第一部 2
──あんな子になんて、買うもんでない。もったいない。
待合室の席はかなり混雑していた。薬調合してもらうのを待っている人、赤ちゃんをだっこしたお母さん、杖を小脇に抱えて話し込んでいる年配の婦人、病院独特のすっぱい匂いが立ち込めている。秋世が椅子の脇をすり抜けようとすると、おしゃべりに興じていた老婦人に「ちょっと、ちょっと」と呼び止められた。
「あらあら、風邪引くわよ。これで頭拭いてちょうだいよ」
「あ、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げ、ハンカチを受け取った。新品、使われてない。使うなんて、できやしない。戸惑う秋世に、老婦人は面白そうに笑いながら、
「いいのよ、お互いさまでしょ。そのハンカチ、持って行っていいわよ」
「すみません」
遠慮なく使いなさいよ、の意だろう。大体七十代前後。もしかしたらばあちゃんと一緒に話をしたことがある人かもしれない。もしもこれがばあちゃんだったら、「遠慮しないで受け取っときなさいよ、秋世、受け取ってあげることが、お礼になるんだからね」と言うだろうし。素直に感謝の意を表すことでとどめておいた。実際前髪はもう、雨でぐっしょり、天然シャワーを浴びっぱなし、タオルなんてありゃあしない状態だった。ありがたいといえばありがたい。
秋世はもう一度、老婦人へ「ありがとうございます!」と笑顔向けることにした。
──いい人だよなあ。
改めて思う。もともと秋世はこうやって、見知らぬ人から親切にしてもらうことが多かった。どうしてかわからないけれども、困った時とか悩んでいる時とか、さりげなく手を差し伸べてもらえる得な性格だった。世の中いろんな奴がいるというけれど、好き嫌いはともかく、みんないい人だってことには変わりない。あとでばあちゃんに報告しておこう。
ばあちゃんが先月から入院している病院はいわゆる「末期患者」中心の看護をしていると聞いている。秋世が知りたがったわけではない。同じクラスの水口要が余計なことをべらべら彰子に話し掛けてきたのを、たまたま耳にしただけだ。
──なあにが「あそこはもう、手遅れとかさ、治らないとか言われている人が送られるとこなんだよ。だからさ、お年よりがすっごい多いんだよ!」だ。ったく、病院ともあろうものが、治らないって決め付けて入院させるわけねえだろうが!
どうも最近、この水口……通称すい君……の言い草が、気に触る。
決して間違ったことではないと、理解してはいる。
秋世のばあちゃんがそこに入院していることを知ってて嫌味を言っているわけでもないということも、頭ではわかっているのだ。理屈ではない。理由なんて本当はない。
エレベーターを待ってみたものの、戸が開くたびに車椅子や杖を付いたパジャマ姿の患者さんたちと目が合い、なかなか乗り込むことができない。若さを活用して、六階の病棟まで階段で上がるしかなかった。途中、白衣姿の先生と顔を合わせ、いつものように「お世話様っす」と挨拶する。向こうも何度か秋世と話をしたことのある人なので、「学校の帰りか?」と軽く声をかけてくれる。確か、青大附属から医大に進学した人だと聞いている。なんとなく後輩を見るようなところもあるのだろう。
「はい、明日から修学旅行なんですよ」
「へえ、けどあの雨じゃあなあ」
「やむって言ってるけど、どう考えたってやみませんよねえ」
たぶん二十代後半だろう。根拠はない。クラス担任の先生と同じくらいかなと思っただけのことだ。先生はふっと口を尖らせて息を吹いた。
「ははあ、だからだなあ、てるてる坊主作ってたんだなあ」
「は?」
「まあ行ってみろや。おばあちゃん待ってるぞ」
はあどうも、と頭を下げ、秋世はあと一階分の階段を昇った。
看護婦さんたちに声をかけられつつ、秋世はいつもの病室へと向かった。ばあちゃんの様態が最近あまり芳しくないとは聞いていたけれど、毎日顔を見ている限りそんなんでもないんでないかと思う。白内障もあって目が見えなくなっているのは今までもそうだったし、疲れやすくいつも布団に入っているのもここ数ヶ月そうだったし、病院に入ったからといってそれほど悪くなったようにも思えない。八人部屋の戸口脇に置かれているベッドがばあちゃんの居場所だ。クリーム色のカーテンを開けて、一声かけた。
「ばあちゃん、起きてる?」
仕切り代わりとなっているカーテンをもう一度閉めた。
「秋世かい?」
「うん、来たよ」
顔は見えないはずだった。ばあちゃんはすぐに身体を起こした。秋世の手をささっと取った。
「こんな手、冷たくなってどうしたの」
「外が大雨でさあ、もう土砂降り」
「明日、修学旅行なのにねえ」
枕もとに小さくまとまっているのは湯のみと歯ブラシと携帯用ラジオだった。ラジオは秋世の持っていたものだった。そろそろ単三電池が切れているころだろうと思って、替えのを用意してきた。
「けど明日雨やむって言ってたよ。まあ大丈夫だと思うけど」
「秋世、引き出しのとこ見なさい」
言われる通りに開けた。ピンクのティッシュでこしらえられた、いわゆる「てるてる坊主」の形したものが五つ転がっていた。ちなみにピンクのティッシュなんてどこで手に入れたんだろう?
「看護婦さんがねえ、使ってちょうだいって持ってきてくれたんだよ」
「へえ、粋な計らいするじゃないかあ」
さりげなく親切な人たちに囲まれている。この病院がすい君の言うような「末期患者」専用のところであろうが、関係ないと秋世は改めて感じる。
「五つ作っておいたんだけどねえ、これでやめばいいよねえ」
「うん、やめばな」
「これ、窓のところにつるしておきなさい。いつもそうじゃないの。遠足とか運動会とか、いつもこれでお天気にしてきたじゃないの」
言われてみればその通りだった。ばあちゃんはいつも、秋世関連の行事でお天気がよくないと困るとき、「おまじない」ということで大量のてるてる坊主をこしらえてくれた。縁起かつぎと言われればそれまでだけど、実績があるのだから素直にそれは受け取るべきだと秋世は思う。
「そうだね、ありがと」
「そうそう、もうひとつはあんたの可愛い人にあげなさい」
──可愛い人?
硬直する。いくら家族でも、彰子のことに触れられるとびくっとしてしまう。
もう一年も付き合っているし、何度か家族ぐるみでお食事などもしたりしているし、別に隠すことはないのだが。なにせばあちゃんは、秋世が初めて彰子をデートに誘った時の様子まで知っている。今まで別の子と付き合った時はそういうことなかったのに、なぜ彰子に限って、と疑問が湧かないわけでもないのだが、それはやっぱり自分のばあちゃんだからだろう。勘だろう。
「あ、でも」
「いいからいいから。今度また遊びに連れてきなさいよ。ほんとほら、奈良岡さんとこのお嬢さんいい子だからねえ」
「うん、ああ」
この辺も曖昧に答える。顔を読まれていないから少し楽だ。
「ああいう子がねえ、娘になってくれたらねえ」
話が完全に飛んでいる。初めてのことではないのでその辺は秋世も流しておく。
「ほんと、世の中はうまくいかないねえ」
それ以上ばあちゃんは愚痴めいたことを洩らさなかった。なにがうまくいかないのか、とか、秋世の母さんのことは「義理の娘」じゃないのかとか細かいことを突っ込むのは、しない方がいい。
「あのさ、さっきさ」
明るい話にそらすため、秋世は手にもったままにしていたハンカチを広げた。
「待合室で、ハンカチくれた人がいたんだよ。ばあちゃんと同じくらいの人でさ。俺がびしょぬれで入ってきたからさ、それで顔拭けって。いい人だよなあ。あ、ちゃんとお礼言っといた」
「そう、いい人ねえ」
ばあちゃんの言葉はいつものように穏やかだった。変わりはなかった。
「いい人ばかりだよなあ、ほんと」
「そうだね。秋世がいい人だからだよ」
──なのかなあ。
「いい人でいれば、かならずいい人が寄ってくるもんだからね。秋世、あの可愛い人とはいいお友だちでいなさいよ。私の見る限り、混じりっけのないいい子っていう人は、あの子みたいな子のこと言うんだからねえ」
ずいぶん彰子も評価されたものだ。初デート時に秋世をそっちのけにして彰子は、ばあちゃんたちに取材されたらしい。「秋世くんの恋人」ってどんな性格なのか?と興味津津でいろいろ聞かれたらしい。そのお答えが非常に満足行くものだったらしく、それ以来ばあちゃんは彰子が大のお気に入りだった。まあ、自然のままの彰子そのものだったから、当然といえば当然だ。ただひとつ間違いがあるとすれば「恋人」ではなく「大切なお友だち」なのだが。
いいかげん彰子に絡む話を聞かされると、ついさっき行なわれた「雨の中の会話」に意識が引き戻されてしまう。秋世は話をそらすことにした。
「ばあちゃん、土産さ、どんなもんがいい?」
「いいよ、病院でお菓子食べたら、看護婦さんたちに叱られるからねえ」
食事制限が出ているらしい。
「じゃあ、他に欲しいものない?」
食べ物がだめとなると、正直、秋世は思いつかなかった。
「そうねえ、でもいいよ。お金は大切にしなくちゃだめだよ」
「けどさあ」
言いかけてまた気がついた。目が見えない以上、見て楽しむものは意味がない。ラジオ用の電池をラジオの側に置いてしばし黙った。絵葉書も、民芸品も、だめってことだ。
「いいよ、秋世が無事に帰ってくれば、それで十分だよ」
「けどなんか買ってくるから」
「ほらほら、あの子にその分、女の子の喜びそうなものをプレゼントしてあげたら?」
「けど旅行一緒だし」
また彰子の話に引き戻される。舌打ちしたい。
「秋世、思いがけない時のプレゼントの方が、女の子はねえ、喜ぶのよ」
いや、もちろんそれは言われなくてもわかっていることだが。
ばあちゃんに言われるのがくすぐったいだけだ。
「じゃあとにかく、なんか考えとく」
ばあちゃんに顔見られなくてよかったと改めて思う。とってもだが、青大附中の規律委員長とは思えない顔しているに決まってる。
「土産ものリスト作っておかないと忘れそうでさ。ばあちゃんと、父さんと母さんと、あと昭代と」
口にしたとたん、ばあちゃんの頬から柔らかいものがすっと消えた。
「あんな子になんて、買うもんでない。もったいない」
──あんな子。
決して失言したわけではなかった。
どうしても、秋世のお土産必要リストに入れておきたかっただけだ。
言葉に詰まった。すぐに気を取り直した。知らんぷりして話を続けた。
「うん、とにかくなんかよさそうなもの見つけてくる。ばあちゃん、そうだ、テレホンカードとかだったらさ、うちに電話するのにいいだろ? いくらでも使えるし」
「いいっていいって。うちに電話する必要、そうそうないしねえ」
さっき見せた角張った表情はすぐに消え、またばあちゃんは穏やかな口調に戻っていた。
禁句はいつまで経っても禁句なのだろうか。
秋世はピンクのてるてる坊主を鞄にしまいこんだ。
決してばあちゃんは人を理由もなく嫌ったりする人ではないし、それ以上に優しいと思う。
家族には優しいけれども外にはきついとか、その反対とかいうこともない。
秋世がもし、ひとりっ子だったとしたら、決して感じたりはしなかっただろう。
でも実際に、自分には妹がいる。
──昭代という名の妹がいる。
──あきよ、という名の。
彰子にいつも呼ばれている自分の呼び名を、妹に対しては相手の名として呼ぶ。
──まあな、全然最近は会ってないもんな。
どういうものが好きで、どういうことをすると喜ぶのか。そのあたりも全くわからない。彰子を初め、他の女子に対しては若干なりとも理解できないこともないのに、なぜか妹に対しては全く感じることがない。ほとんど顔を合わせない兄妹だし、それは仕方のないことだと思う。
──けど女子にだったら、お菓子でいいだろ?
──彰子さんじゃないけど、おせんべいとかでいいだろ?
妹、というよりも女子、として対処しようと決めた。みやげ物リストには、入れておく。
かなり早めの夕食時間、運ばれてきた院内食を食べ終わるまで待った後、秋世はそのまま家に戻った。まだ誰も戻ってきていない。子どもの頃から、家で迎えてくれるのはばあちゃんだけだったし、父さん母さんはふたりとも別棟の会計事務所に篭っている。忙しいということは、繁盛しているんだろう。とりあえずはつぶれることもないんだろう。別にいてもいなくても構わないし、寂しいとも思ったことはない。テレビの音が一切聞こえず、かすかに雨音が響くだけの家に戻るたび、ぐっと息が詰まる思いがするのもまた本当のことだった。ばあちゃんの部屋の前を抜けて、秋世は自分の部屋に入った。すぐに言われた通り、窓辺にてるてる坊主をぶら下げた。彰子用の一体をどうしようか迷ったけれども、そちらも一緒にぶら下げた。五体のてるてる坊主は窓に流れる露でぬれて、すぐにへろへろしはじめた。
蒸し暑い部屋を少し空気入れ替えしたくて、秋世は窓を開けた。
寒いくらいの風が吹き抜け、うち一体のてるてる坊主が外へ飛ばされた。
──しっかし、こんなに詰めないとまずいものなのかよ。
面倒だ。「旅行前のしおり」に載っている通りのものを詰め込むのはいいが、その他のこだわり物としてドライヤーとか、ヘアムースとか……あまりどぎつい匂いがするものは校則違反扱いされるので無香料の目立たないものを使おう……トランプとか。当然お菓子やガムも押し込んでおく。靴下、ポケットティッシュ、下着にジャージ、写生用のスケッチブックと色鉛筆。だいたいそんなところだろうか。ミニサイズのグラビア写真集をどうするか考えたが、必要ないと判断し置いていくことにした。思ったよりも荷物がぱんぱんで、歩く格好に似合いそうにない。秋世の美的感覚には若干反する。
──忘れてた。酔い止めだ。
いつもばあちゃんから貰っていく酔い止めの薬を用意するのを忘れていた。一応、食事の時にばあちゃんから薬のありかは確認しておいた。枕もとに置いてある和紙製の三段引出しの中だと聞いている。忘れないうちに持ってきておこう。ばあちゃんの部屋から引出しごと持ってきた。
──確かこん中にあるんだよなあ。
もちろん今まで、許可なく他人さまの引き出しに手を触れたことなんてない。ばあちゃんの許可あってこそのものだ。少しシャンプーに近い匂いのする小箱に手をかけた。中には見慣れた薄荷の薬と、薄い和紙に包まれた写真らしきものが一枚、入っていた。
写っているのが誰か、だいたい見当はつく。
たぶんばあちゃんと一緒に並んでいる、自分だろう。
青大附中に入学した時、ばあちゃんと並んで制服姿で撮ってもらった写真だろう。
そんなもの見ても楽しくもなんともないので、秋世はさっさと枕もとへ引き出しを返しておいた。
ばあちゃん子だと、小さい頃から言われてきた。
食事を作ってくれるのもばあちゃんだったし、朝起こしてくれるのも、雨が降った時学校に迎えにきてくれるのも、やっぱりばあちゃんだった。
不思議だとは思ったことなんてなかった。とにかく父さん母さんは寝る暇なく働いているし、帰ってきて顔を合わせることもほとんどなかった。
かといって無視されていたと思ったことはない。
寂しいと感じたこともない。
その点、「父子家庭だから可哀想」という同情を嫌う同級生の言葉に大きく頷いてしまう。
すべてを社会のありきたりな視点で見るなと文句を言いたくなってしまう。
父さん母さんのことを嫌ったりする気はないし、ましてや反抗なんて面倒なこともする気はない。だってほとんど、顔合わせる機会ないんだから。自分のやりたいこと、ちゃんとしっかりやってるから。ばあちゃんを大切にしてあげることくらい、たいしたことじゃない。話を聞いてもらったり聞いてあげたりすることも、病院に付き添っていく時に荷物を持ってあげることも、決して恥かしいことじゃなかった。
お小遣いをいつもくれるから、というわけでは決してない。今回の修学旅行においても、秋世は一銭も貰っていない。人より甘やかされたからというわけでもない。父さん母さんの方が秋世に対して甘いと思う。まあ父さんの場合、中学入学前にコンドームの箱をくれたくらいだから、それなりに秋世の日常をチェックしてはいたようだけどもだ。
たったひとつだけ、パズルピースが欠けているのを除いては、いたってふつうのうちだと感じていた。
昭代のこと以外。
めずらしく母さんが帰ってきた。正確に言うと、事務所から「中抜け」してきた。
いつも仕事が立てこんでいる時、母さんは父さんと秋世の食事を用意するために戻ってくる。いつもだったらばあちゃんが用意してくれるものを、母さんが事務所へ運ぶのだが、できるわけもないので当然作ることになる。また当然秋世に料理の腕を求められても頭を抱えるだけなので、全部母さんがひとりで準備することになる。手伝ってもいいのだが、邪魔になるだけというのもよおくわかってるので、そのまんまにしておく。
「しゅうくん、明日の準備やってあげようか?」
「いい、いらない」
短く答える。母さんとは今ひとつ、会話が続かない。悪い雰囲気になるわけではないのだが。昨日の残り、カレーライスをレンジで温めた後、盛り付けたご飯にかけて持ってきた。
「昨日の分だから、たぶん悪くなってないわね」
「食べられる、大丈夫」
ばあちゃんがいなくなってから、夕食のレパートリーが狭まった。さすがに毎日カレーライスではないにしても、一日置いてカレーチャーハンになったり、オムライスのソースにカレーが出てきたりと姿を変えて登場する。飽きなくもないのだが仕方ない。食えるだけましだ。
「ばあちゃんとこ、行ってきた」
スプーンをくわえ、紅しょうがをルーに混ぜ込みながら秋世は報告した。
毎日通っていることだから、別に申告する必要もないとは思うのだが。
「そう、元気だった?」
母さんだって昼休みを使って病院に顔を出しているはずだし、その辺はわかりきっていることではないか。頷いておいた。
「そう、ならいいけど。何か言ってなかった?」
「別に」
ラジオの電池はちゃんと持っていったし、とりたてて頼まれたことはなかった。首を振ると母さんは、
「おばあちゃんも環境変わって少し疲れ気味なのよ。だから、変なこと言い出しても気にしないでね」
「変なこと、言ってないけど」
「それならいいけどね」
入院したらそりゃあ疲れるだろう。いくらあの病院で看護婦さんがピンクのティッシュをてるてる坊主用に用意してくれたり親切にしてくれても、やっぱりうちに帰って来たいに決まっている。入院生活というのは、結構しんどいものだと秋世も幼年時代の記憶でいやというほど感じている。
「俺、いない間、ばあちゃんのことよろしく」
「ほんと、しゅうくんはおばあちゃんっ子だもんね」
残りカレーの入っていたタッパーを洗いながら、母さんは背を向けたままはっきりと口に出した。
「お母さんには、何もないの?」
「別に」
嫌味じゃない。ほんとに、ない。それ以上会話もなく、秋世は食べ終わった皿を流し場まで持っていき、「はい」と渡した。皿を一枚か二枚犠牲にしてもいいのなら、洗い物の手伝いくらいはするのだが、母がそれを求めないのだから何も言わない。食器が壊れるのをよしとしないのだろう。
「じゃあ、明日朝四時半に起きるから、先に寝てる」
「目覚ましかけておくのよ」
もちろんだ。父さん母さんが起きる時刻に起こしてもらえれば十分だ。
母さんは皿をすべてきれいに洗い終え、食器入れに立てた。毎日使う食器のうち、マグカップとか湯のみ、茶碗などはふたつきの食器入れへ、平べったく並べておいた方がいいものは食器棚へと分けて置かれている。秋世のコップや茶碗はふたつきの食器入れ行きと決まっている。棚の奥にもう一組、手付かずのマグカップと茶碗がしまわれているのを、秋世は知っていた。
「母さん、俺いないあいださ、昭代呼べば」
「え?」
振り返った母に、秋世は背を向けた。
「俺の代わりに、ばあちゃんところに見舞いに行ってもらえばいいじゃん」
予想した通りの答えが帰ってきた。
「なに馬鹿なこと言ってるの。早く寝なさい」
寝なさいったって、まだ夕方六時だってのに。いくらなんでもそれはないだろう。
とりあえず、旅行用の小遣いだけしっかり頂戴し、秋世は自分の部屋へ戻った。階段を昇りきったと同時に、玄関のドアが閉まる音がはっきり聞こえた。
──妹。
血を分けた妹、のはずだ。
なのに、一緒に過ごした日々は数えるほどだった。へたしたらいとこたちよりも会う回数が少ないかもしれなかった。顔を合わせるとそれなりに秋世の言うことを聞いて、「お兄ちゃん」と呼んでくれたこともあった。「あった」と過去形なのは最近の状況がだいぶ変わってきているからだ。小学校六年で、最近は外で顔を合わせても、ふいと向こうを向いてしまう。わざわざ秋世が自分から「あきよ、こっち向けよ」と声を掛けていやいや、というの現状だった。友だちがいる時を狙って話し掛けるようにしている。それだと昭代が逃げられないから。もしひとりの時だったら、走って帰ってしまうから。
そう、帰ってしまう。おじさんおばさんのいる家に。
原因は秋世の方にある。幼い時、秋世は小児病棟に入っていた。記憶にほとんど残らないくらい幼い時の話だ。入院している時、両親が帰ると大泣きしたとか、検査で注射されるのがいやで病院の中を逃げ回ったとか、口にあてがわれた呼吸器らしきものが妙に気持ちよくてはまったとか、そういう程度の思い出しか残っていない。思い出したくもないんだろう、きっと。
その間に昭代が生まれた。
秋世が退院してからもしばらく昭代は、母方の親戚の家へ預けられたままだった。
いわゆる伝染病だったというのもあっただろうし両親も秋世の病気のことが最優先だったし、いろいろ大変だったのだろうとは思う。また、おじさんおばさんには当時十歳の女の子がいて、もうひとり子どもが欲しかったという事情もあったらしい。この辺は秋世も詳しい事情を聞いていないのでわからない。もちろん顔を合わせる機会はそれなりにあったけれども、本当に家へもどってきたのは秋世が五歳、昭代が二歳の頃だった。物心はついて、お兄ちゃんと呼んでもらえる時期というのがこの頃だった。
たぶん、この時期が一番、昭代を妹と思えたのではないかと思う。
半年後、なぜ昭代がふたたびおじさんおばさんの家に引き取られたのか、その理由もわからない。
やんちゃな男の子独特のいたずらが昭代にとっていやなことだったのか、それとも何か理由があったのか、その辺はわからない。ただ、気が付くとおじさんおばさんの腕に抱かれてにっこりと手を振っている昭代を見送っていた。すぐに戻ってくると思っていたのに、気が付けば年に二回、礼儀正しくお泊りしていくお客様として、待つことになっていた。
秋世の「妹」も、いとこ以上に遠い「女の子」に代わった。
何度かばあちゃんに尋ねたことがある。いや、父さん母さんにも、
「どうして昭代、あっちの家に行きっぱなしなんだよ!」
と文句を言ったことがある。ばあちゃんには、
「もし昭代が帰ってきたら、今度は秋世がおじさんおばさんのところにやられるかもしれないよ。それでもいいのかい?」
とからかわれ、両親にも、
「大きくなったら、戻ってくるけどその時は秋世がいじめちゃだめだよ。髪の毛ひっぱったり、やんちゃしたらだめだよ」
反対に言い聞かせられた。たぶん自分が……記憶ないけど……昭代を泣かしたりしたことが原因でおじさんおばさんのところに引き取られたんだろう。そう思うと返って自分の居場所がなくなりそうで、黙っていた。なんとなく事情があるんだろうが、父さん母さんは決して追い出したわけではない。大人の事情できっと預けられているんだろう。いつか帰ってきたらその時に話を、昭代本人から聞けばいいことなのだ。余計なことは考えないで置こう。これが秋世の当時下した判断だった。なのに。
──あんな子になんて、買うもんでない。もったいない。
ばあちゃんの言葉が、耳に響いてならない。雨でぬれたてるてる坊主。ただの紙くずの塊。雨はまだ、やみそうにない。