第二部 25
──逃げたくたって逃げられねえよ。
「うちの母さんがよく話してたわ。昭代はそそっかしいから、生まれるおなかを間違えたんだって。子どもにはそれ以上詳しいこと教えてもらえないのよね」
妙子さんの言葉を、秋世は硬直したまま聞いていた。
──嘘だろう?
妙子さんの言葉が正しければ、昭代の父はおじさんということになるし、妙子さんとも半分血が繋がることになるし、さらに言うなら瑞希おばさんとの関係も単なる姪っ子以上のものになるのではないか? 父が同じの、腹違い。
──そんな奴、可愛いと思うか? 普通、憎むだろ?
瑞希おばさんの昭代にかける愛情の深さは、近い分母よりも濃くみえた。
「ありえないことってことで、話を進めたいんですけどいいですか?」
断りを入れて、秋世はきわめて静かに言葉を継いだ。
「妙子さん、そのこと何時ぐらいに気づいたんですか」
「大学に行ってからよ」
「それまでは?」
「わかるわけないじゃない」
埒があきそうにないので、話をそらしてみた。
「下世話なこと聞くようですけど、続教授とは何時頃出会ったんですか」
「入学してからよ、私はね。秋世くんのようにもてるタイプじゃないから」
「そんなこたあないでしょう」
客観的に見れば妙子さんは女子大生のサンプルみたいなタイプ。よくいるけども、醜くはない。
「授業が一緒だとか?」
「いろいろよ」
言葉を濁したところみると、かなりどろどろしたものがあるのだろう。中学生らしく秋世はそれ以上の追及を控えた。
「けど、うちの親たち、そんなごたごたが起こった中で、よく平気な顔してられましたよねえ」
「そうね、私もずっと不思議だったわ」
過去形で妙子さんは呟いた。
「南雲のおばあさんが生きている間は、すべて秘密が守られてきたのでしょうね」
昭代を養女として瑞希おばさんに引き渡すことを拒みつづけた両親。
「ばあちゃんに抵抗したかったのかなあ」
「そうともいえるわね」
「俺がいなけりゃよかったっつうわけですか」
「そんなことはないんじゃないの。ただ、秋世くん、君は南雲のおばあさんによってずっと守られてきたのは確かよ。昭代が小さいころから見つめてこなくてはならなかったものを知らずにすんだんだから。半分くらい持ってくれたっていいんじゃないかって思っただけなの」
言葉は途切れることなく続いた。
「血液型を鑑定するとかいろいろあるでしょうな」
「そうね、はっきりするわね。だけど私たちは、昭代を自分たちの家族として迎えることができさえすればいいの。南雲家の人たちをずたずたにしようとも思ってない。ねえ秋世くん。今、家に帰りたい?」
いきなりとっぴょうしもないことを尋ねられても困る。妙子さんの言葉トーンが不自然に上がったのを感じた。しかたないので自分もばかっぽく、
「あすは期末試験だし、帰らないとまずいでしょう」
「そういう意味じゃないの。秋世くんはこのまま、南雲家に住んでいたい? ご両親と一緒に?」
深呼吸した。心臓の位置に軽く手を置いた。鼓動しているのを感じた。
「本音言っちゃえば、あまりってとこですね」
「そうよね、だったら、すべき」
「何をですか?」
「秋世くん」
凛とした声が、車内に流れた。
「あの家から、一刻も早く逃げ出しなさい」
──逃げる?
あっけにとられてしまった秋世を、べとっと押さえつけるような口調で妙子さんは続けた。
「私もね、高校卒業する頃くらいから、何かこの家はおかしいんだって思っていたのよ。気づき始めたのはもっと早かったけど、具体的に何かを理解したのは大学に入ってからね。私がずっと暮らしてきた世界が、実はどろどろした血まみれの牢獄だったなんて認めたくなかったわ」
さすが国文科だけあって、文学的表現を混ぜる。なんだか芝居がかってておかしい。
「いつ、妹がいなくなって、いつ、父さんが風俗通いを再開させて、いつ、母さんが嫉妬の鬼になってヒステリーを起こすか、それが毎日続くのか、そんなこと考えると気がおかしくなってしまいそうだった。それがかつての私なの」
「そんな風に見えなかったけどなあ」
「すべては昭代がいたから、私たちは救われていたの」
だんだん神がかりっぽい口調の妙子さん、なんだか狭い車内で息を潜めているのも落ち着かない。
「だって、父さんにとって昭代は自分のお父さん……おじいちゃんよね、私にとっては……とそっくりな昭代の顔みていつも和んでるし、母さんもいつも昭代のことを『この子はうちの末娘ですから』って何度も力込めて親戚に説明しているし。あの子がいたから、私たちは『家族』で入られたの。昭代がいなくなってしまったら、きっともとに戻ってしまう、そうなるのは見え見えなの。私が結婚して出て行ったら、残るのは昭代だけなの」
秋世は無理やり断ち切った。
「だから昭代を置いて、妙子さん、あなただけ逃げるってわけですか!」
なぜいままで妙子さんが、秋世を真綿で締めつけるような責め方をするのか。
なぜ、妙子さんが昭代を過剰に求めるのか。
なぜ、「ありえない話」を「ありえる」ようにするのか。
妙子さんはただ、自分だけ逃げ出したかったのだ。
秋世にはすべてが読めた。
──妙子さんは、異常な自分の家から逃げ出したくて、だから続教授と結婚するんだ。
まだ大学生なのに、なぜ結婚に急ぐのか、その答えを妙子さんは裏の言葉で語っている。
「そうよ、逃げちゃいけない?」
あっけない答えが返ってきた。
「私はまだいいのよ。昭代がいればまだ両親も、ずっと穏やかな空気の中暮らしていけることがわかっているから。でも、秋世くん。君は違うわ」
「何が違うんですか」
「南雲のおばあさんが亡くなるまで、ずっと何も知らず、何も考えずにきたわけでしょう。それは秋世くんのせいじゃないとわかっているし、だからこの十年以上の間うまく繋がってきたわけでしょう。バランスが取れていたというのかな。でも、南雲家にもし昭代が戻ったとしたらあの子も苦しむし、南雲家の人たちも同じ罪を見つめて地獄を見るだけだと思うの。秋世くんが覚えていなくても、昭代はいまだにリアルに感じているんだもの」
妙子さんは自分に酔いしれている風だった。演劇の台本を読み上げているような、抑揚のなさ。どんなに秋世が言い返してもあっさり流されてしまうだろう。聞くしかなかった。
「私たちにとって昭代は身代わりの子どもでもなんでもない、たった一人の妹なのよ。でも南雲家にあの子が戻ったら、『秋世くんの身代わり』としてずっと生きていかなくちゃいけないのよ」
「あのー、俺生きてます」
「『代わり』の文字は変わらないのよ。秋世くん、もう一度言うわ。ゆがんだ形の南雲家から一刻も早く抜け出すべきよ。どれだけゆがんだ世界に生きてきたか、きっとわかるはず」
「昭代と俺と一緒にしないでください」
だんだん自分でもいらだってきている、もし向かい合っていたら胸倉つかんでいるかもしれないくらい激しそうだ。
「だから、俺は最初から言ってるでしょうが。親同士でそのことはもうけりついてて、俺にはもう関係ないし口出しする気ないって。昭代がそっちに行きたいんだったらそれはそれでもういいですよ、なんでそこまでしつこく俺を責めるんですか!」
言い切りながら妙子さんのもくろみをもう一つ、読んだ。
──俺に一生、忘れるなってことなんだな。
妙子さんの言う「ありえないこと」一部始終は、今、この車内にて、秋世の鼓膜に永久保存されてしまった。たとえ後から「ありえないこと」と否定しようとも、記憶を意識的に失うことはできない。もう、「ありえること」として、焼きついている。どんなに耳をふさいでも聞こえてくる。
──昭代は、おじさんの子?
ミラーに映る妙子さんの顔は、ただの黒い切り絵細工にしか見えなかった。
でもどうして、そこまで、しつこくこだわるのだろう?
秋世はもうひとつだけ、妙子さんのねらいを読み取り、乗ってみることにした。
「妙子さん、昭代は俺に何されたって言ってるんですか。ほら、その精神科医の先生、俺が何をしたって話してるんですか」
話したくてうずうずしているはずだ。秋世をとことん叩きのめしたくてならないはずだ。それならこちらから、最高のきっかけを作ってやろう。後部座席から息を呑む音がした。
「秋世くんは覚えていないのよね」
「けど五歳の退院直後のことは、細かいことまで覚えてますけどねえ。とこやさんごっこは覚えてねえけど」
「じゃあ、秋世くん、ひとつ聞きたいんだけど、それほどたいしたことないってことで、昭代を叱ったりしたことなかった?」
──たいしたことないってこと?
入院生活が無事終り、意気揚揚と家に帰ってきた秋世、
両親が入れ替わりに瑞希おばさん夫婦と旅行に出かけたらしいというのは後から聞いた。
今まで写真でしか見たことのない二歳の妹を、両親の言う通り「可愛がってあげ」ようとし、いろいろと連れまわそうとした。でもほとんど家の中でばあちゃんと絵を書いたり、折り紙をこしらえたり、本を読んだりと、中遊びがほとんどだった。
「そう、この前もそう言ってたわよね。本当に記憶にないのならどうしようもないけど、確か遊んでいる最中に、おばあちゃんの飼っていた巨大金魚を殺してしまったとか、そういうことはなかったの?」
「ああ、それあったあった。思い出した」
たいしたことじゃなかった。ちゃんと記憶に残っている。忘れるわけがない。
「昭代、そんなこと言ってたんですか」
「確かたまたまおばあちゃんの飼っていた金魚の鉢に、ジュースか何かを入れて、みんな死んじゃってって」
「すみません、それ、微妙にニュアンスが違います。事実説明しますよ」
なんだ、こんなことか。てっきり幼女いたずらのてんこもりだと思っていたけれども、たかがそんなことでか。秋世はすらすら話した。簡単だった。
「つまりですね、俺がずっと家の中で絵の具使ってお絵かきしていたんですよ。これでも絵は得意でしたからね。ばあちゃんも一緒にくっついてやってました。けど、やっぱし二歳ですからね、昭代も一緒に描くってのは不可能だったんですよ。しばらくばあちゃんと俺とが絵描きさんごっこしていたら、いきなり昭代が奇声上げて、俺の使っていた絵の具水入れを金魚鉢にまかしちゃったんですわ。その水、もう群青色なんだか紺色なんだか、とにかくすごいことになっていて、それにどう考えたって金魚の身体にいいものは入ってねえし。即、二十センチ大の金魚さま、みな、白い腹出してお陀仏」
「そう」
かわいそう、とかもっと言ってくれればいいのに。
「ばあちゃん、さすがに昭代を怒るわけにもいかずに、ただ泣いてました。とにかく泣いてました。そりゃあそうっすよね。五年くらい飼ってたんですか? 俺が生まれた年に、記念につがいで飼ったって話ですから。そりゃあ泣きますよ。もうそれ見てて、俺もめらめらと燃えてくるものがあってですね。それなりに教育的指導をしたと。お兄ちゃんとして、でしょうか」
「それが発端よ、きっと」
蘇った記憶のどこにも、自分を責めるべき場面は存在しないのに。
──俺、そんなすごいことしたっけ?
ごくありがちな兄妹げんか。
妙子さんが呟くのが、後ろで聞こえた。
「そうね、きっと秋世くんにとってはたいしたことなかったのね。大好きなおばあちゃんが宝物にしていた金魚を死なせてしまった昭代をおしおきしただけですんでるのよね」
「おしおきなんて、そんなたいそうなものじゃ」
顔をつねったり、頭をはたいたり、庭に連れ出して金魚に土下座しろと叫んだり。まあ、今やったらまずいだろうが、それ以上に過激な行動は取らなかったような気がする。
「でもね、昭代は覚えているのよ。秋世くんがたいしたことじゃないと思っている行動の後、何をし、何をされたのかみんな覚えているの。髪の毛を引っ張られた、蹴られた、服を脱がされおしりぺんぺんされたとか」
「俺そんなことしてないですよ」
「昭代の記憶が嘘言ってるって言うの!」
凄みのある声が返ってきた。
「そしてね、その間一度も、おばあさんは助けにきてくれなかったらしいのよ。秋世くんがしたいようにしている間、昭代はひとりぼっちだったの」
「いや、けどあれだけめんこがってる金魚ですよ、二十センチくらいのでっかい奴ですよ。やっぱり、死んだら情も移るとか」
「孫娘がいたぶられているのを無視していいくらい、金魚が大切だったの? あのおばあちゃんは」
「いやそれはないかと。たぶん、子どもの遊びの延長かと思ったんじゃないかな、ばあちゃんは」
「それが答えよ、秋世くん」
車の中ではない、ここは魔女の巣窟だ。
気づくのが遅すぎた。秋世は身動きとれないままでいた。
「秋世くんと昭代の記憶は一生重ならないわ。何度も言うようだけど、それを責める気はないわ。ただ、昭代はこれからも、記憶にとことん責められていきていくの。病院の先生も話していたわ。今、表面的に問題なくても、大人になって恋愛したり結婚したり人間関係をこしらえていったりする時に、ひょいと問題として出てくるって。自分でそれを理解して生きていかなくちゃならないの。私たち家族ももちろん、一生かけて昭代を守るわ。だから秋世くん。秋世くんは一生、昭代が感じている苦しみを理解することはないけど、ただ同じ程度の痛みは感じて生きていってほしいの」
──勝手な言い分だ。お釣りがきそうなくらいの、毒を飲ませたくせに。
秋世は妙子さんが車から降りるまで何も言わなかった。
来るまでは、すべての罵倒を受け止めようと心に決めていたのに、たたきつけられたのは自分の許容範囲を越えるくらいの、毒だった。
教授が戻ってきた。一カートンのタバコは手付かずのままだった。ポケットから手のついたタバコを一本抜き出すと、窓を開けてライターで火を点けた。
「話し合いは無事終わったか?」
「はあ、それにしてもずいぶん、濃すぎる話でしたね」
身体に回る毒の感覚を気づかれたくなかった。注射された時と同じような気分で、秋世は息を潜めた。やっぱりおちゃらけよう。それが自分には最も合っている。
婚約者と同じことを続教授は尋ねた。
「家に帰りたいかい?」
「こういう話を聞かせていただいた以上、かなりしんどいです」
わざと口元だけで笑ってみせた。軽い別人格として行動せざるを得ない。
「すいませんが、あの写真なんですけど探偵事務所にでも申し込んだんですか」
「ご名答だ。ご両親があれだけ憔悴しきっていたら、何かしなくてはと思うのも人の道だと思うんだが、どうかな」
「ずいぶん金かかったでしょうねえ」
幸い教授は、秋世のふざけた言動を大目に見てくれた。こんなところで辛気臭い説教を聞くよりずっとよい。聞きたいことをまずはぱっぱと尋ねておいた。
「この写真、うちの両親には見せてないですよね」
「君の家を修羅場にしても、何も始まらないよ」
「ありがとうございます。けど、この写真どうするんですか?」
親に見せる気がないのならばラッキーだが、どうもこの人、何かたくらんでいるような気がする。用心深く探りの手を入れた。
「まあ、これからいとことして、いい付き合いをしたいから、そのきっかけにだね」
教授はタバコを一本吸い終わると、また一本取り出した。肺がんになるぞ、このままだと。
「これから秋世くん、君のお家に向かうわけだが、今のところはおとなしくしておいた方が身のためだぞ」
「はいはい」
説教は笑顔で交わす。さほど気分を害したわけでもなさそうで、教授はタバコを持った片手を外に出し、煙を外気にくゆらせた。
「今の君が考えていることは、だいたい想像がつく。ご両親の顔なんぞ、本当は見たくもないだろう。本当は夜の街ですべてを忘れたいだろう」
「いや、今はちょっとまずいかなあ」
「でも今まで通りの反抗だったら、すぐ家に引き戻されるだけだよ。私のように、『大人』の方法によって、すぐに」
──反抗、ね。
みしりと心にひび割れが走る。
「もっと利口なやり方を考えるべきだ。秋世くん。君は真剣にこれから、この家から逃げ出すことを考えるべきだ」
「なんでみんな同じこと言うんですか?」
妙子さんも教授も、みな似たようなことを口にする理由が、まだわからない。
「妙子さんも似たようなこと言ってるんですけど」
「君のご両親はもちろん君が可愛い。おばあさんも最愛なる君のためだったら白を黒と言い含めることくらい造作もないことだっただろう。君が見ていなかったものを、死ぬまで見せたくないと必死だろう。でも、君はそれを望んでいないだろう? 秋世くん」
──そうかもしれない。
秋世は頷いた。
「けど、この狭い青潟にどう逃げればいいんですか。俺もまだまだ金ないしなあ。せっかく青大附中に入ったんだから、このままできればエスカレーターで進みたいし、もう受験勉強するのはごめんだし、結婚するのはまだ早いしな」
声を上げて教授は笑った。
「そのノウハウについては、私も若干の心得がある。まずはゆっくり寝て、作戦を練るんだな。私の研究室には何時でも電話をかけてきなさい。もちろん妙子くんには話す気はないし、男同士、いろいろ知りたいこともあるだろう? 私も、これから妙子くんに悩まされた時に、君からいとことしての助言もいただきたいしな」
名刺を渡された。大学名、国文学科教授と太文字で書かれているのは見えたが、名前は読み取れなかった。タバコの吸殻を窓から捨てた後、教授はゆっくりと車の発進準備を始めた。
妙子さんは逃げることができた。結婚という名の保護区に。だけど自分は。
──逃げたくたって逃げられねえよ。
やたらへんなとこがかゆくなる病気も治った気配はないし、他人様に迷惑をかける以上夜遊びも封じ込められたまま。街波とすれ違う年上の女性たちに甘えるわけにもいかない。
どこまで事実かわからないにせよ、心底腐りきった我が「南雲家」。
いとこや他人からも「早く逃げろ」と言われるような我が家。
──逃げれったって逃げ場所ふさいでるの、あんたたちだろうが。
秋世は窓を開けてかすかなタバコくささを外に流した。鬱陶しいくらい墨色の空が広がり、ところどころに星がちりばめられていた。天の果てにも秋世は逃げ路を封じられたような気がした。