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第二部 29


──もう一度、ばあちゃんに会って話がしたいんだ、俺は。



 学校へ出発する前に、秋世は仏壇の前に正座し、合掌した。

 父はすでに事務所へ出かけていたが、母だけが食卓の片付けをしている様子だった。

 朝食を要求する以外何も話すことはなかった。

 秋世と祖母との対話を邪魔するものは誰もいなかった。


 ──ばあちゃん、俺のために、全部悪いことかくしてくれたって本当なのかなあ。

 ──信じろってみんな言うけどさ。俺全然覚えてねえしさ。ばあちゃん、みんな知ってるんだろ、俺が本当は何をしでかしたのかってさ。


 まぶたを閉じて、秋世はうす赤い視界から祖母との思い出を蘇らせた。

 まだ入院生活が長かった頃、ひとりでベッドにねんねしたまま、TVアニメに出てくる超合金ロボットをだっこして遊んでいたこと。

「秋世が元気になったら、もっといっぱい買ってあげるからね。ちゃんとお薬と検査がんばって、身体げんきげんきにしようねえ」

 ある時は、「秋世が元気になったら、おばあちゃんと一緒に世界一周しようねえ」とか。

 枕もとで何度もささやいてくれた祖母の言葉が、じわじわと浮かび消えていく。

 ずっと忘れていたことばかり、線香の匂いに引き出されるように、湧いてくる。


 ──もう二度と、ばあちゃんは戻ってこないんだよな。ならもう二度と、本当のことなんてわからないんだ。俺には。


 妙子さんや教授が話したことが本当のことなのか、昭代の精神状態を不安定にした張本人が自分なのか、どうしてもひっかかりを見つけることができないままだった。結果として昭代は、妙子さんたちに家族として迎えられたのだから、祖母に厭われたままこの家で育つよりも幸せだったのかもしれない。昭代をとことん嫌悪していた祖母や、えげつないいじめをしたらしい兄貴の自分と一つ屋根の下過ごすよりは、まだましだろう。


 ──ばあちゃん、なんでさっさと死んじゃったんだよ。


 しばらく遺影を見上げていた。秋世の中学入学式時に撮影したカラー写真だった。

 いわゆる葬式用の写真といえば、白黒で喪服をしっかりまとった、下手したら指名手配写真に近い表情のものと相場が決まっているはずなのに、なんとなく写真だけが浮き上がっているようだった。まだ祖母は生きている、少なくとも幽霊としてその辺に座っているような気がした。祖母の霊ならちっとも怖くない。むしろ、早くお盆になって、たくさんのお化けたちと一緒に遊びに来てほしいくらいだった。

「秋世、そろそろ行かなくていいの?」

 母の遠慮がちな声が飛んだ。

 ──もう朝早く行く必要ねえよ。

 彰子を迎えに行く必要はなくなったのだから、飛び出さなくてもいい。

 夏木との話し合いでは「彰子を守る場所は青大附中」のみなのだから。

 

 母と顔を合わせているのもうんざりなので、時間に追い立てられるような振りをして秋世は家を出た。それほど青大附中から遠い場所ではないので、のんびり歩いて大丈夫だ。委員会やら部活動やら、準備で忙しい連中が自転車で脇を通り過ぎていく。知り合いには愛想よく手を振ったりしていくうちに、また声をかけられた。振り返らなくても水菜さんだとすぐにわかった。

「南雲くん、おはよ!」

「朝もはよから、ご苦労さんです。あれ、水菜さんって部活やってたっけ?」

 水菜さんは自転車から降りると、秋世に並んで歩き出した。他の女子たちがちらと秋世たちを眺めてひそひそやっているのが見える。またあとで面倒なことになりそうだが、まあいいかと流しておいた。高校生の雰囲気はどことなくなまめかしい。

「バトン部はねえ、体育系だから厳しいのよ。そろそろ秋の新人戦も始まるしね。応援たいへんなんだ」

「で、柔道部の彼氏にも応援しちゃうってわけっすか」

 軽くつっこんでみた。いつもながら凹凸のはっきりした身体つきだとチェックしている自分がいた。もし街で出会っていたら、あっさりホテルへお付き合いしているタイプかもしれない。そんな眼で見ている自分に一瞬恥じた。

「それにしても、南雲くん、最近元気ないってもっぱらの噂だけど」

「やっぱわかりますか。悩めるお年頃なもんで」

 喪中だとごまかすつもりだったけれど、なぜか水菜さんはにっこりと、

「そろそろ、高校の進学時期だもんね。南雲くんはやはり、青大附高へエスカレーターでしょう?」

「もちろん、受験しなおしてどこが拾ってくれますって。面倒なの俺、やだし」

 ほっとして笑顔を貼り付けた。しめっぽい話はやっぱり、朝っぱらからいやだ。

「そうかあ、じゃあ、来年一年は学校一緒なわけなんだね。私もあと一年はお世話になるわけだし」

 ふと思い立ち、秋世は付け足した。

「あのー、もしよかったらなんだけど、これからもいろいろと先輩として、相談に乗ってもらってほしいんだけどなあ」

「あらら、ずいぶん弱気ね、どうしたのよ」

 顔では笑っているけど水菜さん、声が上ずっている。このあたりの理由を問い詰めたいけれども、あえて何も言わず。

「俺も人生、いろいろ悩めるお年頃なんですよねえ。ぜひ、先輩としてご教授賜りたいなあ」

 重たくならないようにおどけて返してみた。その辺を読んでくれたのかどうかはわからないけれども、水菜さんはブレーキにかけた親指をつんと立ててみせた。

「それにしても、どういう風の吹き回し?」

「いやなんとなく、ほら、今日みたいな感じで、帰り道とかどうですか?」

 笑顔で流した。

 シーソーみたいにあがったりさがったりしているバランスが、水菜さんと話すことでうまく取ることができたような気がした。


 三年D組の教室に入ると、珍しく東堂が机の上に腰掛けていた。こいつの自宅も学校からそれほど離れていない。自宅との距離と遅刻ぎりぎり率は反比例するもので、東堂もいつもだったら鐘の鳴るすれすれに飛び込んでくる奴だった。

「よお、東堂大先生! 早いっすねえ」

「相変わらずハイテンションだなお前」

 閉まったままの窓ガラスを一気に開け放った。教室の中よりはひんやりした風が流れ込んできた。少し頬に落ちる日光がまぶしくて目を細めた。

 この前彰子と激しくやりあったことについて、まだ東堂とは話をしていなかった。東堂からしたら、彰子は保健委員の相棒だし、あまりトラブルを起こしたくはないだろう。しかも秋世の「恋人」であるならば、あえて触れないようにするかもしれない。もう「恋人」ではないという意識の変化を説明するのは、秋世も面倒くさかった。ただ、隠し立てするのはもっとしたくないことだったし、一通り事実だけ伝えておいた方がいいだろうか。

「東堂、そういや、あの彼女、どうしてる?」

「ああ、相変わらず。それと、どうも」

 よく話が繋がらない返事が返ってきた。なにが「どうも」なのだ?

 秋世は窓辺のレール上に昇って、足をぶらつかせた。 

 東堂は鬼瓦みたいな顔でにらんだ後、いきなり破顔一笑、ピースサインをしてみせた。

 こういう奴ではない。わざとおどけてみせるような奴ではない。なにかがあったはずだ。

「おいおい、どうしたんだよ」

「実はさ、お前のハニーにさ、今夜の七夕誘われちゃってさ」

「はあ?」

 ハニーという言葉の違和感に苦笑しつつも秋世は相槌を打った。

「おっといだったか、奈良岡ねーさんから電話がかかってきてなあ。七夕の夜、晴れたら仲間内で花火大会やるから、あいつを連れてきなってな」

「あいつって、お前のハニー?」

「付き合ってもいねえのに、なあ」

 それでも鼻の下を伸ばしているところみると、かなり嬉しくはあるのだろう。おめでたい奴である。拍手してやった。

「水口も来るし、ねーさんの小学校時代の友だちも来るし。うちのクラスの女子はみんな用事があるから来ないとは言ってたけどなあ。けど、男女比はちゃんと半々だし、ねーさんのかーさんがしっかりと監督してくれるから親たちにも安心ってわけだ」

「ふうん、俺は行く気ねえけど」

 秋世はわざと何気なく伝えた。

「それは意外。なんでだ?」

「まあいろいろと」

 少し間を置いてから、事実関係だけ教えておけばいいだろう。秋世はあえてごまかした。気づいているのかいないのか、東堂はひとりでしゃべり続けていた。

「ねーさん言うには、女子のまっとうな友だちがあいつには少ないから、ここいらで少し仲良しを増やしてやったほうがいいんじゃないかってことなんだ。正直だよなあ、ねーさん。ほんとはクラスの女子たち集めてあいつをめんこがってやろうってことだったらしいけど、そんなことされちゃあ迷惑だって誰かさんに意見されたらしくて、素直に反省したんだと」

「誰かさん、ねえ」

 当てこすられているのかどうかもわからない。

「その、どこの誰かさんには感謝感謝。まずは男としての面子が立ったってことよ」

 東堂は一人でしゃべり続けた後、時計に目を走らせた。

「そろそろ誰か来るよな、あ、そうだ。奈良岡ねーさん言うにはな、今夜の花火大会、飛び入り参加も大歓迎なんだとさ。じゃあとりあえずそんなとこで」

 入れ違いに立村が入ってきたのを確認すると、東堂はもう一度ピースサインを送って教室から出て行こうとした。

「ちょっと待てよ」

 秋世は飛び降りた。東堂に近づいた。ちょうど立村も困り顔のまま立ち尽くしていた。タイミングが悪かったのだろう。でも言わずにはいられない。

「東堂、それ、お前本気で行きたいの?」

「行きたいもなにもOKしちまったから」

「当然、断る権利だってお前にあるんだぞ」

「あるったって」

 そうか、東堂はまだ知らないのだ。秋世が彰子にすっかり冷めてしまったことを。付け足すべきかどうか迷った。まだ教えるべきではないと心の中で判断した立村が側にいるだけだしどうするべきか。秋世は首を振って余計な思惟を断ち切った。

「あのさ、東堂。お前そういう風に押し付けがましくされるの、ほんとは好きじゃあねえだろ。惚れてる子にくっつくのは好きだけど、同級生なんかに余計なお世話されるのって、はっきり言ってやだろ? 二年来の長いお付き合い、そんなことも気づかないほど俺おばかだと思ってたか?」

 完全に凍り付いている立村に、秋世は付け加えた。

「りっちゃんもそう思うだろ?」

 驚き顔で東堂が立村を見下ろした。申し訳なさげにうつむく立村に、秋世は畳み掛けた。

「りっちゃんが一番わかってるはずだよな、善意の押し付けってほんと、ぶっころしてやりたくなるくらいだって。無理やり感謝しろなんて言われても、とってもだけどんなことできねえよな」

 すうっと立村が顔を挙げた。東堂へ向かいゆっくりと頷いた。

「東堂、お前、もしかして彰子さんが俺の彼女だったから、気使ってくれてるんだったらそんな心配無用だぞ。野郎同士なに遠慮することあるかよ。向こうがいいことって思っても、俺たちにははた迷惑だってこともあるんだ。きっぱり断っちまえよ」

 状況を飲み込めずに数回目をぱちくりさせつつ、立村が秋世と東堂を交互に見やった。


 かすかに外から生徒たちの通り過ぎるしゃべり声が聞こえてきた。三人の沈黙が続く中、先に口を切ったのは東堂だった。

「南雲、サンキュ。麗しき友情をありがとよ」

 かすかに笑顔を浮かべた後、立村にも視線を投げ、

「別に俺は、ねーさんのすることが善意の押し付けとは思わないけどなあ。ただ、できたら俺と向こうだけってのは勘弁してほしいってのが本音だな。ねーさんはすげえ気遣いの人だし、きっとあいつにもよくしてくれると思うけど、なにせまだ、不良化の兆しプリントそのまんまの顔してるだろ? かえってあいつがいじけちまうような気がしてさ。俺がべったりしてても絶対嫌がるしな。だから、もしよかったら誰かかしらうちの学校の連中とつるんでほしいなってのが本音だったわけ」

「つまり、意図するところは?」

 立村が投げかける。待ってましたとばかりに東堂がにやっと笑う。

「南雲、お前、飛び入り参加してくれねえかな?」


 合点がいった。東堂は本音を言えば、例の彼女のために、断りたかったというわけだ。

 そりゃあそうだろう。秋世も奴の立場だとしたらそうしたに違いない。

 すでにラブホテル近くの喫茶店で客待ちするような子だ。彰子の友だちがどんなにいい子ぞろいであっても、かもし出す空気が違うのはどうしようもないだろう。いきなりなじめるかどうかは未知数だろう。それを考えて彰子は誘ったのだろうか? 単純に「私の友だちはみないい子ばかりだから大丈夫!」と判断したのだろうか?

 ──なんもわかってないんだ。あの人は。

 そんな中でひとり孤独感を感じ、自分が救い様のない出来そこないなのだと感じる時、その惨めさまで彰子がフォローできるとは思えない。いくら彼氏未満の東堂がいるとはいえ。

 ──俺に何ができるんだろうな。

 廊下のざわめきが増えてくる気配あり。すぐに決断した。

「わかった、俺も一緒に付き合うわ」

 東堂が秋世の片手を取り、さりげなく握手してきた。軽く握り返した。


 席に戻ると一気にクラスの連中がなだれ込んできた。明るく「おはよう!」の繰り返しに、秋世は適当に答えていた。立村の隣にさっさと座り、朝学習のプリントをざっと眺めた。今日は国語の書き取りだった。まあまあ、なんとかなるかなって感じの四字熟語だった。

 遠慮深くシャープで答えを書き込んでいる立村に、秋世はもう一声かけなくちゃという気分になった。もともと人の心に敏感な立村のことだ、先日のバトル現場に立ち会った段階で、秋世の本心には気がついているだろう。その辺秋世も確信ずみだった。それを繰り返したいのではない。もっと別のことを伝えたかった。


「りっちゃん、今後の規律委員会の方針を今、ちらと考えていたところでさ」

 他の連中に気づかれないように、会話の中身を選んだ。立村が顔をあげた。真っ白い顔で秋世を見つめた。

「委員会か?」

「そ。俺としてはこれから、できるだけ、『善意という名でおせっかい』をなくしたいって思ってるわけなのよ。俺もいままでりっちゃんにさんざん、『小さな親切大きなお世話』ってことやらかしてきたけど、やっぱ、それって、辛いよな」

「いや、なぐちゃんがそんなこと」

 唇に指を当てて黙らせた。

「俺、ずっと『いい人』でいたかったからさ、そうしてきたけど、人によってそれって大迷惑になるってことも最近自覚したんだよね。俺も気、つけるけど、さっきの東堂先生のようなことがまた起こったら、その時は南雲規律委員長として、それなりの処置を取ろうと思ってるんだ。もし、女子がらみでりっちゃんが迷惑こうむったことがあったら、即、規律委員会へちくってくれよな」

「なぐちゃん、お前」

 言葉をとぎらせ、掬い取るようなまなざしで秋世を見据える。

「それと、たぶんりっちゃんは勘付いていると思うけど、しばらく内緒にしてくれると嬉しいなあ。俺もまだ、これからどうするか、まだ決めかねてるんだ」

 立村はそれ以上尋ねることもなく、静かに頷いた。

「感謝するよ」

 言い残し、再び朝自習プリントめがけてうつ伏した。

 

「あきよくん、おはよう!」

 いつもの元気なごあいさつ、一緒に腰ぎんちゃくの水口もくっついてきた。

「あれれ、今日もおふたりですか?」

 さりげなく探りを入れてみた。以前だったら水口がべったりくっついてうろついているのを見て、かっとなっていた自分なのに今は穏やかに眺めていられる。旅行前・旅行後、自分に起こった心境の変化に戸惑った。昨日の今日でまだ目が三角な水口はさっさと自分の席に戻ってしまった。果たして夏木との対話について報告しているんだろうか。

 相変わらず汗の匂いが漂う、脂ぎった顔の彰子。

 夏木の最愛の女子。

 ──約束したんだからな、俺は。

 今まで使ってきた仮面をさっと被りなおし、秋世は聞き返した。

「水口と勉強会でもしてたんだ?」

「うん、そうだよ、すいくんナッキーと仲良くなってね。それで私とすいくんが同じ高校目指してるんだって話、しててね。それ以来毎朝勉強するようにしてるんだ。すいくんいろいろ教えてくれるから、だんだん私も頭が良くなってきたような気がするなあ」

 ──そうですか、そうか。

 彰子が青大附高ではない別の学校へ進学を希望していることを、すでに知っているという前提のもと、話題に出してきているんだろう。秋世は穏やかに受けた。自然と、波打つものも全くなく、さらりと流せた。

「そっかあ、彰子さん別の学校に行っちゃうんだ」

「まだ合格圏内に入っているかどうかわからないから、これから準備なんだけどね」

「彰子さん、そうなると、青潟から出ちゃうわけ?」

 かつての自分だったら気がおかしくなりそうだった質問なのに。

「うん、寄宿生って形になるかな」

「そうかあ、行っちゃうんだ」

 淋しいな、俺。そう以前だったら言えたのに、今は、

 ──夏木が泣くのも無理はないよな。わかる、わかる。

 目の前の彰子よりも、白線ガクラン男の夏木へ思いが飛んでゆく。

「そうそう、ご心配かけたけどね、東堂くんにはちゃんと話をしたからね。あきよくんの意見も一緒に話して、それで一番いい方法として考えたんだけどね」

 先に東堂が話したことを、彰子は繰り返した。

 東堂の彼女をお招きして行う七夕会。

 秋世はふんふんと聞きながら、もう一度彰子を見上げた。何も疑いのない、正しいことをしている、当然のこと、喜んでくれると信じきっている視線。かつてはこの瞳がいとおしかった。触れたくなるようなあんまんほっぺも、やわらかそうな身体も。おそらく街角ですれ違っても振り返ることはないだろう。

「あきよくんは用事があるって言ってたから、無理にとはいえないけど、もし少し余裕があれば来てくれるとうれしいな。だって東堂くん、うちに遊びにくるの初めてだし、今回集まるのすいくんとナッキーたちと、小学校の時の友だちがほとんどだからね。どうかなあ」

 秋世はこっくり頷いた。こういう時は、素直に流すのが一番だ。

「じゃあ、もしも、空いてたら、行くよ。お誘いサンキュ!」

 東堂には行く約束をしたけれども、今のところは内緒にしておきたかった。


 期末試験結果の悲惨さに頭を抱えたりしているうちに、ようやく終業の鐘が鳴った。

「東堂、お前ら先に行ってろ。俺もあとで行くからさ」

 秋世は東堂にちらと声をかけると、ひとり教室から出て行った。まずは着替えをしないとまずいので、家にダッシュで戻った。別の目的もある。もう一度、居間の引き出しをひっくり返して、健康保険証を掘り出す作業が待っている。気にしなくてもいいのかもしれないけれども、本条先輩に「お前、肝心なもの切られたらどうすんだ!」どやされたらやっぱり心配だ。前回はへましでかしたが、今日ならば。たぶん両親も教授も戻ってこないだろう。


 靴を脱ぎ捨て、秋世は素早く真新しいレモン色のTシャツとデニムシャツを羽織った。面倒なのでいつものジーンズにしただけ。アクセサリーはつけなかった。

 ──東堂がどういうかっこしてくるか、見物だな。

 街に繰り出すわけでもないのだから、ジャージでもかまわないのだが。ちらっと想像してひとりで受けて笑った。まずは今のうちにすべきことをせねばならない。居間に降りてすぐ、先日あけなかった引出しをひっくり返し続けた。ない、ない、ない。思いついて仏壇の引き出しも……まあ、まさかろうそくの並んでいる中に挟まっているとも思えないが……開けて見ることにした。線香くさい匂いの中、祖母の遺影がしっかと飾ってあるのを見上げ、

 ──ばあちゃん、悪いけど、どこにあるかなあ。 

 ひとつ念じようとした。


 ──おい、あれなんだよ!


 秋世は絶句した。ろうそくパックの入った引出しを閉めるのも忘れた。

 今朝まで笑顔のカラー写真で秋世を見下ろしていた祖母が、真っ黒い白黒写真に化けていた。すぐにでも「あらあら、秋世、あんたって全く悪いことしちゃだめだよ、困ったねえ」と話し掛けてくれそうな写真が、消えていた。

 空気がぴちぴちと身体を締め付けてきた。中学入学式の、笑顔でいっぱいだった祖母がいない。かかっているのは陰気な表情の喪服姿でいる、一応は祖母の顔だった。

 空気が身体をぴちぴちと締め付けるようだった。窓から流れるやわらかい風の音がしゅうしゅうと聞こえた。幽霊もいつけそうにない、全く何も生命体を感じない場所だった。時計の針が動く音だけだった。

 むしょうに全身が震えた。秋世は階段を駆け上がり、自分の部屋に隠しておいた祖母の小箱を引っ張り出した。ひっくり返した。なんでそんなことをしたかったのかもわからない。母と昭代が人型に切り抜かれた写真が入っていた。初めて目にした時、手が震えて取り落としたものばかりだった。あの時と同じ動揺が今の自分に来るだろうか? 秋世はじっと見据えた。じんじんと心臓を糸のこぎりでこすられるようないずさを感じた。

 妙子さんから聞いたこと、教授が教えてくれたこと、両親の言葉、すべてを思い出した。


 ──ばあちゃんは、俺に絶対生きててほしかったんだ。

 ──だから、一瞬でも俺が死ぬって前提で昭代をつくった母さんを許せなかったんだ。

──だから、昭代のことも嫌いだったんだ。

 ──俺のことを絶対、命がけで守りたかったんだよな、ばあちゃん。


 無機質な部屋の空気が漂う。秋世は一枚一枚それをしまいこんだ。

 捨てることはできなかった。

 秋世を百パーセント信じてくれた祖母の気持ちが残っているから。

 ──ばあちゃん、ありがとう。俺のことを守ってくれて、ありがとう。

 合掌し、引き出しを閉じた。

 ──ばあちゃんのおかげで、俺、本当にいい奴でいられたよ。ありがとう。

 仏壇の前にもう一度座り込み、鐘を鳴らし、目を閉じ伝えた。ろうそくの灯を手で払い消し、立ち上がった。立ちくらみがして世界が一瞬白黒写真にはや代わりした。すぐに色は戻ってきた。

 ──これから先は、俺がやらかしたこと全部、自分で責任取るからさ。もう心配すんなよ。

 どう責任を取ればいいのか、それはこれから考えよう。


 秋世は外へ出た。結局、保険証は見つからなかった。まさか父の会計事務所内に保管されているなんて言わないだろうか。どうにかして手に入れないとまずいだろう。一刻を争う病気でないのが救いだし、もう少しいい方法を考えることにした。

 ──しばらく、ああいうお遊びは控えないと病原菌増やすだけだしなあ。

 空を見上げた。いつか本条先輩と一緒にダンスパブへ出かけた時と似たような夕焼け空が広がっていた。今の時間だとそろそろ夕闇も落ちるころだろう。彰子の家にたどり着くころにはきっと、真っ暗だろう。

 ──きっと、彰子さんってばあちゃんのタイプだったからかもしれないな。

 橙色に染まった空を見上げた。一年前は彰子のふっくらあんまん顔を思い浮かべて歩いた道だった。今はたくさんの男女問わず数限りない顔が浮かぶ空に変わった。

 今の秋世ならば、水菜さんと先輩後輩のお付き合いをしなおすこともできるし、告白してきた女子たちの顔もたぶん見分けることができる。好き嫌いはともかくとして、すべてが彰子一色に染まることはないだろう。また水口と仲良く図書館で受験勉強する彰子を覗き見て噛み付きたくなるほどの嫉妬にとらわれることもなくなるだろう。心やさしい天真爛漫な女子だけど、友だち以上の感情を持つとはもう考えられなかった。一気にモノクロ写真に変わった祖母の遺影と一緒に、彰子から色が抜けていくのを秋世は押さえようとしなかった。

 そしてかつての自分が、彰子のように、「いい人」の仮面でもって傷つけてきたことを、改めて見据えたかった。今自分が彰子に対して感じている不快感を、きっと秋世は昭代や妙子さん、瑞希おばさんに感じさせてきたのだろう。秋世を「いい人」として守るため祖母が命を張ってきたために、とばっちりを食った昭代たち。彼女らが秋世を憎むのも、それはしかたのないことに思えた。

 ──だから、責任を取るんだ。

 昭代の戸籍問題については自分でもどう対処していいのか正直わからないし、大人にすべて任せておくしかない。ただ、昭代が望んでいないのだったら秋世はこれ以上、かかわる気はなかった。

 ただ、自分が今まで、「善意」でもって傷つけてきた人たちに謝って、彼ら彼女らを守ることはできるはずだ。たとえば立村のような奴とか、東堂の彼女とか。たくさんの秋世と彰子によって心を切り裂かれた人たちを、どうすれば楽に呼吸させてあげられるのだろうか。そのために、規律委員長として自分は、何ができるのだろうか。

 夏休みの宿題として、心に留めた。

 

 奈良岡家門前までたどり着いた。

 すでに夜の闇は完全に落ち、空にはらんらんと星が瞬いていた。織姫も彦星も、無事再会できそうなめでたい空だった。秋世は見上げた後、耳を済ませて東堂たちの気配を感じ取ろうとした。やっぱり気の合う奴がいてほしかった。

 ──あいつら、まだいないかなあ。

 一応、飛び入りも可とは聞いているけれども、彰子たちからしたら秋世は来るか来ないかわからない客だ。やはりためらうものがある。かすかに焼肉の匂いがする。たぶんバーベキューパーティーの真っ最中なんだろう。

 秋世は振り返った。夏木が立っていた。手にはスーパーの白いビニール袋をぶら下げていた。秋世を上から下までじっとなめまわした後で、

「なんだ」

 そっぽを向きたそうに、はす向かいで尋ねた。

「もう、七夕パーティー始まってるっすか、隊長」

「タレが足りないから買いに行ったんだ」

 なんだか間抜けな会話で、笑えてきた。こんなかっこうで買い物に喜んでいくなんて、男子、そうとう惚れた子相手でなければやらないだろう。かっこ悪いかもしれない、でも夏木は彰子のためならちっとも恥ずかしいと思わないのだろう。


 彰子は戦っているんだ、と夏木は言った。

 たぶん、そうなのだろう。

 懸命に「いい人」だと決め付けて、絶対に自分は悪い人になりたくないと努力している家族なのだろう。かつての自分だったらいとおしくも思い、応援したいとも感じただろう。

 でも、今の秋世にそれはできなかった。

 「いい人」でいるために、どのくらいの犠牲が払われているかを秋世はもう気づいてしまった。

 彰子は気づいているのだろうか。

 夏木が土下座して秋世に、ボディーガードを頼んだこともきっと知らないのだろう。

 他のファンクラブ連中が懸命に彰子をサポートしようとしていることも、表向きは気づいているのだろうが、本当のところを理解しているとは思えない。

 きっとかつての自分もそうだったに違いない。だから、恨まれ、憎まれた。

 闇を見ずに幸せ一杯に生きていってほしいと願う夏木の想いを、彰子はどのくらい理解しているのだろう。奈良岡一家がバッシングで戦っていることに同情するよりも、秋世は夏木たちファンクラブ会員たちの一途な想いに両手を合わせたかった。


「言っとくけど、俺、お前らのファンだから、覚えといてくれよな」

「るっせえ、さっさと入れ」

 背中をどんと押されて秋世は奈良岡邸の門をくぐった。焼肉の匂いが立ち込める庭の中、星が湯気でかすかにかすんでいた。後ろで真赤なふりふりエプロンをまとい走り回ってる彰子とその母の姿を見つけた。東堂カップルも地味に肉をつまんでいるのが見えた。水口ぼうやはなぜか、顔の四角い男子と二人で真剣に語り合っている。その他複数の男女が交じり合っていた。

「わあい! あきよくん、来てくれたんだね! よかった、ちょうど焼けたところなんだよ、みんなで仲良く食べようね。そうそう、ナッキー、どうもありがと、たれ高かったでしょう?」

 空は真っ暗闇だけど、庭の中の集団だけはてらてらした光に満ちていた。

 いきなり祖母の顔が夜空に浮かんだような気がした。家の中で完全モノクロームに染まった祖母の色が蘇ってくるようで胸が詰まった。修学旅行直後、セレモニーホールで締め付けられた痛みを感じた瞬間と同じ感覚だった。

 立ちすくんだまま、空を仰いだ。織姫さまと彦星さまに願いをかけた。

 ──もう一度、ばあちゃんに会って話がしたいんだ、俺は。


「あそこに東堂くんもいるんだ、早く食べようよ。食べたらみんなで花火やることになってるしね! あれ、あきよくん、目に煙入っちゃった? かゆい?」

 彰子が勘違いして秋世の顔を覗き見ようとした。煙で目がかゆくなっただけ、そうとも言える。でなかったらどうしてこんなに泣けてくるのか、言い訳ができない。

「彰子さん、ありがと。やべえなあ、かゆくてかゆくて、涙出まくり」

 秋世はそっと目をこすった。彰子の瞳をじっと見つめた。

 やわらかそうなまんまるほっぺたと、浮かぶ微笑みが懐かしく、どうしても目を逸らすことができなかった。


 

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