第二部 28
──本気を出した男への、本気の約束だ。
夏木が顔を上げると同時に、秋世は片ひざを着いた。
「あのさ、夏木」
言葉が続かない。
「なんで、そんな、するんだ?」
ガクランから強烈な汗の匂いが漂ってくる。太陽に似た夏木の頬から汗が流れていた。首を振った。
「俺じゃあ、やれねえ」
ぼそりと呟いた。
「俺じゃ、彰子たちを守れねえんだ」
「どうしてなんだよ」
純粋一途に彰子のことを想っている男は、現段階において秋世の知る限り、夏木しかいないだろう。こいつ以上の適任者はいないはず。
夏木は鼻を思い切りすすり上げ、秋世に「立て」といわんばかりにあごで前を差した。片手でしっしと追い払うしぐさをした。
再び秋世が立ち上がる。見下ろす形にどうしてもなってしまい、落ちつかない。
お代官様にお許しを請うポーズに見えるが、もちろんそういうせりふは夏木から出てこなかった。
「お前も知ってると思ってたから言わねかったけどな。去年の五月から今までずうっと、なら先生の家、近所の変人どもから嫌がらせされてるんだ」
「それは聞いたことある」
ほんとに、ちらっとだけ、彰子から。
「発端はみんな俺だけどな。俺がやらかした暴力沙汰がきっかけなのに、なぜか全然うちには手を出してこねえんだ。たぶん怖いんだろな。うちの父ちゃん団体にすごまれたら木っ端微塵だと思ってるんだろな。そのくせ、弱い方にはたかってくるってわけだ」
夏木の父は確か、右翼の活動家だと聞いている。日の丸の旗をつったてた黒い車。サングラスをかけた、かなりアウトローな雰囲気の男だった。
「庭に毛虫投げ込まれるわ、変な脅迫状送りつけられるわ、無言電話はするわ、ほんとお前らひまだよなって言うようなこと、平気でしてやがる。俺と時也、あとその他の連中集めてパトロール隊こしらえて片付けているんだけどな。全然やめる気配ねえよ」
唇をかむようにして、また続けた。
「なら先生も学校の中で、すげえ悪口言われてるみたいでさ。生徒じゃねえよ。先公同士でだぜ? よくわかんねえ団体まで動き出してな。うちの父ちゃんとこじゃねえ。けど、似たようなもんかな。けどそんなのどうでもいい。なら先生は学校で何かあるとつるし上げられ、悪口の書いたチラシをばら撒かれ、近所の伝言版に名指しで悪口かかれるんだ。知ってるか? 彰子のうち近くで放火あったの。すぐ消しとめたけど、ありゃあ絶対、狙ってたよなって巷じゃ評判だ」
「どうしてそんなことするんだか」
「俺をかばったからだ。簡単だろ。学校側でいろいろと思想のややこしい問題が被ってて、しかも俺は、右翼の息子だ。右でも左でも所詮うちの父ちゃんのことだろ? 息子の俺は直接関係ねえだろ? なら先生、俺をかばうはめになっちまってから、こんなことになっちまった」
「それで、倒れたのか」
心労が祟ってなのか? そう考える方が自然だ。夏木も頷いた。
「そういうことだ。心臓がすげえ悪くなってたけど、学校休めないってことでなら先生、ずっと無理してたんだって父ちゃんが言ってた。職員会議やらPTAやら、くだらないことあげつらってなら先生をいじめてたら、いきなり心臓押さえて苦しみ出したって言うんだ。すぐ彰子に知らせようってそりゃあなるだろ、いくら修学旅行でも」
確かに。
「なら先生、彰子がせっかく修学旅行楽しんでるんだから、そんなこと知らせるなって言ってたけどそんなわけいかねえよ。父ちゃんがたまたま手、空いてたからすぐ車出して船乗って向かったってわけだ。男として当然のことじゃねえか? 南雲」
「それは確かに」
「だろ。けど帰ってみたら、なら先生の手術が成功していて意識も回復してて、すぐに彰子を旅行へ帰すようにって。なら先生が命令したんだ。一生に一度の修学旅行なんだから、少しでもみんなと過ごせってな。どっちにせよなら先生死にかけてたんだ。なのに、平気で旅行したがる彰子じゃねえよ。最初はあいつだっていやがったけどさ。けどなら先生は絶対にそうしないとだめだって言い張って、かえって言うこと聞かないと今度はバイバス手術になるぞって脅かされて、仕方なく戻ったんだなら先生、いい人過ぎるんだよ」
──だからか。
彰子がなぜバスの中で待っていたのか? 謎が解けた。
「なら先生、あんなおっさん、いねえよ。彰子の父ちゃんだった時から知ってるけどさ。ほんと、俺のこと、変な眼で見ねえ大人って、そんないねえよ。なら先生だけだって。あんなにさ、うちの父ちゃんのことも差別しないでさ。ムショに父ちゃんが入っていた時も差し入れしてくれたりしてさ。そんな人がだぜ。なんでこんな嫌がらせされねばなんねえんだよ。父ちゃんだってすげえ悔しがってるってのによ」
言われた通り、彰子の父は穏やかな人だった。秋世に対してもやはりそうだった。
掛け値なしの「いい人」だった。
「あいつも、なら先生も、おばさんもいっつも言ってるさ」
夏木は彰子の口癖を繰り返した。
「世の中に悪い人なんていない。だから責めちゃいけないってさ」
一呼吸置き、また燃え上がりそうなまなざしで秋世を見上げた。ちりちりと焼かれそうだった。
「南雲、お前の言う通りだよ。この世の中は、ろくでもねえ連中のすみかだってこと、俺が知らねえわけ、ねえだろうが」
──世の中に悪い人なんていない。
彰子の言葉を思い出す。
重たい石が胃袋にどかんと納まった、そんな居心地の悪さがある。
「じゃあなんか? お前に嫌がらせしてる奴は彰子、ほんとにいい奴か? そう聞いたさ。けどあいつにとっては、自分の周りにいる人間が悪い奴だったら困るんだよ。絶対にいい人でなくちゃいけないんだよ!」
叫び声に近かった。夏木の言葉。
「あいつはいっつもそうだ。小学の頃だってさ、あいつのことをデブだとかとろいとか言って馬鹿にする女子は結構いたんだ。彰子はそんなの気にしねえでさ。知らん振りするんだよ。普通だったら一発ぶん殴ったりするだろ? それをしねえで、相手にも都合があるんだと決め付けたようなこと言いやがるんだ。こいつ少しばかじゃねえかって最初は思ったさ。お前のようにな。けど、違うんだよ」
秋世をじっと見据えた。
「彰子は、『いい人』だらけにすることで、戦ってるんだ。昔も今もずうっとだ」
──いい人だらけにすることで戦う?
言われた意味がよくわからない。
「だからな、俺は決めてるんだ。彰子がそう思いたいんだったら、どんなにとんでもない悪人ばっかだったとしても、俺の眼の届く範囲内では百パーセント天国にしてやるってな。それしか俺出来ねえんだよ」
「いや、だって俺、もうファンクラブ抜けたわけであって」
言葉をはさむと、かぶりつくようにさえぎられた。
「あのな、南雲、よく聞け」
また汗がたらりと一滴。
「俺は中学卒業したら、父ちゃんのいる会に入るんだ」
「会? なにそれ」
意味がわからず秋世も問い返すと、
「『君が代』がなりたてて、天皇陛下万歳ってやってればなんとかなるってさ。父ちゃんは反対してるけど、俺はもう決めてるんだ」
恐ろしいことを言う。秋世には右も左もよくわからない。それに「会」に入るということは、高校に進まないってことだろうか?
「それ、まだ未定だろう?」
「他の連中がなんと言おうが俺はやる。そんな奴がだ。彰子の側にいていいとお前、思うのか?」
真剣なのは伝わってくるのだが、なんだか間抜けに見えてくる夏木の顔を、秋世はまじまじと見つめた。
「今の俺は、まだ何にも思想なんたらに染まっていねえ、単なる中学坊主だ。だから彰子やなら先生たちと一緒に『いい奴』の顔して混じってられるってわけだ。彰子を青大附中へ迎えに行っても問題はない。けど、一度『会』に入っちまったらもう、世間一般では父ちゃんと同じ扱いをされるんだ。そんな奴が彰子の周りをうろついてみろ。さらに嫌がらせがエスカレートして、今度は家燃やされるかもしれねえぞ」
「俺はあまり思想のどうたらこうたらはわからないけどさあ、少なくとも俺はそういう差別意識もちたくないなって思うんだけど」
「売るせえ、黙って聞け! とにかく、これ以上俺は彰子に近づくことができねえんだ。守ってやることがもうできねえんだ!」
夏木は言葉を切って、鼻をすすった。
「卒業しちまってからならどうにでもなるさ。あのやぶ医者息子も、なんだかんだ言って彰子にベタぼれだ。俺がなら先生の事情をひとくさり説明したらな、すげえ納得して、本気で彰子を医者養成高校に進学させるよう手伝うって言いやがった。ま、今はまだまだちんまい奴だが、俺に弟子入りするって言い張ってるからこれからしごけばなんとかなる」
「すい、がかよ。弟子入り?」
「そうだ。ま、もしその学校に滑ったとしてもだ。青大附高に進んだ時のことを考えて、時也が行く。そうしたらお前もさっさと彰子から縁切ったっていい。あいつの方がお前よか、本気で彰子のこと考えてるからな」
秋世を皮肉っぽくにらんだ。
「けど、今の段階では、南雲、お前しか彰子を青大附中で守ってやれる奴はいねえんだ。水口はまだまだ使えねえし、俺は青大附中には手出せねえし。噂によると彰子にまだちょっかい出しているばか女子どもがいるって聞くぜ。きっと彰子は靴の中に画鋲を一箱詰め込まれても『いい人』だって思い込みたいんだろうな。そうなんだよ、あいつはそうやって、戦ってるんだよ。死ぬまであいつ、すべての人間を『いい人』だと決め付けるしか、できないんだ」
──戦ってる?
──逃げてるんじゃないのか?
問い掛けたかった。口の中で噛み砕いた。
──『いい人』って決め付けて、自分の都合がいいように解釈してるだけじゃないのか、夏木。
「お前が彰子にあれだけ熱を上げておきながら飽きたっていうんだったら、普通は顔の形が崩れるくらいぶん殴ってやるのが筋だ。だがな、俺もお前がなんで彰子に嫌気さしたのかはわからねえでもねえよ。俺もたまにぶちぎれる時あるけどな」
「嫌いになったわけじゃないけど」
夏木は聞こえないふりをしたようだった。
「ただの友だちだったら問題ないけどさあ」
「だったらそれでいい。それでいけ!」
両手で草をむしるようなポーズを取り、夏木は一度顔を下げ、そこから持ち上げるようなポーズを取った。どことなくへびに似ていた。
「あいつはお前のことをまだ友だちだと思ってるんだな。だったらそれに合わせろ。好きになれとは言わない。ただ嫌いな顔だけはしないでやってくれ。あいつが今、ぎりぎり壊れる寸前まできていることは俺も見ていてわかるんだけどな。彰子本人が全然平気の平左って顔をしてやがる。自分で自分がわかってねえんだよ。だから、今まで通り友だちって顔してやってくれよ、南雲。高校で縁切っちまってもいい。水口か時也か、どっちかが彰子を守ってくれる時まで、あと半年、頼む、今はお前だけなんだ」
秋世はそのまま夏木の顔を見下ろしていた。なんだか居心地が悪くて、ゆっくりとしゃがみこんだ。つま先で身体を支えるのもしんどくてひざをついた。夏木の眼にかすかな涙が浮かんでいるのを見つけ、そのぬめった光に見入った。
──夏木、お前だけだ。
彰子のことを隅から隅まで見尽くして、その上で守りたいと叫ぶ奴は。
かつては自分も、夏木よりも深く彰子を想っていたと信じていた。
でも本当は、小指の先ほども夏木に追いついていなかった。
許せない彰子の美徳。「世の中の人はみんないい人」、その言葉を受け止めてはっきり拒絶することができる奴なのに、それでもすべてをかなぐり捨てて彰子を守りたい、そうはっきり言い切ることができるのは、きっと夏木だけだ。
どうしてそこまで想えるのだろう?
秋世はもう一度夏木の汗まみれな顔を見つめた。
──こいつ、本気だ。嘘ついてない。
鋭い目つきも、汗まみれのガクランも、半ば泣きそうなその瞳も。
こいつには、嘘がない。
「わかった、夏木。引き受けた」
わざと気取った口調で秋世は答えた。息を止めたまま夏木は秋世を見返した。
「けどな、それは俺が彰子さんファンクラブに参加したいからじゃあないんだ」
嘘のない言葉を、秋世も発したかった。
「夏木、お前の男気に惚れたのさ」
「てめえざけんなよ!」
泣き顔っぽくゆがんだ表情には気づかない振りをした。
「いやほんと。だって俺、本気の奴には男女関係なく惚れちゃうのさ。あ、そっち系統じゃあないから安心してくだせえな」
もう一度両膝を着き直した。気色悪そうに夏木が視線を逸らし、舌打ちした。
「夏木の言う通り、彰子さんは俺を『ファンクラブの一員』としか観てねえよ。ほんとはそっちもさっさと抜けさせてもらうつもりだったけど、夏木がそこまで言うからには、俺もとことんお付き合いさせてもらいまっせ。今まで通りの友だちづきあいを続ければいいだけなら、そんなの簡単だ。夏木の、本気の、相手として。俺はとことん彰子さんを青大附中の毒牙から守らせていただきますぜ。卒業まではきっちりやります、安心しろよ」
しばらく夏木は口を半開きのまま秋世の言葉に聞き入っていた。
「南雲、いいのか」
頼みこんだのはそっちだろ、そう言いたいのを我慢して秋世は取っておきの笑顔で答えた。
「男に二言はない。俺は本当の意味で、彰子さんのガードマンになる」
お互い息を合わせたわけでもないのに、同時に立ち上がった。
「すまない。彰子を頼む」
夏木の言葉にもう一度秋世は大きく頷いた。
ロボットっぽい礼をして背を向けた夏木を秋世は見送った。
ひざについた青い汁を指先でつまみ、こすってみた。染みが抜けそうにない。きっと夏木のガクランがびしょびしょになったあの汗も、簡単には渇かないだろう。
小学校の頃、血判書をこしらえたことを思い出した。あの時は指の腹をつんと針で刺し、血をにじませて何かの約束事をつづり、拇印を押したはずだった。男同士の友情の証だった。
似たものが、確かに残っている。
──本気を出した男への、本気の約束だ。
決して、「世の中の人はみんないい人ばっかりよ」と白々しくのたまう女子のためではない。
惚れた女子を本気で守ろうとした男子への、畏敬の念だけだった。
──夏木の想い人を守るため、ならば。