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第二部 20



──なんで、俺、好きになってたんだろ。この人。



本当はもっと話すことがあったのかもしれない。本条先輩の部屋に帰り、服を脱ぎ捨てたままベッドにもぐりこんだはいいが、やたら室温が高すぎて臭うわ汗かくわで寝られたものではなかった。

「脱いだもんは里理に洗わせるか」

「俺ものっかっていいですか」

「勝手にしろ」

まだ夜の闇は黒い穴。そばにいる本条先輩があくびをした気配がする。空気をかみしめるような口調で、寝言めいた言葉を吐いた。

「そうかあ」

「なにがですか?」

「お前、元気なうちに、いい医者探しとけよ」

 またまた意味不明な言葉を吐いた本条先輩だった。秋世もベッドの中で薄っぺらい掛け布団をひざ上まで高く蹴飛ばしながら寝返りを打った。

「病気ってのはなあ、あとで、くるぜ」

「経験者なんですか?」

 本条先輩は頭がベッドの頭にまで届くくらい伸びをした。ずいぶん窮屈になっている様子だった。成長期、背が伸びるのはお互い様。でもつま先を伸ばすのがぎりぎりってことは、はたしてこのベッドで繰り広げられたあれやこれやなどは、さぞややりづらかったことだろう。秋世はつま先を少し引っ込めてみた。

「あのな、行きずりってのはな、まじで危ないんだぞ」

「へへ、悪い虫がつくとか」

「ああ、かなり、やっかいな、な」

 性教育に関しては力を入れている青大附中ゆえ、秋世も本条先輩の示唆していることがいわゆる「性感染症」のたぐいであることは見当がついた。これでも一通り、保健体育の試験では満点取ったのだ。

「だから、あれはやめとけって言っただろ」

「はあ」

「チェリーなめられるだけじゃねくて、噛み切られるぞ、まじで」

「ご忠告ありがとうございます」

 一番、忠告するに値しない本条先輩に言われても、説得力がない。秋世は上半身を起こして壁にもたれた。つい一時間ちょっと前に経験した「五分間」。一般的には「初体験」と呼ばれるたぐいのもの。それを勢いでもって、五分間で終了させてしまったというわけだった。相手の女性……「パールシティー」のIKUファンだと言っていた……の顔は、闇とミラーライトの時折貫く光りでほぼあいまいだった。店を覆うジャズピアノの音色と、蒼く漂う壁際のライト。ほこりっぽい匂い。汗の匂い。身体の上ですべてが動いていた。

 ──女子大生かあ。妙子さんと一緒の学校だったりするかな。

 ワンレングスの個性ない顔だちの妙子さんを思い出した。明るい日の当たる場所で眺めると妙子さんは薄っぺらい画用紙のようにしか見えないのに、なぜか同じ雰囲気の彼女はダンスフロアの片隅でなまめかしく輝いていた。もしかしたらフィアンセの教授も、学校ではなくああいった夜の世界の中で妙子さんにのめり込んでいったのかもしれない。いろいろと想像してしまうと、なんだか自分がいやらしい奴だと思えてしまう。

 秋世はつけたままにしていた腕時計を覗き込んだ。

「ああ、本条さん。ひとつこの機会に聞きたいんだけど、いいっすか」

「なんだ」

「本条さんの初体験って、いつでしたっけ?」

 知らないわけではない。青大附中を卒業するまで本条先輩には、二人の彼女が存在した。うちひとりは本条先輩の小学時代同級生で、もうひとりは当時女子高生。今は多分OLか女子大生のはずだ。はたして互いの存在を彼女たちが気付いていたかどうかは知らないが、本条先輩は器用に二人の彼女を、一夫多妻制の国王さまのごとく楽しんでいたという。もちろん、いくところまでしっかりと行って。

 卒業まで続いたのが秋世には信じ難い。しかもこの二人以外、本条先輩は青大附中の女子に一切手をつけなかったという。本人の自己申告だからどこまで信じていいかは難しいところだが、先輩だし、まあいいとしておこう。

「確か、六年の夏って言ってましたよね。ませた小学生だこと」

「ほらあるだろ、夏休みのキャンプ遠足。きもだめしの勢いでって言っただろ」

「でも、よくできましたねえ」

 本条先輩は少しあごをあげたかっこうであお向けになり、天井を見据えた。暗いからどんな顔をしているかどうかはわからないけれども、少し気合が入った気配はした。

 少し棒読みで、

「向こうが、経験豊富と来たら、どうする?」

「同級生でしょうが、そんなことは」

「そりゃあすごかったぞ。SもMもなんでもありだ。ま、自分でやりたがったわけじゃねえよ。おもちゃになるしかねかったんだ。千草はな」

 本条先輩が相手の女子を、「千草」と呼んだのは今が始めてだった。一拍置いてから懐かしそうに、暖かく声が響いた。

「あいつはさ、青潟発『ロリコンビデオ』のアイドルだったわけ」

「なんすかそれ。そういう趣味って需要あるんですかそれ」

 ぎくりとする。あえてこらえた。

「いわゆる『裏ビデオ』あるだろ。青潟っな、田舎のくせに変態多くてさ、アパートの一室にな、ビデオデッキを三十台くらいずらっと並べておいてな、そこでビデオテープ突っ込んで全部リモコンで録画ボタンおして、それから現物をダビングだ。そうするとまあ、すごいらしいぞ、売れる、売れる。通信販売万歳って感じらしいぞ」

 そういうものだろうか。

「しかもだ。親が監督兼男優だとしたら、どうすんだ?」


 ──親。


「近親相姦」という言葉を知らないわけではなかった。けど、生身で本当の親と子がいわゆるそんなことをするなんて、絶対ありえないものではないか? 

 先輩の声が少し途切れるのを待って、秋世は割り込んだ。

「それって、やばいですよ。警察にまじで捕まりますよ。まさか本条先輩もビデオ出演」

「なわけねえだろが!」

 ひざをひざで蹴られたがうまく避けた。

「けどな、親にやれって言われて、普通逆らえるか?」

「いくつくらいからやらされてたんですか? やっぱし、ロリコンっていうと五歳くらいからでしょうねえ」

 あてずっぽで言ってみた。まさかそれ以下ってことはないだろう。

「ま、あいつが覚えていねえとこみると、さらに前だろうな」

 すでに本条先輩の中で、その「千草」という人は、大切な思い出の人として心に残っているのだろう。どういう別れ方をしたのか、聞きたいと思った。

「じゃあ、お父さんの命令だ、逆らえないか」

「いわゆる生理現象が始まる年頃まではすっぽんぽんムービー中心だったらしいがな、赤飯炊いてからはすごかったらしい、なんでもありだったらしいぞ。あいつの方が俺より何倍もやり方知ってたからなあ」

「あの、しつこいようでございますが、彼女の父親、ほんとの、親?」

「そうなんだよ」

 本条先輩はもう一度繰り返した。

「だから逃げたんだよ。逃げ場所、あいつにはねえんだよ。仕事場と家庭が一緒だったら、やることはひとつしかねえだろ、だから、俺がもうひとつの逃げ場所になろうかって話になっただけだって」

「その人、今どうしてるんですか」

 確か、卒業と共に別れて音沙汰なしと聞いた記憶がある。

「逃げた」

「え?」

「逃がした、とも言うな」

 本条先輩はもう一度ねこの伸びをした。

「すげえ遠いところに、千草を可愛がってくれる親戚のおばさんがいるんだってさ。そこに行けばまず大丈夫だろうってことで、逃げた。最悪の場合は児童相談所ってとこもある。ま、中卒だしな、最悪でも義務教育は受けているし、バイトでもして稼ぐこともできるしな。少なくとも、大またおっぴろげる以外の仕事はあるだろ」

「はあ」

 本条先輩はそれ以上何も言わなかった。気が付くと密室の中から、四足の靴下からなる据えた匂いが漂いはじめていた。


 ──親に、かよ。

 信じられない、そう言ってしまっていいのだろうか。

 ──それじゃあ、逃げられねえよなあ。

 秋世は腕時計を手首の一番細いところに持ってきて、くるくる回した。

 ──だって、どうすんの。うちに帰ったら裏ビデオの仕事が待ってるんだぜ。本条先輩よりも経験豊富ってきたら、いったいどうするんだよ。

 どういう繋がりだったのかはわからない。もちろん秋世の知りたかった「本条先輩がいかにして初体験したのか」という具体的な例は教えてもらえなかった。ただはっきりしているのは、本条先輩が千草さんをどんな形でこそ守り、手放したという事実だった。たとえ二股かけていようが、この人は決して、自分にかかわってきた女子を手厳しく捨てたりはしない人だろう。大切に、本当に守ってきたんだろう。

「それ、りっちゃん、知ってるんですか」

「まさかだろ」

「でしょうね」

 秋世の記憶が間違っていなければ、両天秤してきた本条先輩は、男子たちから羨望とやっかみのまなざしを日々受けてきたはずだった。中学生にあるまじき関係を持っている、実はとんでもなくうらやましい存在として遠目で眺められてきたわけだ。「いくところまで行っている」中学生なんて、きっと片手数える程度だろう。今自分が済ませてきたことを、他の誰かが簡単にこなすことなんて、きっとできやしないだろう。

 やはり、本条先輩、この人はすごい。

 秋世はゆっくりと両手を伸ばすと、もう一度ベッドに滑り込んだ。

「せっかくのお惚気話聞かせていただいたところで、感謝にお付き合いいたしましょうか」

「よせ、俺は里理とは違う」

 またわけのわからないことを言うもんだ。無視して秋世はそのまま目を閉じた。どうでもいいが明日も学校だ。


 目が覚めたのは午前五時半過ぎだった。新聞配達の自転車の音がちりちり響き、大型自動車の動き出す気配もする。もともとこのあたりは工場が建ち並んでいることもあって、朝がやたらと早いらしい。すずめも元気に鳴いている。横たわっている本条先輩をまたいでベッドから降り、秋世はまず目一杯伸びをした。睡眠時間はそれほどとれているわけではないのに、なぜかすっきりしていた。水を飲みに部屋から出て、隣の里理さんが戻ってきているかどうか耳を澄ましたが、人気は全然なかった。やはり寝ているんだろう。シンクに積み上げられていた皿とコップのうちいくつかを水で洗い、分厚いマグカップでまずは一杯飲み干した。

 身体がしゃんとした気がする。

 ──まじで朝だよな。

 ひとりごちた。結局、家には無断外泊となってしまった。今更謝る気もないけれども、てっきり家族から捜索願いが出されていたらしゃれにならない。朝一で家に戻る方がいいだろう。顔だけ出して、ばあちゃんのお骨に手だけ合わせて、それからさっさと出て行こう。親が文句言うだろうが、そんなの知ったことではない。

 ──どうせ俺はババコンだよ、悪かったな。

 やたらと足の裏がぺたぺたする。どうやらジャムの瓶が転がっていて、ふたから洩れていたらしかった。拾い上げ、指先でなめた。腹、空いた。


 まだ寝ているかと思ったら、本条先輩はしっかり目を開けていた。

「おや、お早いっすねえ」

「お前も立村と同じだな」

「何がっすか」

「やたらと早起き」

 そうなのか。立村は早起きなのか。それは初耳だった。頼んでもいないのに注釈を加える本条先輩。やっぱりこの人にとって立村は特別な存在なのだと再認識する。

「あいつな、初めての評議委員会顔合わせの時にな、へべれけに酔っ払ってな、俺があいつの家に運んでやったんだ。そしたらもういたせりつくせりの大サービスで、朝五時半しっかり目、覚ましやがって。豪華なモーニングセット用意してくれたぜ」

「じゃあ今度俺もリクエストをば」

「あいつご機嫌悪くなると、すねるからなあ」

 ぼそぼそと話をしているうちに、またかくっと首が下がってくる。身体を動かさないとまずい。

「里理さんいないんですかね」

「あいつか、たぶんじじいのとこに行ってるんだろう」

 たいして気にもしない様子で本条先輩は寝汗を手の甲で拭いた。

「ま、お前もいろいろ大変だろうが、がんばれよ。なんかあったら連絡よこせ。まずはだ、しばらく黄色い膿が出ないかどうか、だな」

「その時はぜひ」

 本条先輩、非常に実用的な話ばかりしてくれる人だ。

「それと、お前さ、女見る目、変わるかもしれねえぞ」

「は?」

 何を言われているかわからなかったのは、たぶん寝ぼけていたからかもしれなかった。


 さすがにラジオ体操こそしなかったものの、朝一番の運動として軽く散歩した後、制服に着替えて秋世は家に戻った。立村ほど潔癖症ではないと自覚しているものの、やはりシャツくらいはびしっと着替えたい。シャワーを浴びて髪の毛をきっちり洗いたい。本条先輩に脅されている通り、膿が出てくるかもしれない部分もしっかり消毒したい。

 裏口からこそこそしないで、正面から入る。鍵は開いていた。覚悟の腹積もりをした。

「秋世か」

 父と母が玄関で並んで待っていた。

 その後、二人からそれぞれ一発ずつ頬を張られたのは、覚悟の上だった。反抗するつもりもなく、ひとにらみした後秋世は部屋へもぐりこみ、シャワーを浴びる準備をした。下着類とタオルを片手に自室から出て後、隣の祖母の部屋を覗き込んだ。まだ、祖母の部屋は整理されていないようだった。戻ってきても何の支障もなさそうだった。

「ばあちゃん、いるか」

 階段を下りる前に秋世は声をかけた。


 両親からは散々「どこ行ってたの」「心配したんだぞ」「外泊なんてもってのほか」「今は忌中なんだぞ」いろいろと説教された。でもそんなと知ったことかとそっぽを向き、秋世は用意されていた食パンをまるのまま噛んだ。やたらと硬くなっていてまずい。

「いいかげん返事しろ」

「友だちのうちに泊まってた」

 先輩とは言わないでおく。

「じゃあなんで連絡しないんだ」

「したくないから」

「こんな時に遊びほうけててどうするんだ」

「仏壇、手を合わせるために帰ってきた」

 言い捨てた。所詮自分は「ババコン」だ。なんとでも言え。秋世は母のうっとおしくお給仕する様をひっぱたきたくなった。さっさと祖母のお骨が置かれている仏壇前に座り、手を合わせ、鈴を神妙に鳴らした。

 後を引く音に、耳を済ませ、両手を合わせた。


 ──ばあちゃん、元気? 俺も元気だよ。


 それからすったもんだがあったものの、何はともあれ片付くものは片付いた、。秋世が身支度を終え、家を出たのはいつも通り七時半過ぎだった。いつもだったら彰子を迎えに自転車で向かうはずだった。でも腰に力が入らないせいか、もしくは寝不足のせいかしらないが、身体が動かなかった。どうしてかわからず、何度か腰を叩いてみた。

 ──やばいなあ。どうしたんだろ。この歳でぎっくり腰だなんてやだぞ。

 冗談めかして呟いてみたけれども、やはり変だった。

 ──彰子さんのとこへは、明日から迎えに行くことにしようか。

 いつもとは違う自分。忌中明けだし、そのあたりは大目に見てくれるだろう。

 

 自転車を走らせ、早めに校舎へ着いた。規律委員会において一番大切な仕事が「週番」と呼ばれる遅刻チェックだ。いわゆる「早朝デート」と秋世は言い習わしているのだが、毎朝玄関前に陣取り、チャイムが鳴ると同時に生徒玄関の鍵を閉める。またもう二人は職員玄関へと向かい、遅刻者のみなさまに「違反カード」を恭しく贈呈する。違反カードは教室内に用意されたそれぞれの氏名下へ貼り付けられ、五枚溜まった段階で保護者へ報告、となる。遅刻は結構多いのだけどもみなうまく切り抜けているようで、三年D組においてはぎりぎり四枚で粘っている奴が圧倒的に多い。立村はかなり遠いところから通っているのに一枚もないのに、秋世は規律委員長のくせにそれこそぎりぎり四枚。報告されたらしゃれにならないので、委員長となってからは早めに動くようにしている。彰子を迎えに行くこともあって、この二年ほどは遅刻などなくなっているのだが。

「南雲くん、おはよ!」

「ああ、おひさしぶり」

 昔付き合っていた他のクラスの女子と顔を合わせた。自転車ですれ違う程度のことだったけれども、最初のうち彰子がらみでごたごたした時と比べると、だいぶ人間らしい交流が増えてきているような気がする。もともと秋世は別れた相手を憎むこともしないし、嫌うこともしない。ただ、無関心になるだけだった。声をかけてくれば、笑顔で受ける。それだけのことだった。彰子にべったりしている時はさすがによってこないけれども、今は隙だらけだったのだろう。なんだかすっと入ってくる声だった。

 ──ああ、彼女にも悪いことしたな。

 わずかの期間しか付き合わなかったけれども、決していやな子ではなかった。

 少し色っぽく迫りたがるところがあって、何度か密着されたりしたけれども、秋世がその時期から彰子のことしか見ていなかったから、そのチャンスもものにしなかった。言ってはなんだが、かなり肉感的な女子だった。性格を知るまえに秋世は彰子へ走ってしまったのでそれ以上のことを知ることもなかったのだが。

 ──香水?

 ふと、何かが香った。背に誰かが近づいてきた。

「南雲くん、おひさしぶり」


 ──水菜さんか。


 青大附高の制服は、中学と違いブレザーの衿が柄違いに織り込まれている。無地のカラーが茶を中心にあしらわれているので、どちらかいうとトラッドの香りが強く出ている。秋世はこちらの方が好きだった。スカートはひざを少し隠す程度。あごラインのボブヘアに整えた水菜さんが、自転車で隣に近づいてきていた。

「おひさしぶりっす!」

 別れた彼女、ではなく、なつかしの先輩、といった風に敬礼した。

「元気そうね」

「まあそうかな」

 ここではあまりおふざけしすぎないように、さわやかな好青年を目指して笑顔を見せた。

「みんな、クラスの女子がね、南雲くんのこと心配していたのよね。おばあさんのこと、ご愁傷様」

「いえいえ、どうもありがとうございます」

 なんだか、ちょっとほっとした。よくよく水菜さんのほおを見ると、目の真下にほんのり赤いチークが入っているような……いやいやそれ以前に、青大附高、化粧まずくないのか?

「俺、規律委員長としてちょっとつっこんでいいですか」

「どうぞ」

「まずくない?」

 ゆっくり自転車を滑らせ、秋世は頬を軽くつく真似をした。

「大丈夫よ。ナチュラルメイクだから。どうせ授業中には落とすもの」

「ほう、じゃあ、朝誰かに見せる必要があるのだとか」

「ご名答。さすが鋭いわね」

 ──と、いうことは、相手がいるわけだな。

 どうせ勝手に消えてくれる人なんだから、と邪険にあしらった相手なのに、いまだにさらっとおしゃべりができるのはやはり、楽だった。今までは彰子のことしか観てこなかったのに、なぜ今日になっていきなり水菜さんと再会なんてしてしまうんだろうか。友達、いや、先輩なのだから、だろうか。

「相手、どんな奴?」

 今度は子どもっぽく尋ねてみた。水菜さんはボブヘアを軽く揺らし、ふらつかない程度に自転車を漕いだ。

「柔道部の黒帯くん」

「へえ、じゃあ痴漢退治OKですね」

 少し意外だった。水菜さんといえば、こういったらなんだがわりと知性の輝く美人タイプだった。さっぱりした性格で、言いたいことは結構言う。やりたいことはあっけらかんと誘う……だからああいう関係にもなろうとしたのだが……細身だけどもがっちり骨はしまっている、そういう感じの女子だった。秋世からしたらまあ、楽かな、と思えるタイプではあったのだが。でも、水菜さんがまさか柔道部青年とお付き合いしているとは。好みが変わったのだろうと推測した。

「まあね、南雲くんも今の彼女の噂伝わってるわよ。保健委員の子でしょ。ぽちゃっとした」

「ご存知の通り。お互いハッピーでいいですね」

 そこまで口にした時、ふと感じた、のどの詰まる感覚。

 どうしてだか、その時はわからなかった。青大附高の校舎は丸ごと別の建物となるので、まずはもう一度敬礼をして別れることにした。

「お互い、幸せになりましょうね!」

「お幸せに!」

 なんだか結婚式のふたりにかけるような言葉を交わし、秋世は青大附中の自転車置き場へ向かった。


 すうっとなじんでくるのは、なぜだろう。

 一緒にいた時に感じた、不思議なやわらかい匂い。

 体臭なのか、それとも香水なのか。

 水菜さんに誘われても、どうして自分が動かなかったのだろうかという問いを、改めて当時の自分にしたくなった。もし、自転車で並んだまま、誘いをかけていたらどうしていただろう? もしあの時、今の自分だったとしたら?

 ──水菜さんって、ああいう人だったんだ。

 味も素っ気もない言葉で、今の感覚を表現することで、我慢するしかなかった。


 まずは教室へ。階段を昇ろうとした時、ちょうど降りてくる女子とすれ違った。

 ぷんと、汗臭い。

「あきよくん、おはよ!」

 我が姫の声だ!

 いつもの秋世ならば、そこでびんびん笑顔になる、はずだった。


 ──彰子、さん?

 ──これが、か?


 別に彰子がスキンヘッドにしたとか、化粧をばりばりにしたとか、そういうわけではない。

 いや、全く変わっていない。いつもの彰子のはずだった。

 秋世が大好きでならない、たったひとりのあんまん姫のはず。

 両手で守りたい、笑顔の持ち主のはずだった。

 今も、全く変わらぬ笑顔のはずだった。


 ──なんだろ、俺。変だ。


「おはよう! 彰子さん。これから保健委員のなんかあるのかなあ」

 演技を即開始したので、その瞬間よぎった感情をごまかすことはできた。彰子も気付かなかった様子だった。お下げ髪をしっかり結んで、ぱんぱんにふくらみ今にもはじけそうなブラウスのボタンを押さえるようにして。

「そう、保健室当番だから早めに来たんだ。秋世くんも早いね」

「そりゃ、俺、週番ですから。規律委員長、ここでがんばらねば!」

 空元気でポーズを取る自分。なのに、どこか違うところで自分が、笑顔一杯の自分を眺めているような感じがした。離れたところにいる自分は、彰子を今までにない違う瞳で見据えている。そういう気がした。かつてのいとおしくぽっちゃぽちゃしたお姫様。誰よりも守りたい。決して誰にも手放さない。秋世しか愛せないたったひとりの姫。


 ──なんで、俺、好きになってたんだろ。この人。


 彰子が降りていった瞬間、よぎった言葉に秋世は自分で答えられなかった。

 出会ってから一度も、そんなこと、思ったことなかったのに。

 しつこいことに、同じ思惟はもう一度、秋世をよぎった。


 ──どうして、俺、彼女のことあんなに好きだったんだろう。


 まぶたには色あせた太めの女子同級生の姿しか、残っていなかった。

  




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