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第二部 27


 ──とことん、悪い奴になればいいんだ。

 ──とことん、どぶくさい奴になればいいんだ。

 ──とことん、踏み潰されればいいんだ。

 ──それが本来の俺の姿なんだ。


 秋世と彰子とのいさかいは、想像していたよりも噂になっていなかった。

 もちろん秋世に熱を上げているらしい女子たちは、いろいろ好き勝手なことを話しているらしいが、今のところ特にアプローチしてくる気配はない。むしろ、もう一組のカップルが派手にやらかした言い合いの方で、巷の雀たちは盛り上がっているようだった。

「いやあ、立村も言う時は言うよなあ」

 B組評議委員の難波がホームズ気取りで腕組みしながら語るのを、秋世は聞いていた。

「なんせ評議委員会だったろ、すぐに。委員長の立村がいつまでたっても来ねえからさ、迎えにいったわけ。そしたらちょうど話し合いのフィニッシュだったらしくってさ。『他委員会の話に評議委員として口出しすることは、決してやってはいけないことだから、評議委員長命令として一切かかわるな』だとさ」

 ──評議委員長命令、か。

 あいつらしくない口ぶりだ。

「女子はとことん、勘違いしてるからそのくらいはっきり言えって俺も前から思っていたんだが、とうとう言うべきことを言い切ったってことで誉めてやっていいんじゃねえかと俺は思う。南雲、お前もそう思うだろ?」

 頷いた。難波の口調だと恐らく、秋世のやらかしたことも情報として流れているはずだ。

「清坂もかなりわめきちらしていたけどな、結局は『評議委員長命令』の一言でだんまりだ。立村もそれなりに気遣ってしゃべっていたけど、言うこときかないならこれもしょうがないんじゃねえか。人様のことに勝手に口出して、ろくでもないことになるよかましだよな」

 特段、それ以上秋世に問うこともなく、難波はB組の教室に戻っていった。


 隣の席の立村に軽く笑顔で声をかけた。

「りっちゃん、おはよう」

「ああ」

 言葉が少ない。あの後自分はひとりでボーリングに集中していたが、立村はひとりで清坂美里に立ち向かっていたわけだ。教室内の女子たちが冷たい視線をぶつけるのを、あえて無視するように朝自習プリントに集中していた。ちなみに今日は数学だ。

「お互い、いろいろたいへんっすね」

「まあな」

 そこへ下ネタ女王の古川こずえがひょっこり顔を出した。かばんを机の上にばたりと置いて、

「あんたもそうとうたまっていたんだねえ、立村」

 相変わらずの「朝の漫才」をしかけてきた。秋世がにやにやしつつ様子を窺うと、不機嫌極まりない立村は、

「悪かったな」

 いつものように返しただけだった。そこで退くような女王様ではない。席について、プリントをぺたりを広げると、

「言いたいことがあるのはわかるけどさ、何も思春期の性衝動と一緒にぶつけることは」

「古川さん何誤解してるんだよ」

「だってあんたの爆発振り、もう伝説となってるよ。A組もB組もC組も」

「そんな俺悪いことしてないし」

「美里の機嫌取る私の立場にもなってほしいよね。けどまあ、そのくらいはっきり言うのも悪くはないと思うよ。この機会に頭冷やしな。美里のありがたみがよっくわかるだろうしね。時間置いて、二人っきりのデートにでも誘ってやりなよ」

「余計なお世話だ」

 他の女子連中に比べると、古川の落ち着きぶりはずいぶん目立った。

「ずいぶん落ち着いてますねえ」

「それよか問題はあんたじゃないの。南雲」

 覚悟の上だ。秋世は頭を掻いた。

「ストレスがたまるとお互いたいへんですって」

「あんたは彰子ちゃんにあやまんな」

「そんな、いきなりなんですか」

 片耳で彰子の様子を聞き取ろうとした。相変わらず脳天気に笑ってやがる。さっき教室に入ってきた時も、「あきよくん、おはよ!」ときた。一応片手を挙げたけど、笑顔は振り向けられなかった。どう思われようが知ったことか。

 古川は立村を透過した視線でもって秋世を見据えた。

「たまに夫婦喧嘩するのもいいけど、あんた言い過ぎなんじゃないの。噂しか聞いてないしそれ以上は言わないけどさ」

「いろいろあるんですよ、人生は」

 噂だったら本当のことなんて伝わっていないだろう。立村が手元に広げた朝自習プリントを古川へ滑らせてよこした。

「悪いけど古川さん、これ解いて」

 うまく会話が途切れた。朝自習の際、数学の手ごわい問題が出るたびに、古川が立村の代りに解いてやるのがいつものパターンだった。


 もちろん、言い過ぎたとは思っている。

 ──東堂の耳にも入ってるのかな。

 まだあいつとは話をしていない。

 ──奴だって怒るにきまってるだろうさ。冗談じゃねえよな。せっかくひとりでがんばってるのに、余計なちゃちゃ入れられたら切れるに決まってるし。

 その点においては、秋世は彰子に謝罪するつもりなどない。

 ただ自分が彰子を一方的に罵ったことにより、別のところへ火がつく可能性だってあるわけだ。このあたりを計算していない秋世ではなかった。

 ──もともと彰子さんは鼻につくと思われてるらしいしな。

 彰子に嫌悪感を持つ女子たちの本音と、自分が同調しているのに気づいていた。

 だけど今までが今までだ。

 彰子にのめり込んでひたすらちやほやしていて、いきなり手の平返したような態度を取るのはやはりまずい。正直、今までのようにべったりくっついていたいとは思わないし、できれば一切顔を見たくないのだが、それをしてしまうときっと周囲の女子たち、これをチャンスとばかりに彰子へ辛く当たるだろう。

 元恋人として、というよりも、規律委員長として、いじめには反対だ。

 手を下すのではなく言葉だけのいじめも、本来は許してはならない。

 おちゃらけた南雲秋世規律委員長でも、いじめに関する考えだけは揺らいでいない。青大附中規律委員会総意としても。

 ──とかいって、この俺がやってることは、いじめとしか思えねえよな。

 しょせん、「いい人」の仮面を被りながらやっていることは最低野郎の自分がいる。

 こんな奴でも「あきよくん、いい人だね」と笑顔を向けられるのが、ただ、むかつく。

 ──とにかく、規律委員長として、だな。

 秋世は自分なりの考えを絞り込むことにした。次の授業は国語だった。試験結果が返ってくるのだろう。ろくでもない点数だろう。知ったことか。


 立村と大喧嘩したらしい清坂は、いつものパターン通り羽飛に話し掛けていたし、羽飛は立村との間を取り持とうとしている。

「あのなあ、立村。お前もなあもう少し頭冷やせよなあ」

「うるさいな、だから人のことには口出すなって言ってるだろ」

「ったくなあ、古川、お前どう思う?」

 古川もこくこく頷きながら、羽飛に向かって答える。立村は無視だ。

「そうねえ、羽飛の言うことの方が正論だとは思うけどねえ。でも、しょせん弟だしねえ、まだまだ幼いのよ。大目に見てやんなよ、美里。あれ? 美里いないの?」

「あいつどこ行きやがった。ったく逃げ足はええの」

 いきなり立村も立ち上がり、さっきまで清坂がいた方へ足を向けようとする。羽飛に肩をぽんと叩かれ慌てて座り直す。

「そうあわてんなって」

「慌ててるんじゃないよ。また変なことされたらさ。奈良岡さんもいないし」

 そういえば彰子の声が聞こえない。今度は秋世が腰を浮かしかけた。

「いいじゃんいいじゃん、美里にいくら言ったって、あんたが押さえられるわけないじゃん。やりたいようにやらせてさ、それで痛い目にあって、それでわかってもらえばいいじゃん。それにさ、彰子ちゃんがついてるんだから悪いことにはきっとなんないよ。暴走止めてくれるよ。大丈夫」

 ──大丈夫なわけねえだろうが! あの善意塊の人にさ。

 明らかに古川の言葉は、秋世に向けられている。礼を言う必要もない。秋世はすぐに廊下へ出た。ちらっと視界の隅に、立村の戸惑った表情が映った。


 ──女子たちが集まるとしたら、たぶん図書館だな。

 確か去年の十一月頃だったか、後輩の杉本梨南をクラスから守るために、立村が女子評議たちに指示を出し彼女を図書館へ連れ出すようにしたことがあった。このあたりはさすが頭がいいと思う。

 昨日の会話を思い返してみると、清坂はきっと杉本をあいてにした際の経験を生かして、東堂の彼女に接しようとしていたらしい。この辺の気持ちについてはあえて秋世も何も言いたくなかった。どうせ今の段階では、清坂は立村の彼女だと思っているだろうし、当然気持ちも自分に向かっていると思いこんでいる。本当のところがどこにあるのか? 男子の視点から立村を眺めている秋世としては、その気持ちがどこからきているのかが手に取るようにわかるのだが、言う必要は今のところないだろう。

 ただ、彰子たちが余計なことをして、東堂の彼女が学校にいづらくなるようなことはあってはならない。精一杯東堂は自分のできることをしようとしている。男として当然のこと。それを割り込まれていい気持ちする奴なんて、いやしない。

 

 水口に呼び出されたのは放課後だった。

「南雲」

 一言、声を掛けられた。その後は無言のまま、あごを扉側に向けた。

 そろそろ来るかとは思っていたが。

「なんか用か」

 さっぱりと答えてみた。

「訳はわかるだろ」

 ははあ、彰子がらみか、と合点はいった。しかし水口の奴、珍しく言葉が少ない。

「わからなくもないが、どうした?」

 作り笑いを浮かべ、口をほぐしやすくしようと試みたが失敗したみたいだった。水口は妙に大人びた口元でもって、秋世に背中を向けた。

「外に出ろ」

 彰子の方を水口は一切見なかった。声を掛けないわけにもいかないかとちらりと見れば、まだ教室に残って、東堂と楽しげに語らっているではないか。東堂もさほど腹を立てたでもなく、保健委員会用のノートを開いて頷きつつメモをしている。噂は耳に入っているはずなのだが、もしかしたら自分よりもはるかに出来た奴なのかもしれない。我慢しているのか、それとも知らん振りしているのか。

 しばらく迷ったが、知らん振りして後ろ扉から出ることにした。水口も秋世の後ろに続き、廊下に出るやすぐ、先頭に立った。

 まだ他の生徒たちがうろうろしていた。昨日開く予定の規律委員会をもう一度集合掛けてもよかったのだが、昨日が昨日だっただけについ、忘れてしまった。まあいい、一日くらいずれたって大事にはなるまい。

「用って、教えてくれたっていいじゃん、なあ、すい」

「黙ってついて来い」

「あ、もしかして噂、聞いたのかなあ」

 そう告げた。似合わなすぎる。秋世は思わず吹き出した。

 あのお子様すいくんが、「黙ってついて来い」とか「外に出ろ」とか、いっぱしの男めいた言葉使うのだから、そう変えさせる奈良岡彰子はやっぱりすごい女子なのだろう。

  

 決闘でもするつもりなのだろうか。

 ──まあ、そうされたら受けるしかないよな。

 水口があたりを見回しながら、学校裏の林へと歩いていくのを秋世は追っていった。人気のない、「女子は夜間立ち入り禁止」とされている場所だった。ひとり、A組でよく見かける男子と女子ふたりがどつき漫才っぽいやり取りをしながら砂利路の方へ歩いていったのを見たっきり、あとは誰もいなかった。決闘には最適の場所だろう。

「あのさあ、すい、すいくんな」

「うるせえな」

「いいよ、言いたいこと、言っちまえ」

 とりあえず立ち止まったでかい松の木の前で、秋世は水口に呼びかけた。

「俺、もう逃げも隠れもしねえから。お前の男気に免じて、何でも受ける」

 言葉を詰まらせているらしく、水口もしばらくうつむき足元でつんつんと土を掘っていた。よく観ると心持、肩幅が広くなっている。ガキ扱いされていた水口がこうやって大人になっていくもんなのだと、父親みたいな気持ちになってしまう。

 ──すいに彰子さんを奪われた、間抜けな南雲規律委員長ってシナリオでもいいかもな。

 むしろそれの方が一番いいような気がしてきた。

 

 しばらく秋世と水口は向かい合っていた。

「絶対、逃げるなよ」

 念押しされて、少しむっときた。ばかかい、水口。お前でもあるまいし。そう言いたくなるけど、がまんする。

「俺が逃げるわけないじゃん」

「少し待て」

 ぶん殴るために、心の準備でもしたいんだろうか。水口の視線を何気なく辿ると、秋世の肩をすすっとすり抜けるような感じで見ている様子だ。

「誰もいねえだろ」

 秋世がそこまで口にした時、砂利路の方から油を差してないような自転車のきいきい声が響き渡った。思わず振り返った。まだ姿のない相手を探そうとした時、水口が勢いよく砂利路へと駆け出し、手を振った。

 ──自転車。

 かばんを置いた。手ぶらのまま、秋世は動かずにいた。空は青く雲は白い。時折しゃらしゃら鳴り響く葉のすれる音。だんだん近づいてくるもうひとりの気配に、秋世はすべてを理解した。

 ──隊長かあ。

 秋世は軽く敬礼した。

 「花散里の君ファンクラブ隊長」、夏木宗がいつもの迷彩色自転車と共に、そこにいた。


 それにしてもこの時期にまだガクランとはなんとかならないものか。白線の入った裾の長い学生服姿は見るからに暑苦しかった。一緒に立っている水口が一気にかすんで見える。

「すい、どういうことだ?」

 まずは水口に問う。悪びれもせず、水口が答える。

「修学旅行の時、会っただろ、それから帰り、ねーさんと一緒に」

 要領を得ない説明だ。とにかく顔見知りで、手を振って迎えるような間柄なのだろう。彰子繋がりだろう。秋世も似たようなものだ。しょうがない。

「じゃあ、みんな、しゃべったわけか」

 返事がなかった。そういうこと、と解釈していいだろう。自転車を松の木裏に無理やり寄せ、ガクラン姿の夏木はまず秋世をにらみ据えた。受けるしかないので黙っていると、次に視線を水口へ向け、

「話す相手は奴だけだ。お前はさっさと帰れ」

 どすの利いた声で言い切った。当然すねる水口の姿あり。

「そんなあ、俺だって、言うことあるってのに!」

「時也にも同じこと言われたけど置いてきたんだ。あきらめろ。これは男と男の話し合いだ。ぐちぐち言うんじゃねえ!」

 どうやら夏木、水口をファンクラブ会員に迎え入れる代りに、自分の手下として使っていたに違いない。学年トップ頭脳を持ち「水口病院」のお坊ちゃまたるすいくんをパシリにする夏木宗、あっぱれなり。

「悪い、すい、お前とは後でちゃんと落とし前つけるから、安心しろよ」

 わざとやさしい声で秋世も続けた。両方の頬がぽっこり膨らんでいる。さんざん悪言葉使っていながら、やっぱりこいつは「D組の赤ちゃん」のまんまなのかもしれない。夏木がいなければ爆笑していただろう。

 もう少し砂利路から離れたところで、夏木とは話した方がいい。

 顔の形、歯の一、二本折られることは覚悟の上。

 しばらく殴り合いのけんかはご無沙汰だったし、勝ち目はないだろう。

 すべて受け入れよう。

「ちくしょう! 嘘つき野郎があ」

「それとだ、忘れんな、明日絶対来い!」

 半べそかきながら砂利路の向こうへ去っていく水口を二人で見送った。


「邪魔もんは消えたってことでだ、南雲」

 完全に第三者の気配が消えた段階で、ようやく夏木は口を開いた。

「お前、俺に言いたいことあるんじゃねえのか」

「あれ、もう聞いたんじゃあないっすか? 水口からいろいろと」

 夏木がわざわざ、青大附中テリトリーまで足を運ぶということは、それなりに重大事件なのだと判断したからだろう。途中経過は彰子がいろいろ説明したのか、それともパシリ・水口がしゃべったのか、どちらかかと思う。どちらにしても、喜ばれる話ではないはずだ。

「それをそのまんま、信じていいのかよ、あほんだらが」

 まだ波打たぬ言葉だけが流れた。夏木も修学旅行前に脅しを掛けた時とは、ずいぶん雰囲気が違っている風に見えた腹の中に大量の怒れる火の玉を抱えて自爆させたそうな雰囲気。

「お前、まじか」

 どうせ半殺しの目に遭うのなら、早い方がいい。

 

 秋世はゆっくりと言葉をつないでいった。感情にできるだけ添うように。

「修学旅行中の彰子さんにかかわるごたごたあったろ。俺、あの時彰子さんちで何が起こったのとか、彰子さんの父さんがどうしてぶっ倒れたのかとか、全然知らないんだ」

 ぎろんと瞳が動いた。

 畳み掛けるように秋世は続けた。

「別に、聞く必要もないし。聞きたいとも思わないし」

 夏木は無言だった。ガクランのまま、両腕を組んだ。

 その腕を思いっきり動かしてやりたかった。

「彰子さんのことが、どうでもよくなったんだ。俺」

 止めを刺したかった。

「ファンクラブから、抜けるわ」


 ──とことん、悪い奴になればいいんだ。

 ──とことん、どぶくさい奴になればいいんだ。

 ──とことん、踏み潰されればいいんだ。

 ──それが本来の俺の姿なんだ。


 じっと見据える夏木の顔に、じんわりと汗が噴出してきた。

 顔だけ太陽に見えた。

 何かが脳を沸騰させているのだろう。怒りなのか、形にすることも出来ないほどの感情が渦巻いているのだろうか。

 秋世がおそるおそる見やると、夏木はあごでぐいと突き出すようなしぐさをした。

「なんか?」

「訳があるなら、言え」

 「花散里の君ファンクラブ隊長たる奴の性格上、即、鉄拳をお見舞いされるのは計算済みだったのに、なぜそうしないのだろう。秋世には夏木の真意が読めなかった。仕方ないからそれを、言うしかない。


「言っとくけど、彰子さんはちっとも悪くないんですよ。ええほんと。俺がすべて何から何まで悪い。それどころか、俺なんかが近寄るなんてとんでもないって感じのミス・パーフェクトだと思ってます。嘘じゃないし。『いい人』ほんと、今この一瞬においても、彰子さん以上の人はいねえって思いますよ」 

 ──「いい人」。

 喉を熱くただれさせるような一語。足元の青草を引きちぎり、ぱらりと落とした。

「俺も本当は、『いい人』でいられたらずっと、ファンクラブの隊員でいられたんだろうなあ。すっげえむかつくくらい、今までの俺は『いい奴』になろうって思ってたんですよ。彰子さんにふさわしい男になりたかったから。けど、もう戻れないんだよなあ」

 空を見上げた。緑の木々が伸びている先に、青い空が広がり白い雲が浮かんでいる。

「あのさ、隊長。俺思うんだけど、こういう青空って今の俺らにはすごく気持ちよく感じるんだけど、その一方で雨が降らないからってことで日照りになっちまっているところもあるんだよなあ。水不足でどっかの地域、給水制限出ているってニュースでやってたし。けどそんなの俺ずっと気づかなかったんだよなあ。俺ひとりが何も知らなくて楽しくすごしているその影で、毎日酷い目に合わされた夢をみてうなされている子だっている。そんなことに、どうして俺、今の今まで気づかなかったのかなって、そう思うわけ」


 彰子の顔は思い浮かばなかった。代りにクラスメートの立村や東堂が、するするっと記憶の隅から浮かんでいく。かつて付き合った女子たち、そして水菜さんとのひと時も。

 秋世は、「夏木」と呼びかけた。

「もしさ、自分が犯罪者だったとしたら、どうする?」

 全く夏木は身動きしなかった。

「万引きでも、痴漢でも、なんでもいいさ。自分がどう考えたって『いい人』だって思えない時にさ、それでも信じますなんて言われたらさ、どうする?」

 なんでこんなこと、元恋敵なんかにしゃべらねばならないのか。自分を押さえられない。

「自分が有罪だってわかりきってるのにさ、見え見えなのにさ。『あきよくんはいい人よ』って、ずっと言われてみろよ。俺、どうすりゃいいのさ。実の妹にスケベなことしたりとかさ、年上のお姉さんたちとホテルで遊んでもらったりさ、そんなことつらっとした顔でやってる俺がだぜ」

 ここでどうして殴りかかってこないのだろう。さらに、激しく叫びたくて、舌がうねる。


「彰子さんは完璧なんだよ。俺、彰子さんと付き合ってきていつも思ってたよ。俺がさんざん前に馬鹿やってたから、そのとばっちり受けてかなり嫌がらせされて、どうしていつも笑顔でいられるんだろうなって。今だってそうさ。ほんと、彰子さんってどうして傷つかないんだろうなあって、不思議でならなくてさ。今まではそんなの全然気にならなったよ。修学旅行が終わるまではさ。いきなり修学旅行で訳わかんないまま帰されても、誰も責めたりしなかっただろう? 本当の気持ちなんて絶対見せないようにってしてるよな。そういうとこが俺めちゃくちゃ好きだったんだよ。ほんと、夏木、そのあたりわかるだろ? 『世の中の人はみんないい人ばかり』って断言する彰子さんの性格のよさ、俺は大好きだったんだよ」

「世の中の人はみんな、いい人ばかり、か」

 夏木が呟き、すぐに口を結んだ。

「そう、彰子さんの口癖だよ。どんなに嫌がらせする奴でも、悪口言う子でも、本当はみんな善ばかり、悪なんてない、そう言い張ってるんだよ。俺も前はそう思ってたからな。けど、人間誰だってそうだけどさ、裏表があるんだよな。どんなに俺の前ではやさしい人だとしても、影では人殺しみたいなことしてたりするんだ。『いい人』なわけねえじゃん! どっかでみんな、嫌ったり馬鹿にしたり軽蔑したり、してるんだよ。嫌いな奴には蹴りを入れたり、嫌がらせしたらぶん殴ったり、みんなそういう感情、どっかで持ってるんだよ」

「裏表か」

「世の中の人間がすべていい奴だったらいい。俺だってそう思ってたさ。俺はその時まで『いい奴』だと思い込んでたおめでたい男だったからなあ。けど、その言葉ってさ、いい奴になりたいんだけど悪い奴になっちまう奴、いい奴のつもりなんだけど悪い奴、そういう連中を跳ね返すんだよな。俺も自分がそうなるまで想像したことなかったし」

 秋世は首を振った。これ以上呟くと彰子の悪口になってしまう。それだけは避けたかった。

「夏木、水口が何を報告したのかはわからんけど、今回は単に俺が、彰子さんをずたずたに傷つけただけなんだ。殴られて当然、それは重々覚悟してる。俺は彰子さんが思っているような『いい奴』なんかじゃないんだ。彰子さんのようなミス・パーフェクトになれなくてみっともない姿をさらけ出してる連中と一緒にいる方が、俺は楽だってことに気づいただけなんだ」


 夏木は黙りこくっていた。

 何かを言い足そうなのはわかる。顔が限りなく燃え滾っているから。

 ただ、押さえようとする風に小さく喉を動かしているだけだ。

 こくっと喉仏をうねらせ、秋世に一歩、また一歩と近づき、ぶっこわれんばかりの眼力でにらみつけた。

 秋世もそれを、受け止めた。


「南雲」

 ──来るか。

 ぎゅっと目を閉じた。足を踏ん張り、来るはずのこぶしを受ける準備をした。

 何も来なかった。五秒数えた。汗がこめかみから流れるのを感じた。

「よっくわかった」

 喉の奥から出すような、がらがら声が聞こえた。

「お前が言いたいことは、よっくわかった」

 ──俺は、お前らのマドンナをぼろくそこき下ろした男だ。ほら、早く。

「それでも、今だけは、彰子の側を離れないでいてくれ」


 耳を疑った。

 時空が一瞬移動したかと思った。

 目を開けて、目の前の夏木が汗だらだらになって突っ立っているのを見た。

「今、なんと?」

「卒業まででいい」

 夏木は繰り返した。

「青大附中にいる間だけでいい」

 ひざを着き、夏木は両手を草の上に置いた。秋世が思わず見下ろしたガクラン姿には、でかく汗染みが浮かんでいた。

「彰子を守ってやってくれ」

 秋世の足元に、静かに夏木は頭を下げた。

 ──おい、これって、世間一般で言う「土下座」って奴じゃないか?

「夏木!」


 花散里の君ファンクラブ隊長が確かに、秋世の足元に這いつくばっていた。

 秋世は、目の前で信じ難い姿をさらしている夏木を、力いっぱい見下ろした。そうしないと、船で激しくゆられた時のようにぶっ倒れてしまいそうだったから。

 


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