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第二部 26


 ──世の中には悪い人なんて一人もいないんだって。

 ──どんな人だってみんないい人だって。


 期末試験が無事終わった。今まで「ほとんど勉強していない」ことはあったけれども、今回のように「全く」ということは一度もなかった。白紙答案にしないですんだのは、選択肢が揃っている問題が並んでいたからであって、正解の自信など全くなし。秋世は筆記用具を片付けた。隣で彰子がにっこり話し掛けてきた。

「あきよくん、そうだ、今度ね」

 鬱陶しい。さっさと離れろよ。そう言いたいのをこらえる。

「あさっての夜にね、七夕のお祭りをやろうって話になっているのよ。この前話したけど、ナッキーや時也、あとすいくんも来るのよ。秋世くんもぜひ来てほしいなあ」

 ──この人、とことん、神経ぶっちぎれてるな。

 かつては全く気にならなかった彰子の明るさが、今は突き刺さるほど痛い。

「いや、ちょっと俺、行けないかもなあ」

 仮面を被って笑顔をこしらえるのも、この二週間ほどでだいぶ慣れた。

「うちのことがまだごたごたしててさあ、彰子さんごめん。あいつらにはよろしく言っといて」

「そうかあ、残念だけど、しょうがないよね。今度また誘うからね」

 ──放置してくれ、放置!

「じゃあ、これから規律委員会があるからさ、先に行くよ。じゃあまた」

 別に急ぎでもなんでもないのだが、三年D組の教室に長時間居座わるのだけはごめんだ。秋世は耳元で軽く手を振り、作り笑顔のまま教室を出た。


 ──家を出る、か。

 あの夜以降、両親とは全く口を利いていない。

 特に母とは、食事以外は一切目を合わせていなかった。

 ──それが一番いいかもな。

 いったい自分が入院している間に何が起こったのかわからないが、もし妙子さんの言う通り「昭代の父がおじさん」だとしたら……ありえない話と力を込めれば込めるほど、事実に近くなることをどうして気づかないのだろう……母はいわゆる「不貞行為」をしたことになる。父を裏切ったことになる。

 そのことを祖母が母にはっきりと伝えて、それがきっかけであっけない死を迎えたという事実……これも伝聞だし断言はできない。もし事実だとしたら、母は三つの罪を犯したことになる。父を裏切り、昭代を産むことによって周囲を傷つけ、祖母の命を奪ったという。

 ──そんな女を、母親と思ってたのかよ俺は。

 思えば、祖母の死以降母の態度は不可解なものが多すぎた。一緒に暮らしていたのだからもっと嘆き悲しんでもいいはずなのに、口から出る言葉はみな、「私たちは悪くない」といった保身の発言のみ。瑞希おばさんに責められて泣き伏すばかり。事実をありのままに伝えればいいのに、それすら拒む。祖母が消えてきっとせいせいしているのは、あの母だ。

 ──しかもだぞ、俺が死んだら身代わりかよ。

 もし秋世が病魔と戦っている時に、死ぬことを前提として子どもを作ることも常軌を逸している。自分が死んでも代りがいればそれでいいということなのか。

 なによりも、父も。

 ──そういうこと、どうして気づかなかった? そんなことされたらさっさと別れるだろ? 

 秋世が気づかなかったのはしかたないにしても、なぜ父は昭代の顔を見て、自分の子じゃないとぴんとこなかったのだろう? 妙子さんが気づくくらいなのだから他の人たちも「もしや?」と感じて当然じゃないだろうか。秋世は妙子さんのおじいさんにあたる人を知らないのでわからなかったけれども、実際全く似てない兄妹だと感じてはいた。

 もしその認識が、他の人たちにもあったとしたら、秋世と昭代を引き離す工作を誰も違和感なく受け止めるのが自然だろう。だって、許されざる関係の子なのだから。

 頭の中がぐちゃぐちゃしてくる。そんなのはいやだからさっさと目を閉じる。

 ──やっぱり、家を出よう。

 貯金通帳にはどのくらいのお金が入っているのだろうか。あとで確認してみよう。

 いざとなったら本条先輩の部屋にもぐりこむというのも手だ。


 規律委員会が行われる予定の教室に顔を出してみたが、誰もいなかった。そういえば集合をかけていなかったっけ。すっかり頭がボケてしまっている自分に腹が立ってくる。まあいい。試験が終わったんだし、のんびりと外で遊んでもいい。誰か遊び相手になってくれそうな奴はいないものか。

 ──東堂は今日いないのかな。

 保健委員は期末試験後すぐに保健室当番が始まると聞いていた。予想が当たっていたらかならず校内のどこかにいるだろう。もしかしたら例の彼女にめろめろで追いかけまわしているのかもしれない。まああいつを捕まえたら芋づる式で誰か遊び相手が見つかるに違いない。秋世は口笛を吹きながら三年教室へ向かった。すっかり解放されきった顔をした連中がうろついている。あとはもう、夏休みを待つだけだ。


 ずいぶんざわめいている三年教室前の廊下。窓際でいろいろと語り合っている女子の群れが目に付いた。男子連中はほとんどいない。みな、箱の中になんぞいられないのか、お天気もよろしいことだし、特段用事のない奴はさっさと外に出ているのだろう。東堂捕獲は無理か、少々舌打ちしたい気持ちでD組の前に向かうと、ひとりいた。

 ──りっちゃんじゃん。

 評議委員長の立村がなにやら扉の前でうろうろしていた。誰かを待っているのか、それとも扉が前後とも閉まっているから入れないのか? 何度かドアの隙間に顔を近づけては離れ、またドアノブをつかもうとしては離し、いかにも入りづらそうな格好だった。

「どうしたのりっちゃん」

 声をかけて、思いっきりびびられた。そんなに驚かなくてもいいじゃないか。

「ちょっとな」

「なんか忘れ物?」

「まあ、そんなところ」

「誰かいるのかな? 女子たち?」

 あてずっぽで聞いてみた。立村が惑うのはだいたい、強いD組女子たちが教室内で吠えている時だろう。評議委員長ともあろうものがまさか、と思われがちなのだが、立村の性格はもともと内気、気の強い女子たちにががっとわめかれると大抵の場合、押されてしまう。最近はそうでもないらしいが……清坂相手にいろいろあった影響だろう……本質は変わっていないように秋世には思える。

「じゃあ俺が一緒にくっついてってやろうか?」

「いい、いいってば」

 いきなり生腕をぎゅっとつかんで引っ張る。痛い。

「ははあ、なんか中でやばい話してたとか? 顔を見るのがかなり恥ずかしいとか?」

 立村をからかうのは面白い。気がまぎれる。

「もしかしてさ、清坂さんたちがいるとか?」

 図星か。立村はうつむくようにして足元に呟いた。

「今、話し合い女子たちしているみたいだからさ」

「ははん、清坂さんとこれからデート」

「そんなんじゃないよ!」

 向きになるところがさらに怪しい。

 きっと余計な気を回しすぎているだけじゃないだろうか。別に女子たちからしたらたいした話をしているわけでもないのに、立村はいつも「機密情報」を扱っているのではないかと邪推して足踏みしているというわけだ。秋世だったらさらっとノックして「あ、ごめん、ちょっと用があってさ」と忘れ物を持ってくるなり、用事のある女子に声かけるなりしてさっさと出て行くだろう。世の中の八十パーセントはそれでうまくいくものだ。百パーセントではないけれど。

 女子たちの会話、となるとおそらく噂話だろうか。

 立村の学校内での「姉」、古川こずえが混じっているのかもしれない。

「また下ネタでからかわれるからやなのかな?」

「そういうんじゃないよ。古川さんいないし」

 秋世は思わず笑った。なんでこうもわかりやすいんだろう。

 と、そこへ聞き覚えのある女子の声が、扉の隙間からこぼれてきた。

「だから、これは私たちの仲間として、当然したほうがいいことだよね」

 きっぱり言い切ったその声は、かつての我が姫から発せられた。

「そうよね、そうよね、絶対そうよね!」

 立村が唇をかんだままうつむいた。明らかに合いの手は、立村が恋人宣言した相手の声だった。立場なし。互いの彼女が語り合っている中、聞き耳を立てるのは気恥ずかしい。


「とにかく、このままだと東堂くんの彼女、退学になってしまうって気がするんだ。あのまじめな東堂くんが好きになった子なんだもの、きっといい子だと思うの。学校終わってからすぐに二年の彼女がいる教室へ行って、まっすぐ帰るかどうか見張っているとか、いろいろしているしね。けど、きっとこのままだとあの杉本さんのように、学校から無理やり追い出されてしまうかもしれないし。酷い噂も流れているし」

 彰子の声は、噂話をしているような雰囲気ではない。きっぱりと、はっきりと。意志を感じる。

「あれは嘘だよね、きっと」

「私もそう思うのよ。彼女本人が聞いたらもっと傷つくはずよ」

 ──なんで東堂の彼女の話してるんだ?

 東堂と彰子が三年連続保健委員というのはもちろん理解している。それなりに仲良しでもあるだろう。なにかの拍子で噂でも耳にしたのだろうか。さらに続くがまずは立村に振る。

「中に東堂、居るの?」

 立村は首を振った。

「お前知ってる? 東堂大先生の彼女のこと」

「一般的情報としては」

 口篭もるところみると、かなり本当のところ理解しているのだろう。

「それなら話早いわ。そのこと話してるってわけ?」

 扉のノブを指差すと、立村はえらくゆっくり頷いた。


 しばらく秋世も東堂の彼女については話を聞く機会などなかった。

 二週間前の「ミッドナイト・ベッド」にて奴が彼女を保護しタクシーで自宅まで連行したところまでは聞いているけれども、それ以上に何が起こったのかは見当がつかない。野郎同士よっぽどのことがない限り、その手の話を突っ込むことはしない。例外・立村というのもいるがそれはどうでもいい。とにかく東堂はあいつなりに、懸命に彼女に尽くしているのだろうという予想だけはしていたけれども、どうもあいまいにごまかしていたところみると何か裏があったのだろう。その程度の想像はしていたけれどもだ。

 ──噂って、やっぱりあんなとこでたむろしていたってことをかな。

 東堂がかわいそうなのでずばりつっこむことはしなかった。あの「ミッドナイト・ベッド」なる喫茶店、後日秋世が例のお姉さんたちに聞いたところによると、やはり一種のナンパ場だという話だった。そういう店に慣れた格好で入っていったということは、やはり、それなりのことをしていたはずだろう。

 しかも青大附中の制服のままでうろついていたら、もちろん噂にならないわけがないだろう。自業自得といえばそれまでだが、東堂の気持ちを思うにとてもだが口に出せない。

 立村はそのあたりも聞いているのだろうか。


「とにかく、あの彼女がこれ以上路を踏み外さないようにするため、私たちが協力できることないかなって、思ったんだけどどうかな、美里ちゃん」

 しばらくあいまいな言葉での会話が続いた。彰子が何かのきっかけで、東堂の彼女ご乱行を知り心を痛め、なんとか彼女を「女子パワー」で更生させられないかと清坂に相談したらしい。清坂もそのあたりはばりばりやってしまう女子だ。立村を尻に敷いたパワーでもって、きっとのりにのるだろう。東堂がかわいそうだと思うのはやはり男子心か。秋世は立村の顔を覗き込んだ。なんと立村、片手をドアノブにしっかりかけて、握り締めている。開けようとしないのが唯一の理性と見た。その手首を秋世は指先で叩いた。

「まあまあ、おちつきやしょうや」

「けどさ」

 また言葉を飲み込む立村。秋世もささやき声で耳元へ。

「あの東堂先生がほれ込んだ子だもん、まあなあ。女子もやるよなあ」

「そんな、よくないよ」

 早口に立村は呟いた。かすかに聞こえるか聞こえないかの声で。

「だってさ、そんなの二人の問題だろ? 東堂たちの問題であって女子たちが口に出すべきことじゃないよ」

「そりゃあそうだ」

 胸に言葉がすとんと染みた。そうだ、他人事のはずだ。

 しばらく秋世は立村を無理やり窓辺に引き寄せ、じいっと顔を見詰め合った。男同士で気色悪いと言われそうだった。立村も細い唇をぎゅっと結んだまま、片方の頬にえくぼをこしらえていた。こらえている、いかにもの表情だ。

「女子のおせっかいはいつものことだろ。どうせたいしたことじゃないよ」

「けどさ、よく考えてみろよ」

 離れたせいか、立村は少しだけぶっきらぼうな口調で続けた。

「もし同じ立場に立たされたら耐えられるかよ」

「同じ立場ねえ」

 他人事のように思う。

「もし、もしもだよ。人にあまりうるさく言われないようにって隠していることを、善意の顔して引っ張り出されたら、腹立たないほうがおかしいよ。東堂だっていやに決まってるよ」

「まあ、そりゃあそうだけど」

 相変わらずすねる寸前の立村を眺めるのは面白い。不謹慎ながら和んだ。

「いったい清坂氏も何考えているんだろうほんとに」

「まあまあ、善意として受け取っておこうよ、りっちゃん」

「それにさ、なんでだよ、なんで杉本のことが出てくるんだ?」

 ──ははん、そこか。

 秋世は思わず笑みがこぼれるのを押さえられなかった。やっぱり立村も、すべてが見え見えだから面白い。ほんといい奴だ。清坂には悪いがもったいない。

「そういえば言ってたなあ」

「そうだよ、要するにさ、杉本のような扱いを東堂の相手がされそうだからってことだろ? だから三年女子がその東堂の相手に説教しようっていうんだろ? けど、それは向こうにだって事情があるし、説教できるのは東堂が最優先だろ。なんで関係ない人たちがさ、そうやって押し付けがましいことするんだろうな。それに東堂の相手さんだって、それなりに事情があるってこと、どうして考えないんだろうな。きっと、そうしなくちゃいけない理由があるのに、それを全然考えないで、どうして自分らが正しいって決め付けられるんだよ!」


 秋世は立村の手首を握り、もう一度扉の前に立った。

 立村の言葉が途中から、自分の耳にじんわりと広がっていく。

 ──きっと、そうしなくちゃいけない理由があるのに、それを全然考えないで、どうして自分らが正しいって決め付けられるんだよ!

 彰子のぼってりした顔が目の前に浮かんでくる。


「東堂くんはね、きっと一生懸命彼女を立ち直らせようとしているんだよね。でも、肝心の彼女が不良のままだったら、青大附中の立場としても何かをしなくちゃいけなくなっちゃうよね。それに、気持ちはわかるけど、叩いてはいけないって思うよ」

 彰子の声にあいまって、清坂の甘いトーンのしゃべり声が挟まる。

「うんうん、それわかるよね彰子ちゃん。本当は東堂くん、精一杯守ってあげたいんだろうなあ。だから、ひっぱたいちゃったんだろうね。でもそれは絶対よくない! 私もそう思う。二年の女子たちからも聞いたけど、東堂くんひっぱたいたり怒鳴ったり、彼女に対してはお父さんみたいな態度してるんだって。うちのクラスに居る東堂くんとは思えないこと、彼女にはしてるんだって。気持ちがあるからって言っても、私が彼女の立場だったら絶対怒る!」

「東堂くんは芯が熱い人だよ。私も一緒に保健委員していたからわかるよ。彼女が話していたらしいけど結婚して全責任を取るとまで言ってくれてたらしいんだ。中学三年なのにだよ。すごいよね」

「うわーしんじらんない! あの東堂くんが?」

「私、すごいなって思ったよ。東堂くんを本当に尊敬したよ。だってひとりの人を命賭けて守りたい、って証明みたいな言葉なんだものね。私にはそこまでひとりの人を好きになるって理解できないけれど、気持ちだけはいっぱい伝わってきたよ。でも、今のやりかただったら東堂くん、彼女にどんどん嫌われていってしまうだけだよ。東堂くんじゃなくて、今度は他の女子たちが一生懸命思いを込めて、正しい路に戻してあげることが、今は必要じゃないかなって思うんだ。これ、他の保健委員の子も話しているんだけどね」

「うんうん。もし協力できるなら、私も評議の子たちと相談してみる」

 隣の立村が、「そんなことするなよ」ぼそりと呟いたのを確かに聞いた。

 片手がまたドアノブに伸びるが、秋世はまたその指をはたいて落とした。


「けど、どうなのかな。東堂くんにこのこと話しておこうと思うんだけど、どうかな」

 彰子がふと、思いついたという風に。

「ううん、それは絶対やめた方がいいよ!」

 清坂の即、却下する声あり。立村がまたぴりりと唇をかむ。

「だって男子たち、余計なことするなって怒るに決まってるもの。許可もらうなんて時間がもったいないでしょ。そうだ、彰子ちゃんにさっき話したけど、二年の杉本さんのことね。あの時は立村くんが自分の判断で、女子たちにあの子の面倒を見なさいって命令したのよ」

「命令なんてしてないよ」

 またぼそりと小声。秋世なりに背中のシャツから背骨をさすってやった。

「今度は私たちが同じことを、東堂くんの彼女のためにしてあげたって何も悪いことないと思うの。彰子ちゃんが考えていることは絶対正しいよ。私たち女子評議は結局、杉本さんを助けてあげることできなかったけど、東堂くんの彼女だったらきっと救い上げられると思うんだ。今なら間に合う、そんなええっと、ばい、しゅん? なんて絶対よくないよって、みんなでちゃんと訴えればわかってくれると思うんだ」

 清坂の声がまた高く響く。同時に立村ががりりと奥歯をかみ締めている。

「美里ちゃん、そうだよね。話せばきっとわかってくれると私も思うんだ。私、いつも思うんだけど、世の中には悪い人なんて一人もいないんだって。どんな人だってみんないい人だって。大丈夫。東堂くんの彼女の、いいところに一生懸命話をすれば、絶対にわかってくれるはずよ」


 ──いい人ばかり?


 耳の奥が破れるような気配がした。つんと響いた。


 ──世の中には悪い人なんて一人もいないんだって。

 ──どんな人だってみんないい人だって。


 かつては秋世もそう信じていた。

 嘘っぱちだ。何にもわかっちゃいない。


 ──いい人なんて、裏を返せばみんなどろどろだってこと、どうして認めねえんだよ!

 ──いい人の顔していかなければ、生きていけないから演じているだけだろうが! いい人いい人って決め付けられて、息苦しくてならない連中のことを一度でも考えたことあるのかよ!


 立村の緩んだ手をドアノブからはたき落とし、秋世は一気にその扉を引いた。

「いいかげんにしろ!」

 廊下のざわめきが甲高く響くと同時に、扉を閉める気配がした。立村の気遣いだろう。

 ちょうど廊下側の一列目に彰子が、その隣に清坂がびっくりした顔して座っていた。すぐに彰子が笑いをこしらえようとする様子が暑苦しくむかむかした。当然清坂の視線は秋世ではなく、扉に背中をくっつけて突っ立っている立村に向けられている。何か話し掛けているようだがそんなのどうでもいい。秋世は彰子の前に立ちはだかった。

「東堂にはあいつなりの事情があるんだよ。なんでそんな人のことをほじくり出そうとするんだよ! あいつの彼女のことなんか、関係ないだろ!」

「あるよ、あきよくん」

 すぐに落ち着きを取り戻し、やわらかく返す彰子に、さらにいらだつ。隣ではもう一組が開戦寸前の静けさでもって見詰め合っているがそれはそれで勝手にやってくれ。一切無視だ。

「東堂が彼女をひっぱたいたのにはそれなりの理由があるんだよ。ラブホテル街で売春してたらそりゃぶち切れるに決まってる。あいつはそうさ、確かに必死だよ。けど、他人が口出す権限なんてねえんだよ!」

 言い足りない言葉がさらに溢れ出しそうだ。目の前で黙って顔をあげ秋世の言葉を待っているふやけた女子に、いったい何をぶつければいいのだろう。彰子は静かにゆっくり頷き、秋世のしゃべるのを受け止めようとしている。多少の罵詈暴言なんて気にしないさ、という風に。なぜそんなに自信ありげなのか。何様のつもりなのか。

「そりゃ、学校の校則には違反してるだろうな。いろいろ問題起こしてるだろうしな。東堂もプロポーズまでして振られてるんだもんな。情けねえよな。けど東堂はそれを全部覚悟の上でやってるんだ。あいつにはそれなりの覚悟があるんだ。俺はあいつの親友だけどさ、それをまるまる応援してやることで十分だって思ってるんだけどな。どんなことがあったってしつこくあいつの彼女を元の正しい道へ戻してやろうなんて思わねえよ。彰子さんは本当に、彼女側の事情とか聞いてるのかよ。なんで、彼女が、売春なんてしなくちゃいけなかったのかなんて、その理由まで聞いてるかよ」

 彰子は穏やかな表情のまま首を振った。

「だったら口出す権利なんてねえよ。きっとあの子だって、不良になるにはなるだけの理由があったんだ。売春するならするなりの理由があったんだ。東堂みたいにくそまじめ野郎では満足できない理由だってあったんだ。全部、それはあいつと彼女しかわからねえよ。けど、それを丸ごとひっくるめて、東堂は彼女に惚れてるんだ。あいつが命がけで走り回っているのを先回りして、いい子ぶるのはやめろよな!」

「いい子ぶっているように、見えるのかな」

 しんと、しっかり答える彰子。

「ああ、そう見えるよ、俺にはさ」

 吐き捨てた。思いっきり床を踏んだ。彰子さん、と一度呼んだ。

「いっつも言ってたよな。周りの人はみんないい人ばっかりだってさ」

「そうだよ、それは今でも変わらないよ」

「もしさ、俺が例の彼女と似たようなことしてたとしても、『いい人』だって言えるか?」

 彰子は首をかしげた。理解していないようすだった。

「あの女子と同じように、きれいなお姉さんたちとホテルに通ってるとか、そんなことしてても『いい人』だって言い切れるわけ?」

 斜め隣で息を呑む気配あり。立村と清坂が自分らの戦をいったん中止し、こっちを見ている。

「そうしたくなる何かが、絶対あるんだよ。いい人だとか言われてても、悪い奴になりたくなる瞬間だって絶対あるんだ。その気持ちはたぶん経験してみねえと絶対わからないはずさ。それに『正しい道』がそんなにいいことなのかよ。女子たちが考えている正しい道と、例の彼女が感じている正しい道とはたぶん、百八十度違うはずさ」

 喉がいがいがしてからむ。でも言わずにはいられない。

「彰子さん、世の中にはさ、ずっと見たくないものを見ないで、知りたくもないものを知らないですんでいる人がたくさんいるんだ。俺だってそうさ。けど、反対に見たくないものばっかり押し付けられて気が狂いそうな奴だって絶対いるんだ。逃げ出したくてなんない奴だって、壊れたくてならない奴だって。それをみんな、ひっくるめて正しい人たちの観点から『いい人』って決め付けるのはやめろ! いい奴だからって、いつまでも永遠に『いい奴』なわけねえんだよ。人間は裏表があって当然なんだ。汚いところがあってあたりまえなんだ。それを白々しく『世の中の人はみんないい人』だなんて抜かしたって、あの彼女が改心するわけねえよ。ただ、馬鹿みたいだと軽蔑して、笑うだけだよ。彼女を説教してぶんなぐって命賭けて守りたい、って思ってる東堂と彼女の親以外は、口出すわけにはいかないんだ!」


 空気が凍った。七月の夏気配が上方に固まっているようだった。

「清坂氏、話がある、外に出よう」

 立村の静かな視線が清坂を射た。

「何よ、あんたも私がまた余計なことしたって言うわけ? 杉本さんに対してした事と同じこと、私もしようとしただけじゃない!」

 再び唇がきりりと結ばれた。黙って教室を出た立村を、清坂は、

「言いたいことあるなら言いなさいよ。それ以上にいい方法、何あるっていうのよ!」

 罵りを続けながら追いかけていった。

 残されたのは秋世と彰子のふたりだけだった。


「あきよくん、うん、そうだね。言いたいことはよくわかる」

 罵倒の雨を降らせて泣きの涙でうつぶせててもおかしくないはずなのに、彰子の頬にはかすかな笑みが浮かんでいた。

「それは、あきよくんの考えなんだね」

「あたりまえだろ」

「同じように、私にも、私なりの考えがあるんだよ。あきよくんが正しいと思っていることと、私が正しいと思っていることは、少し違うかもしれないね」

 ──なにいい子ぶってるんだよ!

 またわめきたくなるが喉が疲れてやめた。彰子はそれを勘違いしたのか、もう一度目一杯の花笑顔で答えた。

「私はね、もし、あきよくんが同じようなことをして、悪いことをして、不良になったとしても、決して『悪い人』だとは思わないよ。どんなことがあってもね。私の周りにいる人も、世界の人も、みないい人ばかり。それは、私が正しいと思っていることだから」


 ──正しい?

 向けられた穏やかな微笑みは、かつて自分にとって彰子が「姫」だった頃と同じものだった。

 ──昭代に一生消えない傷つけて、お姉さんたちといちゃついて、彰子さんをずったずたに切り付けて、南雲家の悪魔になりやがって、そんな俺が、『いい人』なのかよ。

 ──本当のことを知っても、それでも『いい人』って言えるのかよ!


 秋世はただ逃げるしかなかった。

 教室を飛び出して初めて、ギャラリーらしき女子たちが心配そうな顔でもって見送っていることに気がついた。果たして自分の背中に悪魔のマークが刷り込まれていることに気づいた女子はいるのだろうか。もしいたらすぐに、本当の彼女にしてやるのに。その場ですぐに、「不良」になってやるのに。彰子にちゃんと、「側にいた男子が、いい人ではなかった」ことを証明してやれるのに。



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