第二部 17
──本条先輩か。泊めて、もらえるかもな。だったら、すげえ嬉しいよな。
親とは口を利かずにやり過ごし、とうとう久々の登校日を迎えた。
親の死ならともかく、祖母には距離があるものとだれもが思っているようで、誰も同情めいた視線を投げかけてこなかった。
「南雲、悪い、すぐ来てくれ。おとといの交流会の話なんだがな」
規律委員長としてのお仕事がたまっている。
半そでシャツでネクタイを少し緩ませ、秋世はにっこり笑顔で振り返った。
「何があったのさ」
「いやあ、すごかったぞ。まさかさ、規律まで引っ張り出されるとは思わなかったし、出るとしてもお前がいればそれで終り、と思ってたのになあ」
「いやすまんすまん、俺も突然の不幸だったもんで」
おちゃらけて返した。相手もわかっている、暗く返しはしない。
「ほんと、お前の不幸は規律の不幸ってやつさ」
前から評議委員長の立村にも頼まれていたのだが、水鳥中学交流会の際に、軽く顔だけでも出しておいてほしいというお達しがきていた。生徒会、評議委員会、および希望者が一室に集まって、互いの中学事情について語り合うというシンプルな催しだった。一般希望者の数が予想を反して集まらず、立村なりに考えた結果の南雲秋世出馬願いと聞いてはいた。
「要するにさ、南雲を使ってなんとか女子たちに関心を持たせようとする評議委員会の苦肉の策ってことよ」
「南雲がいるだけでだいぶ、女子の申し込みが増えるもんな」
秋世も交流会には興味しんしんだったこともあって、ひそかに楽しみにしてはいた。祖母の葬式および忌中休暇ときては、余裕もあるわけなく、思い出したのは学校で、というのがすべてを物語っている。
「ひでえ話だ、せっかく南雲が顔を出すからってことで全校の女子がこぞって参加申し込みしまくって、評議委員会としては計算通り、ってとこだったらしいけどな。あとで暴動。途中退場されそうだったぞ。『私たちの南雲くんは?』って視線ばしばし投げつけられてさ」
──知ったことかよ。
穏やかな顔をこしらえ、秋世は無理やり話を終わらせた。
「それよか、『青大附中ファッションブック』の準備は大丈夫か。イラスト、俺のいない間に描いておいてもらえたかなあ」
終業式前にはきちっと、製本して全校生徒に配るべきもの。あと一ヶ月もない。
規律委員連中は全員うつむいた。どうやら、秋世はこれから徹夜して、イラストと製本手配に命をかけなくてはいけないと見た。
──全く、頭が痛いぞ、どうするよ。
三年D組の教室に入った。台風一過、思ったよりも早く夏っぽい空気で満ちていた。秋世が教室に入り、席につくと隣の席の立村がぼそっと、
「この前は」
言いかけた。唯一、重たい空気を引きずりたさそうな奴だった。
「なんでもないよ、どうもどうも、それよかさ、規律の連中から聞いたけど、交流会のこと、本当にごめんな、りっちゃんも大変だったのになあ」
脳天気に返した。かばんを机の上に置き、カセットテープを一本取り出した。
「この一週間やったらめったらひまでさ、俺やることなくてさ、うちでラジオのアンテナいじって、海外のラジオエアチェックしまくってたんだ。りっちゃんに少し解読してもらおうと思ってさ」
嘘だ。親に話し掛けられるのも顔を見るのもいやだったから、ずっとこもって短波ラジオをいじり、録音している振りをしただけだ。日本語を聞きたくなかったからだ。中国語、朝鮮語、それから英語にロシア語、コーランなどなど。
「いいけど俺もまだ、中近東の言葉はわからないんだ、あとインドとか、アジア系も」
「りっちゃんは辞書があれば無敵だろ」
「そうくるか」
立村は押し頂くようにして受け取ると、入れ違いに封筒を取り出した。かなり分厚い。コピーと見た。
「内容は、わかるよな」
「ああ、たぶん」
英語のノートだろう。こいつの語学能力が抜群だというのは、誰もが知っていることだ。中学英語なんてひまでしかたなかろう。だから大学の授業にもぐりこんでいるというわけだ。
「じゃあよろしく、りっちゃん頼りになるなあ」
「なんないよ、ちっとも」
吐き出すように、言い返された。
──ははあ何か、あったな。
このあたりの直感は自分でも鋭いと思う。軽くひじで立村を小突いた。
「交流会、無事に終わった?」
無言。言い返そうとしなかった。かすかな声で、
「一応な」
無理やり搾り出してきた。いろいろあったと見た。もちろん後で他クラスの評議連中や、規律関連の奴から聞いてもいいのだが、立村から聞くから面白いというのもある。
「評議委員会としては、無事終了だったんだね」
「それがなんだよ」
あらら、またひっかかってくる。そうとう後遺症が重たいと見た。
「きっと、裏事情が大変だったんだろうなあ。たとえばあの子とかさ」
「あの子ってなんだよ」
あらあら、とうとう立村、口元あたりから耳、頬まで真っ赤になっているじゃないか。
やはる図星、と見た。秋世もこの辺はしっかりと聞き出したいゆえ、注意深くそっと、そおっと。
「やっぱり、彼女のことで何かがあったんだな。手鏡、渡したの」
「そんなんじゃねえよ」
完全に立村の奴、パニックに陥っている。見た目は落ち着いた状態でも、言葉のつじつまが合わなくなって、だんだん本音を口にし始めると危険信号だ。秋世には立村の扱い方がもうだいたい見当ついている。他人にばれないように気を遣いつつ、さらに突っ込んでやるのが一番だ。
「ま、いいよ。どうせ後で難波あたりから聞くからさ、無理しないでいいよ」
「そんな変なこと、聞くなよ」
もう完全に、立村は秋世の手の中だ。前、後ろちらちら見ながら、ついでに清坂美里のいる方も確認して、
「たいしたことじゃないんだけどさ、ただ、いろいろとさ」
もごもごと言い訳をしては、またごまかそうとする。
「りっちゃん、ストレスたまってるだろうなあ。旅行中に発散したからまあいっか」
「してないってさ!」
規律委員長と評議委員長の会話は、実にのどかだった。
「あきよくん、おはよう!」
元気な声が二重に重なって聞こえた。顔を挙げてみると、我が姫・奈良岡彰子がにこやかに手を振っていた。皇族の方のようなお手振りだった。思わず立ち上がろうとしたが、彰子の後ろに約一名、ちびっこい奴がいるのに気付いて止めた。
「あれ、俺、迎えに行くの忘れてたかも、ごめん」
「いいよいいよ」
そう言えば、まだ秋世は聞いていなかった。彰子の後ろから勝ち誇ったように登場した、水口病院の御曹司にちらと目を走らせた。こいつはどうやら、秋世が忌中休暇取っているにもかかわらず、お悔やみの一つも言おうとしないときた。かちんとくる。
「おい、すい、すい、ちょっと来い」
「なんだよ」
「あのさ、俺、実はばあちゃん亡くしてただいま喪に服してるの。そういう時、一言さ、ご愁傷さまとか言ってやるのが、筋じゃあねえのか?」
もちろんおふざけの一環である。隣で立村ひとりが不安げに秋世を見上げるが、そんなの無視だ。単に、水口が調子こいて彰子にべたつくのをけん制するためだ。
「ご愁傷さまって、自分で要求するもんじゃないよ」
「せめて、心、ってものが、あるだろさ。将来、ご臨終ですと悲嘆に暮れる患者家族に向かって、そんな態度でいいと思うか? おい」
「心?」
こいつ本当に医者になれるのだろうか? 人ごとながら心配になってきた。彰子と一緒にどこぞの医学部ご用達高校に進学したいと寝ぼけたことしゃべっていたが、それ以前に常識というものが必要だろう。なにか気に障ってしかたがない。
「すいくん、そうだよ、今のは、あきよくんの言うのが正しいよ」
たぶん彰子も、秋世が本気で水口を責めようとは思っていないだろう。相変わらずのあんまんたっぷりのふっくり笑顔を浮かべたまま割って入った。近くに来てくれるのが彰子だったら、何も言うまい。水口だけがわけのわからない顔をしつつ、
「さ、じゃあまた明日もしような!」
悪ぶった口調で自分の席へ戻っていった。
「あきよくん、もしよかったら今度、うちに遊びに来てねって母さんから伝言」
「え、俺、行っていいの? もちろん、ふたりっきり?」
冗談めかして尋ねてみると、当然、彰子は首を振った。
「ううん、今度の七夕、ナッキーや時也たちが集まって、花火大会するんだ。だから、せっかくだしあきよくんも一緒にどうかな、と思って。父さんが退院できていれば、打ち上げ花火も楽しいんだけどね。あ、でもナッキーたちがねずみ花火とか、簡単な打ち上げ花火とか用意してくれるみたいだし、まあいっか」
──あいつらと一緒かよ。
たまに秋世は、彰子の考えていることがわからなくなる。
一応は「恋敵」たるこの関係。しかも三股ときた。
恋敵三人を組ませて、何をしたいのか?
「けど向こうさんが、いやがりませんかねえ」
「ううん、大丈夫。ナッキーもね、あきよくん呼んでもいいよって言ってたし。他に女子もたくさんいるからいいんじゃないのって」
ますます、よくわからない。夏木宗・花散里の君ファンクラブ会長の考えることは。
作り笑いを浮かべて秋世は頭をかいた。照れ隠しっぽく見えるようにした。
「およばれにあがったら行かねばなりませんなあ」
「そうそう、すいくんもね、来たがってたんだけどもどうかなあ」
──おい、正気かよ!
水口ではなく、彰子に、だ。
正気そのもの、健康ではちきれそうなブラウスの胸元を軽く押さえながら、彰子はこっくり頷いた。
「すいくんもね、お家でいろいろと大変みたいなんだよね。話聞いていると、本当にストレスで疲れているみたいなんだ。勉強しなさいって言われ続けているらしいのよね。だから、こういう時みんなでぱあっと盛り上がったら、元気出るんじゃないかなって思って。どうかな」
「あれでストレスたまってるのかよ」
やたらと下ネタを発するのも、いきなり彰子べったりに戻るのも、あれはすべてストレスが原因か。たまったものじゃない。そんなにいらいらするんだったら、素直に青大附高に進学決めて、のほほんと残りの中学生活送れっていうんだ。
「まあ、先のことだし、準備は私たちがするから、また詳しい時間とか決まったらあきよくんに言うね。今のうちに、出来たら予定、空けててほしいな」
──あの、こういうことって、本当だったら男側から、行動起こしませんか?
のどまで出かかった言葉を飲み込み、無理やり「彰子限定笑顔」を貼り付けた。
「もっちろん、OKに決まってるでしょうが! できたら俺もその計画員に混ぜてもらえたらもっといいなあ」
風が窓から突如吹いてきた。頬をはたくようなさらっとした感覚が残る。彰子は前髪を押さえるようにして、軽く首をかしげた。
彰子が席についた後で、やっと秋世は気がついた。
──俺、まだ彰子さんの家庭の事情、全然聞いてねえよ!
──新聞沙汰になったことって、いったいなんだよなんだよ!
菱本先生がいつも通り脳天気に、これまたいつも通りに立村をからかい……当然、奴は思いっきりすねたまま唇を尖らせている……秋世に向かって、
「南雲、もう大丈夫か」
さくっと声をかけた。こういう時にはもちろん、いつもの自分のふりをする。
「どうもです、今日から全開でいきますよ、もちろん」
「その調子だ」
それ以上特に突っ込まれることもなく、授業が始まった。思ったよりも教科書が進んでいなくてほっとした。まだ、ぼおっとしていても、怒られないですむ。
学校にいる時は、いい奴の南雲規律委員長でいられた。
祖母がいなくなってから、まだ一週間ちょっとしか経っていない。
もう骨になって、仏壇の上で鎮座ましているばあちゃん。
部屋の中で、ラジオのチューニングをしながらスピーカーに耳をくっつけ、すべての生声を遮断しようとしていた。父も、母も、弔問に訪れる客も、すべての日本語は消えてしまえばいい、そんなことを思った。ずっと朝鮮語、韓国語、ロシア語、中国語、ありとあらゆる世界の言葉を部屋に流しながら、その意味がわからないことに感謝したくなった。音の連なりはただの雑音に過ぎず、意味のない羅列だと思えたからだった。
──悪意がなくても、五歳でも、無理やりいたずらされたり半殺しの目に遭わせたり、そういうことをされて我慢する義務が、昭代にあると思う? 秋世くん
──昭代はね、秋世くんが死んだ時、身代わりにする子だったのよ!
──秋世くんの身代わりだから、『昭代』なのよ!
妙子さんの叫んだ言葉を、いまだ撥ね付けたままの自分がいる。
──だってさ、俺そんなことしてねえもん。五歳だったらいくらなんでも、覚えてるだろ? そんな悪さ……お医者さんごっこなんてしたら、忘れるわけねえよ。
何度考えても記憶にない行為。父も母も、妙子さんも「教授」という名の婚約者さんも、消えた秋世の過去がでっち上げた物語を「真実」だと必死に訴えようとする。
そりゃ、思いっきりかりかりに刈り上げた昭代の髪の毛は、写真に残っている以上、本物だろう。
そりゃ、昭代が精神科医にかかっているという話も、事実だろう。
でも、どうしても飲み込めない。このまま、どうして自分はでっち上げの事実に突き飛ばされなくてはならないのだろう? 謝らねばならないことならば、もちろん頭を下げる。もし、ほんの少しでも秋世にその意識が残っていたとしたら……五歳とは言わなくとも、たとえ一歳くらいの時に無意識にしたことであっても。
──いったい俺、昭代に何したって言うんだよ! すっぱだかにしてサスペンス劇場の濡れ場みたいな真似でもしたのか? ふざけんなよ。俺がそういうこと覚えたのは、悪いがずうっと後のことだ。女たらしと呼ばれた俺でも、いくらなんでも、五歳の時にそんなことするわけねえよ。それに、いやがったら絶対俺、やめるに決まってる。そうさ、俺はそういう奴だよ。なのになんでだよ。
認めるわけにはいかなかった。存命中の祖母がいつも口にしていた言葉。
──秋世はほんとうに、いい人だからねえ。
「いい人」ならば、決してやるわけがない。たとえ子どもの頃の間違いだったとしても、もし昭代にそんな酷いことをしでかしていたとしたら、祖母は決して秋世を「いい人」などと言わないだろう。ずっと、本当に幼い頃から最後に顔を会わせた日まで、ずっと祖母は秋世のことを「いい人」だと言い続けていたではないか。あまり確証がない言い訳だけど、祖母の意思の強さと善悪のはっきりした性格を知っている秋世は、その辺、断言したい。
──ばあちゃんがもし、俺のとんでもないことを知ったら、きっと半殺しにするくらい殴ったに決まってるさ。そうだよ、ばあちゃんいつもそうだよ。俺が間違ってるとか、せこいことしたりしたら、即、怒ったもん。俺はばあちゃん喜ばせたいから絶対そういう悪い奴になんかなんないって決めたんだもん。覚えてるさ。世の中の年寄りはみんな俺のばあちゃんみたいなもんなんだ、って思ってたから、親切にすることだってごく普通のことだったしさ。多少むかつく奴がいても、うちのばあちゃんにばれたらやだからって、あえてきっちりしてたしさ。俺、今までお天道様に顔向けできないことなんて、してねえよ。あ、一応、してたかもな。彰子さんに会うまでは。
すっと、水菜さんの顔が浮かんだ。まずい、歴史の教科書、マルクスとレーニンの顔に水菜さんが重なっているみたいだ。
──水菜さんとだってさ、そりゃ俺、あの時本能通りにやるとこまでやったってよかったさ。けどさ、ばあちゃんにいつも言われてたんだ。「女の子は、大切にしないとだめだよ」ってさ。あたりまえだろ?って。もしここで最後まで、ぐぐっとやったら、きっと水菜さんは痛い思いするってわかってたしさ。それ、いやだろうなって思ったしさ。
正直なところを言わせてもらうと、水菜さんとの一線を越える寸前こらえるのは、かなりしんどかった。中学一年の秋世にとって、この後のはけ口には本当に困った。誰にも相談するわけにもいかないし、したくもなかったし。
──ばあちゃんの前だから俺、いい奴になりたかったんだよな。なのに、みんないきなりなんだよ、俺がとんでもない悪人だって顔して、なんで攻め立てるんだよ。証拠、あるのかよ。昭代の記憶か? 昭代の記憶がからんでいるのかよ。昭代が俺のいやんばかんそこはだめよみたいなこと、全部覚えているっていうのかよ!
無意識か、レーニンの鼻筋をシャープでごりごり描きこんでいた。
「教授」という名のおじさんが言うには、昭代の記憶はかなりはっきりしていたという。
詳しい内容については、妙子さんの話をすべて参考にするしかないけれども、「二時間ドラマの濡れ場を見てパニックになる」ところみると、相当なものなのだろう。家に泊まりに来た時に、やたらとおとなしかったのはテレビを観ないせいだったのかもしれない。
ただ、具体的に何がどう、とは誰も言わなかった。妙子さんがもっとしゃべりたさそうだったけれども、「教授」にひっぱたかれて言葉を飲み込んでしまった。もしかしたら「教授」は、もう少し深い事情を聞いているのだろうか。いやなによりも、「教授」は本当に妙子さんの婚約者なのだろうか? この辺も謎だった。第一、家の両親が全く話に触れないというところが妙だ。仮にも母の妹の娘、姪っ子なのだ。結婚話があれば、それなりに話題としてあがってくるだろう。近くに住んでいるならなおさらのことだ。
──絶対変だぞ、それって。
とにかく信じるわけにはいかない。
完璧すぎるくらい、いやみなくらい「いい奴」を演じている自分が、どうして実の妹に対して、野獣じみたことなんてできるだろう。いくら善悪の判断ができない頃とはいえ、絶対にそんなこと、あるわけがない。
けど、どうやって証明すればいいんだろう?
──昭代に直接聞くか? それとも?
これも一つの案として考えた。即、却下した。
すでに「秋世くんが昭代のことを苛め抜いた」という定義がなされている瑞希おばさんのうちで、昭代が素直に言をひっくり返すとは思えない。それ以上に両親が聞いたら激怒するだろう。
──となると、残りはひとつか。
「教授」を頼るしかないだろう。秋世の結論は、結局そこにたどり着いていた。
レーニンをごりごり弄繰り回した後、次のいたずら書き犠牲者は、孫文に移った。授業の中身なんてどうせ、あとで立村からノートを写させてもらえばいいだけのことだ。教授の黒いめがねを、孫文の丸い顔になぞってみると、どことなく「教授」そっくりに見えた。
──とにかく、本当のこと、聞かせてちょうだいってとこかな。
秋世は、腕時計を覗き込んだ。どちらにしても、妙子さんの学校に「教授」が研究室を持っているということと、婚約している関係だってことは本当だ。チャンスを窺いつつ、真実を探り当てることにしようと決めた。秋世の記憶にない以上、昭代の勘違い、もしくは別の同年代からやられた悪戯の可能性もある。もし、新しい事実が発見されたとしたら、その時は別の手を考えよう。
そこまで考えて、だいぶ気が晴れた。
自分のことを知ってるのは、自分しかいない。
──俺が知らないって、言ってるんだからさ。
授業はのほほんと進み、期末試験用の裏情報なども仕入れつつ、秋世は相変わらずの笑顔でもってクラスメートに接していた。みな、秋世の「喪中」状態なんて全く知ったことか、とばかりに間抜けな話題を持ちかけてきている。東堂ときたら、告別式の時とはうってかわって、いきなり、
「南雲、今度の金曜、夜、駅前に繰り出そうぜ」
とてもだが、喪中の人間に話し掛けるような内容ではない。
「はて、それはなぜに」
「ちょっとさ、期末前にぱーっと、やりたくてな」
東堂にしては珍しい。こいつもそれこそ「ストレス」がたまっているのだろうか。
「修学旅行でぱあっとやれなかったからっすか、東堂先生」
「それもある、うん」
ちらっと立村の方を見た。あいつは戸口で、他のクラスの男子となにやら話をしていた。気になってもう一人、羽飛と清坂を探してみると予想通りふたりでくっついて語り合っている。よくわからんが、二人っきりの夜を過ごしても、帰ってみれば元のままということか。
「みんな、結局ストレスがたまりまくってるってわけっすねえ」
「そういうこと」
東堂も立村たちをさあっと眺めると、
「本当に、何もなかったんだなって思うさ、あいつら見てるとほんっと」
しみじみ呟いた。
「結局俺がいない間、あの二人、あんな感じだったわけかよ」
誰ともなく呟く秋世に、
「まあなあ、裏事情はよくわからんけど、交流会でさ、立村の奴もいろいろ大変だったって聞いてるしな。評議委員長は大変だねえ。多少、やらかしても大目に見てやるかって気になるよな」
妙に悟りを開いたようなことを言う。やっぱり変だ。東堂、頭に何かできものできたか? 水口病院のお世話になった方がいいのか? かなり心配だ。
「おいおい、東堂」
秋世は肩を組むようにして、東堂にしか聞こえないように尋ねることにした。
「なんかほんと、あったの、ねえ」
「ま、人生いろいろあらあな」
とうとう最後までとぼけられてしまった。
「で、どうする、金曜」
「しかたないっすね、お付き合い、しますか、ひさびさにぱあっと」
たぶん、このあたりのお誘いに、謎を解く鍵があるのだろう。秋世の直感でいくと、東堂も何かたくらんでいるとみた。みな、修学旅行が終わるやいなや、新しい展開が広がりすぎている。そのくせ、肝心要の奈良岡彰子事情についてはうやむやなままだ。担任が緘口令を引いた途中帰宅の謎、どうして「恋人」の秋世にも教えてもらえないのだろう。
そうこうしているうちに、あっという間に放課後となり、規律委員会の集まりで「青大附中ファッションブック」の仕切り直し、その他毎度恒例の女子たちからの慰めの言葉などを頂戴し、気が付けば夕方四時半を回っていた。正式な集会は明日以降に回すとして、秋世はまず教室へ戻ることにした。大抵、委員会のからみで時間をつぶしたがっている誰かがいるはずだし、もしかしたら「E組」という特別クラスで数学の補習をしてもらっている立村と顔を合わせることができるかもしれなかった。
まだ夕焼けには間があった。秋世の読み通り、立村が教科書をしまい込み、ぼんやりと空を眺めているのが見えた。横顔に当たる陽の光がどうも、逆光だった。うつむいてくつろいでいる姿は、いかにも「ハートブレイク真っ最中」もしくは「失恋直後」といった雰囲気だった。
「りっちゃん」
一声かけた。立村が顔をあげ、かすかに笑った。声はなかった。
「今日は、これで終り?」
「まあ、一応な」
いつも落ち込み気味の顔をしている立村だが、この日はいつもにもまして暗い表情だった。菱本先生とバトルでもやらかしたのか、それとも清坂と何かあったのか、いやいや評議委員会や交流会でのばたばたで疲労困憊なのか。
秋世は立村の傍に近づき、ガムを一枚差し出した。
「ありがとう」
黙って受け取り、胸ポケットにしまった。
「それにしても、暑くなればなるほど、具合悪くなるんだよな」
独り言を言う立村に、秋世は思いっきり笑顔で答えてやった。
「夏、弱いの、りっちゃん」
「毎度のことながら」
もう一度、空を見上げ、
「なぐちゃん、本条先輩には何時会う?」
全く想像してない言葉を投げかけた。
「本条先輩かあ、そうだなあ、俺もそろそろ会いたいなって思ってたとこなんだけどさあ、土産、買い忘れててさ」
「昨日、呼び出されたんだ、先輩に」
立村はそれだけ、ぽつっと言った。
「へえ、ちゃんとご報告」
「え、じゃあまだ、会ってないんか?」
「会えるわけないじゃん。俺だって一応社会の規範は守らねば。喪中の間にうろちょろなんてできないっすよ。まあ、四十九日終わるまでは俺もほんとはおとなしくしてなくちゃあいけないんだけどさ、そんなことしてたら『ファッションブック』夏号発行できないじゃん」
秋世の軽くふざけた調子に、立村も頷いた。
「そっか、なぐちゃんから流れたわけじゃないんだな」
「俺がもしかして、あのこと流したと思ってた?」
「いやそんなこと、思ってないけどさ」
ははあ、どうやら立村は、本条先輩からいろいろと、恋愛関連のネタについて突っ込まれからかわれたに違いない。秋世はもちろん、一言も修学旅行中の秘密についてはもらしていないが、おそらく立村が問い詰められて慌ててしまったかなにかして、ばれてしまったのではないだろうか。付き合っている相手、清坂と一夜を過ごしてしまったなんて、もちろんなんもなかったとわかってはいても、口に出す勇気はなかろう。
「本条先輩に、じゃあそろそろ会うんだろ」
またすねた口調でもって、立村は尋ね返した。そりゃあそうだ。会わねばならない。
「会うけど、変なこと言わないから安心しろって」
「いやそういうんじゃなくてさ」
しばらくもごもごと口篭もり、空を見上げてごまかす。それの繰り返しだった。かなり、ばれて困ることをしてしまった後悔の真っ最中なんだろう。
「じゃあさ、俺、本条先輩に聞いてみてやっか?」
この辺は、一肌脱いでやろう。
「そんな、まずいよ、それは」
「いや、俺がそんなへまなことしないって。俺もどっちにしても、規律の話の関係で、本条先輩に会うつもりなんだ。なんとなく雰囲気で、ああこのあたりかってことがわかるからさ。もし本条先輩に変なところ突っ込まれたら、俺なりにうまく言っとくよ」
「けどそれ、難しいんじゃ」
──大丈夫、本条先輩はりっちゃんのことを嫌いになったりするわけないよ。
何があったとしても、本条先輩は弟分の立村を見捨てることはしない。このあたり、確信めいたものがあった。はにかみやで本当は後ろに引っ込んで隠れていたい性格なのに、状況に押し流される形で評議委員長に選ばれてしまった立村。黙って英語の辞書を引き、誰も気付かないところで本当だったら、一年後輩の杉本あたと心を暖め合えばいい。それが許されず、いつのまにか自分の思わぬところに話が進んでいってしまっている立村という奴。
きっと、修学旅行以来、自分の堤防みたいなものが壊れる寸前なんだろう。
止めてやれそうな気が、秋世にはした。
「あの、四日目の夜のこと、だろ?」
「たぶん、そうだと思う」
「りっちゃんと俺くらいしか知らないだろうなあ」
「なんでばれたのか、見当つかない」
もしばれても、そんなに困ることでもないだろうに。
「じゃ、善は急げってことで、今日あたり声かけてみますか」
「え?」
「それともりっちゃん、一緒に先輩のとこへ行くか? 本条先輩の電話番号、りっちゃん知ってるだろ?」
現在、一つ上の兄と一緒にアパートで下宿生活をしている本条先輩。遊びに行ってなければ、必ずつかまるはずだ。立村は不器用に頷くと、胸ポケットの生徒手帳を取り出した、手が震えていたのか取り落としたはずみで、白い和紙が覗いた。慌てて拾った。秋世しか見てないっていうのに。あせらなくたっていいのに。
「じゃあ、今から俺と一緒に行こうよ」
「でも、なぐちゃんまだ」
「いいのいいの、うちのばあちゃん、明るく暮らしてほしいってのが本音だと思うしさ」
ざくりと、ナイフの突き刺さったような音が、耳の奥に響いた。
「さあさ、職員室前でかけようよ、な、行こ行こ」
戸惑う顔の立村を、秋世は無理やり背中を押して、外にやった。
──本条先輩か。
公立高校に進学した、かつての評議委員長で秋世にとっては年上の友だち。
しかも親元から離れて、好き勝手な生活を送っている人。
まだ一度もアパートに行ったことはないけれども、ひとりかふたりくらいは泊めてもらえる程度のスペースはあるんじゃないだろうか。本条先輩もよく、秋世の部屋にもぐりこみにきたものだった。
──泊めて、もらえるかもな。だったら、すげえ嬉しいよな。
「いい人」のままでいられない家には、戻りたくない。
「いい人」でいることを許してくれない両親とも、口を利きたくない。
秋世は立村が緑の電話機に向かい、どもりながら話をしているのを聞きつつ、お泊まり時の言い訳を考えた。本条先輩の家か、立村の部屋か。さて、どちらがいいだろう?