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第二部 24


──そうよ、絶対、決して、ありえないことだから。ただね真実を知っているのは、樹おばさんだけなの。私にはそれ以上、何も言えない。




 瑞希おばさんの家から少し離れた路地に車をつけた続教授は、

「少しここで待ってなさい」

 そう告げて急ぎ早に車から降りた。そういえば妙子さんに電話連絡を入れてなかった様子だった。これから連れてくるのだろうか。

「妙子くんだけと話したいだろう?」

「まあ、そうですね」

 車内の空気がよどんでいる。窓を開けて首を出した。生ぬるい風が美味しい。


 ポケットの中から単語帳を引っ張り出しめくったが、もう闇の落ちた車の中で、文字を読み取るのも面倒だった。どうせ勉強なんてする気もなかったのだ。すぐにポケットへ戻した。

 ──何、聞けっていうんだろうな。

 自分から妙子さんと話をしたいと申し入れたにもかかわらず、いざ、何を話せばよいのかと迷う自分もいた。両親、教授から教えられた「事実」がうさんくさいものだと感じ取っていたからかもしれないが、それ以上にあの場所へ居座っているのが苦痛だったというのも否定できない。続教授のおかげで、なぜ秋世が引き出しをあさっていたのかその理由を問い詰められずにすんだけれども、さてこれからどうしようか。

 ──まあいいさ。そんな急を要することじゃあないしな。 

 クーラーの効いた車内で頭を冷やしたせいだろうか。落ち着いてきた自分がいた。

 期末試験もさることながら、そろそろ規律委員会の一学期総括も行わねばならないし、いろいろと考えることはあるはずだった。たとえば、その後東堂がどういう経路を辿って彼女との交際に苦悩しているのかとか、立村があのあと清坂との交際に問題をきたしていないのかとか。自分のことより人のこと、そちらに意識を向けて、ふやかしてしまいたかった。

 ──それにしてもさ、妙子さん、続教授とどういう風なきっかけで付き合いだしたんだろうな。下手したらさ、教授、妙子さんとこのおじさんやうちの父さんよりも年上だぞ。おじさん、困るだろうなあ。自分より年上の相手を「婿殿」って言うことになっちまうんだからさ。妙子さんってもともと年上好きだったっけか。

 瑞希おばさんのご主人にあたる叔父さんは、秋世によく感覚が似た人だった。いつも「まあいいじゃないか、なんとかなるさ」が口癖で何事においても安請け合いが多く、言いたいことを何でも口にする性格の瑞希おばさんに「ったく、そんなできもしないこと、いい顔して受けてこないでよ!」などといつも叱られているのをよく見かける。秋世とは「極端に前向き思考」なところがよく似ていると母がよく話していた。なかなか面白い人だと思うし、秋世としては自分の父よりも話がわかるタイプじゃないかと感じているのだが。ただどうなんだろう。どう見ても続教授とは全く異なる雰囲気をかもし出している人のはずだ。

 ──よく言うじゃん、女性は父親に似たタイプの男を好きになるって。

 ──百パーセント、妙子さん、その気ねえよな。

 昭代の顔と重ね合わせた。

 ──おじさんのこと、昭代も好きなんだろうなあ。ああいうタイプ好きだったらさ、俺とうまくいかないなんてこと、ふつうないじゃん。

 飲み込んだ。いくら自分と叔父とが似ている、そう思っても、もう言えない。


 五分くらいで妙子さんが後部座席にもぐりこんできた。教授も運転席に乗り込むのかと思いきや、カーラジオの上に置いたタバコを一カートン、手付かずのまま持ち出して、

「話したいことがあるなら、ここですべてすっきりした方がいい。妙子くん、秋世くん」

 静かに告げた。

「あの、教授」

 まさか一カートン全部吸うなんて、肺がんの路まっしぐらなことするわけないだろうが。

「私はその辺で時間をつぶしてくる。終わったら、呼びに来なさい」

「呼びにって?」

 妙子さんも戸惑い気味だった。最初、助手席に座ろうとした妙子さんだが、秋世が軽く会釈したのを見て一瞬硬直した。秋世との話を済ませるためと説明されていなかったのだろう。特段、教授を攻め立てることもなく、自分から後ろ座席に乗り込んだところみると、秋世を邪険にすることなく語り合いを求めていることが窺い知れる。ただ、妙子さんと過去に交わした会話の内容からすると、彼女はエキサイトしたとたんとんでもないことを暴露しないとも限らない。それを恐れたりしないのだろうか。

「あの、教授、一つ聞いていいっすか」

 運転席側の戸を締めようとする教授に秋世は尋ねた。

「今から話すこととか、聞くこととか、全部うちの親、了解してるんですか」

「きちっとした言葉を使うね、秋世くん」

 こんなとこで誉められても嬉しくはないが。教授は呼吸、動作、一秒きちっと止めた後に告げた。

「君に話すべきかどうかは、すでに半年前から相談していたことなんだ。だから、言いたいこと聞きたいことがあるなら、すべて吐き出してしまいたまえ」

 半年前、祖母が存命中の時からか。

 ドアがきっちりと閉じられ、続教授が青いタバコ一カートンを片手に背を向けるのを見送った後、秋世はゆっくりと車窓を開いた。周囲には全く人気がなかった。いったいどこで時間をつぶすつもりなんだろうか。全く想像つかない中、秋世は妙子さんのいる後部座席に振り返った。

「何はともあれ、ご婚約、おめでとうございます」

 薄暗く表情は読み取れない。妙子さんはか細い声で、「ありがとう」そう答えた。

 闇の中に浮かぶつややかな口紅と、相変わらずつるつるした風に見えるワンレングスの髪。

 かつてひと時を共にした女性たちのことを思い出すと同時に、妙子さんの口元が動くのを見た。

「秋世くん、昭代を、私たちにください。お願いします」

 

 私たち、と言われたってもう話は済んでいることだろう。

「ちょうだいもなにも、もうとっくにうちの親たちと話決まってることでしょう。俺になんでそんなこと聞かなくちゃあなんないんですか。昭代だって瑞希おばさんとこにいたいんだろうし、俺はガキなんだから勝手にしちゃえばいいことでしょうが」

 さっき教授や両親に言ったことを同じ内容を妙子さんに告げた。息を呑む気配と同時に、髪の毛がさやさや擦れる音と混じってため息が聞こえた。

「聞いていたの」

「さっき、反抗期のどんぱちっていうんですか、ちょっとやらかしましてね。その際に続教授にたっぷりお灸据えられましたよ。ま、しょうがないですよ。俺がしたことを昭代が許してねえんだったら。正直、どうやって償えばいいか見当つかないし。妙子さん、ほんとに俺、その点責められてもしょうがないんだけど、本当に覚えてないんですよ。俺が昭代に何したか」

「そう」

 意外にもあっさり流された。

「たぶん、妙子さんも昭代も、俺が何にも知らないでのうのうと暮らしていくのが許せないんじゃないかなって気、正直します。同時に、もし昭代に今別の奴が似たようなことをしたとしたら、本気で殴りに行くだろうし、その気持ちも本物ですよ。けど、それは俺の都合だし、昭代にとって一番いいのが瑞希おばさんとこに行くことなら、それはそれで、しかたないと思います。俺にできる罪滅ぼしったら、それしかないでしょう。どうせ俺は犯罪者なんだから」

 「犯罪者」言葉に少し嫌味が混じったかもしれない。

 妙子さんはもう一度、「ありがとう」と呟いた。

「私も、秋世くんを責め過ぎたわ。本当は誰も責めるべき人なんていないのにね」

 髪の毛を片手で押さえるしぐさがバックミラーに映った。

「あの、妙子さん、俺も聞いておきたいこといくつかあるんだけどいいっすか」

「何?」

「さすがに大人たちに聞くと、みんなごまかすだけだし、その点同じいとこ同士のよしみってことでいかがでしょう? 俺もこれからの人生、いろいろ背負っていく罪ってものがあるし、調べておきたいんですよ。ばあちゃんが俺のことをかばってたってのは一応うちの親から聞いてます。相当な悪ガキだったってことも、まあそれなりに」

 言葉を切って、妙子さんの様子をミラー越しに窺った。秋世の方に視線を向けている。

「俺が今まで、どうしようもなく脳天気な奴だったってことがよっくわかった以上、妙子さんが今まで俺に言いたくてもいえなかったことを全部聞いとかなくちゃなって思う今日この頃なんですよ。たぶん昭代とこれから先、語り合う機会ってのは、銀河系滅亡するまでないでしょうし、そんなことしたらたぶん俺、自分のことを知らないっていう言い訳でもって守るしかなくなると思うんですよ。だからこそ、妙子さんの本音を全部聞いておきたいんです。全部俺の頭ん中にぶち込んで、一生忘れないようにして生きていこうって。それが俺のできる、昭代への償いなのかなって、そんな風に思うんですよ」

「秋世くん、なぜ」

「だってしょうがないでしょう、俺はいるだけで、大迷惑かけてたんだから。昭代にも、うちの親にも、妙子さんちにも、それから」

 ──街で出会って、たぶんやばい病気を移してしまった可能性のある、女の人たちにも。

 口の中でごまかし、秋世はさらりと笑顔を見せて振り返った。

「大丈夫ですよ、俺、中学生にしては、結構世の中、知ってるほうですし」

 妙子さんは首をかすかに振った。唇に小さな光が点ったように見えた。

「私の家のこと、お父さんお母さんから噂に聞いたことない? 昭代がうちに来るまで、うちの両親、夫婦仲が悪くて離婚寸前だったってこと」

 妙子さんの言葉は途切れそうでいて、しっかり繋がっていた。合間に相槌を打つ必要はなかった。秋世は黙って真正面のバックミラーだけを眺めていた。


「うちの父さん、私が子どもの頃はほとんど家に居なかったの。後で聞いたことだけど、女ぐせが悪かったみたいなのね。今では信じられないってみんな言うけれども、本当のことよ。私はその頃七歳だったけど、いつも母さんに言われていたもの。もしかしたら転校するかもしれないよって。お父さんは離婚する気さらさらなかったし、今思えばお父さんなりにお母さんのこと大好きだったんだなってわかるんだけど。だけどお母さんにとってはいやでならなかったのね。毎日風俗に行くような男なんて」

 胃の痛い話だ。きっと叔父も秋世に似た心配をしたことがあるのではないだろうか。いざとなったらおじさんにそのあたり相談した方がいいかもしれない。ちらと思った。

「その頃、秋世くんはずっと病院に入院しっぱなしだったでしょう。まだ小さい頃だし覚えていないと思うけど、樹おばさん、いつもうちの母さんに愚痴っていたの。秋世くんが生き延びる確率は半々だって宣告されているって。いつ死んでも不思議じゃない、って」

 今、こうやって生きている自分と、妙子さんの言葉に混じる自分とは別人に思える。腕をつねってみる。痛い、確かに生きている。

「きっと辛かったと思うの。子ども心に私も感じてたわ。秋世くんが死んじゃったらきっと、樹おばさん辛いだろうなって。だからうちの母さんよく話をしていたの。あの頃はまだうちの母さんと樹おばさん仲良しだったから、慰め合えたんだと思うけど、『もう一人作りなさいよ』って。もう一人、子どもを作りなさいって」


 ──身代わりか。

 妙子さんが教授の研究室で激昂して叫んだ言葉が蘇る。


「あの頃、秋世くんには南雲のおばあちゃんがずっとつききりで看病していて、樹おばさんは南雲のおじさんの仕事を手伝う関係上、どうしても離れられなかったらしいの。それはしかたないことよ。秋世くんの入院費用は相当かかったはず。でもその一方で樹おばさんは、昭代を身ごもったの。どういうことかわかる?」

 単純に妊娠した、だけじゃないのか? 首を振って伝えた。

「うちの母さんに勧められた通り、もうひとり、作ったの」

「身代わりをですか」

 妙子さんは一刻、黙った後、

「そう南雲のおばあさんは思ったはずよ。樹おばさんの本心はわからないけれど」


 ──ばあちゃんが?

 妙子さんの口調からは、「南雲のおばあさん」という言葉に若干のひりひりした傷が混じっているように伝わってきた。


 妙子さんはあえて感情を抑え目に、自分のワンレンスタイルと同じようにありふれた言葉で伝えようとしていた。

「秋世くんの体調が一進一退で、それこそいつどうなるかわからない時に、なんでもう一人子どもを産もうと思ったのか。もちろんかんぐられたらそれまでよ。私はまだ子どもだったし、そのあたりの複雑な事情は知らなかったけれども、南雲のおばあさんが怒ったという話だけは伝わってきたわ。本来なら秋世くんの看病にすべてを捧げ尽くすべきと思っておられたのね、きっと。おばあさんにとって、秋世くんは命だったのよ。南雲家の跡取息子とか、かけがえのない孫とか、そういう話とは別にして、宝物だったのよ。なのに樹おばさんはそんな緊急時にもかかわらずおなかに赤ちゃんを迎え、万が一秋世くんがいなくなった時の『身代わり』として昭代を産んだ、それが許せなかったのよ」

「それ、ばあちゃんが言ったんですか」

「言葉ではなく、態度でそれが伝わってきたらしいの。秋世くんはおばあさんの穏やかなところしか知らないでしょうけど、うちの両親や昭代、樹おばさんに対しての態度は本当にシビアなものがあったのよ」

「いや、うちの母さんとは嫁姑の仲さほど悪いようには」

 きっぱり妙子さんは切り捨てた。

「それは昭代がいなかったからよ」


「秋世くんの看病をおばあさんがずっとしつづけている間、樹おばさんは昭代を産んだの。同時に秋世くんの体調もかなり厳しいものになってきたらしいわ。覚えてる?」

「まさか、俺、生まれてから一度も死ぬって思ったことないし」

 病院で寝ていて薬飲まされたり手術したりしたことはあるけれども、一瞬だって自分がこれでおしまいと思ったことはなかった。本当だ。

「南雲のおばあさんの命で、昭代は生まれて数週間でうちに預けられたのはそれが理由なの。それはしかたないことだと思うわ。秋世くんの病気は感染症だったし、まだツベルクリン注射も終わっていない赤ちゃんを育てながら同時に看病というのは、どう考えたって不可能だもの。それに、不思議なことだけど、昭代が生まれてすぐ、私たちすぐに樹おばさんを見舞ったんだけど、おじさんおばさんが抱っこしても泣き止まないのに、私や父さん母さんの方を見るとすぐに落ち着くの。理由はわからないけれども、なんとなく私たち家族のことが好きなのかもね、って笑ってたわ。崩壊寸前の家族だったのになんで、もうひとり赤ちゃんを育てようと思ったのか、今考えると不思議。離婚すること考えたら余計なお荷物なんて持ちたくないはずなのにね。うちの父さん母さんは、おばあさんに頼まれてすぐ、昭代を預かることになったの」

「犬や猫じゃああるまいし」

 やはり原因は、秋世自身にあったのだろう。ポケットから単語カードを取り出し、ぱらぱらとめくった。


「風俗通いがやまなかったうちの父さんが、昭代が帰ってくるなりやたらと早く家へ帰るようになったこととかね、うちの母さんがあんなにヒステリーばかり起こしていたのに昭代のおむつを変えながら鼻歌歌っていたりね。赤ちゃんひとりいれば毎日戦争で殺伐とするものだと思っていたのに、何かが変わっていったの。子ども心にも、家に帰るのが楽しくなったのはその頃よ。私が昭代の面倒を見る手伝いをすると、両親が喜んでくれた。今までこんなことなかったの。頼りにされて、いつのまにか家族の中に昭代はアイドルとして鎮座ましていたというわけなの。もちろん南雲家からお預かりした大切なお嬢さま、という意識がなかったわけではないと思うのよ。ちゃんと樹おばさんも昭代の顔を見に帰ってきていたけど、どうしても泣いちゃうの。なつかないの。原因がわからないの」

「いまだにそれが続いていると」

「そうなの、秋世くんの病気が相変わらず危機を脱していなかったのもあるだろうけど、南雲のおばあさんが一切昭代への関与を拒絶したというのもあるでしょうね。名前もそうよ」

「昭代の名前ですか?」

 自分の名と訓読みが同じのその名。尋ねた。ひっかかった。

「樹おばさんは本当だったら、秋世くんと『よ』の文字を合わせたくて『世界』の『せ』の字を使いたかったらしいの。昭和の『昭』に、秋世の『世』で『昭世』」

「それは初めて聞いたなあ。なんかそっちの方が並べるとかっこいいってか」

 妙子さんは首を振った。指で宙に文字を書いた。

「南雲のおばあさんに厳命されたそうなの。秋世くんの『身代わり』として作った子どもに『世』の文字を使うことは許さないって」

「はあ? よくわからんなあそれ」

「『昭代』の『よ』の文字は、昭代を産む理由となった意味を込めて『見代わり』の『代』を使うように、って。樹おばさんは昭代を秋世くんがいなくなった時の保険として産んだのだから、そのことを一生忘れないように、って」

「ばあちゃんが、そんな」


 どう答えればいいのだろう。

 金縛りってこの状態なのか。

 喉が凍り付いて、言葉が出ない。

 ──俺の『身代わり』かよ。


「医学の進歩に伴い秋世くんの病気がよくなっていってから、私はいつも母さんに聞いていたの。『昭代がいなくなるの? 秋世くんが帰ってきたら、昭代はうちの子じゃなくなるの?』ってね。樹おばさんの娘を期間限定で預かっただけのことだし、それはそれで仕方ないといえばそれまで。だから毎日、祈っていたわ。昭代がうちの子でいてくれるように、みんな仲良く暮らしていけますようにって。南雲のおばあさんも、うちの母さんにできれば昭代を養女にやりたいようなことを話していたようだし、もちろんその気持ちも両親ともども強かったはずなの。ただ、樹おばさんは絶対にそれを受け入れなかったわ。その頃から、うちの母さんとの間がぎくしゃくしていったのかな」

「そりゃあそうだよなあ。自分の娘取られたくねえよなあ」

「だから、昭代がうちに戻ってきた時は嬉しかったわ。やはり、家族の一員として、かけがえのない存在だったことが、昭代の居ない時によくわかったのだもの。たぶん、あの頃から、養女の話は何度か話し合われていたはずよ。でも、樹おばさんががんとして首を縦に振らず、戸籍上は南雲家の、実際はうちの娘、そういう状態が続いてきたはずなのよ」

「よくそれで問題なかったなあと思う次第なんですが、俺としては」


 秋世が五歳の時にやらかした虎刈り事件も、妙子さんにとっては昭代を取り戻すきっかけとなったのだろう。今、その言葉は秋世に対しての感謝に聞こえた。決して喜ぶことのできない、真心からなる感謝。

「じゃあ、よかったんじゃないですか」

 腰から下が金縛り状態のまま、秋世は妙子さんに声をかけた。

「昭代も、おじさんおばさんも、妙子さんも望んでいることが今叶ったわけだし、それはそれでいいんじゃないですか。うちの母さんも意地張らないでさっさと瑞希おばさんとこに昭代を養女に出しておけば、そんな問題にならなかったのに、なんででしょうね」

 もうひとつ聞いておきたいことをつなげた。

「じゃあ、うちの母さんが今回あっさりOKしたのは、目の上のたんこぶなるうちのばあちゃんが死んだから? それとも、妙子さんの結婚?」

「たぶん、両方だと思うわ」

 妙子さんは言葉を選びながら秋世に答えた。

「秋世くん、おばあさんがなぜ病院で急変したか、聞いてないわよね」

「全然教えてくれねえし」

「養女の話をうちの母さんとおばあちゃんとの間で煮詰めていて、あとは樹おばさんの説得だけだったのは、今までの話の流れでわかってもらえると思うのだけど、あの日おばあさんはとんでもないことを話したらしいの。ありもしないことだけど、樹おばさんが激怒してしまって、言い合いになって、それでおばあさんの脳血栓が切れて」


 修学旅行の最中に起こった祖母の死。

 今、聞かねば、一生後悔する。

 喉まで完全に金縛りだった。手元から足の指に単語帳が落ちた。


「決してありえないことを、おばあさんは樹おばさんに吹き込んだらしいの」

「ありえないこと」

「昭代の顔のことについて」

 は? 全く見当がつかない。あのベース型の顔に何か問題あったのか?

「秋世くん、うちの父さん方のおじいさんの顔見たことある?」

 首を振った。全くわからない。妙子さんはもう一度「決してありえないことだから」と付け加え、

「昭代に輪郭と目鼻立ちがそっくりなの」


 全く言われた意味が繋がらなかった。

「決してありえない話ですよね」

「そう、うちの母さんも、絶対にありえないって言ってたわ」

「だってしゃれになりませんぜそれ」

 喉から出てくる言葉だけが軽い。

「昭代の顔は南雲家の血からなるものとは違うとか、もしかしたら昭代は南雲のお父さんの子じゃなくて」

「んなわけ絶対ありえませんってああた!」

 妙子さんは秋世の言葉を否定しなかった。頷いて、

「そうよ、絶対、決して、ありえないことだから。ただね」

 肯定か否定か、世慣れしていても読み取れないものがたしかに存在していた。

「真実を知っているのは、樹おばさんだけなの。私にはそれ以上、何も言えない」


 

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