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第一部 3

──あいつに抜け駆けされてたまるかよ。


 お目当ての「ふたりっきりデート」は残念ながら果たせぬまま、修学旅行も三日目に差し掛かっていた。もともと彰子の性格上、「女子たちをおっぽりだしたまま自分だけぬくぬく彼氏といちゃつきたい」ことをするようなことはないし、秋世も男子連中との付き合いが大切だ。周りでは「学内一番のラブラブカップル」と勘違いした噂を流されているが、とんでもないってことである。

 ──俺たちほど良識溢れたお付き合いしているカップルっていないんでないか?

 自問自答してみる。

 ──ほら、どっかの問題起こしたカップルは、男に荷物持たせたままその辺歩いているし、また別のカップルは廊下で痴話げんかしているだろ。ラブラブっていうのはああいう状態のことを言うんだ。少なくとも俺と彰子さんとは違うだろ。

 もともと保健委員ということもあって、彰子は忙しそうだった。

 面倒見のよさそうな温かさができたての大福餅みたいですぐにかぶりつきたくなる。

 こっそり誰もいないところでぎゅうっと握り締めたくなる。

 しかしそのやわらかなお手手はすべて、他の面倒を掛け捲る同級生、他のクラスメート、また他の連中に差し出されている。秋世に差し出されていない……とは言わないが、もっとたっぷり絡んでくれたっていいだろう。まあしかたない。まだ二日間ある。四日目の自由時間こそ本命本音の勝負だと秋世なりに覚悟はしている。

「南雲、悪いな、明日はふたりっきりだな」

「ああ、やっとな」 「お前、そっちの気もあったのかあ?」

 同級生の東堂が肩に腕を回してくる。明らかに誤解である。秋世は腕を振り払い、たっぷりと微笑み返してやった。かえって気持ち悪かろう。

「俺は好みがうるさいんでね、その辺はよろしくな」

「まあなあ、お前って昔から、わからねえよなあ」

 種明かししてしまえば、東堂と四日目の夜、ふたり同じ部屋に泊るというだけのことだ。ビジネスホテルのツインルームで、いろいろと親友同士が固まったり集まったりと、まあいろいろするわけである。しかし秋世の場合、特にだれそれとくっつきたいとか、そういうこだわりはほとんどなかった。あえていえばいまひとつ相性の悪い連中と組みたくないという程度のことであり、その辺も評議委員たちが把握して進めてくれた。東堂に襲われたらどうするか。ひとつ、卍絡めでも練習しておくか。

「ははん、そうねそういうことかよ」

「何、納得しているんだよ、気持ち悪いな」

「お前ほんっと、惚れぬいてるもんなあ」

 事実なので言い返しはしない。よくクラスメートで、男女関係のことでからかわれたりすると顔を真っ赤にして否定する奴がいるが、あれこそ間抜けなことはない。事実だったらひゅうひゅう言われようが何しようが、堂々と受けてたてばいいことだ。また、全くの誤解だとしたらきちんと人前で言い放てばいいことでもある。そんな難しいことではない。東堂がちろっと鞄を見る。

「保健委員会は平和なのか?」

 妙な質問だと思う。でも青潟大学附属中学ではごくふつうの会話でもある。

「まあな、ユアハニーのおかげでいたって平和」

 にやにやしながら東堂は頷き、彰子を指差した。大きな風船がころがっていくように、彰子は女子たちみんなに声をかけて、笑顔で何か言っている。むかつくことに、今は水口と笑いあっている。

「そうか、それならどうでもいいな」

「規律委員会はどうなんだよ」

「評議よりはまし」

 納得して頷く東堂の、のびかけてきたあごひげをちょいと手の甲ですりすりしてやる。

「とにかく、お互いいろいろ大変だなってことっすね」

 東堂は納得したのかよくわからない顔のまま、頷いた。

「南雲みたいなのがなんで、規律委員長なんだろうなあ。世の中、楽しいよな」


 ただ今時刻は八時を少し回ろうとしている。食事も終り、みな男子連中がすっぱだかで風呂に入った後、湯上り浴衣でそろそろとロビーをうろついていた。いつものことだが、秋世が歩いているとかならず女子の声で「南雲くんよ」と囁く声がする。彰子と付き合うまではそれもなかなか楽しいことだったのだが、今では困りものでもある。かといってうろつくことができないのはさらに困る。秋世なりに聞こえない振りをするしかない。もともと関心のない女子の顔は記憶に留めないくせがついている。

 秋世がここにいるのには訳がある。

 ──彰子さん、こねえかなあ。

 なんとでも言ってほしい。修学旅行三日目にして、交わした会話の寂しさを。

 しかもみな、ふたりきりになるチャンスがほとんどないではないか。

 よく他の男子どもが「彼女になった途端、しつこく口出してきてさあ、むかつくぜ!」とか、「なにをべったりするんだろな」とかありとあらゆる相手の悪口を言い放つところに出くわすが、彰子と出会って以来、そういう会話に混じることはほとんどなくなった。不思議なことだが秋世の影響で他の連中の恋愛もだいぶまともに流れるようになったみたいだった。原因は不明だ。秋世としては単純に「彰子さんの威力はすごい」と決め付けて終りとしたい。

 だが、どうしてもたったひとつ、彰子に足りないものがある。

 ──どうして、俺だけのものにならねえのか、ってことだな。


 独占欲。そんなもの、あるわけないと思っていた。

 他の女子と付き合っていた頃も、一度も手放した時の喪失感を恐れたことはなかった。

 酷い男だと言われるかもしれないが、本音なのだ、しかたがない。

 いくら夏木との契約で「共同で彰子を守る」ことにしたとはいえ、百パーセントでない以上飢えた狼のおなかは空くばかり。きちんとばあちゃんに教えてもらった通りに浴衣を着付けて、はだしのままスリッパを擦って歩く自分がいる。髪の毛もちゃんと備え付けのドライヤーで乾かしておいたし、いつ彰子とバッティングしても構わない。


  彰子と付き合い出したのは一年前のことだった。

 一目ぼれした入学式のことなんて覚えていないし、その後すぐ情報を仕入れるため彰子の住む街まで出かけて衝撃的事実を知りあきらめたこともある。外見が「おでぶちゃんのぶさいくちゃん」だった彰子だが、やはり見る奴は見ているものだ。小学校時代の彰子がアイドルだったことを知ってから後、秋世は作戦を長期に切り替えた。あきらめたわけではないと、強く言いたい。

 会った瞬間のことも、正直記憶にない。

 ただ、むしょうにぽちゃぽちゃした二の腕をつかんで、

「あのさ、俺、南雲秋世っていうんだけど、この学校で一番先に男子の名前、覚えてほしいんだ」

とか臭いナンパのセリフをぶつけたかっただけだった。客観的に言えばもちろんグラビアクイーンなみの美人とか、アイドル歌手なみの美少女とか、たくさんいるだろうしそれは秋世も認めなくはない。ただ、そのタイプはすべてイラスト、写真で残っていれば用の足りる人ばかりだった。

 奈良岡彰子は、生身のぽちゃぽちゃ姫でないと、秋世には意味がなかった。


 その後規律委員会という、いかにも自分らしくない委員に当てはめられたのは担任の意図だろう。入学早々シャツの襟を軽く立てて、前髪にはしっかりブロー剤を使ってかため、自分なりに似合いそうな程度の着崩しファッションをしていったのが目に留まったのだと、担任・菱本先生は言う。

「お前、あのままだったら不良化の兆しのプリントそのままだっただろ? 親心だぞ」

「今なら感謝してますって」

 なんだか面倒くさくてならなくて、それでも委員会活動をしっかりしてみたら思ったよりも楽しくて、何よりもここが「規則がちがち、定規が友だち」の世界ではなく、「影のおしゃれクラブ」という巣窟だったことが一番の理由だろう。もともとファッションやヘアスタイルなど、外見に関わる話題が好きだった秋世にとってはまさに天国。前髪の長さとか髪型の統制とかそんなのは学校側から出されたものをそのまま通しておけばいい。その抜け穴をどうやってみつけるか、それが後半の話題。いつしか机にはみな、小ぶりのスケッチブックが開かれていて、秋世は暇さえあれば色鉛筆でファッション画を殴り書きする。女子の一部は暇さえあれば家庭科の授業を派手にやらかしてくれて、オリジナルの小物類を何気なくこしらえてくれる。刺繍まで入れてくれるときた。上級生との会話もほとんどがファッション雑誌の流れについて。それを軽薄という奴がいたら、それはしかたあるまい。頭下げるしかないだろう。

 おしゃれな格好も身についてきて、小遣いをもう少し上げてほしいと思った矢先、初めて一年上の女子に声をかけられた。小学校の頃、それなりにお付き合いの経験もないわけではなかった。キス経験も、かすかながら、ある。でもその時、会った相手……水菜さんという名前だった……の真剣な顔に思わず頷いてしまった。南雲秋世の女漁り伝説、開幕ってことである。不本意ながら。


 水菜さんとは三ヶ月続いた。厳密に言うと彼女が青大附高に進学するまでの間だった。その間にそれなりにキスはするようになったし、卒業間際に水菜さんの方から「したいなら、いいよ」と匂わせるようなセリフを口にされた。たぶん、まあ、あのことかな、とは思っていたけれども、なぜか「ラッキー」と乗れなかった。水菜さんともデートをしたり、いっしょに話をしたりしたけれども、彼女が飽きるまではとりあえずいるけれども、飽きたら次、と考えていた。できればさっさと終わってほしいと、脳天気にも思っていたわけだった。結局校舎が変わり、環境が変わると水菜さんも連絡をよこさなくなった。それが寂しいと思ったことは、なぜかなかった。

 途中、放課後呼び出され女子たちから告白されるという冗談めいたことが日々続いた。ひとり、ふたりのうちならまだしも、一日五人なんてきた日にはどういう顔をしていいかわからない。水菜さんと付き合っていた頃もみなわれ先にという感じだったし、二年以降はとにかくすごかった。

「南雲の奴、女漁り好きだよな、最低だよな」

 クラスの相性合わない男子が唇を尖らせて悪口言っていたのを、耳にしている。

 たいして傷ついたわけではないにしても、不本意ではある。

 漁ったわけではないし、ただ「付き合って」といわれていやじゃないからご希望に答えただけだ。

 秋世は一度も、裏切ったことはない。

 ただ、相手の子があまりにも真剣そうな顔をしていたら、最初からお答えできそうにないから軽いタイプの女子と付き合うことになるだけのことだった。やはり軽い気分で「もしよかったらちょっとおしゃべりするだけでもいいから、ね、付き合わない?」と誘ってもらえるほうが楽だった。秋世の判断は今思うと正しかったはずなのだが、やはり状況が変わるとなんとも言えないのもまた事実なのだろう。

 ──自分で、奈良岡彰子を選ぶまでは。


 廊下をばたばたと女子連中の足音が響き、素早く背を向けた。これからクラス連中とまとまってまた馬鹿話をするのも悪くない。ただし、明日こそは彰子を捕まえて、しっかりデートコースを歩かなくちゃいけない。青大附中の修学旅行では、一通り自由行動中行かねばならない寺とか観光地とか遺跡とかがチェックポイントとして上がっている。その場所でスタンプを押すことが義務だ。しかし裏を返すとスタンプさえ押せば、あとはやりたい放題というのもまた本当のこと。幸いクラスの評議委員がしっかりと計画を練ってくれて、午前中のうちに全部スタンプを押し切った後、午後は好き勝手に過ごすというプランを立ててくれた。みな、それぞれに、予定を立てて夢を見ているらしいと聞く。仲良し同士で固まって洋服屋に向かう女子たちもいれば、ゲームセンターでたむろう男子たち…… 秋世のことでもある……もいる。修学旅行とはいえ、やはり基本は人間関係だと常々思う。

 彰子にも、早い段階で提案しておいたのだが、やはりクラスの女子たちがいろいろ口うるさいのだろう。

「いいよ、あきよくん。男子は男子同士のほうがほっとするんじゃないかな」

 無理しなくて、とは言ってくれたが。無理したいんだ、こっちとしては!と怒鳴りたい。

「私、ほら、ちょっと動くと息切れしちゃうでしょ。去年の宿泊研修でもあきよくんが手、ひっぱってくれて山昇ったでしょ。あれと一緒よ。ゆっくり、ゆっくりまわりたいんだ。だから足ひっぱっちゃうの、なんか、ね。今度青潟へ帰ったら、その時ゆっくり何かしようよね」

 ──彰子さん、その「何か」って何なんですか?

 やんわり断られていても、やはりあきらめは簡単ではない。

 彰子には彰子なりの事情があるだろう。だが秋世にも秋世なりに意地がある。

 ──よっし、まずは姫を捕まえて、デートコースをご案内だ!

 この時のために、すべてデータを集めて、出発時刻やバス時刻表まで全部用意したのだ。

 野郎仲間……東堂たち……にも了解を得た。秋世のたっての頼みをみな受け入れてくれたありがたい仲間である。

 あとは、姫、奈良岡彰子、ひとりのOKが必要なだけだ。他の奴らは秋世のことを「王子さま気取り」だとか「女たらし」だとか好き勝手なことを言うようだが、正直自分のどこが「王子さま」なのか「たらし」なのかがわからない。


 しばらく秋世は両手を懐手にしたままうろうろしていた。

 女子たちの群が通り過ぎたと思ったら今度は男子連中の塊がどどんと流れてきた。

「おおい、どうした南雲」

「まあ人生いろいろと」

 これで納得してくれる仲間たちに感謝だ。彰子の姿は相変わらず、見えなかった。待つ、とにかく捕まえて、話をする。湯冷めしてきた。秋世は一度、大きくくしゃみをした。

「南雲、南雲」

 裏返った声に振り返った。周囲の男子連中はみな多かれ少なかれ、声変わりの時期だった。元の声がボーイソプラノタイプの奴ほど、その違和感がでかかった。すぐ後ろに、上下ジャージ姿、秋世の喉あたりまでしか背のない男子が立っていた。真ん丸い目ととんがらせた唇。まだ幼さが残っているのは、こいつが「クラスの赤ちゃん」と以前呼ばれていた水口要だからだろうか。

「なんだ? すい、どうした?」

 わやわやする気持ちを一呼吸して押えた後、秋世は穏やかな規律委員の顔に整えた。学校社会を生きていく以上、この表情も必要だ。

「ねーさん、今、先生の部屋にいるよ」

「はあ?」

 自分の気付かないうちにさっさと風呂からあがってしまったというわけだろうか。

 気づかなかった自分に舌打ちした。なによりも、お子様水口に教えられるというのが、なんとなく、いやだった。

「悪いな、どうも」

 ご機嫌よく返事をしたつもりだったが、水口は動かない。ずっと秋世の顔を見据えるようにして、

「外、変な車が留まってるんだ」

「留まってる?」

 鸚鵡返しで返事をする。

「日の丸がでっかく書かれてるんだ。黒い、ほら、窓に網のかかった車」

 なんだそれは。秋世には全く意味が理解できなかった。水口が何かを懸命に伝えようとしているのはわかるのだが、それ以上に「ねーさん」と「日の丸」の繋がりが見えてこない。

「その車に乗った奴が先生の部屋に入ってさ、その後でねーさんが呼ばれてた」

「つまりなにか? 彰子さんと関係あるんだな?」

 そう言ってくれればいくらでも話を聞くのに。なぜかむしょうに水口に対して苛立ちが泡立つ。

「だから呼んだんだよ。ちょっと来いよ」

 この修学旅行期間中、ひたすら「ねーさん、せーりってなーんだ!」とか言ってクラスの女子を辛かったりエロ写真みてそのパーツに関する用語をでかい声で発音していた奴とは思えない、真面目な顔だった。

 ──一応、こいつ、学年トップだもんな。

 とにかく穏やかに話を聞こうと心に決め、秋世は水口の肩に手を置いた。


「あのさ、ねーさんがさ」

 声変わりが中途半端とはいえ、それなりに男っぽくひげも生えてきているのは、こいつが男になりつつ証なのだろう。彰子も話していたものだ。

「すいくん、最近どんどん大人になっちゃって、お姉さんは寂しいなあ」

とか言って。

「要領よく話せよ。学年トップだろお前」

 言葉が冷たくなりそうなのは、やっぱり自分の奥のシグナルがちかちかしているからだろうか。

「俺、さっき部屋の前通ってきたんだけどさ、そしたらすっごい言い合いしてるのが聞こえたんだ」

「言い合いって誰がだ? すっごい言い合いってことは、彰子さんじゃあないんだな」

「そうだよ、もちろんそうだよ」

 話の繋がりから考えると、「日の丸の車」から降りてきた奴らのことだろう。

「相手は菱本先生と、すっごい言い合いか?」

「そんなの少し考えればわかるよなあ」

 思いっきり頭をはたいてやろうと思ったが飲み込んだ。

「とにかく話せ、それでどうした」

「そしたらさ、菱本先生がさ『ご家族の了解がないと』かなんとか言い返して、相手が『どうすれば信用してもらえるんだ』とか言って」

 ますますよくわからなかった。

 水口の言い方にかなり問題があるとは思う。こいつには学年トップの明晰頭脳がきちんと頭蓋骨の中に収まっているはずなのだが、どうも日常生活能力に疑問付がつく。中学二年まで寝小便が直らなかったとか、つい最近まで女子に対してべったりあまったれたりとか、とにかく思春期の男子としてこれは問題なんではないか?と言いたくなるような奴だった。

 なによりも彰子を「ねーさん」というより「母親」扱いするのはどうかと思う。

 秋世なりに彰子にも「ちょっと、ありゃあすいくんを甘やかしすぎだよ」と助言したりもしていた。かえって最近の親離れならぬ「彰子離れ」には、秋世としてもほっとするところもあった。

 しかし、今の表情は、見慣れた水口のものではない。

 こんなに変化するもんかよ、と思うほどに。

 圧倒されている自分にまた、ちくちく刺さるものを感じつつ、秋世は頷き返し話を聞いた。

「廊下に響くくらいでかい声で話してるから、全部聞こえたんだけどさ。なんか、ねーさんのおやじさんが、倒れたらしくって」

「倒れたあ?」

 思わずどすの利いた声で返事してしまった。自分らしくない。彰子の父さんといえば、小枝タイプの細いおじさんで、秋世に対してもいつも優しく接してくれる人だった。後日、その人がライバル・夏木たちの中学担任教師でかつ、非常に面倒見のいい先生だと聞いたが、素直にそれは頷けた。彰子は気持ちを父さん母さんのミックスで、体格だけは母さん……病院勤務の眼科医で、ピンクフリルが一杯のドレスに身を纏った明るいおばさんだ……に似たのだろうとだけ、思っていた。

 ただ、夏木を巡るいろいろな事情がからんで、彰子の父さんがかなりしんどいことになってしまった。この事件については秋世も詳しいことを教えてもらっていないが、教育に関する思想の問題やPTAの抗議なども混じって、一年経った今でも問題は片付いていない。秋世が彰子の父さんと顔を合わせる時にはその心労など全く感じることなく、脳天気に「いつもありがとう」と声をかけてもらったりする。時折、秋世の両親とも連絡を取り合っているらしいが、やばいことは一つもしていないので怖がることはひとつもない。このままお医者さんのお婿さんとしてもぐりこむのもひとつの方法か、と最近は思っていた。

「倒れたって、病気かよ」

「病気でなくちゃ、倒れたって言わないだろ」

 秋世なりに必死に言葉のピースを組み合わせてみる。

「そりゃあそうだけどさ、それで彰子さんはなんて言ってるんだ?」

「そんなの聞けるようだったら、南雲なんて呼ばないよ」

 だからなんでそうかっときそうなことをこいつは言うのだろう?

 怒りっぽい性格ではないと自覚はしているのだが、なぜか水口の言葉にはいらいらが募ってしまう。

「だから、お前なら知ってるかって思ったんだよ。なんか話からすると、ねーさん、早く帰らないとなんないのに、帰れないみたいで」

「ちょっと待った!」

 やっと頭の中がざくっと割れた。

「すい、お前なんて言った? 『早く帰らないと』って言ったよな!」

「うん」

 力の抜けそうな返事だ。こういうことをもっと早くしゃべろと秋世は言いたい。

「つまりなにか。彰子さん、修学旅行やめて帰るのかよ!」

 冗談じゃない。なんのための三日間だったんだ。かちわられた頭の中は、きっと海辺の砂浜ですいか割りされた時のように、ぐっちゃぐちゃになっているに違いない。

 悔しくも水口の表情は暗いながらも自信に満ちている。秋世の顔に何が浮かんでいるのか、きっと読み取っているに違いない。かくしてもかくしても、どうしようもないものを。

「だってそうだろ? 心臓が悪くなったんだったらすぐに戻らないとまずいよ。集中治療室に入っているらしいんだよ。うちだってそうだけどさ、集中治療室に入ったら家族呼ばれてずっと、待合室で寝てるんだよ。毛布に包まって床でずらっと並んでさ」

 さすが水口病院の跡取息子だけある。悔しくも秋世は医療知識も病院の実情も全くわからない。

「だから早くうちに帰さないと、おやじさんが死んじゃう……」

「黙れぼけが!」

 完全に自分の声が裏返った。思いっきりぼっこりと頭を殴ってやった。まずい、学校の校則では一応、暴力行為はご法度だ。守られていないことを前提としている規律委員長としては、校則破りに抵抗なんてありゃしない。

「とにかく、今、話し合いしてるんだな! まだ」

「さっき聞いてきたんだから当たり前だよ。痛いなあ、だから南雲はばかなんだよ。暴力的だなあ」

「お前のようにエロ言葉を絶叫している馬鹿野郎よりはずっとましだ!」

 浴衣が汗ばんできているのがわかる。手の中がべたついてきているのがわかる。

「貴重な情報確かに受け取った。それは感謝する。お前、言うなよ、余計なこというんじゃないぞ」

「それは、南雲に言いたいことだよ」

 秋世を完全に見くびっているとしか思えない言葉に、思わずもう一発鉄拳をお見舞いしたくなってしまったが、それは必死に押えた。最初の一発はしゃれですむけれど、二発目は暴力になりかねない。自分でもこのもやついた気持ちを、水口相手に押える自信がない。

 後ろについてくる水口を追っ払いたい。早足で廊下を歩いた。しつこくも水口も、しっかり走って秋世を追っかけてくる。すれ違う女子たちが「南雲くんだよ、ほら」と囁くのが、ただの騒音にしか聞こえなかった。


 男性教師の泊る部屋は、男子の部屋沿い一番奥だった。

 しつこくくっついてきた水口に、確認がてら指を指すと、奴はこっくり頷いた。やっぱりくそ真面目な顔は変わっちゃいない。

「声、聞こえないな。終わったのかあ」

「聞こえるよ、南雲本当に心配してるのかな」

 ぐっと喉元の罵倒文句を飲み込む。耳を済ませると、決して罵り声ではないにしても、真剣に話をしている様子がうかがえた。ひそひそ、ふわふわと、言葉の意味が聞き取れないながらも話はしている、といった風の空気が、ドア越しに伝わってきた。

 後ろにしっかりと水口がくっついている。

 完全に封印された状態だ。

 ──あいつに抜け駆けされてたまるかよ。

 夏木も、水口も、すべてに。

 

  秋世はドアを開いた。学校用の明るい笑顔を用意して、トーン高く呼びかけた。

「すいませーん、先生。規律委員会のことでちょいと相談あるんだけどいいっすか」

 んなもの、なんてない。

 すぐにでっち上げることくらい、なれている。

 ノックを義務で二回した後、秋世がスリッパを脱いで引き戸を引いた時、そこには確かに彰子がいた。少し目のあたりが黒ずんでいたけれどいつも通りという気がした。目の前には菱本先生が膝を握り締めるようにしてこっちを見ていた。そして四つの眼が、いきなり秋世を見上げた。

「お前かよ……」

 真っ黒い背広姿の、眼光鋭い五十くらいの男性がひとり。

 その隣にいるのは、確かに修学旅行前さしで話をした、あいつの姿だった。学生服に白線を入れた独特の格好が和室の中では、妙な迫力を示していた。


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