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第二部 22


──今、最優先で考えるべきは、昭代ちゃんや妙子くんではなく、秋世くんです。


 ──ひとりもふたりも三人も、みんな似たようなもんだよな。

 期末試験を明日に控え、秋世はぼんやりと教科書を眺めていた。

 周囲からは、

「きっとおばあちゃんが亡くなられて、ショックが抜けてないのよ、あれでも南雲くんって純粋だから」

「規律委員長だしいろいろとストレスもたまってるんだろうなあ」

 などと好意的な見方をしてくれている。だから、取り立てて突っ張る必要もなかった。

 彰子がたまに、

「あきよくん、もし私にできることがあったら、いつでも言ってね」

 と笑顔を向ける時も、その好意に噛み付く必要はなかった。

「ありがと、やっぱり彰子さんはいい人だなあ」

 いつもの仮面でもって答えるだけだった。かつては彰子にだけとっておきの笑顔を用意していた自分なのに、いつのまにか他の女子たちに向けるものと同じもので間に合うようになっていた。秋世の中では明らかに違っているのに、彰子は全く勘付いていないらしい。それどころか、

「あきよくんは本当にいい人だね。私もがんばらなくちゃって思うよ」

 百パーセント勘違いもいいとこだ。そういう彰子が好きだった二週間前の自分を呼び出し、透明なゴムを被るように秋世は「いい人」の仮面を貼り付ける。

「俺も彰子さんには、かなわないよなあ」

 ほんと、かなわない。秋世が時折耐え切れなくなって席を立つ時も、ちゃんと自分なりの理由付けをして納得してくれる彰子には。いつまでたっても彰子の眼には、「やさしい王子さまの南雲秋世」が輝いているらしい。

 ──しかし、ほんと、これはまずいよな。

 秋世は時計をちらりと見た。今日は期末試験前日ということもあり、早めに下校することになっている。委員会活動、部活動も本日は禁止。

 ──行くとしたら、今日しかないよな。


「おや、どうしたの南雲よ」

 肩に手をかけてくるむさくるしい男・東堂がいた。挨拶代わりに手をぽんぽん叩いた。

「人生、いろいろあるのさ」

 クールに決めてみる。どうせこいつはなんだかんだ言って、元の彼女とよりを戻したはずだ。詳しい事情は聞かず、向こうから話すまで待っていようと思い実は二週間経っていた。女子みたいに「友だちだったら何でも話すのが筋でしょ!」という価値観を秋世は持っていない。しかし関心がないわけではない。そろそろ、だろうか。

「東堂先生、君の方こそ、どうなんですか?」

「まあいろいろとあるなあ、俺も」

 ひょいと肩越しに東堂は、

「立村、悪いな」

 評議委員長に呼びかけた。立村はちらっと秋世たちの方を見やると、えらく困った風にはにかんだ。東堂、再び声をかける。

「ということで、よろしくな」

「わかった」

 秋世にまた申し訳なさそうな顔を見せると、立村は教室から出ていった。恋人の清坂美里とは別行動らしい。

「ふうん、りっちゃん、清坂さんと一緒じゃないんだなあ」

「じゃねえみたいだな」

 たいして関心もない風に東堂は口笛を吹いた。

「となると、ハッピーなのは、もしかして東堂先生、君だけか?」

「誰がハッピーだっての」

「それを俺の前で否定するってのは、ちょっと違うんでないかい?」

 ネクタイを解き、シャツの胸ポケットに薔薇を挿した風に詰め込んだ。どうせ規律委員会がないのだからこのくらいはめはずしたってよい。

 東堂はしばらく秋世の肩を強くもんでいた。四、五回つぼを押す質のいいマッサージをしてくれた後、いきなり両手から重心をかけてみた。座れってことだろうか。近くの机に尻をのっけてもたれた。

「ああいうもの見せてくれたら、そりゃあハッピーエンドだと思うでしょうがよ」

「ばーか、違うっつうの」

 手をだらんと下げ、東堂は窓辺の空を眺めた。三年D組の教室から見える空は、屋根とカラスと、あとは白い太陽。すっからかんの夏空が近づいてくるようだった。

「おや、違うんですかい? てっきり彼女ともうやることやったかと」

 このあたりはおちゃらかし。思いっきり頭をはたかれた。ごめんごめん。

「親公認でできるかそったらこと」

「けど隠れてもんだり触ったりいろいろと」

 できるはずだ。少なくとも自分はちゃんとしたのだから。東堂は唇を尖らせると、

「親公認ってのが、必ずしも付き合ったわけじゃねえってのは、わかるよな、南雲」

「わかるようでわからないようで」

「本人にその気がなけりゃあ、しょうがねえだろうが!」

 言っている方から怒るんだから世話がない。秋世は東堂の絡みつく手をもう一度ぽんぽんと叩いた。

「その気ってのはな、東堂先生よ」

 一人も二人も三人も、することはみな同じなのだから。

「自分で盛り上げていけばなんとかなるってことよ」

 

 クラスの男子たちがしゃべりあう猥談も、保健体育の授業も、クラスの女子たちの肌も。

 すべてが秋世には幼すぎた。

 ──いまさらグラビア写真なんぞ見て、何燃えるってな。

 ──水着の下を想像するだけで喜んでるなよな。

 修学旅行終了後も、エロ話をわざわざ大声で叫んで顰蹙買っている水口を見てもそうだった。評議委員会の報告をしようとする時に時折「ほら、立村、恋女房の前でいいかっこするなよ」と菱本先生にからかわれる立村を眺めてもそうだった。

 そして、今の東堂も。

 ──やっちまえば、あんな簡単なことはないのに。

 余計なことかもしれない。今の話および、ここ二週間くらいの東堂の言動を見ている限り、いわゆるハッピーエンドの甘いカップルにはまだなっていないのだろう、と思えてならなかった。あえてからかうのを避けたのはそのためだった。東堂のことだ、ちゃんと彼氏彼女の関係を認めたならば、堂々と学校で彼女をエスコートして歩くだろう。そういうそぶりが全くなかったところを見ると、彼女に二度振られた可能性が大だ。今の話からすると、おそらくそうだろう。元彼女親には受け入れられたのかもしれないが、当の彼女本人には肘鉄食らわされていたとか。秋世の予想はそのあたりだった。

 ──あいつも、いつかこんな風に、あっさりと忘れる日がくるのかな。

 男としては、忘れた方が楽になる。秋世の実体験として、そう思った。


 後輩女子たちに手を振り、ひとりで校門を出た。

 「俺、最近めちゃくちゃ忙しくてさ、だからしばらく送り迎えできないけど、許して」と、彰子にはすでに伝えてあったし、鈍感な彰子は全く疑問を持つこともなく受け入れてくれていた。おそらく夏木と名倉あたりがあの迷彩柄自転車に乗って連れ歩くのだろう。それが本当は一番いいのだろう。一番心から思ってくれているコンビに、彰子を返すのが筋だろう。

 ──けど、今さらそんなこと、できるかよ。

 すでに青大附中において、自分と彰子とは最高のラブラブカップルだった。

 どうであれ、秋世が彰子にベタぼれだったことは、全校生徒および教職員も知っているはずだ。それをいきなり「俺、熱冷めた。悪いけど別れることにする」なんてこと、言えるわけがない。

 ──要するに、俺が悪いんだ。

 ──俺が勝手に熱上げて、勝手に飽きたってそれだけだ。

 もし秋世が彰子に別れ話を持ちかけたら、きっと彰子自身は受け入れてくれるような気がする。「いいよ、最初から友だちだったからね」と笑顔で答えてくれるかもしれない。でも、問題は周囲の連中だ。ずっと彰子にやっかんできた女子たちがざまあみろとばかりに嫌がらせをするかもしれないし、また他の女子たちが積極策を取って告白の嵐になるかもしれない。また秋世を目の敵にしている羽飛あたりが「てめえは所詮女たらしかよ」とつっかかってくるかもしれない。いやなによりも、彰子がこれから先、クラスにいずらくなる。元の彼氏とあと半年、同じクラスで同じ空気を吸わねばならないわけだ。いくら図太い性格であっても、苦痛ではあるだろう。

 ──少なくとも、俺の身勝手なんだから。

 今まで付き合ってきた女子たちと同じ扱いを彰子にするわけにはいかない。

 それだけは、秋世の矜持だった。

 

 しばらく古書街をうろついた後、やはり頼るべきは先輩なり、ということで本条先輩の家へ向かうことにした。とりあえずはまず、公衆電話を探しテレホンカードを差し込んだ。

「本条先輩、お久しぶりです」

 少し幼い声を出してみた。立村の振りだった。さすが弟分と秋世を分別できない本条先輩ではなかった。

「おう、なぐっちゃんか」

「やっぱりだませませんねえ」

「今日はずいぶんお早いお戻りとか」

「ばーか、期末試験前だから自主休校ってやつだ」

 ──要はさぼりかよ。

 納得した。わざとのほほんとした口調で秋世は続けた。

「ちょっとばかり、ご相談にのっていただきたいなあと思いまして。今からそっち行っていいっすか」

「学業関連のご相談ではないとみた」

「内密に願いたいんで」

 声を潜めた後、秋世はあっさり受話器を置いた。

 さすがにこれ以上、外でしゃべることなんてできやしない。



 本条先輩のアパートに着いて、ブザーを鳴らし戸が開くのを待った。

 茶のランニングに珍しく銀縁めがねの本条先輩が顔を出した。

「よお、入れよ。食い物は?」

 当然差し入れは用意してきた。バナナを十本ほど、あとはペットボトルのコーラを。バナナというのが非常に受けたらしく、本条先輩は受け取るなりすぐに皮をむき口へ差し込んだ。ずいぶん間抜けな顔に見えて秋世も思わず笑った。相変わらず靴下と生ごみの匂いが漂う部屋の中へもぐって行った。本日、お兄さんはいないらしい。

 部屋のベッドはかなり乱れていた。たぶん勉強なんてしていなかったに違いない。単なるサボりだこれは。秋世も安心してベッドに腰掛け、本条先輩の机の上を眺めた。教科書と参考書らしきものが並んでいる中に、青大附中オリジナルの保健体育教科書が混じっていた。やはり勉強はしているもんだと感心した。

「本条さん、いきなりなんですがいいですか」

 できるだけなんでもない風に、さりげなく秋世は切り出した。

「いわゆる、下半身の病気ってどういう病院に行くのがベストでしょうかねえ」


 本条先輩はしばらく秋世を見つめていた。なんだかその雰囲気は自分ではなく、弟分の立村に向けられるものに似ていた。戸惑った。

「やっぱりそれかよ」

「まあ、人生いろいろですしねえ」

「あの後、お前何人とやった」

 笑っていない。このあたりも嘘をつく必要はない。秋世は片手を広げたまま掲げた。

「五人、かよ」

 思いっきりあきれはてた風にため息をつかれた。これは意外だった。本条先輩のことだ、経験もあるだろう。それなりに「お前すげえじゃん、さすが俺のダチだ」くらい言って誉めてくれるんじゃないだろうかと期待していたのにだ。いや、期待というよりも軽くいいかげんにあしらってくれるはずと思っていたのに。なにか調子が狂う。

「筆おろしからまだ二週間も経ってねえだろうが」

「まあねえ、世の中なんというか、立っているだけで立たせてくれる世界なんだなと」

 ふざけた言葉でごまかした。

 そうだ、修学旅行から三週間、あの夜から二週間。服だけ着替え夜の街で時間をつぶす。昼は規律委員長のいい人、夜は年上専門の女たらし。ずいぶん自分も変わったものだと思う。人をだましている罪悪感も最初ないわけではなかったけれども、それこそ「一人も二人も三人も、皆同じ」夕暮れの街だったら、どの女性もみな生き生きして見える。その生身に触れていれば、なんとなくすべてを忘れていられる。家のこともばあちゃんのことも彰子のことも、みな頭から抜けていく。できるだけその時が欲しい。家で寝ることもずいぶん少なくなったものだった。

「あのなあ、なぐっちゃん。俺も人のこと言えねえけどなあ」

「説教はなしで」

 しばらく本条先輩は机を見下ろしていた。開きっぱなしの英語教科書とチャートの参考書。ぱらりとめくっていたが、腰に両手を当てると、ぐいと背を伸ばした。

「全速力で病院行くしかねえだろ」

「いわゆる性病科ですかねえ」

「泌尿器科でいい」

 責められなかっただけでも本条先輩を選んだのは正解だと思った。

「とにかく一刻も早く病院に行け。習っただろ。青大附中の誇る性教育を一通りやっただろ。どういう感じなんだ? 具体的に言え」

 

 青大附中は性教育に対する意識が非常に高く、他の中学に通っている連中が絶句するようなことまで学ばされる。性行為の具体的方法から始まり、避妊のやり方……方法ではなく、実際の使い方まで覚えなくてはならなかった。男子連中に学校から「ゴム」いわゆる避妊具を一人一個ずつ渡された。ついでに「性感染症」と呼ばれるものの具体的な症状と対処の仕方までも。親たちの間では「そこまでしなくても」と反対の声も聞くというが、どこかのえらい先生が言い放った方針「黙っていても子どもたちは間違った知識を覚えていってしまうんです。それなら最初から正しい知識を最初から教えた方がいいんです」に逆らうことができず、いまだに続いている。

 単純に勉強して、好奇心一杯に保健体育の成績を5で締めた秋世も、「性感染症」に関する知識を改めて引っ張り出す必要があるなんて思ってもみなかったわけだ。 

 一応は、保健体育の教科書と副教材の資料を引っ張り出して読み返してはいた。

 たぶん、一番悪い結果にはならないだろうとは見当をつけていた。

 しかし、医学にはとんと疎い秋世には判断できなかった。

 軽く東堂あたりに「お前さ、よくトイレで激痛走ったりすることねえ?」と聞いてみるのも一案だったけれども、例の彼女の件もあってさすがに飲み込まざるを得なかった。

 立村に尋ねるなんてまず論外。余計な心配をかけてしまうだろう。秋世の思ってもみないところまで想像してしまい、「なぐちゃん、それほんと、病院に行った方がいいよ。もしあれだったら俺が調べてやろうか」なんて言われるなんて、これは恥だ。

 かくなる上は、本条先輩に頼るしかないのだが、それもやっぱりひっかかる。

 すでに事が起こる前に、本条先輩は「お前、『チェリー食い』に注意しろよ」と声をかけていたではないか。その後も「いい病院探しとけよ」とまでも。ずいぶん鋭いことを言うもんだと思っていたが、おそらくあれは本条先輩自身、経験があるからに違いない。

 最近、小便するときやたらひりひりするとか、明らかに本来つくべきものでないものがついているとか。秋世なりに保健体育の教科書や家庭医学の書籍などで得た情報からある程度の見当はついている。

 しかし、そこから先、どうすればいいのだろう。

 立ち読みおよび保健体育の教科書、および青年向け週刊誌の特集を一通り読んでみて判断した結果、「淋病」か「クラミジア」のどちらかであろうと推測した。詳しい自覚症状を思い出すのもぞっとするのであえて何も考えないでおく。「淋病」の場合だと潜伏期間が一週間程度と短いが、自分の状態を考えるとつい二、三日前から「おかしい」と感じるようになったわけだから、潜伏期間の長めでかつ、普段だったら全く気にしないであろう症状の「クラミジア」ではないかと判断した。

 ──男性はトイレでやりづらいと感じるから気付くけど、女性は気付かない人が多い?

 ──将来、子どもが出来づらくなるんだってさ。

 ──ってことは、あの時の人か。

 あれから「ひとりやっちゃえばふたりも三人も同じだ」と感じるようになり、時間をつぶすために年上の女性とひと時を過ごすのが常だった。ほとんどが通りすがりだった。名前とか電話番号なんてもちろん聞くわけがない。

 思い当たる節は、確かに、ある。

 

 本条先輩の判断もやはり同じだった。

「クラジミアか淋病かのどっちかだな」

「たぶん前者の方ではないかなあ。いや、なんてかその、まだ自覚症状がそれほどでもないし。出てくるのに二週間くらいかかるってことは、そっちでないかなと」

 口篭もりながらも明るさは消さずに答えた。

「よかねえよばか」

一喝された。やっぱり怖い。

「いいか南雲、俺もあまり説教じみたこと言いたくねえが、早く直しておかねえと将来種無しになる可能性だってあるんだぞ」

「いやそれならそれで無料の避妊対策に」

 重大なことを言われたらすぐにごまかすのが秋世のくせだ。

「もう二度とやれねえかもしれねえぞ。どっちの病気にせよだ。相手に移っちまうんだぞ。しかもだ。へたすると女子の方が子ども産めなくなるんだぞ。どうなる? 犯罪者もいいとこだぞ」

「本条さんはどうなんですか」

「行くしかねえだろ」

 別の意味合いを込めて、本条先輩は返した。

「移しちまったら悲惨だろうが」

 ──そのくせ二股かけてたくせに。

「とにかく、南雲、こんなところでバナナを共食いしてねえで、家に戻れ。まずお前の父ちゃんの保険証を探し出して、電話帳でよさげな病院選んで、そこに駆け込め。習っただろ。ちゃんと診察して、ちゃんと薬を飲めば治る病気だってな」

「保険証?」

 あたりまえじゃねえか、と言いたげに本条先輩は頷いた。

「保険証がなけりゃ大変だぞ。お前金、今あるか? 俺の時は一万くらい取られたぞ。とにかくお前の持ってる貯金全部おろしてでもいいから行け」

 そう言いながら、側に放り投げてあるジーンズのポケットを探り、財布を出した。

「俺もただいま金欠病だなあ。ま、五千円ある、これだけでもまず持ってけ」

「あの、ひとつ聞きたいんだけどいいですか、本条さん」

 秋世は恐る恐る尋ねた。なんだか本条先輩ひとりで大事にしているような気がしてならない。もちろん病気にかかっているらしいのは自分だけど、しゃべっているうちに実はたいしたことないんじゃないか、そんな気がしていた。なのになんでだろう。本条先輩も本当のところ、弟分の立村と同じく繊細過ぎる感性の持ち主なのかもしれない。

「保険証って親のもんでないとまずいんですか。やっぱし、ばれるかなあ」

 本条先輩は秋世の言葉を聞くなり中腰の姿勢をとった。思いっきり拳骨を股間に向けて放った。瞬時頭の中が真っ白くなった。

「ちょん切られるのと親にぶん殴られるのと、どっちがいいんだ、このぼけ!」


 ──保険証かよ。


 急所の痛みが退くのを待って、秋世は本条先輩に頭を下げた。

 父親に張り倒されるよりも本条先輩にどやされる方が一番堪えた。

「ありがたい一発をありがとうございます」

「とにかく、今日中に行けよ」

 念押ししたまま、本条先輩は背を向けて片手を挙げた。


 どちらにしても家に戻らねばならないだろう。制服を脱いで街をうろつけば高校生かうまくすれば童顔の大学生で通る。でもしょせん自分は親の保険証がないと、自分の後始末もできない中学生のガキだった。なんだか泣けてきそうだった。

 ──保険証なんてどこにあるかなんて、わかるかよ。

 ──修学旅行の時にそういえば、保険証のコピーを東堂たち保健委員が集めてたよなあ。

 コピーでかまわなければ東堂に手を回して入手しようかとも考えた。でも、修学旅行からもう三週間も経ったのだ。まず無理だろう。

 家で通帳や保険証のような貴重品を管理しているのは母の役目だ。今までは全く関心なんてなかったから、どこにしまっているかなんて考えたことがなかった。ただ、金庫にしまい込むほどのレベルではなさそうな気がする。もう少し手に届きそうな場所に置いているんじゃないだろうか。

 幸い、両親は会計事務所で仕事中だ。夕方まで帰ってこないだろう。その間に部屋の中の引き出しをみなひっくり返して捜せば、きっと見つかるんじゃないだろうか。

 ──大丈夫、なんとかなるさ。

 無理やり楽天的発想を持って、秋世は玄関のドアを開けた。


 手当たり次第引出しという引出し、棚という棚、すべてあさった。へたしたら空き巣の仕業かと思われる恐れありなので、調べ終わってしまう時はきちんと形を整え、元と変わらぬようにしておいた。その点は抜かりのないはずだった。過去の帳簿、葬式費用関連の書類、祖母の古いめがね。新聞社から配られた料理小冊子の束。もう記帳し終わった通帳。今まで見た事のないものばかりが目につくけれども、探しているものは見当たらなかった。

 ──あとはばあちゃんの部屋かあ。

 祖母の部屋の引き出しももちろん探したが、すでに遺品の処分が母の手で始まっていて、残っている物自体が少なかった。収穫なし。両親の部屋も、自分の部屋も、引き出しをひっくり返してみたけれども保険証らしきものはどこにもなかった。

 ──けど、ねえわけねえんだよ。絶対あるんだよ。早くしないと病院しまっちゃうだろうが。

 本条先輩が調べてくれた病院のリストと電話番号はすでに生徒手帳に収めてきた。どれも夜遅くまでやっているとは聞いていた。でもやっぱりすぐにけりをつけたいという本音もある。思い出すとなんだか下腹部に軽いひりひり感が伝わってくる。身体も本条先輩の言葉と呼応している。早く見つけねば、一刻も早く。もう一度居間に戻り、飾りだなの黒い引出しをそのまま机に置いた時だった。

「何してるんだ」

 背中で太い声がした。

「しゅうくん」

 沈んだ声が重なった。

 

 探すのに集中していて、両親が戻ってきているのに気がつかなかったのはうかつだった。なんでもない振りをするための仮面を被るのも間に合わない。秋世は手をゆっくりと下ろした。せめて余裕のある振りをするのが精一杯だった。

「何してたんだ」

「物、探してただけ」

「何を探してたんだ」

 剥き出しとなった引出しの中には、さっきちらっと見かけた通帳が真上に入っていた。

 ──タイミング、悪すぎ。

 母が遠慮がちに呟いた。

「泥棒が入ったかと思ったじゃないの」

「金探していたのか?」

「違う!」

 父の言葉にだけは反論したかった。これから貯金をおろしていくつもりだったのだ。断じて、親の金になんて手をつけようだなんて、思っちゃいない。なのに、じゃあどうすると言い訳することができないでいる。捨て台詞を投げつけるだけ。

「なんでもねえよ、関係ねえだろ」

「引き出しに何の用があるんだ?」

「関係ないって、関係ねえよ」

 だだっ子だ。みっともない。情けない。追っ払いたい。無理やり気合をつけて秋世が怒鳴ると同時に、

「いいかげんにしなさい」


 母が怒鳴り返したのではなかった。

 秋世は父と母の後ろに隠れていた、中肉中背の男性を射た。

 凍りついた。


 ──「教授」じゃん。


「南雲さん、これから僕の仕事として、責任もってさせていただきます。いいですね」

 両親がふたり、こっくりと頷き、ゆっくりと秋世へ視線を向けるのをそのまま受け止めた。

 夏用のカーキ色背広を羽織った「教授」は両親に向かって付け加えた。秋世の方をまだ見はしなかった。

「今、最優先で考えるべきは、昭代ちゃんや妙子くんではなく、秋世くんです」

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