第二部 18
──家に戻りたくない。
秋世と本条先輩とは、同じライン上で話ができる。
だが立村をはさむと、どうしても弟分との会話に合わせるしかない。
これはなんだかな、と思うのだが雰囲気がそうなるのだ。しかたない。
ファーストフードで三人、チキンバーガーとアイスコーヒーを飲みながら、しゃべりつづけている。当然ネタは、立村の修学旅行四日目夜から五日目早朝にかけてのことだった。
「そっかそっか、相当いろいろあったみたいだなあ。で、清坂とやったのか? おい」
「だから、そんなんじゃないです。いったい先輩、何を誤解してるんですか」
──誤解されるようなことだと思うよ、りっちゃん。
秋世は心の中で呟き、しっかりコーヒーをこくんと飲んだ。
「白状しちゃえば、別に悪いことじゃないんだしさ」
一通り様子を窺ってみると、どうやら本条先輩、決定的な言を取ってはいないらしかった。それだったらあっさりごまかしてやるのも一つの手だが、立村の性格上これから先、嘘をつきとおすことができるとは思えなかった。ある程度のところで本当のことを白状しておけば、あとあと楽になるのではないだろうか。
──どうせ、清坂さんとはやってないんだしさ。
隣で何度も文句を言いながらも、すっかりすねてしまっている立村に、さりげなく秋世は声をかけた。
「もし言い出しにくかったら、俺が話、もってってやるけど」
「いいよ、そんなのは」
「よくないよ、だってりっちゃん、これから先どうするのさ」
「どうするって」
「だってさ、りっちゃんここで嘘ついても、いつかばれる可能性大だよ」
秋世なりにゆっくりと、かみ締めるように言い聞かせた。
「うちのクラスでは俺だけかもしれないけどさ、気付いてたのは。けど、りっちゃんの他にも羽飛とか、古川さんとか、ほら清坂さん本人だってどこで口滑らすかわからないじゃん。だったら今のうちに、ちゃんと白状しておいて、いざって時に備えるのが一番じゃないかなと俺、思うんだけどな」
もちろん隠し通せるのだったらそうした方がいいに決まっている。でも、さっきから本条先輩の口調を鑑みるに、かなりの情報を得ているような気がしていた。秋世の忌引休暇中に、いったいこの二人がどういう会話を交わしたのかは定かではないにしてもだ。つい立村が口を滑らしてしまったのか、それとも他方面から情報を得たのか。とにかく本条先輩をなめてはいけない。鋭い視線と切り口は、青潟東高校進学後も全く変わっていない。
本条先輩は秋世と立村を交互に眺めやり、食べ終わったフライドポテトの入れ物を二つに折った。ぽんと立村の食べているハンバーガーの方に追いやった。
「なあに二人でこそこそ相談しあってるんだこら。何も人を刺したとか薬やったとか、そういうわけでないんだったら、隠すこともねえだろうが」
「だから、そういうんじゃ」
立村が慌てて口をもごもごさせつつ言い訳をしようとする。口の周りの油っぽいのを手の甲で拭きながら、首を振る。
「俺が小耳にはさんだところによるとだ。お前しっかり、清坂としっぽり濡れ濡れの夜を過ごしたらしいとかな。麗しき友情の現れってとこで」
「そんなの、なんでそんなことに」
と、立村の奴、秋世を横目でにらんだ。明らかに秋世からばれたか、という疑いのまなざしだ。このあたりは誤解を解いておきたい。秋世は割って入った。
「先輩、その小耳情報、どこで仕入れたんですか?」
「俺の地獄耳がどんなものだか、忘れてねえだろうなあ。まあいろいろとだ」
「規律委員会情報で言わせていただくと、そういうネタは今のところ上がってきてないかなって思うんですが、どうなんでしょう」
「いくらばれてねえと思ってもだな、裏でいろいろ情報持ってくる奴がいるもんだよ、な、南雲」
今度は秋世に本条先輩、流し目を送った。裏恥ずかしいことをしているのではないかという、非常に難しい質問が込められている。秋世はもう一口ストローでコーヒーをすすった後、
「俺も実はいろいろと、狙ってたんですがねえ。人生うまくいかないですよ、そのあたりの情報ももう入手ずみでしょうか、本条先輩」
「すまぬ、お前の話はまだまだだ」
これは意外だ。秋世と彰子のからみについては、もっとおおっぴらに知れ渡っていると思っていたのだが。本条先輩の興味はやっぱり、弟分の立村に集中していると見ていいだろう。やっぱりいろいろと心配なんだろう。肩で風切る立場の青大附中評議委員長が、実は内気で引っ込み思案の弟分ときたら。秋世も逆の立場だとしたら、きっと心配していただろう。このあたりは本条先輩に気持ちをシンクロさせたかった。
「それは意外。まあいっか。どっちにしても、本条先輩はとっくの昔にりっちゃん情報を手に入れていたってことですね。りっちゃん本人の言葉も踏まえた上で、言ってるってわけっすか」
いくらなんでも、立村がそこまで本条先輩に尋ねることは難しいだろう。秋世なりに気を遣ってやったつもりなのだが、隣の立村はすっかりうつむいたまま、食べることすら放棄している様子だった。いろいろあったことは事実だし、立村だってそれなりに言いたいことがあるに違いない。このあたりは少し迷うところもあるけれども、秋世の判断としてすることはあるはずだ。
「いいじゃん、りっちゃん、言っちまいなよ。本条先輩だって怒ったりしないしさ」
「怒るかよ、こんながきんちょのやらかすことになあ、南雲だったら話、別だがな」
また本条先輩は、秋世に向かってにやついた流し目を送った。
評議委員会の先輩として、立村に目をかけてきた本条先輩だが、秋世からすると一つ年上の友だちという気持ちが強い。たまたま家のすぐ近くでたむろうことが多く顔見知りだったのが一つと、どちらもやたらと人前で目だつタイプというのもあって、早い段階で言葉を交し合うようになった。入学して間もない頃だったろうか。
その頃はまだ秋世も小学生の尾っぽを残していたし、本条先輩もぺーぺーの評議委員でしかなかった。ちょっとしたワル候補、という程度か。一歳という年齢差は中学において消して小さいものではないし、敬語という「壁」をも必要とするものだけど、秋世と本条先輩に関していえばそれも最小限のものにとどめておけた。もちろん他の同級生たち、特に立村の前ではできるだけ先輩として敬った態度を取るよう演技していたけれども、ふたりっきりになった日にはもう好き放題言い放題。ま、気持ちの上で敬語だけはそれなりに使うけれども、付き合いそのものはほとんど同級生感覚だった。それも、青大附中の同級生ではなく、小学時代の悪ガキ連中と同じ乗りの。
「……この辺まで言えばもういいですか、本条先輩」
あくまでも「先輩」のラインを崩せない立村は、仏頂面したまま、唇を尖らせつつストローをかんだ。もう中には残っていないらしいコーヒー。やたらとじゅるじゅる音がする。
「りっちゃん、いいかげん飲むのあきらめなよ」
「別に好きでやってるんだからいい」
秋世と一緒に時々にやにやしつづけていた本条先輩は、物言わずまずは立村の頭を素手でがしっとつかんだ。髪の毛をひっぱるようなしぐさをした。
「やめてください、なんですかいったい。もういいでしょうが」
「お前も大人になったなあって、なでなでしてやってるんだよ、ま、最後の詰めが甘かったけどな」
立村が約五分間に渡り説明した「修学旅行四日目・五日目早朝の出来事」に関しては、秋世の知っていることとほとんど変わりのない内容だった。取り立てて付け足すこともない。唯一言い忘れたとすれば、四日目夕方に立村が、下級生杉本梨南のために手鏡を購入したことくらいだが、その辺は別に抜かしても問題ないだろう。要は立村がこっそり清坂美里と一夜を明かしたが、そういうことはなかった、それだけを聞き出せばいいことなのだから。
「先輩とは違うんです、もういいでしょう、やめてください」
今度は額を軽くつつくしぐさ。思わず両手で「第三の目」の場所を覆い隠す立村。
「そっか、立村、お前も人並みの男になったってわけだ」
「そういうんじゃない!」
いくら言ったところで本条先輩のにやけ顔は消えなかった。この人を本気で驚かすには、たぶん警察沙汰をやらかさないと無理だろう。特に立村のようなタイプの男子に関しては。なぜだかわからないけれども、立村に対して本条先輩は、余裕をかまして見守っている感じがなきにしもあらずだった。表向きは鬼瓦でも、草葉の陰から見守ってるよ、というような行動をしょっちゅうしている人だ。
たぶん、立村は本条先輩にとって、永遠の弟分なのだ。
秋世と同じ年齢だからといって、本条が同じ目線で語り合おうとすることはないだろう。
すっかり飲みきったアイスコーヒーの氷をストローでがさがさ言わせながら、
「本条先輩、もう一杯飲み物頼んできていいっすか」
「自腹切れよ」
もうつっつくのがおもしろくてならない、そう言わんばかりの本条先輩に断りを入れ、秋世は立ち上がった。注文する前にトイレに行ってこようと思っていた。ふたりの語り合いに口をはさまなくてもよさそうだ。
「あ、南雲、お前今日どうする」
背を向けると同時に声がかかった。
「先輩っちで遊んでてもいいっすか、りっちゃんも一緒に」
「俺はいいよ、今日は帰らないと」
ちらっと立村の表情を覗き込むと、なぜか真赤になってしまっている。さっき語った「修学旅行」の夜に関する話題から派生した頬の赤さではなさそうだった。ははん、どうやら立村、すでに本条先輩のアパートに出かけたかなんかしたんだろう。そうとう、すさまじい野郎部屋状態とみた。人間の住める状態じゃ、きっとないだろう。年子の兄さんと二人暮しときたら。家事一式お得意の立村はきっと、こき使われるかなにかしたんだろう。
「南雲は来るか?」
「もちろん、行きまっせ!」
親指を挙げてOKサインを送った後、秋世は今度こそトイレに立った。
今日、本条先輩を呼び出した目的はそこにある。
──家に戻りたくない。
立村はしばらく本条先輩に甘ったれていた様子だったが、時計を覗き込み、
「すみません、また後で連絡します」
すばやくかばんを抱えて立ち上がった。ちょうど秋世が戻ってきた時だった。
「え、りっちゃんもう帰っちゃうの?」
「交流会の後始末があってさ、いろいろと書類がたまってるんだ」
「あれ、他の連中に頼んだりしてないのか?」
仮にも評議委員長、どんどん手を回せばいいのに。
「そうだぞ立村。なんでもお前一人で抱え込んでたら後でぶっ倒れるぞ」
「わかってます」
思いっきりすねた口調で本条先輩に言い返す立村。まるで一年坊主そのものだ。天下の評議委員長の態度とも思えない。それを笑って受け止める本条先輩はやっぱり余裕ありげだった。
「詳しくはまた、今度の土曜にでもこっちに来い。清坂とのデートは入れてねえよな」
「そんなの関係ないでしょう」
これ以上話をするとどつぼにはまるのが見え見えだ。秋世は肩を叩いてささやいた。
「りっちゃん、あとはうまくやっとくから、安心しろよ」
「変なこと、言ってくれるなよ」
少し古風な言い方をして、立村はそそくさと出て行った。振り返らなかったのはきっと、秋世と一緒に本条先輩が訳ありの表情を浮かべていたから、そんなの見たくなかったのだろう。
「じゃあ、ガキがいなくなったところで、大人の話と参りますか、南雲ちゃん」
「アイアイさーってとこですか」
グレープスカッシュの入ったSサイズの紙コップを置くと、秋世は本条先輩のまん前に座った。さっき立村が自分の食事後をすべてきれいに片付けていったので、もろに一対一。本条先輩とデートの真っ最中に切り替わった。
──どこまで知ってるのかなあ。
たぶん立村ならば、秋世の祖母が亡くなっていて昨日まで忌引休暇を取っていたことを話していたかもしれない。また別の三年生ルートを通じていろいろ聞いていたかもしれない。こちらから無理に湿っぽい話を持ち出す気もなかった。
「なんか、ぱあっと派手に気分転換したいんですけどねえ、本条先輩」
ストローをくわえたまま秋世は笑顔を向けた。こちらは学校向けの明るい元気な男の子仮面だった。
「やっぱ、暗いのは俺の性に合わないっすよ」
「お気持ちお察しいたしやすってな」
ある程度は聞いているのだろう。秋世なりに判断した。
「せっかく喪が明けたんだから、少しですね、気分転換をしたいんですが、そういうとこで楽しいことしたいなあと、ふと思うわけざんす」
「そうだな、それも一理ある」
「けど、学校だとねえ、やっぱりいろいろと気遣いしてくださるみなさまもいらっしゃったりして、こっちの方が申し訳なくなっちまうってか」
「わかるわかる」
「できたらなんですが本条先輩のお勧めスポットなんぞに、俺を連れてってもらえると、少しは気分も一新できるかなと思った次第なんですが、いかがでしょ」
本条先輩はまだ飲みきっていないアイスコーヒーをストローでからから混ぜた。
氷はすっかり溶けているようだった。
「時間的には、夜はこれからってとこか。おい、お前も規律関連のことでいろいろ大変なことねえのか?」
「ありません。学校で全部片付けてきましたからね。やるべきことは全部、他の連中に振り分けてきたし、そろそろ『青大附中ファッションブック』の準備をせねばとかその程度。あ、りっちゃんをですねできれば、秋号のモデルにでもしようかなとひそかに計画してるんですがそれは内緒にしておいてもらえると助かります。絶対あいつ、逃げるに決まってますしねえ」
軽くばかばかしい言葉をじゃらじゃらと並べた。
「なるほど、それも悪かないな」
「面白いと思いますよ、トラッド系でまとめたファッションショー、それでりっちゃんは泣く子も黙る評議委員長ですからね、話題性たっぷりかもしれません」
「あいつが泣く子も黙る評議委員長かよ。一年でもこけにする評議委員長じゃねえのか?」
「その辺はノーコメント」
本条先輩は少し黙ったが、ふと面白そうなことを思いついた風に、
「南雲、お前、俺と服のサイズ同じくらいか?」
尋ねた。いきなり聞かれても困るが、たぶん同じくらいだろう。それほど違いはないはずだ。本条先輩の方がどちらかいうとがっちりしているので一サイズくらいはゆるいかもしれない。たとえばジーンズのサイズなどは特に。
「たぶん問題ないかと」
「この格好じゃあなあ、ちょっとまずかろうよ」
確かに。学校を出てまっすぐ着てきた格好。制服でぱあっとやる場所にはいけないだろう。
「じゃあお前、下着だけコンビニで買ってこい。さすがに俺のブリーフ履くのはやだろ?」
「鋭いなあ」
もう本条先輩、秋世が泊まると言う前提で物を言っている。予定通り、OKだ。
「これから俺の家に行くけどな、そこでお前の着れそうなもの適当に来て、髪の毛適当に染めて、それから出陣だ。最近お前も遊んでねえんだろ?」
遊ぶ、の意味をゆっくり確認した。
「それって、ゲーセンでってことっすか? それとも、先輩お得意方面のですか?」
「俺のお得意ったらなんだよ」
「そりゃあもう」
今度は秋世の方がどつかれた。
「お前の方こそ、最近はずいぶんとお盛んなんじゃねえのか?」
「お盛ん?」
口に出してみて、ふっと笑いたくなった。
──彰子さん相手に、お盛んもなにもあるかよ。
「そっちのチャンスがあれば、そりゃあやりたいですけどねえ。りっちゃんみたいなパターンだったら、俺ならもう絶対逃さず!」
「そう来ると思ったぜ」
青潟東高校は私服通学が許されている。少し黒みがかったジーンズに緑色のミトコンドリアみたいな模様の入った……いわゆるペーズリーとも言う……半そでシャツを合わせ襟をしっかと立てている。薄い銀ぶちめがねは健在だが髪の毛が少々とんがり気味なのに思わず苦笑を隠し切れない。ちょっとこれでは、「お盛ん」な場所には行けないだろう。
「じゃあ話は決まったな。うちに来い。まずはファッションショーと行くか!」
残りのグレープスカッシュを余したまま、秋世は本条先輩に連れられて店から出た。
本条先輩のアパートは、秋世の家からそれほど離れていなかった。言い方変えると本条先輩が以前兄弟で住んでいた家ともそれほど、というとこだろうか。
「里理が卒業するまではたぶんこのまんまだろうなあ」
里理とは、本条先輩の年子の兄貴だ。もっとも本条先輩自身は彼のことを「兄」とはちっとも思っていない。秋世が思うに、たぶん立村と同じ位置付けとして観ているんじゃないだろうか。工業高校に通っている里理さんは、口に出せないいろいろな理由があって、どうしても一人暮らしをしたいのだという。それにお付き合いしようということもあって、本条先輩は一緒に暮らすことにしたという。もともと仲は野郎兄弟にしては悪くない。
──けどさ、青大附属を出ることはねえよなあ。
込み入った事情についてはあえて聞かなかった。ただ、本条先輩に早い段階でそのことを打ち明けられた立村がどん底状態で落ち込んでいたのだけはしょっちゅう見ていた。もしかしたら立村は清坂美里と付き合うよりも本条先輩とくっついていたほうが幸せなのではないかと本気で思ったものだった。もちろん将来のことは、学校の先輩後輩関係より大切だというのはよくよくわかっているにしてもだった。何はともあれ、巣立った後もちゃんと本条先輩は立村の面倒を見てやっている。繋がりは学校を代わったくらいで切れるものではなったという証明だろう。
「りっちゃんは連れてきてないんですか」
「何度か連れてきている、だから、今日は来なかったんだろなあ」
「それはなぜに」
「さあ」
家政夫代わりにこき使われるからか。
赤錆でざらついた手すりを握り締め、急な階段を昇りながら、秋世は本条先輩の部屋の状態についていろいろ想像を繰り返した。さて、どうなっていることか。
──ああ、そういうことね。
立村が即、逃げ帰った理由がすぐに理解できた。
玄関のドアを開けた瞬間見えたものとは。
「ああ、里理の奴、また男連れこんでるしな。ま、気にすんな。いつものことだ」
見ると、やたらとでかい靴が四足ほど並んでいる。もちろんきれいに並べられてなんぞいない。靴の底見えたまんまのスニーカーばかりだった。秋世もそれにならって脱ぎっぱなしにすることにした。想像通り、台所から繋がる部屋までの路はジャンクフードの袋が放置されてるわ、靴下が片方だけ放り投げられているわ、まさに修羅場、そのものだった。
「りっちゃん、掃除したとか?」
「自分から言い出したな。『部屋の片付け、手伝いましょうか』ってな」
玄関から奥の部屋が本条先輩の割り当てで、トイレのまん前のドアが里理さんの部屋に繋がるところらしい。小さくテレビの音が聞こえる。
「ま、何やってるかはお互い内緒ってとこでだ。お互い様」
「先輩いったい何やってるんですか、そんなお互い様って」
「お前もまんざら知らねえわけねえだろが、来いよ」
特段挨拶することもなく、本条先輩の部屋に入った。思ったよりも殺風景。廊下の散乱状態に比較して、物がどこにあるかがはっきりとわかる状態に置かれていた。
「これもりっちゃんがやったんですか」
「の、時もある。別の場合もある。俺の時もある」
まあ、本条先輩はそれなりに書類の整理整頓は得意ではあった。別の場合となると、当然女子が入ってきて、うんぬんかんぬんというのもあるんだろう。やたらとでかい黄色いたんすが圧迫感ありありだった。六畳の部屋の中で、それだけが場所を取っていた。いかにも二段ベッドを分割した、と言いたげなベッドが一台、隅っこに置かれていた。脚のところがやたらとささくれ立っていたところみると、たぶん上に先輩、寝ていたんだろう。
「使い込んでますねえ」
「まあな」
短く答えると、本条先輩はたんすを開けた。これまたびっくりなことに、ほとんど乱れのない状態でスラックスからジーンズ、トレーナー、シャツ、その他一式がどこぞのブティック並にそろえられていた。引き出しから覗いているのはどうやらネクタイと指輪。ネックレスまである。光り物が好きなのだろうか。意外な発見だった。
「好きなもの着ろよ。お前、今日はどんなもん着たい気分?」
「そうっすねえ、ひさびさに『パール・シティー』でいきますか」
黒い細身のジーンズに、衿の大きなシャツ、そこから透けることを意識してやっぱり黒いランニング、あとは金のじゃらじゃらを首とベルトに回し、極めつけがゴールドの指輪。おあつらえのように、ぴたっと合った。
「おいおい、『パール・シティー』ときたらもう少し派手でないとまずいんでないか? 髪の毛をもう少しだなあ」
「もちろんわかってますって。先輩、サングラスも貸してもらえると嬉しいなあ」
「アイアイさー」
銀の粉を髪の毛にまぜこぜにして、ムースで少し立たせた。最後は黒のサングラスを額にかかるような格好でかけてみた。が、視界がやたらと狭まってあぶなっかしい。やっぱり胸に挿してアクセントにした。
これぞ、美形ぞろいの人気ロックバンド「パール・シティー」のボーカル、IKUファッション。しょっちゅう周りから「パール・シティーのメインボーカルに似てるよね」と言われるようになってから、意識的にファッションをあわせて見たりずらして見たりしたものだった。いつもは自分らしさを追及するのが常なのだけど、今だけはとことん、真似してみたかった。
「どうする、サインねだられたら。お前、するか?」
「万が一の場合はそれもいいかも」
銀粉をせっかくだしということで、まぶたにもちょこっと乗せてみた。なかなか派手で目だつ。本当だったら金色で決めるのがベストだと思うのだが、そんな贅沢言ってられない。それ以前になんで本条先輩そこまでそろえていたのだろう?
「よっし、南雲、戦だぞ」
「エイエイオー」
気合が変なところに入って、腹が痛い。
秋世はもう一度鏡を見直し、本条先輩の後について玄関に向かった。途中、本条先輩が里理さんの部屋の前で、
「わりいけど、俺今日遅くなるから、飯一人で食えよな。やりたいんだったら今のうちだぞ」
声をかけるのをぼおっと見ていた。返事は返ってこなかった。
本条先輩はサングラスと銀粉、あとやたらとごつい銀色の時計とベルト、それだけで決めていた。この人の場合金色よりも銀色の方が合うタイプかもしれない。目だたないように見せて、実は結構やり手。格好を地味にしていても目立ってしまうのが本条先輩の定めといったところだろうか。秋世がやたらと金ばかり使っているのとは違う。
「規律委員長がこういうことやってたら、即、退学だろうなあ」
一人ごちた。
「安心しろ。あまり目立つとこ連れていくわけねえだろうが」
「目だつとこっすか」
外に出ると、まだ夕暮れがゆるゆると広がっているのが見えた。もう少し夜遅く動きたいところだが、本条先輩の連れていってくれる場所はいろいろと訳ありらしい。
「りっちゃんは連れていったことないんですか」
思いっきり顔をしかめた本条先輩、肩を怒らせた。靴だけは革靴にしろといわれて、つま先のとんがった黒い靴を借りたがどうやらおそろいらしい。里理さんのものらしい。
「あたりまえだろ、ガキを連れてってどうするんだ」
──俺も、おない歳なんだけどなあ。
ちらと後ろを振り返った。知っている顔は誰もいなかった。秋世はやたらと腰のベルトがうるさく鳴るのに閉口しつつ、夕暮れ空を斜めに眺めた。
──これが噂の「ディスコ」って奴ね。
たぶんそんなとこではないだろうかと思っていた。全く行ったことがないわけではない。何度か小学校時代の友だちと「社会見学」に出かけたことはあった。ただ、お互いまだまだ「ガキ」だったこともあり、ゆっくりくつろぐところまではいかなかった。黒服の兄ちゃんたちが一生懸命、ダンスフロアで規則正しく踊り続け、何もしないでいると何度も席に来ては指を鳴らし誘う、そんなことをしていた。サワー一杯で千五百円くらいか。一ヶ月に一度くらいならまだいいか、と思うものの補導員の危険性を感じるとそうもできないだろうという気がした。
「大丈夫だろ、お前のかっこ、どう見たって高校生以下には見えねえだろ。もし変な奴に絡まれたらその時は、中卒だと言っとけ。誰かかしらそういうのがいるからごまかしきくぞ」
さすが夜遊びは手馴れたものだ。本条先輩がぐいと指を挙げて誘う場所は、居酒屋の地下一階だった。「ダンスパブ・ペテルブルグ」なる一室へともぐっていった。すぐに黒服の兄ちゃんが迎えてくれたが、見た感じ高校生くらい。顔を見たら一発で補導されて文句言われないのではないだろうか。
「本条さんどうするっすか」
この場で「先輩」は学校くささをかもし出す恐れありなので、あえて「さん」を使う。
「まずはなんか頼め。飲めるだろ、奴と違って」
奴とは当然、弟分のことである。頷いた。
「ジンフィーズあたりかなあ」
「よっしゃ、俺はビールだ」
もうここでばれたら、規律委員長の座から引き摺り下ろされること覚悟の上だ。
本条先輩は黒服の兄ちゃんひとりを呼びつけると、
「黒ビールとジンフィーズ」
注文した。すぐに頷いて、秋世たちを店内へと導いた。目の前すでに闇。目が慣れるのに時間がかかった。足元を照らす蛍ライトがちかちかしている以外は全く未知の空間だった。座ってみるとやたらとふかふかした椅子と背もたれのやわらかさに腰が抜けた。本条先輩だけが慣れたそぶりで足を組んでいるのが、かすかに光って見えた。時間はまだ夕方暮れというのに、だいぶ人が集まっているらしく女性の笑い声が突き刺さる。
「ずいぶん早いですねえ」
「夜は有効に使わないとな。まずは食うか」
本条先輩が財布から何か紙切れのようなものを取り出し、また黒服君に手渡した。
「パスタでいいだろ、ナポリタンで」
「口が汚くなるなあ」
「別にキスするわけでもないだろ」
その辺はお任せだった。たぶん本条先輩は来慣れているから、「ダンスパブ・ペテルブルグ」の利用方法をよくご存知なのだろう。下手に気取るよりは、慣れた人に頼った方がいろいろと楽だった。
「まあここで少し食おう。もう少ししたらダンスタイムが始まるし」
秋世はすぐ届いた、やたらと冷たいナポリタンをフォークでかき回した。ジンフィズも一緒に到着した。まずは飲もう。食って、飲んで、それから考えよう。
ディスコと言うからもっと金属音たっぷりのシャワーを浴びることになるのかと覚悟していたが、どうやらこの「ダンスパブ・ペテルブルグ」はジャズピアノ中心の場所らしい。延々とジャズのリズムが続き、時折トランペットが流れた。ボーカルがないので会話をしていてもさほど邪魔にはならなかった。隣のソファーには甲高い女性の集団がたまっていた。
「おいくつくらいかなあ」
香水の匂いが鼻についた。ナポリタンを味に不満足ながら平らげ、秋世は本条先輩にささやいた。
「お隣さんか」
「そう。高校じゃあねえよなあと」
「あたりだ。たぶん女子大生かOLか」
集まってくる他の女性客をチェックしながら、しばらく他愛もない話をし続けた。
本条先輩ももともと、深い話をしたがらないところがある。だからこそ秋世も脳天気でいられる。こんなところで湿っぽく、ジャズのリズムに乗って「実はうちのばあちゃんの事情で、俺、幼女悪戯容疑受けてるんですよ」なんて言えやしない。
──俺は昭代みたいな子に手を出すような趣味ねえよ。
心でぼそっと呟いた。
「お前さ、今の彼女とはどんくらい続いてる?」
「ちょうど一年過ぎかなあ」
「ずいぶん長いじゃねえか。ま、あの学校だったらそれが普通かもな」
「本条さんが異常過ぎたんですよ」
本条先輩が今付き合っている相手が誰なのかは知らない。秋世が知っているのは、当時付き合っていた二人の彼女……小学時代の腐れ縁と、四歳年上の人…… とはきっぱり卒業と共に手を切ったらしいということだけだ。ただ初体験が小学六年というとんでもない年齢ということもあって、秋世にとってはかなり興味を惹かれる話でもあった。
「俺の弟分のように部屋にもぐりにはいかなかったってわけか」
「それは一種の犯罪になっちまいますよ」
「ストレスたまってるんでないか? 鬱屈したエネルギーって奴が」
「そりゃあもう」
秋世はもう一杯、ジンフィズをすすった。
「けどしょうがないっすよ。こればっかりは一人じゃできねえし」
「一人でできることをするかってことか」
「そういうことっすね」
彰子の顔を、薄闇の中に思い浮かべようとしたができなかった。たまたま目の前を通り過ぎた隣ブースの女性が、秋世ににっこり笑いかけてきたからだった。条件反射で思わずこちらも片手を挙げると、あざとくスカートをめくるしぐさをして去っていった。
「ああいうのを見ると、そそられるだろ?」
「そりゃあ、男としては自然な衝動かと」
「こういうとこに、立村連れてこれると思うか?」
「そりゃまあごもっとも」
本条先輩はもしかして、ナンパを考えているのだろうか。率直に聞いてみた。
「今夜、久しぶりに調達を考えてるとか」
「俺一人じゃあ馬鹿みてえだろ、こういう時にはお前みたいなのがいると、いい子が釣れるんだよなあ」
歯の間からしゅうしゅう音を出して笑った本条先輩。
きっと立村が一緒にいたら、怒ったかもしれない。
──りっちゃんなら怒るな。そんな非常識なこと考えてるんですかとか言ってさ。
いくら清坂美里と一夜を共にしたとはいえ、この場でのあざとい誘惑を笑って受け止められるだけの余裕は、まだないだろう。
「ま、南雲ちゃん、お前もせっかくなんだから、ここでどばっとストレス発散しとけよ」
「ありがとうございます。それはいいんですけどねえ、ここトイレどこなんでしょうかねえ」
目が慣れてきたとはいえ、まだ位置関係を把握していない。
出口のすぐ側あたりだろうか。
「一度出てすぐ右あたりだろ」
本条先輩も、いかにもあてずっぽな答えを返してきた。
「それとな、気をつけろよ」
付け加えるように耳元で、
「いわゆる『チェリー食い』の女どもがうごめいているからな」
「なんすかそれ」
秋世が聞き返すと、
「戻ってきてから教えてやるよ」
にんまりと鼻の下をこすりつつ、本条先輩はビールをまたぐいと飲んだ。