の言葉を待った。
「ねーさんから聞いてなかったんだあ、南雲」
廊下の向こう側に人影がちらついていた。誰かにふたりは見られている。規律委員長様と学年トップとの会話に、怪しいものが混じっているなんて誰も思っていやしない。
いま、この瞬間にこいつを張ったおしてやりたくなったとしても。
「俺たち医学部のある学校に行きたいから、行きやすい学校受けても変じゃないよ」
「けどじゃあなんで青大附中にいるんだ?」
水口は病院の跡継ぎ坊ちゃんだから別にしても、彰子が受けるなんて話、今まで聞いたことはなかった。青潟市内の高校でも医学部進学に有利な学校なんて秋世は聞いたことがない。さらに言うなら青大附中は、真実はともかくとしてエリート学校と思われている。高校まで進学した後、それから医学部のある大学を受験する奴は、確かにいるだろう。ばあちゃんの担当の先生がまさにそうだった。でも中学卒業の段階では、警察沙汰にでもならない限りそれなりに進学させてもらえるはずだ。理系が大得意でかつ、我がクラスの隠れたアイドルである彰子が、追い出されるわけがない。
自分で自分が壊れてくるのがどうしてか、わからない。
こんなに荒れている自分を感じてしまうのは初めてだった。
唇をへの字に曲げ、勝ち誇った風に水口はさらに続けた。
「青潟じゃないんだけど、医学部受験用の私立高校があるんだよ。全寮制になってるんだけどさ、そこを受験しようってねーさんに前、話したんだよ。ねーさんも考えるって言ってくれたからさ、この前ちゃんと学校案内手に入れて渡したんだよ。ふうん、南雲、付き合ってるとか言って、そういうの知らなかったんだあ、そうかあ、そういうことかあ、俺しか、知らなかったんだなあ」
なにこいつひとりで感動してやがるんだ。拳に力が入った。何もこの「クラスの赤ん坊」すい君に本気で噛み付くのもばかばかしい。今は修学旅行、先生の監視も厳しい、しかも規律委員長、騒ぎを起こしたくはない。理性がちゃんと働いているのが自分の性格のはずだった。
「けどさ、ねーさんとこ、もし父さんが倒れちゃったら学校受けられなくなるかもしれないし」
「受けたって受かるとも限らんだろうが!」
必死に押えるのは自分の中の仮面を守りたいから。
今その仮面をはがしてしまったら、腐りきったどろどろした液体が流れ出してしまいそうだから。
さっきの夏木に対しても、今目の前の水口に対しても。
そして、今まだ部屋の中で菱本先生と話し合いを続けている彰子にも。
すべてが秋世ひとり、蚊帳の外。
「受かるよ。ねーさん、ちゃんと問題集買って勉強しているって。大丈夫だよ南雲。ねーさんあまり古典とか得意じゃないって言ってたから、俺がちゃんと家庭教師してやってるんだよ。うちの親たちも、ねーさんのこと大好きだから、協力してあげられるしさ、それにその高校、受験結果の成績によって、ちゃんと奨学金がもらえるんだよ。そのこともあって電話したんだよ。南雲、なーんも知らないんだなあ。俺てっきり、南雲には話してるのかなって思ってたから、わざわざさっき教えてやったのにさ、ふうん、そうかあ、そういうことかあ」
「すい、いいかげんこっち来い!」
水口の奴、完全に秋世のことを馬鹿にしきっているのが見え見えだ。
学校内で最高のらぶらぶカップルと噂され、彰子は一時期一方的にやきもちを妬かれ、えらく大変だった去年一年間を思いっきり否定するようないい方を許したくはない。規律委員長ではなくて、一個人南雲秋世として当然の行動だと、今は思える。調子付いた水口の襟元を絞り上げて、ぶん殴ってやればさぞすっきりすることだろう。もう一度両手を握り締め、一呼吸置いた。だめだ、壊れたら、仮面が砕け散ってしまう。
「ほら、向こう見てみなよ。ねーさんたちが移動してるよ」
泣き虫すい君はちっとも動じなかった。
「そんな怖い顔しないでさあ、ほら、あっち行ってみようよ」
荒れきっている自分のが惨めったらしい。秋世は指された方向に水口の言う通り菱本先生と彰子、夏木親子がまとまって立ち話しているのを確認した。駆け寄った。
ちらっと横目で彰子の横顔を伺うと、やはり頬の真中が少しくぼんでいるように見えた。
──俺の眼には、ちゃんと映っている。
彰子の感じているはずの痛みを、ほんの少しでも受け止めているような気がした。
「あきよくん」
それでも彰子は秋世を見るなり、いつものあどけない笑顔に頬をほてらせた。見るからにそれが作り物とわかるのだけど、秋世のために精一杯というのが鈍感男子なりにも感じてしまう。ブラウスに赤いリボンを結び直すような仕種をして、秋世の隣にいる水口にも微笑を返した。
「すい君、いい? あんまりエッチなことばっかり言ったらだめだよ。修学旅行中なにやってたか、あとで他の男子諸君に聞くからね」
かなり無理してくりくりしたほっぺたをこしらえているのを、水口はきっと気づいていないんだろう。奴はすっかり唇を尖らせ、びいと変な音をさせた。ガキである。状況把握していないぞ、こいつ。たしなめたいのと、少しほっとしているのとが混じって秋世は言葉を出すことができなかった。ただ、彰子の隣にしっかりとくっついている白線ガクラン姿の夏木にだけ、軽く礼をした。
「おめえなあ、俺との約束、ちゃんと守ってたのかよ」
「おかげさんで」
夏木父と菱本先生が三歩ほど離れたところで話をしている。何度も菱本先生が頭を下げている。きちっと背を伸ばしたまま、一度しっかり頷いている夏木父。ちらりと秋世の方を見た。
「彰子、早く荷物持ってこい。いくぞ」
「うん、わかった。じゃ、しばらくお世話になるね」
──お世話になるだと?
頭の中で言葉を繰り返す秋世。
なんでみな、わけのわからないことばかり言い出すのだろう。ガクラン、ジャージ、制服、そして浴衣。四人とも同じ言語世界の人間なのに、秋世だけが異国人状態で取り残されているかのようだった。
「彰子さん、行くのか」
「うん、あきよくんもすいくんもありがとうね。私のお父さんだもの、大丈夫」
いや、本当は何が起こったのか、それを知りたいだけなのだが。肝心要のことを彰子も言ってくれなかった。懐に風が吹き抜ける。秋世なりの言葉をまた捜した。
「詳しいことは学校に帰ってから、またゆっくり話すからね。ナッキー、ほんとうちの学校の人たちって、いい人ばっかりだよね。もちろんナッキーもだよ!」
三人の顔をそれぞれ見渡して後、彰子は両手をぱちっと合わせた。
「そうだ、あきよくん、お願いなんだけど」
「なんなりと、どうぞ」
「今から私が帰ること、他の人たちにはまだ内緒にしててもらえないかな?」
せっかくの姫の頼みだというのに、また肩透かしだ。そんなことわかっている。当然だろう? そう言いたいのをこらえる。彰子の背中に伸びる影が、父親の病気だということを知っていて、ぶつくさ文句たれることなんてできやしない。たとえ、どんなに腹ペコの狼だったとしても。
「ああ、いいよ。けど、菱本先生には話したの?」
「うん、私も帰ってみないとどういうことになってるかわからないんだけどね。でもきっとうちの父さんのことだから絶対大丈夫! 修学旅行終わったら、ちゃんとみんなの前にいつもの私になって戻ってくるからね。すいくんも、ね」
──いつもの私じゃないのかよ。
明るすぎるほど楽しげに振舞う彰子に、秋世はどことなく、黒い影を見た。
いつもの彰子とほとんど雰囲気が変わらないだけに、苦しかった。
玄関先まで秋世と水口は並んで彰子たちを見送った。
女子たちには幸い全く気づかれずにすんだという。
たまたま荷物を取りに行った時、みな別の部屋にいたからだという。
「じゃ、気をつけて」
「明日のデートは、帰ってからたっぷりしようよ、彰子さん」
気障といわれようがなんと言われようが、そんな重苦しさを打ち消すにはいつもの秋世なり、「彰子へ限定スマイル」決めるしかない。夏木と水口の視線が氷点下に冷えていくのを覚悟の上、秋世は人差し指を自分の唇に乗せ、すぐに彰子へ投げた。
「さあ、早く行って来い! 彰子、先に乗ってるぞ!」
夏木は背を向け、腰に両手を当てて指を玄関に向けた。父親の真後ろにひっついたまま、ぴんと背を伸ばし歩き始めた。見送りながら秋世は、もう一度彰子の無理している笑みをまぶたに焼き付けた。
──泣いたって、いいのにな。
手を差し伸べることもできやしない。浴衣と制服のTPOレベルと同じ差が、確かに見えた。