第二部 21
──どうせ、俺は犯罪者なんだからさ。
いつもと変わらない顔をして、それでもやっぱり眠いことは眠い。隣の立村にあとは任せて、秋世はさっさと机にうつ伏した。さすがに歴史の授業中は菱本先生にはたき起こされたけれども、後の時間帯……主に聴きっ放しでよい授業……は足りない睡眠をなんとか補うことができた。必死に立村がノートを取ってくれているとわかっているからできた四時間居眠りのしっぱなし状況。感謝、感謝だった。
「大丈夫か、なぐちゃん」
給食の牛乳瓶を一本蓋開けながら、立村は秋世に問いただしてきた。
いつもらしくない自分だと、やっぱり気付かれていたのかもしれない。もともと立村は神経の細い男だし、他の連中だとさほど気にしないことでもすぐ、ぴんときてしまうのかもしれない。ただ、秋世もそういう立村の性分は重々承知。あっさりごまかす、これ常識。
「いやあ、久々にさ、学校で過ごすとさ、もう眠気のスイッチ入っちまってさ。ほら、忌中休暇中はひたすら寝てたからさ。葬式のごたごたでぐったりしててさ。もう俺、寝るしかないって状態」
「そうか、それならさ、思い切って五時間目、具合が悪いことにして、保健室で寝てるってのはどうかな」
いきなりおさぼりを提案する評議委員長。
「保健室って、俺、熱ないし」
「だから、眩暈がするとかなんとか言って」
「りっちゃんと違って、俺、仮病一発でばれちまうし」
昨日までの自分だったらきっと、「彰子さんに頼んでそうしてもらうかなあ」と脳天気に答えていただろう。そうしなかったとしても。「保健室」という言葉に繋がるのは、自然と彰子の居場所となり、秋世にはなぜか×印を高く掲げたい気分にある。
「そうか、でも五時間目、英語だけどもしかしたら抜き打ちのテストあるかもしれないし」
「え、まじかよ」
誰もそんなの教えてくれやしなかった。立村もちらちらと横目で周囲を見渡した後、
「俺もさっき聞いたんだ。職員室で、英語科の先生たちがプリント刷ってたって。もしかしてかなと思ってさ」
「期末試験のものじゃねえのかな」
「かもしれない、けどさ」
たまったものではない。もともと秋世はそれほど勉強好きな方ではない。一週間律儀に、予習復習きっちり行うわけがない。たぶん、一発で全滅だ。
「テスト中に寝ちまったらしゃれにならないよねえ、りっちゃん」
語学エキスパート、おそらく抜き打ちテストされてもそれほどダメージがないはずの立村は、あいまいに頷いてゆっくりと牛乳を飲み干した。
──それにしても。
あの五分間が、彰子を包む笑顔オーラを一瞬のうちにくすんだものにしてしまうとは。
──なんでだろ、ほんと、どうしてって感じだよな。
結局立村の予言通り、五時間目の英語はいきなりの抜き打ちテストだった。しかも五十分たっぷりと使ってときた。当然、秋世には長文読解がなんなのか、現在完了と過去完了の概念が何がなんだかわからなかった。いや、修学旅行前まではおぼろげに理解していたはずなのだが、あれ以来一切記憶が途切れてしまった風だった。白いコピー紙の上ににじんだアルファベットが、見ているうちに踊り出すんでないかとさえ思った。たぶん、悲惨な成績に終わるだろう。まあいいか。たぶん大目に見てくれるか、喪中明けなんだし。
秋世は人ひとり分の通路を空けた隣にいる、奈良岡彰子をちらと見た。
「な」の字なので、自然と隣同士になる。
さっき、試験中席替えする時も、
「あきよくん、元気出してね!」
とさりげなく笑顔を見せてくれた。いつもの彰子スマイルにもちろん秋世も全開の笑顔で答えたけれども、頬の筋肉を思いっきり使っていたとすぐに感じた。一言で言って、「無理している」。
──あれってなんだったんだろう。
すでに試験放棄気分でテスト用紙を裏返し、秋世はシャープペンシルの芯をちくちく言わせた。
──なんてっか、暑苦しいってか。
白いブラウスがぴちっとはまっていて、彰子の背からは薄いブラジャーの線らしきものが浮かんで見えた。女子の場合大抵そうなのだけども、礼儀としてみな口には出さないようにしていた。背を丸めて彰子が真剣にテスト用紙を埋めている。もともと理系は得意だが文系は苦手だと話していたけれども、それなりにそつのない点数を取っている。
──結局は頭がいいんじゃねえの。
ふと、いやな気持ちになる。半分以上が意味不明の羅列だっただけに、解けている奴を見るのも今はうんざりだ。
前の方に並んでいる別の女子たちにも目を向け、あごを片手で支えた。
かわいらしくポニーテールで髪の毛を結い上げている女子や、やたらとヘアピンを刺している子やら、いろいろだ。中にはほんのりとせっけんのコロンをつけているような子もいる。
──それに比べて。
この三年間の幻が、一気に薄らいでいく。その理由がどこにあるのかもわからず、誰を責めることもできないことはよくわかっている。どうして彰子がこんなに油っぽく、うっとおしく、見ているだけで暑苦しくなる風に映ってしまうのだろう。
たぶん呼び出し食らうであろう英語の小テストは無事終了した。
「あきよくん、いきなりだったから大変だったよね」
──別に。二日経ってりゃいきなりでもねえよ。
秋世は答えずににこりと笑うだけにした。重たい体をゆさゆさと、近づけてくる彰子。
「もしよかったら、私、数学と理科のノートは全部取ってるから貸してあげようか?」
──貸して「あげようか」だと?
軽くむっときた。
「いいよ、俺もそのくらい自分でできるし」
彰子の善意があふれている。いつもならばノートを貸してもらえることが嬉しいのに、観るのもうざったい。さらに言うなら「押し付けよう」とするその態度が気に食わない。
「でも、一週間だったら大変でしょう」
やたらと押しの強い彰子。さらに続ける。
「あきよくんが大変なのはみんなよくわかってるから、ほら、すいくんもあとで英語と古典のノート貸してくれるって言ってたよ」
──なにを好んで水口とかよ!
結局は水口と一週間いちゃいちゃしていたというわけか。あれ、ここにはひっかかるところがない。別にそうしたけりゃそうすればいいのだが、秋世がもともと水口にいらいらしているのを彰子だって気付かないわけがないだろう。どうしてこうも鈍感でいられるんだろうか。秋世には理解できない。
「いい、俺、りっちゃんに頼むから」
「けど立村くんは英語だったらいいけど」
「いいかげんにしろよ、もういいだろ」
声荒く秋世は机を叩きつけた。かなりびくりとした彰子が、脂ぎった鼻の回りを手の甲でこするしぐさをし、
「ごめんね、私も言いすぎたかな」
「あいつを馬鹿にするのはやめてくれよ」
すぐに自分を取り戻し、言葉を和らげようとしたけれどもうまくいかなかった。
彰子の言うことは決して間違っていない。立村は決して頭が悪いわけではないけれども、英語以外のノートは先生の言うことだけをそのまま書き取るやり方しかしていない。水口はお子様に見えるけれどもノートやら細かいチェックやらそういうのはお得意である。おそらく彰子はそのあたりも鋭くチェックしているのだろう。でもそんなのは勝手にしろだ。どうせ誰のノートを借りたとしても、どうしようもないのはわかりきっている自分の成績順位。そんなことだったら気持ちよくしゃべることのできる相手を選ぶ。
「ごめん、俺も言いすぎた。じゃ、これから委員会あるから、お先に」
あっけに取られて言葉を返せずにいる彰子から目をそらし、秋世は筆記用具を握り締め自分の席に戻った。嘘ではない。これから規律委員会が待っている。
面倒なことはすべて、同期の葉桜どもに任せて進め、肝心要のとこだけを秋世が押さえる。規律委員会の方針は基本として、「委員長が手抜きできる」態勢を整えることにあった。二年の頃からいろいろと、一年上の先輩から指導を受けてはいたけれども、目の上のたんこぶが全部消え去った後は好き勝手にやらせてもらっている。何も、全部自分ひとりで抱え込む必要はないのだ。歴代の規律委員長たちはみな、自分がトップだという意識が強すぎて、ほとんどの準備を自分で片付けていた。いや、イラスト描きがもともと好きだとか、ヤンキーファッションをどうにかして制服スタイルに取り入れたいとか、それぞれのこだわりを持っていたのだろうし、秋世も理解できないことはない。しかし、自分ひとりが引っ張りつづけていって、いざぶっ倒れた時に誰がやるんだ?と問われたらどうするのだろう。
……ということを、秋世は元評議委員長・本条里希から教わった。
「ふうん、だいぶ進んでるよな。オッケーオッケー」
「委員長いなくてもいいかも」
軽口叩く二年の女子。笑って投げキッスしてやった。きゃあとはしゃぐ声。珍しいことをするもんだとばかりに、他の三年連中が秋世をじっと見つめる。彰子と付き合ってから、決して他の女子たちにおふざけをかますことなんてなかったからだろう。自分でも、変だとは思う。ただそうしたかっただけだ。
「ま、それならそれで、俺が楽になるだけだし、まあいっかってとこだなあ」
「委員長、それはそうと、さっきから廊下でお友だちが、お待ちですよ」
一年の女子後輩が、着せ替え人形用の小さい服を縫い縫いしながら、秋世に声をかけた。
女子の後輩たちはなんとなくだが、秋世に声をかけるタイミングを必死に見ているようだった。あまり気にしたことはなかったけれども、やたらと今は目についてならない。
「誰だろな、評議かそれとも」
「保健委員会の人みたいですよ」
──彰子さん?
いや、彰子だったらみな秋世の恋人だと知っているし、もっと「あれー、委員長の恋人がお待ちですよん」くらい言いかねない。開けっ放しにしていた扉を足で広げ、覗き込む。間違ってはいない。確かに保健委員の東堂が、両腕をしっかと組んで待ち受けていた。
「おや、東堂先生どないしたんですか」
「いつまで待たせる気なのかなあ、規律委員長ともあろうものが」
「え?」
東堂の口がかなりとんがっている。ご機嫌損ねたらしい。こいつの性格上、ちょっとくらい怒らせても縁を切られることはないとわかっている。でもできれば、なあなあで済ませたい。秋世は片手を、東堂の顔の前で振り、「いないいないばあ」をしてみせた。
「なんか俺、忘れてた?」
「昨日なあ、俺言っただろ。ちょっと付き合えって」
「あれ、でもまだ先のことじゃあ」
「予定が変わった。すぐ来い」
──彰子さんのことか?
いや、それはないだろう。打ち消した。もともと東堂も秋世が彰子に熱をあげている様を「なんで?」という顔で眺めていた奴だった。同期として嫌ってはいないだろうがしかしだ。
──ちょっと冷たくやりすぎたかなあ。
英語試験後の態度を自ら思い出し、反省する。
「けどさ、俺もただいま規律委員長としての時間中なもので」
「じゃあ待つ。『規律委員長』の権限で、頼む、すぐ終わらせてくれよ」
──なんでだろ、珍しい。
秋世は東堂の眼を見るため、ひょいと指先であごを持ち上げてやった。軽く上向いた東堂の顔がなぜか引き締まっている。男子がくそまじめな顔をする時は大抵、「くそまじめ」なことをしたい時に限られる。秋世なりに、これは緊急事態と判断せざるを得なかった。
「わかったわかった。じゃあ、ちょいと待ちいな」
手をひらひらさせて秋世は教室へと戻った。待ち受けていた他の委員たちが、秋世に説明を求める顔でもって迎えた。
「じゃあとりあえずだ、今日はここまでにしとっか。明日また続きやろう。どうせみなの衆も早めに帰りたかろうしな」
厳かに伝えた。実際、本来すべき仕事は終わっていたし、無駄なようでいて楽しい馬鹿話の時間に回すだけのことだった。少し不満そうな後輩女子たちを除き、男子連中は手を打って喜んだ。オッケーオッケー、そういうものだ。
「ということで、駅前か?」
「お前、土地勘あるだろ」
「いやあそれほどでも」
街に繰り出したがっている東堂には悪いが、制服で行くわけにはいかない。昨日本条先輩と話をしていたのと同じく、一度は家に戻らねばならない。今の時間帯だったらたぶん、両親は事務所にいるだろう。まずは互い一時間後に待ち合わせる約束をして着替えを済ませた。昨日のように「パール・シティー」のぎらぎらした格好とは違い、細身のジーンズと水色のストライブが入った開襟シャツで決めていくことにした。若干、歳相応に見える。
「お待たせ」
「待たせたぞ」
それに引き換え東堂は、六月にもかかわらずだぼっとした黒のTシャツにやっぱりだぼんとしたジーンズ。せめて色合いだけでも変えてほしい。見るからに暑苦しい。
「あのな東堂ちゃん、今度遊ぶ時には、俺がコーディネイトしてあげよう」
「やめろよ」
──あらら、のりが変。
やはり今日の東堂はどこか、いつもと違っていた。修学旅行後、秋世が忌引休暇を取っていた間、何かが起こったのは確かだろう。詳しく話を聞き出すつもりはなかったし、向こうから切り出すまでは知らん振りを決め込むのが礼儀だった。でもこうやって秋世を引っ張り出すということは、それなりに、何かが、動いたのだろう。素早く判断した。
「あのさ、どこに行きたいかによって、TPOが変わる」
「ここだ」
しわくちゃなメモ紙は、手の平の汗でふやけていた。開いてみると、中には数学の方程式がプリントされていた。その下に汚い字で、「ミッドナイト・ベッド」とカタカナで書かれている。
「なにそれ、『夜のベッド』って、まさか東堂、そんなとこに俺を誘って行きたいとか」
当然想像するものは決まっている。顔をしかめた東堂は、唇を突き出すようにして、
「とにかく、俺をそこに連れてけ。知ってるだろ、そこ」
「いやあ、俺にはとんと。ちょいと待っとれ」
東堂は完全に秋世を誤解しているとしか思えない。ラブホテルか、もしくはモーテルか、その類だろうか。公衆電話ボックスを探し、まずは五十音別電話帳と職業別電話帳を開き、探した。
「ほんとにこの辺でいいんだな」
「言っとくけど、ラブホテルじゃあねえよ」
あっそうですか。調べるところが一ジャンル減った。東堂の口ぶりによると、どこかの飲み屋らしい。十五分くらい電話ボックスにこもり調べた結果、そこは単なる喫茶店だということが判明した。
「で、そこに行けっていうわけ」
「悪い、頼むわ、南雲」
めったに見られない東堂のまじめ面を眺めるのも、悪くはない。秋世は住所と土地勘を頼りに、さっそく駅の繁華街へと向かった。確かに喫茶店とはいえ、流れる方向によってはラブホテルあり、モーテルあり、もっと危ない場所ありいろいろだろう。
理由を問わず、秋世なりにしょうもない話をしてつないだ。どうしても東堂は脳天気に乗ってこない。抜き打ち試験の愚痴も、本条先輩と語った当り障りのない部分の話も、立村のお坊ちゃまぶりも、東堂にはどうでもいいことらしかった。しかたないので秋世も行き先案内人に徹した。本当は交番で確認すればいいのだろうが、もしその喫茶店が「歓楽街用の情報喫茶店」だとしたらしゃれにならない。自分らが補導される。しかたなく、犬の鼻を持っている気分でかぎまくるしかない。
優秀な警察犬なみの鼻を持っていたらしく、なんとか目的地にはたどり着いた。あたりを見渡すと、装飾過度な建物が点在している。細い道の脇だから、なおさら重たく鬱陶しい。いつだったかデートした彰子の格好を思い出した。確か、有名なふりふり系のドレスを着て現れたことがあった。頭を振って打ち消した。
「あのさ、東堂ちゃん」
「なんだ、なぐちゃん」
韻をそろえた。
「ここ、どういうとこか、想像つくよな」
「もちろん、そういうとこだろうなあ」
くぐもった声で東堂が答えた。だぼついたズボンに無理やり手を突っ込み、天と地を見下ろし、見下げ、足をくねらせていた。
「で、喫茶店ったらどこだ」
「あすこ。超どふりふりファッションのあのお家の隣」
指を指した。「ミッドナイト・ベッド」と白い看板が出ていた。デートコースにはあまりお勧めしたくない場所だった。
「そうか、わかった」
「何がわかったわけ」
「悪い、ちょっと待っててくれないかね、南雲くん」
いきなり「くん」付けをした後、東堂は「ミッドナイト・ベッド」の扉に手をかけようとした。が、すぐに戻り秋世に頼みごとをした。
「南雲、その辺でもし、タクシー通ったら、止めておいてくれねえか」
「そりゃどうして」
「とにかく」
言い残し、今度こそ東堂は「ミッドナイト・ベッド」にもぐりこみ……いや、入店していった。
頼まれた以上は、タクシーがくるかどうかチェックしておかねばならないだろう。かといって、誰かと乗るつもりなのだろうか。秋世はあえて頼まれごとをしないことにして、空を見上げた。まだ夕焼けの匂いはしなかった。
──東堂の奴、どうするんだろ。
大体本条先輩から、この近辺の雰囲気がどういうものかは教えてもらっていた。
──確かさ、この辺ホテル街だろ。
ホテル街の近く、喫茶店ときたら、やっぱりそういう目的のところではないだろうか。細い路地とはいえ、車はそれなりに通るし、よくよく見るとタクシーも通る。さっきピンクデコレーションケーキっぽい建物から出てきた、高校生らしいアベックがタクシーを停めて乗り込んでいったのを見た。やはり、需要はあるのだろう。
──まさかなあ、東堂の奴も。
全く見当がつかなかった。自分が昨日経験したような時を、東堂が味わっているとは思えない。なにしろ言ったではないか。「もむ方法って」とかなんとかと。あれは単純に、経験なしというのを暴露しているに等しい。経験済みの秋世からしたら、ああいうのは「もんでももまないでも」勢いで終わるものだというのに。
また、タクシーが一台通り過ぎていった。ガラス越しに「空車」の赤いランプが光っていた。秋世の前を往復した。客を待っているのかもしれない。
東堂が出てきた。連れと一緒に。
──あれ、これ、この子。
化粧がすこぶるうまいわけではない。むしろ派手すぎて、青い空の下では脂ぎって見える。青大附中の制服を着たまま化粧をするというのは、明らかに規律違反だ。もっというなら「盛り場でたむろわないようにする」これも規律違反。違反カードものだ。
、扉が閉まった。秋世はふたりに近づこうとした。一歩踏み出したとたん、鋭利な音が耳に響いた。
片手を振り下ろした東堂と、うつむいて頬を押さえたその子と。
向かい合ったふたりに、入り込むことはできなかった。
──東堂、お前。
今まで東堂の元彼女がどういう子なのか、詳しく見たことはなかった。
東堂本人も、修学旅行四日目夜に語るまでは、最低限の話しかしなかった。
事実関係だけは知っていたけれども、どのくらい想いが深かったを想像することはなかった。
たぶん、秋世も、他の連中もみな同じだろう。
──結婚申し込むくらいだもんな。そうか。
ショートカットの髪の毛がまだ直毛だった。パーマがかかっていないだけまだましだった。規律委員長なんてくそくらえだ。黙って秋世は背を向けた。約束通り、タクシーを停めた。
「おい、来たぞ。早く来いよ」
振り返ると、うつむいた「元彼女」は目に人差し指を突っ込むようなしぐさをしている。黙って東堂がひじでつつき、前に、前にと進むよう押している。肩を抱いたり、抱きしめたりすることが、人前ではまだ出来ない奴なのだろう。秋世の顔を見て、「元彼女」は明らかにおびえた表情を見せた。規律委員長が目の前に立っているのだ。違反カードものの化粧だったら驚くのも無理はない。
首を振り、すぐいつもの笑顔を貼り付け、秋世はタクシーを指差した。東堂に尋ねた。
「お前も乗ってく?」
「ああ。あのさ、南雲ちょいといいか」
「元彼女」を車の中に、肘先でもって押し入れた後、東堂は耳元にささやいた。
「悪い、タクシー代、明日絶対返すから、貸してくれねえかな」
そりゃあ、「元彼女」には、聞かれたくない会話だろう。
秋世は財布を取り出した。小遣い五千円が残っていた。修学旅行用に大目に持っていった小遣いが手付かずだったのは幸いだった。
「助かる、悪い」
「けどそんな遠くないだろ」
「うん、まあ」
口篭もった。どうやら東堂は、「元彼女」を連れてどこかへしけこみたいのだろう。聞いてみた。
「どこへ行くつもりなんだあ?」
「家。あいつの、親いるから」
一言、きっぱり、眼を見たまま東堂は答えた。
一瞬でも、東堂を色眼鏡で見た自分を、秋世は恥じた。
──誰もが、俺と同じじゃあないんだよな。
東堂が両手を合わせて秋世を拝んだのが、ガラス越しに見えた。秋世は見送り、ホテル街から抜け出した。どうして東堂の「元彼女」がこんなところにいたのか、想像つかないわけではないけれども、言ってはいけないような気もした。
彼女はかなり、不良化の兆しを見せていたという。東堂の彼女時代からそうだったらしい。
懸命に更生させようと……秋世からしたら「お前がそれできる立場か?おい」と突っ込みたいが……していたのだろうし、菱本先生の前であっさりと振られた恥をあえて忘れて、こういうところに来たというわけだ。おそらく東堂のことだ。いまだに未練が残っていたのだろう。あの謎のメモをどこで手に入れたかは知らないが、「元彼女」がそこにたむろっているという情報を得て、何もしないでいられるほど東堂は無責任な奴ではない。
──本気だな、あいつも。
決して、学校では見せないあいつの表情。
言葉はなくても、伝わるなにか。
果たして「元彼女」がどう感じ、東堂の行為をどう受け取ったかはわからない。
他の連中と違い、東堂が家に連れて行き……もちろん「元彼女両親」のいる家へだが……どういうことをするつもりなのかは想像がつかない。二度目のプロポーズでもするのかもしれないし、単純に送り届けるだけなのかもしれない。
──あんなに本気になれるって、すごいよなあ。
今の自分には、もう残っていない「本気」。
たった一度、五分間の経験でもって消えうせた「女子への本気」。
今、どこらへんに秋世の「本気」は浮いているのだろう。
秋世はゆっくりと、昨日通ったダンスパブの立ち並ぶ道を歩いた。家に戻る気など、さらさらない。ただゆっくりと、時間をつぶして、できれば親と顔を合わせないうちに帰って部屋にこもりたかった。どこかで適当に食い物でも食って……と心積もりしたものの、よくよく考えると財布の中は空っぽだった。せめて千円だけでも残しておけば、と悔いたけれども後の祭り。秋世はようやく赤くなり始めた空を見上げると、大きくくしゃみをした。
昨夜遊んだダンスパブの前に立った。
──昨日のお姉さんいたら、やばいよな。
服装からして、昨日とは違うし、ばれないとは思うのだが。
少なくとも今の格好は「パール・シティ」のIKUではない。
そっともたれて、通り過ぎる人並みを眺め、街路樹に背もたれた。
そのポーズが、繁華街では何を示し、誰をひきつけるかを秋世はまだ知らなかった。
「君、高校生?」
補導員か、と身構えた。二十歳半ばじゃ。昨日のお姉さんよりもさらに化粧が濃かった。髪の毛が立て巻カールなのは、ワンレンとは対抗か。
「まあそんなとこ」
短く答えるのが、身を守るコツ。
「干支は?」
「わからない」
「これから、誰かと待ち合わせ?」
「別に」
軽く、あくまでもいいかげんに。笑顔だけ貼り付ける。
「ここで遊ぶつもりなの?」
「今日は無理。金ないし」
全身白いスーツのお嬢様めいた格好。首からじゃらじゃらと金のネックレスがぶら下がっている。青潟で昼間歩くには不釣合いな格好だった。
「そうなんだ。ねえ、もしひまだったら、なんか食べない? 私一人なんだけど、女ひとりで定食屋に入る勇気なくて。私がおごるから、よかったら、どう?」
──逆ナンパかよ。
経験が全くないわけではない。あっさりと「いや、彼女いるから、じゃあね」と振ることもいつもだったらできたはずだった。こういう年上の女性は、わりと秋世が子どもっぽい格好をしている時によく声をかけてくる。どうしてなのかその辺は、本人に聞いてみないとわからない。誘い方も、「一緒に踊らない?」ではなくて「ひとりだと入れない店があって、よかったら付き合って入ってくれない?」とか、いかにもお手伝い人員が必要な口ぶりで。
見え透いた手だとはわかっている。顔の分別がつかない女性ばかりが今までは目の前を通り過ぎ、消えていった。昨日の「五分間」の相手も、いつもだったらそうだった。忘れるはずだった。なのに、今秋世の目の前を通り過ぎる女性は誰もが、みな違う顔をし、違う輝きを放っていた。なまめかしいオーラといかにもありえない花の香り。すべてが見分けられた。彰子の汗臭い匂いよりも、それは心地よいものだった。
「定食屋ですかあ」
「それとも、もうここに、入っちゃう? もう店、開いてるでしょ」
秋世は思いっきり顔をおっぴろげて頷いた。
「そっちの方がいいなあ」
彼女も異存はなかったらしい。女性は立て巻ロールをふりふりしながら、財布を取り出した。とにかく有名な外国ブランドの真赤な財布だった。金に不自由はしていないと見た。
女性のリードにすべて任せ、その夜、秋世は同じ展開をそのまま踏んでいった。
唯一違ったのは、最後の場所が店内ではなく、さっき東堂たちが出入りしていた喫茶店の隣の建物だということだけだった。
──つまり、なぐちゃんにに色目使った『チェリー食い』のお嬢さんたちは、即、犯罪を犯したことになっちまうってわけだよ。どっちが誘ったかとか、愛があるかとかないとか、そんなの関係ないにしてもだな。
本条先輩の言葉をちらと蘇らせた。
──どうせ、俺は犯罪者なんだからさ。
女性に『児童に淫行をさせる行為』を犯させる自分。実の妹をいじくりまわした奴と、誰もが言う。五歳にして、すでに自分は犯罪者。何を恐れるものがあるか。
もう、秋世をせき止めるものは何もなかった。